NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 日本人と象徴天皇「第1回」 2015.04.22


先週太平洋の島国パラオを訪問された天皇皇后両陛下です。
太平洋戦争の激戦地となったペリリュー島。
両陛下は日本から持参した菊の花を供え戦没者の霊を慰められました。
(天皇陛下)本年は戦後70年にあたります。
先の戦争では太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ数知れぬ人命が失われました。
このような悲しい歴史があった事を私どもは決して忘れてはならないと思います。
昭和天皇の名の下に始められた太平洋戦争。
日本人だけでおよそ310万人が亡くなりました。
相次ぐ空襲で焦土と化した日本。
昭和天皇が暮らしていた皇居も例外ではありませんでした。
明治時代に建てられた宮殿は焼夷弾による火災で焼け落ちていました。
この森の奥深く御文庫と呼ばれる防空壕で昭和天皇は終戦の決断を下しました。
当時の判断について語った昭和天皇のインタビューです。
これ以上戦争を続ける事は非常に国民をただ苦しむだけだと思いますから終結を決意致しました。
(玉音放送)「然れども朕は堪え難きを堪え忍び難きを忍び…」。
昭和天皇の決断から始まった戦後。
日本人は焼け野原からどのように立ち上がりどのような歳月を生きてきたのでしょうか。
その70年をたどります。
敗戦で大きな価値観の変化を迫られた日本。
国の統治者だった天皇は神から象徴へと変貌します。
占領下で生まれた象徴天皇。
その姿を国民が目の当たりにしたのが全国への巡幸でした。
「象徴って何?」って最初は戸惑いがあって当然だったと思うんですね。
国民と天皇が新たな関係を模索する中で日本人自ら象徴の形を作り上げていきました。
これが本当の戦後を作っていく最初の行事だったと思うんですね。
昭和史の中で一番大きな役割を持ったんじゃないかと私は考えてるんですね。
「シリーズ戦後70年」。
第1回は日本人と象徴となった天皇の歩みを通して戦後の出発点を見つめます。

(2人)こんばんは。
私たちの来し方を見つめこれからを考える「シリーズ戦後70年ニッポンの肖像」。
これから夏にかけて毎月さまざまなテーマでお伝えしていきます。
最初はこちらをご覧下さい。
日本国憲法その第一条「天皇は日本国の象徴」とあります。
今日と明日は「日本人と象徴天皇」というテーマでお伝えします。
戦前は国を統治する存在だった天皇が象徴へと変わる事で日本の戦後は始まりました。
象徴天皇はどういう経緯で生まれそれを私たち日本人はどのように受け止めて今日に至るのかその過程にこの国の歩みと私たちの心の変化を見つめていこうと思います。
まずはその象徴天皇がどのように誕生したのか見ていきます。
1945年8月30日連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着。
マッカーサーは天皇を頂点とする軍国主義を根本から変え日本の民主化を図る事を目的としていました。
最大の焦点は天皇の処遇をどうするか。
当時アメリカでは厳しい意見が大勢を占めていました。
終戦直前に行われた世論調査では殺害するが36%処罰もしくは国外追放24%不問に付すは4%でした。
天皇の処遇はマッカーサーがどのような決断を下すかにかかっていました。
9月27日昭和天皇はマッカーサーに会うためアメリカ大使館に向かって皇居を出発しました。
その様子を見ていた人がいます。
当時の宮内省で働いていた…山本さんは天皇の車の色に時代の変化を感じたといいます。
戦前から天皇が使っていた御料車です。
溜色と呼ばれるあずき色の車でした。
しかしこの時は目立たない黒い車に変わっていました。
アメリカ大使館公邸の一室で向き合った昭和天皇とマッカーサー。
