100分de名著 ブッダ 最期のことば 第3回「諸行無常を姿で示す」 2015.04.22


できないと鍛えられてるって喜ぶ。
そうなんですね。
ブッダ最後の旅の様子を記した「涅槃経」。
一度大病を患ったブッダは旅が進むにつれて刻一刻と死へと向かいます。
ブッダの命を奪ったのは食中毒。
決して特別な死ではありませんでした。
ブッダは自らの運命を通して移ろいゆく現実をありのままに受け入れる生き方を示しました。
それは現代の私たちにも生きるヒントを与えてくれます。
第3回は死を覚悟したブッダが身をもって示した「諸行無常」に迫ります。

(テーマ音楽)「100分de名著」司会の…さあ今回はブッダが亡くなる直前に語った最期の言葉「涅槃経」を取り上げていますがどうですか?まあ何かすごいなと思うのは2,500年前に書かれたものが今に残ってるすごさと2,500年の間に磨き抜かれたりもしてるんだろうなというそのすごさをいつも感じますね。
さあブッダの最後の旅も後半に入ってくるんですがまだまだ私たちの生き方のヒントになる教えがあるようです。
さあ今回も指南役は…
(一同)よろしくお願いいたします。
今回からいよいよブッダが病気にかかって自分の死を間近に感じるようになってそして最後に言い残さねばならない事を弟子たちに次々と語っていくんですね。
いよいよこれがブッダの最期の言葉というこのお経のハイライトになっていくそういうお話をしていきます。
では早速ブッダの旅を見てまいりましょう。
今回もブッダ解説者のスリラッタ・シッタッタさんとそのアシスタントのアッシジさんに再現して頂きます。
一度大病を患って命を落としそうになったブッダでしたがその後回復し旅を続けていました。
そしてチャーパーラチェーティヤという場所へと移動します。
到着するとブッダは弟子のアーナンダにこう問いかけました。
はあ…は?は?えっ?いやいやだからね君が望めばもっと長く生きる事ができると言ってる。
はあ。
寿命を更に延ばす事ができると言ってる。
いや…。
私の死をあれだけ不安がっていたアーナンダが私が長く生きる事を望まないとはおかしい。
これはマーラに取りつかれている。
「マーラ」というのは悪魔の事です。
ブッダの生涯の中で悪魔は何度も登場し仏教を終わらせようとしてきました。
この時も悪魔はアーナンダに取りつきブッダがせっかく長生きできるというのにこれを拒否。
悪魔はブッダを早死にさせようとしたのです。
諦めたブッダはこう言います。
悪魔の思惑どおりブッダがこれ以上長生きする道は断ち切られ3か月後にブッダは死ぬ事になりました。
全ては諸行無常なのだという事をブッダはここで説いているのです。
このくだりはちょっと自分の中で整理整頓が必要なんですけどブッダは「あなたたちが望むんなら生きててほしいって望むんなら僕の寿命は延びるんです」っていう。
君が望んでてくれれば延びるんだよと言ってるのに君何かぼんやり聞いてないね。
アーナンダ君は「是非僕望みます」と言うと思ったらそうでもないなってなってきてとなるとこれはマーラのせいだという事になってくると。
マーラというのは普通悪魔とか魔とか言われますけどもこれは仏教の中にはしょっちゅう出てくるんです。
目的は一つ。
アーナンダは頭の良い人ですし心が優しい人ですから本心としてブッダの心をくみ取れないはずはないんです。
しかしそれがこの時ぼけてしまったと。
それは本人の意思ではなくてそういった仏教を妨害する何らかの姿がアーナンダに取りついたんだとこう考えるんですね。
わざわざマーラ悪魔が出てきてここでブッダが寿命を延ばさないようにするという場面が出てくる事はやっぱり必要なんですか?これが出てこないとブッダは今も生きていなければなりません。
そうか涅槃に入れない。
ですから当時の人としてはブッダはとにかく亡くなったんです。
これは歴史的な事実なんです。
しかしブッダほどすばらしい人がそんな「寿命が来たから亡くなりました」なんていう単純な事でいいんだろうかと。
それはマーラが仏教が広がらないように何か画策をした。
しかしブッダはその画策を利用して逆に諸行無常という事を人々に示すためにあえてそのマーラの甘言に乗って涅槃に入ったんだと。
もしブッダが亡くならなかったら諸行無常という事は弟子たちは実感として感じる事ができません。
諸行無常これよく私たち聞く「祗園精舎の鐘の声…」。
