俳優…軽快な演技と親しみやすい人柄で知られています。
同じ劇団の三宅裕司さんらと共に舞台やテレビの第一線で活躍してきました。
昨年還暦を迎えた小倉さん。
ある事をきっかけに家族やふるさとに思いを巡らす事が増えたといいます。
小倉さんは高校生の時に寮生活を始めて以来ふるさとを出たまま。
結局父からルーツを聞く機会を逸してしまいました。
番組では小倉さんに代わり家族の歴史を追いました。
浮かび上がってきたのは800年前に遡る職人としての誇り。
そして祖父が始めた事業。
成功をつかみかけたその時…ところが父は自分の夢にこだわりました。
30歳を過ぎて一人司法試験の合格を目指したのです。
半世紀以上を経て当時の父を知る人が見つかりました。
この日小倉さんは自らのルーツと向き合う事になります。
何でしょうこのまな板の上にのったような感じは…。
ハハハハハ…。
小倉さんは幼い頃ふるさとの事で不思議に思っていた事があります。
小倉さんのふるさと…人口1,500。
紀伊山地の山あいにたたずむ集落です。
(取材者)よくある?ようけあります。
集落に入ると「小倉」の表札ばかり。
6軒に1軒が小倉姓だと言われています。
小倉久寛さんが15歳まで暮らした実家。
200年以上前に建てられました。
久寛さんの妹満寿美さんと共に小倉家のルーツについて叔父の久朗さん夫婦に尋ねました。
小倉家は地元の大皇神社から分かれた家で木地師だったというのです。
(取材者)食器?地元の小倉姓のルーツといわれる…800年の歴史を持つ氏神です。
小倉家がかつてしていた木地師について聞きました。
木地師とは木を切りおわんやお盆などの日用品を作る職人たちの事。
鎌倉時代にこの土地に移ってきたといいます。
ここ小椋谷って言うんですけどね。
大紀町から北へ120キロ。
滋賀県小椋谷を訪ねます。
鈴鹿山地にある人口およそ250のこの集落が小倉家の先祖が暮らしていた土地と考えられています。
かつてここに大きな椋の木があった事からこの字を使うようになったといわれています。
木地師資料館を訪ねました。
木地師の始まりについてある伝説を教えてくれました。
時は平安時代。
文徳天皇の第1皇子であった惟喬親王は都からこの地に移り住みます。
惟喬親王がろくろの技術を村人に教えた事が木地師の誕生につながったといわれています。
小椋谷には全国に散って暮らした木地師の名簿が残されています。
その中に江戸時代のものがありました。
小倉さんの実家がある集落の記録を探してもらいました。
(取材者)あります?ありますね。
きゅう…久之助さん?そこにあった小倉久之助という名前。
代々「久しい」という字を名前に使う小倉家。
久之助は久寛さんから240年遡った先祖だと考えられます。
既にこの時「くら」の字が異なっている事も分かりました。
なぜ「椋」の字ではなく「倉」へと変わったのか。
改めて三重の大皇神社の神主小倉基續さんにその理由を尋ねました。
先祖が滋賀から三重に移って800年。
ここには現在木地師を続ける家はありませんがその誇りは今も受け継がれているのです。
あっ…こんなに詳しく分かるんですか。
大きい倉ではなくて小さい倉でもっていう…謙虚な気持ちは…あの〜そうですねあの〜…いやあの〜…いいなって思いますね。
僕もそうやって生きよう。
三重県大紀町にある小倉家。
江戸時代には既に木地師をやめ林業に従事していました。
周囲の山の多くを所有する小倉家は資産家として知られていたといいます。
久右衛門は明治の中頃ある特技で地元でも有名な存在でした。
得意な演目は近松門左衛門の人情もの。
これといった娯楽がない時代村人たちは久右衛門の浄瑠璃を楽しみにしていました。
そうなの。
久右衛門が自分を描かせた掛け軸が残されています。
明治24年隣村のつねと結婚します。
男前の久右衛門につねが一目ぼれしました。
その長男が久寛の祖父吉太郎です。
吉太郎は父が亡くなると「久右衛門」を襲名します。
商才にたけていた久右衛門は林業経営だけでは物足りず新たな商売を探していました。
そんな中大きなニュースが飛び込んできます。
紀勢本線が地元を通る事になったのです。
久右衛門は鉄道を利用した商売をしたいと考えました。
そこで目を付けたのが所有する山でとれる石灰石。
当時石灰は主に肥料として利用されていました。
作物の成長を妨げる酸性の土壌をアルカリ性の石灰で中和する事ができるからです。
久右衛門は肥料用石灰を扱う会社を興します。
代々小倉家で受け継がれる「久」の字を使って……と名付けました。
大型の窯で生産した石灰は鉄道を利用して大阪や名古屋の問屋に出荷しました。
かつて働いていた小倉計さんに会社があった場所を案内してもらいます。
仕事が順調な久右衛門。
三男一女の子供に恵まれます。
次男の久治が後の久寛の父です。
幼い頃から久治は勉強が好きな少年でした。
久治と同い年で…
(取材者)抜群でしたか?ええ。
昭和15年久治は三重県トップの進学校旧制津中学校に入学します。
親元を離れ寮生活を始めました。
優秀な友人たちと過ごす学校生活は刺激的な日々でした。
当時の英語のノート。
英単語を几帳面に書き記しています。
更にこんな日誌も見つかりました。