2002年に公開された外務省の記録によると昭和天皇は次のように語ったとされています。
占領政策への協力を明言しました。
戦前現人神としてあがめられ国民が絶対的忠誠を誓っていた天皇。
(一同)万歳!マッカーサーは天皇を処罰せずその権威を占領政策に利用する方針を固めていきます。
終戦から3か月。
GHQは矢継ぎ早に改革を進めていきます。
11月30日。
大元帥天皇が率いていた陸海軍が解体されました。
昭和天皇が着ていた陸軍の軍服です。
天皇陛下のご軍服。
袖章の4条の筋と3つの星が大元帥陛下のお印です。
ここがちょっと裾が擦り切れてますので…。
ここ。
ここの所。
これ陛下が着てらしたんだなというふうに思いました。
この軍服をもらったのは…昭和天皇は小池をはじめ8人の侍従武官と別れを交わし自らの軍服を渡したといいます。
ある侍従武官の日記にこの時の様子がつづられています。
昭和天皇はこの日を境に二度と軍服に袖を通す事はありませんでした。
国民は天皇をどのように見ていたのか。
当時の世論調査では天皇制を支持するが95%。
大多数の国民が天皇の存在が必要だと考えていました。
このころの庶民の貴重な声が残されていました。
一方でGHQの改革が進む中異なる意見を述べる人もいました。
1946年2月。
戦争犯罪人を裁く東京裁判の準備が進められていました。
連合国の中には天皇の処罰を求める声もありました。
天皇の権威を利用しようと考えていたマッカーサーは新しい憲法を制定し体制が変革された事を示そうとします。
2月13日。
吉田茂外務大臣らがGHQ側から憲法の草案を手渡されました。
その第一条天皇の地位は政治的な権力を一切持たない「シンボル」象徴とされていました。
これに同意しないと天皇の地位は守れないとGHQ側が迫ります。
この時の印象を後に吉田が語ったテープが残されていました。
天皇の地位を大きく変えるつもりはなかった日本政府。
議論が紛糾する中昭和天皇の考えが伝えられたといいます。
閣議決定された憲法の草案は天皇直轄の諮問機関枢密院で議論される事になりました。
象徴とは何か疑問の声が相次ぎました。
しかし政府は変更を受け入れようとしません。
憲法の議論が進む一方国民は深刻な食糧不足に悩まされていました。
国民の不満は限界に達します。
「憲法ヨリ先ズ飯ダ」。
およそ25万人が皇居前に押し寄せました。
飢えた人民の声を直接天皇に聞いて頂こうと坂下門に集まりました。
働けるだけ食わせろ!
(民衆)働けるだけ食わせろ!5月24日正午。
天皇陛下は飢えに迫られた国民に対してラジオ放送を行われました。
昭和天皇は終戦の玉音放送以来2度目のラジオ放送で国民に呼びかけました。
敗戦のどん底から1年余り。
1946年11月3日日本国憲法が公布され天皇は日本国の象徴となりました。
新たな地位を受け入れた昭和天皇。
戦犯として訴追される事はありませんでした。
敗戦直後新しい憲法が出来て象徴天皇が誕生するまでの時代を見てきました。
スタジオにはそれぞれの時代の読み解きをして下さるお二人の専門家をお招きしています。
まずお聞きしたいのは新たに生まれた象徴天皇という存在を当時の日本人はどう受け止めたんでしょうか。
私はこの憲法が出来た時6歳ですので小学校…国民学校っていったんですが。
小学校入ったばかりで記憶はないんですけども父親母親が何かこう…すごく喜んでたのを子ども心に覚えてますね。
もう二度と戦争はしないんだよというのは僕らにも話して聞かせましたね。
象徴という言葉自体は僕らはもう記憶はあまり…僕にはないですけどね。
ただ憲法っていう言葉はすごく覚えてますね。
やっぱり枢密院でも論争になる訳ですね。
「象徴って何?」っていう。
つまり法的な用語でない事ははっきりしてますからそれを憲法に入れる事にすごく…まあ議論してる方には違和感があったんだろうと思うんです。