改めてここで言う諸行無常というのはどういう事…?普通日本で「諸行無常」というと今まで非常に栄えていたものが時代とともにだんだん衰えていくとか昔はすばらしかったのになんていう事を言いますが本来的に仏教で言う「諸行無常」というのは…だから一瞬前数百分の1秒前の自分と今の私とは違うものであると。
あっなるほど。
ちょっとじゃあニュアンス違いますね。
ずっとやってた老舗のお店が今日なくなるというイメージですけどじゃなくて例えば今日お店一回閉めて明日開けるごとに実はこれはもう違うお店なんですよみたいな。
例えばこれもね昨日と今日とではこれ同じものなんですがこれ1,000年とか1万年置いておけばボロボロになるわけです。
「これはいつボロボロになったのですか?」と質問した場合にどう考えたってそれは一瞬ごとに変化していったものが積み重なって1万年分でボロボロになったとしか答えようがありませんね。
一瞬一瞬変化して前のものではないんだよという。
普通使う方はいい事が終わっちゃったりとか大事なものがなくなっちゃう方に使いがちなんですよね。
僕らその諸行無常を。
でもず〜っと嫌な事ばっかあるな俺の人生という時でもだからこれすらも終わるかもしれないし諸行無常って悲しい方だけじゃないんですねそうすると。
もしかしたらちょっと楽になるかもとか思う。
その苦しみの原因は何かというと世の中を正しく見る事ができないから。
現実と思いとの間のギャップが苦しみのもとになる。
現実は諸行無常なんですが私たちはそれを諸行無常だとは見ないわけです。
むしろその仏教の考え方で言えばこの苦しみは減るかもしれないし増えるかもしれないしという事ですね。
視点を変えて世界観を変えて…さて余命3か月となったブッダは自らの死を受け入れ精力的に教えを説き始めます。
ある日ブッダは弟子たちにこう言います。
「三十七菩提分法」とは37種類の修行方法の事です。
煩悩を消し去り悟りに至るまでの修行のステップを指しています。
37の全てを説明すると時間もなくなるので基本的な8つの事をお教えします。
これを「八正道」といいます。
八正道とは8つの正しい行いを言います。
まずは「正見」。
これは正しいものの見方をするという事です。
仏教の基本的な教えや苦しみのメカニズムを正しく見る事を言います。
次に「正思惟」。
正しい考えを持つ事です。
怒りや憤りを起こす事なく正しい心の働きを維持する事です。
「正語」。
正しい言葉を話す事です。
うそや悪口陰口などの無駄口をたたかず適切な言葉を相手に応じて使う事です。
「正業」。
正しい行いをする事です。
殺生や盗みを働く事不適切な性行為から離れる事を言います。
「正命」。
正しい生活を送る事です。
誤った生き方を避けて正しく生活する事です。
「正精進」。
正しい努力をする事。
正しい方向に向かってたゆまぬ努力を続ける事です。
そして「正念」は正しい自覚をする事。
常に正しい在り方を念頭に置いてその方向に進み続ける事です。
最後は「正定」。
正しい瞑想精神統一をする事です。
この8つを守って日々を過ごせば悟りに到達する事ができるのだとブッダは言うのです。
何か簡単そうで難しいというか。
1つずつちょっと具体的に。
一つ一つはそんな難しい事ではない。
それから「念」というのはいつも考え続けている事。
「定」というのは精神集中の事なんですが外からの情報に翻弄されずに1つの事をしっかりと考えていきましょうという事です。
これだけ見ると当たり前じゃないかと思うんですが問題はここについてる「正」ですね。
何が正しいか。
これは単なる倫理的に正しいとかそういう話じゃなくて…我が強くなる事です。
あっ自我は駄目なのか。
「正」というのは我々は実は「我」というものは錯覚で実はそれは本当は無いんだという事を理解するその方向性が「正」です。
例えば例を言いますとね道端に100万円落ちてたとするんですよ。
それを拾うんですが2種類の人がそれを拾うんです。
ある一方の人は修行をして八正道で自分の我が小さくなってる人です。
そんな人が100万円を持ちますとそれを交番へ持ってってお巡りさんに渡すわけです。
もう一方の人は自分の我がすごく広いんです。
その人が100万円を持てばその瞬間にその100万円はその人の所有物だというふうに思いますその人は。
八正道はその人間は誰でも手に持ったら入れたいと思うんです本能的に。