ただねこれ…だから代表とか何とか言っちゃうとやっぱりそれにどうしても政治的な意味が付与される。
象徴っていうのはですねこれやっぱり言いえて妙でこれに何となく政治的な意味はないなという感じがしますからこれからあとこの国が戦後の復興に向かって進んでいくというプロセスの中で象徴という言葉がそれぞれの人にとってだんだんまあそうだよねってフィッタブルになっていったというその最初の段階ですから最初は戸惑いがあって当然だったと思うんですね。
象徴という言葉をちょっと調べた時があるんですが近代日本で象徴という言葉を使ってるのってほとんどないですね。
でしょうね。
憲法によっておなじみになったような。
戦後の言葉ですよね。
この憲法によって私たちがその象徴という言葉を知ったっていう事じゃないでしょうかね。
こうした中新たな天皇像を模索する具体的な動きが出てきます。
1946年1月昭和天皇の側近木下道雄のもとにGHQからあるメッセージが届けられます。
全国への巡幸を勧める内容でした。
GHQは天皇自らが国民を励ます事で混乱した社会を安定させる事ができると考えたのです。
木下からGHQの意向を聞いた昭和天皇は大いに同意したといいます。
巡幸が始まりました。
戦後初めて背広姿で国民の前に現れた人間天皇。
皆黙っておじぎをして迎えました。
この巡幸で昭和天皇から偶然声をかけられた人がいます。
ちょうどこの辺なんですがね。
当時国民学校5年生だった石川啓次郎さんです。
やっぱし緊張しましたよね。
まさか話しかけられるとは思ってなかったもんでね。
みんなもう下向いててね今の時代と違って万歳もないしただこうやって見ておとなしくしてただけですわね。
ちょっと顔が上がった時偶然にこうそばへ来てもらって。
「うちは焼けたか?」って言うからね「うちは焼けました」と。
で「学用品はどうだった?」って言うからね「疎開しててよかった」つったら「それはよかったね」つって。
巡幸は東京千葉など関東各地に広がっていきました。
重点的に訪れたのは復興の要となる農村や工場。
そして将来を担う子どもたちのもとでした。
当初は天皇にも戸惑いがあったのではないかと見る人がいます。
後に歌の相談役として昭和天皇と接した岡野弘彦さんです。
それはそうなんですよ。
巡幸を繰り返すうち昭和天皇に変化があらわれてきます。
大阪住友電気工業におなりになりました。
昭和天皇は全国を一巡する目標を立てるほど積極的になっていきました。
当初静かにおじぎをして迎えた国民も変わっていきました。
群衆が押し寄せ自然と万歳が起きるようになったのです。
外国人記者の目には奇妙な光景に映っていました。
被爆地広島でも5万人の民衆に熱狂をもって迎えられたのです。
1948年2年余りに及んだ東京裁判が最終局面を迎えていました。
被告への厳しい判決が予想される中訴追されなかった昭和天皇にも道義的責任があるという見方が出てきます。
東京大学教授横田喜三郎は退位して責任をとるべきだとする天皇退位論を新聞に寄稿しました。
このころ昭和天皇の退位について聞いた世論調査の結果です。
在位してほしい68.5%に対し地位を譲り退位する事を求める割合も18.4%ありました。
天皇の協力の下に占領政策を進めてきたマッカーサー。
退位論に懸念を抱いていました。
11月12日いわゆるA級戦犯のうち7人に死刑が宣告されました。
同じ日マッカーサーのもとに昭和天皇のメッセージが届けられました。
「さまざまな困難を国民と共に乗り越え日本を再建する決意を新たにしました」。
自らの退位を否定した昭和天皇。
その理由を後に側近の稲田周一侍従長に語っています。
今回私たちが確認した未公開資料稲田の備忘録です。
この中に昭和天皇の言葉が記されていました。
もし退位すれば混乱に陥るおそれがあった事などを挙げ最後にこう語ったといいます。
「マッカーサーから退位しないでほしいと云う希望があった」。
「之は極秘」。
こうして昭和天皇は新たな道を歩む事になったのです。
まず巡幸についてですけれども当初は国民も昭和天皇もちょっと距離を測りかねているような感じだったと思うんですけれども巡幸が果たした役割というものはどのようなものだったんでしょうか?巡幸というのは昭和史の中で一番大きな役割を持ったんじゃないかと私は考えてるんですね。
戦争の時の天皇という言葉をいっぱい聞かされるけど現実に何一つ形として見た事がない。
そういう空想想像力あるいはある意味で言えば軍なんかが用いた虚構といいますか天皇制権力というものの空間がすごく増幅していった訳ですね。
しかし見たら現実に天皇と触れ合ってみたら違うじゃないかと。
そういう権力空間というのは私たちがあの時代味わったのと全く違う現実なんだっていう事を知った自己解放じゃないかと思いますよ。
お互いに見て見る事によってそして確認する。
これが本当の戦後を作ってく最初の行事だったと思うんですね。
実はこれがシンボルというものを実体化していく大きなムーブメントだったっていう感じはしますね。
そこのところ御厨さんどういうふうに思われましょう?昭和天皇はその巡幸で大変に自信をつけたと思うんですね。
これで少なくとも目に見える範囲で彼に対するいわゆる直接反発はないと。
そしてこれをやる事によって国民との距離感というのをどんどん詰めていきたいというのがやっぱりこの時の心情だったんではないかという気がしますけどね。
(保阪)巡幸の最後の方になりますとね天皇ご自身が希望して行くんですよ。
(御厨)行きたいと。
意思表示です。
強い意思表示しますね。
佐賀県の例なんですが戦災孤児がいる寮を訪ねるんですね。
天皇はそういう子どもたちに話しかけながらその時行った人の話などを総合すると涙を流してたっていうんですね。
そういった天皇自身が全国巡幸する事でいろんな人と接触する事で戦争の傷の深さっていうのを強く認識したんじゃないでしょうか。
それにしても外国の記者が破壊された日本社会の中で唯一の安定点と驚くほどの高揚感ですよね。
これはどこから来るものなんでしょうか?あの戦時国家から解放されてっていう解放感はあった訳です。
同時に何もかもが変わっていくという事に対する不安感もある訳ですね。
その場合によりどころっていう事になるとやっぱり天皇っていうのはその中にあってだから天皇制まで廃止してしまうとその不安感はもっと…いやどうなるんだろうっていう。
そのあとが見えてればいいですけどないですからね。
解放感と不安感っていう事から心理的保証として天皇を求めるみたいな感じがあったんだと思いますね。
一方で横田喜三郎の天皇退位論ですとか当時の世論調査で退位支持がおよそ18%となっていましたけれどもそこはどうご覧になりますか?これは多分やっぱり2割っていうのはそれなりに意味がある数字で。
まあ率直に言えばその時代にやっぱりコアな反対があったという事は言えるんでしょうね。
横田が語ってる極めて法理論的な責任論がやっぱりすっと頭に入っていった人ももちろんいた訳で国民の中で割と自由な意思表示つまり天皇の問題についてもこれだけの発言ができるという状況になってきたというそういう感じがしますね。
戦争直後の日本人にはなくてはならないような心を支えてくれる存在でありかつまたでも厳しい声もあるという。
そういう中での象徴天皇という事になりますね。
象徴として政治から切り離された天皇。
しかし国内外の状況は大きく変わってきます。
国民の象徴となられた天皇が式場にお見えになりました。
新憲法が施行され日本国内では独立を求める声が高まってきます。
このころマッカーサーは記者会見で日本との早期講和を提唱。
占領の終結を示唆していました。
講和に向けた動きが始まります。
組閣本部の最終的決定を発表致します。
首相片山哲。
外務芦田均。
新憲法下で生まれた最初の内閣。