それを思わない人間になっていくための道です。
それはそれだけ自分の我がどんどんどんどん小さくなっていく事を意味します。
これがこの八正道の「正」という字の意味です。
さて一行は更に旅を続けますが物語はブッダの最後の食事へと進みます。
パーヴァー村へ移動したブッダは熱心な信者であるチュンダという鍛冶屋の家に食事に招かれます。
そこで出されたスーカラ・マッダヴァを食べました。
スーカラ・マッダヴァはきのこであったとも豚肉であったとも言われていますがこれを口にする前ブッダはこう言います。
スーカラ・マッダヴァを食べたブッダは食中毒にかかってしまいます。
ブッダはこれを食べて死ぬ事をあらかじめ自覚していたのです。
ひどい下痢に苦しみながらブッダは命尽きる場所を探しクシナーラーへとたどりつきます。
自らの死に場所を沙羅双樹の下と決め最後の沐浴を行ったブッダはチュンダを気遣いこう言い残します。
チュンダには少しも罪はない。
チュンダの食事を食べた事で涅槃に入り苦しみから逃れる事ができる。
それはすばらしい事なのだ。
チュンダはこの先きっと幸せが来るであろう。
そう語っていよいよ涅槃の時を迎えるのです。
食べないという選択はしないんですね。
最期はなんと食中毒。
しかも分かってるわけでしょ。
「このスーカラ・マッダヴァ食べたら俺もう駄目だな」って。
もう寿命が来て亡くなる事は自分で分かってますから最後に何を食べて死ぬかは自分で選んだわけでしょうね。
しかし食中毒で亡くなるというのも。
カリスマは魔物と戦ったりとかものすごい災害から地球を守ったりとか。
全くありません。
つまりブッダは…だから仏教というのは人がつくった人のための宗教であるという事をこの最後の死に方が表してるわけです。
その最後の食事を出したチュンダという者には責められるんじゃなくて「果報がある」と。
チュンダというのは一般の人で鍛冶屋さんです。
この人がスーカラ・マッダヴァを差し上げてそれでブッダが亡くなっちゃうわけです。
チュンダさんはなぜ差し上げたのかというと…その果報というのはこの人は一般人としての果報が欲しい。
それは何かというと例えば…ごく普通の喜び幸せのために布施したわけです。
ところがそれでブッダが亡くなりましたから考えようによってはとんでもない事をしてしまったので逆に自分にものすごい災いが降りかかるんじゃないかと思う。
それに対してブッダは「そんな事はないのである」と。
「これは私が最後の食事として選んだ食事なのであってこれによって私は涅槃に入るんだからむしろこの食事には大変な意味があってそしてお前には必ず大きな果報が戻ってくるであろう」と。
そのチュンダは普通の人はお布施をする事によって得るプレゼントのようなもの果報というのは期待してもいい?もちろんできます。
ただしそれはブッダが目指したような涅槃ではありません。
一般の世界での喜び幸せなんです。
そこが二段構えになってるのがすごいですね。
仏教はむしろ一般の世界が最初にあるんです。
そこから自分たちが目指す涅槃という特別な目的のためのサンガですねそういうものを作ってそれを一般の人たちに支えてもらおうと思ってるわけです。
こういう構造になっていると。
在家信者とは書いてありますけどこれは一般社会という事。
普通ならばこれだけが人間社会なんですが時としてこの社会ではかなう事のできない特別な生きがいを持って暮らしたいという人たちが出てきます。
でもこの人たちは特別な生き方をするわけですから一般社会の中で仕事をして暮らす事ができません。
という事は生きていく道がありませんので一般社会からお布施によって養ってもらわなければいけない。
でもそれじゃ代わりに何を差し上げるのかというとこれは自分たちが修行している立派な姿です。
なぜ立派な姿がお布施の代わりに与える事ができるのかというと立派な姿で修行している人たちにお布施をするとそれはすごいリターンがあると考えるからです。
出家修行者と在家信者は上下って事じゃないわけですね。
全く違います。
この間の人間の関係の変移ですねここからここここからここという移り変わりは全く自由だという事です。
何回変わってもかまいません。
私たちの世界とはちょっと違うような感じがしますけど。
いえいえ私たちの世界にいっぱいありますこれは。
例えば科学者でもいいです。
宇宙物理学者。