連合国との交渉を担当したのが外務大臣芦田均です。
このころ芦田は昭和天皇から外交の状況を説明するよう求められていました。
拝謁した芦田に対し昭和天皇は講和の前提となる国際情勢について質問しました。
芦田は戦争が始まる可能性はゼロではないとの情報を伝えました。
当時東西冷戦が急速に進みヨーロッパではソビエトによってポーランドが共産化。
更に中国大陸では国民党と共産党の内戦が激化。
共産主義が勢力を拡大していました。
昭和天皇は自らの考えを芦田に伝えます。
外交に強い関心を示した昭和天皇。
独立に向けて西側陣営と協調すべきだとの考えを示したのです。
その2か月前昭和天皇はマッカーサーと4回目の会談に臨んでいました。
昭和天皇は新憲法で軍備を持たなくなった日本の安全保障について問いかけました。
マッカーサーは国連の機能に期待を示しながらもこう答えたといいます。
マッカーサーが日本を含む極東防衛の拠点と位置づけていたのが沖縄でした。
当時アメリカ軍の支配下にあり住民の土地は次々と基地に姿を変えていました。
講和にあたり当初芦田は沖縄の返還を主張。
しかしGHQはその要求に応じません。
マッカーサーは沖縄を日本から切り離しアメリカ軍が駐留し続けるべきだと主張していました。
同じ月アメリカ国務省に一通の文書が届けられました。
「琉球諸島の将来に関する日本国天皇の意見」と題されたメモ。
天皇側近からGHQを通して伝えられたいわゆる天皇メッセージです。
その上で沖縄に対する軍事占領は日本に主権を残したまま長期租借という形で行われるべきだとしています。
国務省に伝えられたこのメッセージ本土を守るために沖縄を切り捨てたとする見方がある一方租借という形で日本の主権を確保しておく意図だったという見方もあります。
アメリカの政策決定にどのような影響を与えたのか分かっていません。
国際情勢は更に緊迫していきます。
1949年10月内戦に勝利した中国共産党が中華人民共和国を建国。
翌年には朝鮮戦争が勃発。
東西の対立はついに戦争に発展しました。
国内では平和を求め東西両陣営と講和をするべきという声も高まっていました。
しかしアメリカは日本を反共産主義の防波堤と位置づけ西側諸国との講和を急ぎます。
1951年日本はサンフランシスコ平和条約に調印。
同時に沖縄は日本から分離されました。
敗戦から7年ようやく占領は終わりました。
(一同)万歳万歳万歳!再び独立を達成した日本人の思いいかばかりのものであったか。
保阪さんは当時おいくつで…?中学に入った頃ですね。
じゃあ覚えてらっしゃる?覚えてますね。
私は札幌だったんですけども電車に乗るとですね札幌にいるGIと当時言ったアメリカ兵ですねアメリカ兵が…何かよくからかわれたんです僕ら中学生なんかがですね。
それが何か独立したら「今度からかわれたら言い返せ」とかって先生に言われたの覚えてますね。
ハハハ…。
サンフランシスコの講和条約というものを結んでそれではっきり言えば極東軍事裁判の結果も受け入れる。
全て要するに占領下の事態というものを否定しない。
つまりそれを肯定した上でこの国はもういっぺん主権を回復してスタートをすると。
ですからそこがねやっぱり昭和天皇の第2の原点になると思いますね。
一方で世界情勢を見ると冷戦下で非常に厳しい状況になってきますよね。
昭和天皇はこの国際的な状況はどう…。
冷戦下で対米協調を進めていかないとまた次なる戦争が起きるのではないか。
これはこの当時第3次世界大戦とか現実に朝鮮戦争があったりしてですねそういう脅威にさらされてましたからやっぱり天皇にしてみればあの戦争でさんざん日本は苦労をして今度いよいよ軍備を持たない国家になった時にどうやって安全保障をやってったらいいのかという事についてはやっぱり相当心配をしていろんなところから情報を得ていたという感じがしますね。
沖縄についての昭和天皇のメッセージはどうご覧になりますか?
(御厨)まあこれはなかなかね難しい問題なんです。
沖縄はあの戦争においては唯一の要するに戦場になった訳ですよね。
そういう事がありながらその沖縄をまたここで軍事占領を続けさせてアメリカにそして基地を持たせて安全保障上の要地にするという事に対するまあこれはある意味道徳的批判も踏まえてですねそういう議論があってそれがずっとその後の沖縄につながっていくというそういう文脈で語られる。
それからもう一つがやっぱり「いやいやずっと占領ではないですよ。
これは潜在的には主権はこっちに日本にあるんですよ」と言って将来に対する要は解決の道というのを残しながら租借でっていう考え方でというところで両方ありましてこれはですねそれをどっちだというふうに言うだけの資料は実はまだないんですね。
そういう事だと思うんですね。
敗戦直後の7年ほどの歴史を日本人と象徴天皇を見つめる事でたどってきましたけれど短い時間ですよね。
混乱の中で大変重要な事がここで決まっていったという事になりますね。
この占領を受けているまあ6年8か月かなあるいは7年弱ですねこれは日本の歴史の中で一番重要な意味を持つんですね。
それはどういう意味かっていうと例えば大日本帝国憲法下の軍事主導体制から新しい憲法の非軍事体制といいますかそういう方向へ進んだというこの切り替えがですねこの7年弱の間で日本人の英知とかそれから日本人の当時の指導者そういう人たちの努力っていうものを私たちはやはり謙虚に見つめる必要があるんですね。
そういう一つの例にやはり天皇の存在もあるんだと思いますよ。
それを見つめる事なしに軽々にですね断罪したりあるいは一方的に称揚したりというのはちょっと違うんじゃないか。
現実的に全部検証してみてこの時代こそ日本の近代の中で一番変化した空間ですからその変化した空間を後世にきちんと伝える必要があるというふうに思いますね。
アメリカの占領改革が出てきた時にうまくそこをどうやってマッチングさせていくか。
もう全てアメリカの言うとおりに翻訳をしてやりましたって話ではなくてしかもそれが実施されていく過程でなかなかうまいところがあってアメリカの力を利用しながら自分がやりたい事もやるというような事もやりましたからねそういう点で全部言いなりではなかった。
だから戦後天皇が生きていくその姿というのもまさにその一つだという事だと思いますね。
敗戦直後からの日本人と象徴天皇の歩みをたどる事によってあまり気付かずにいた私たちの来し方が見えてきましたね。
明日は独立を果たしたあとの時代私たちはどのような歩みをしていくのか見ていこうと思います。
明日もよろしくお願い致します。
日本が独立したその年18歳になった皇太子今の天皇陛下の立太子礼が執り行われました。
新生日本の象徴に人々は沸き立ちました。
翌年皇太子はイギリスエリザベス女王の戴冠式に出席。
いよいよ世紀の式典が始まり世界74か国の代表に交じって我が皇太子殿下のお姿も見えます。
日本が国際社会に復帰した事を印象づけました。
この時の事を詠んだ昭和天皇の歌です。
国際社会の中で戦争の記憶とどう向き合い平和を築いていくのか。
「日本人と象徴天皇」2回目は独立を果たしてからの歩みを見つめます。
2015/04/22(水) 00:10〜01:00
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 日本人と象徴天皇「第1回」[字][再]

日本の“戦後”がどう始まったのか。戦前は、国の統治者であり“神”とされた天皇は象徴とされた。新資料や証言を織り交ぜ、象徴天皇の誕生と国民の歩みを描く。

詳細情報
番組内容
日本の“戦後”がどう始まったのか。新資料や証言を織り交ぜ、象徴天皇の誕生と国民の歩みを描く。連合国軍による占領後、民主化され、言論の自由や人権の大切さが唱えられた。新憲法によって天皇は法的に「象徴」と位置づけられた。この“象徴天皇”の概念をどう解釈し、どう実践していくのか、戦後70年の出発点は、まさに天皇・国民ともに、戦後体制が始まった時でもあった。その誕生から、国民に広く浸透するまでを描く。
出演者
【キャスター】三宅民夫,首藤奈知子,【語り】守本奈実

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番

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