社会の一般の経済世界の中に入っていない人たちが例えばビッグバンの研究をするなんていう全く世俗を離れた事をやる人がいる。
その人たちは食べていけないんです。
研究しなければいけないから。
研究というのは仕事じゃありませんから。
自分が好きな生きがいですあれは。
お布施をもらうこれは研究費であり大学教授のお給料であり補助金でありそういうものがみんなここから入ってきます。
だからこれはお布施ですみんな。
そのかわり何が必要かというと「私は絶対に正しい研究をうそ偽りなくやっております」という姿が必要ですよ。
研究者は逆に言うと採算の事とかあんまり考えちゃいけなくて我々は彼らがこれをどう使うかは信用しなきゃいけないような所がちょっとあるじゃないですか。
でも世の中最近ちょっと違くなってきてますよね。
研究者も儲けなきゃ駄目みたいなところもあるじゃないですか。
研究費取ってくるのが研究の目的だみたいになってしまってこれは本末転倒なんです。
お布施をもらうために修行してますというのと同じ事。
この構造をしっかり理解すると我々は本来の姿を知る事ができるんです。
それは宗教だけではなくてこの世にあるありとあらゆる…これは理想であって現実ではありませんが物差しなんです。
ここからできるだけずれないようにしていくという事が大事なんです。
逆にここから自分の生きがいを徹底的に追求したいと思う人たちが一生を懸けたその中から新しいイノベーションが起こってくるわけですからこれが文化の発生源なんです。
どっちかだけでも成り立たないですよねこのサイクルが。
今一番これの代表的な形の人たちはニートです。
ニートと呼ばれる人たちは言ってみれば一般の社会の中で普通の仕事をせずに自分の好きな世界に入り込んでそして一般の人からは何の役にも立たないというようなレッテルを貼られている人たちです。
しかし実際はニートという人たちの中には全部とは言いませんが自分の生きがいをしっかりと持ってその事だけを追求しているので外から見るとまるで社会に何もしてないように見える人がいるんです。
でもほんとに社会を動かしていくのはこの階級の人たちなんです。
そうでないとね…そりゃそうだ。
これちょっとまた話は飛ぶかもしれないけどコミュニケーション能力が大切だってそりゃ大切なんですよ。
そこがすごくメインな世の中になっちゃったから。
でも昔はねペラペラしゃべる職人なんて信用できないって。
あいつはすげえ職人だよって言われてる職人は俺たち在家の人間と話す必要もない。
でもそこを全部オールマイティーの人を求めようとしてすごくこう腕はいいコミュニケーション能力だけがないという人たちを認めないという感じは…。
最近は特にそう言いますね。
コミュニケーション能力がまるで人間の必須の要件のように言いますけどコミュニケーション能力が全くなくったってこの中ですごい事ができる人はいくらでもいるんです。
あとはバランスですね。
その中で暴走する事もなくはないので。
でももともと理想社会としてこういうもののシステムの形はありますよという事はブッダが残してくれてるという。
それが大切なブッダの遺言の意味ですね。
先生今日はありがとうございました。
また次回最終回になりますがよろしくお願いいたします。
2015/04/22(水) 12:00〜12:25
NHKEテレ1大阪
100分de名著 ブッダ 最期のことば 第3回「諸行無常を姿で示す」[解][字]

ブッダの死因は、鍛冶屋チュンダが供養した食事による食中毒だった。ブッダですら入滅すると、自身の姿で示した「諸行無常」の真理や、ブッダの深い慈悲を解説する。

詳細情報
番組内容
ブッダの死因は、鍛冶屋チュンダが供養した食事だったとされる。しかし、ブッダは一切チュンダを責めることはしない。それどころか「ねはんに入る前の最後の施食(せじき)は、ほかのどんな供養よりもはるかに大きな果報と功徳がある」と説き、チュンダの後悔の念を和らげようという深い慈悲を示す。第3回は最後の瞬間まで貫かれた慈悲や自身の姿で示した諸行無常の真理を解説する。
出演者
【講師】花園大学教授…佐々木閑,【司会】伊集院光,武内陶子,【朗読】大杉漣,音尾琢真,【語り】小野卓司

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
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