「我は修養の途上にあるのだ。
苦しいのでなければ修養ではない」。
修養とは知識を高め品性を磨く事。
久治は自分を追い込むように勉強に没頭しました。
ところが…大紀町の実家で悲劇が起こります。
石灰の採掘現場で突然落石事故が発生。
家業を継いでいた4歳年上の長男久一郎が亡くなりました。
二十歳の若さでした。
当時小学生だった三男の久朗さんは今も事故の事を覚えています。
久治のもとにも連絡が入ります。
悲しみに暮れる一方で家を継ぐ事になるかもしれないと戸惑いを感じていました。
幼なじみの岡川さんは当時久治に見舞いの葉書を送っています。
その時の葉書が久治の遺品の中から見つかりました。
「不慮の災難にて逝去なされた由いたくお悔やみ申し上げます。
貴君も嫡子となられたからには一層御勉強に御励み下さい」。
兄が亡くなったあとも中学校生活を続けた久治。
しかし卒業が迫ってくると悩みます。
進学を諦めなくてはならないのか。
父久右衛門は学問好きな久治の熱意に押され進学を認めます。
ただし卒業後実家に戻る事が約束でした。
昭和22年久治は京都にある同志社大学に入学します。
専攻は英文学。
その一方で哲学などにも興味を抱き著名な教授の講義を進んで受けました。
同志社時代の同級生…
(取材者)どんな人たちと仲良かったかって覚えてます?英文科の学生の集合写真。
久治の近くにいるのが森浩一。
よく議論を重ねた相手です。
実は森さんは後に日本の考古学の重鎮となる人物。
「邪馬台国九州説」を唱えた気鋭の学者になります。
久治の大学生活はあっという間に過ぎていきました。
昭和26年ついに卒業を迎えます。
友人の森浩一たちが大学院に残る中で久治は三重の実家に戻る事になりました。
実家の石灰工場で父の下で働く事になった久治。
しかしなかなか仕事に身が入りません。
当時近所に住み新聞配達をしていた…忘れられない事があるといいます。
そんな久治に縁談が持ち上がります。
「家族を持てば変わるだろう」。
周囲がそう考えたのです。
相手は同じ三重の尾鷲出身の女性でした。
当時25歳。
後の久寛の母です。
矩子の実家は100年続くよろず屋でした。
これからこのぐらいです。
そこまでですね。
北村家は地元で有名な土地持ちでした。
裕福な家に生まれしっかり者として評判な矩子。
それに見合う相手を探していたところに持ち上がった縁談だったといいます。
二人は結婚。
式は盛大に行われました。
翌年には久寛が誕生します。
それでも久治は相変わらず本を読んでばかり。
そして結婚して4年目久治31歳の時でした。
家の事は妻矩子に任せ突然一人出かけていきました。
「僕は弁護士を目指す。
とりあえず半年したら戻る」。
向かったのは東京でした。
日記ですか?高校の時ですかあれ。
高校の時にあんな事日記に書いてたんですね。
「修養とは」。
うわ…全然違うな。
何でこんな子供が生まれてきちゃったんだろう。
難しいんですよ話すと。
父久治さんは去年89歳で亡くなりました。
どんな父親だったのか。
久寛さんの妹満寿美さんはこう語ります。
父久治は31歳の時「弁護士を目指す」と言って東京に向かいました。
久治さんは弁護士になろうとした動機東京での日々を全く語る事なく亡くなりました。
今回遺品を探してもらうとこんなものが見つかりました。
その中にあった一枚の葉書。
差出人は横山昭。
昭和35年の消印です。
そこにはいくつかの具体的な名前が書かれていました。
まずはこの「真法会」から調べる事にします。
すると中央大学が浮かび上がりました。
法律家を目指す学生たちのために司法試験の対策と研究を行っています。
真法会の会長でOBでもある槙枝弁護士を訪ねました。
久治が東京にいた昭和30年代真法会ではある取り組みが始まっていたといいます。
真法会は毎年11月から4月までの半年間公開ゼミを行っており久治もそこに通ったのです。
当時司法試験の合格率は3%。
その狭き門を目指しゼミは熱気を帯びていました。
真法会から司法試験に合格した人の名簿です。
葉書の送り主横山昭さんを探してもらいます。
横山なんとおっしゃるの?
(取材者)昭と…。
ああ横山昭さんね。
いますね。
更に葉書にあった「大木」という名前も見つかりました。
調べを進めると横山さんは既に8年前に亡くなっていた事が分かりました。
そこで同じく名前のあった大木さんを捜す事にします。
新橋にある法律事務所。
(取材者)大木先生でいらっしゃいますか?はい。
(取材者)よろしくお願いします。
今も現役の弁護士です。
小倉久治を覚えているか尋ねました。
(取材者)小倉久治という名前…。
久治との出会いを鮮明に覚えています。
大木さんは講義の合間に久治の身の上についても聞いていました。
実家が三重で林業を営み家庭がある事。
そして半年ほど東京で勉強しまた実家に戻らなくてはならないという事。
大木さんは司法試験を目指す友人を紹介しました。
そして手紙の差出人横山昭。
共に勉強するようになりました。
その後久治や大木たちは好きな時に集まって自由に議論できる場所が欲しいと思うようになります。
みんなで金を出し合い民家の一部屋を借りる事にしました。
葉書の「板橋組」とはここから名付けられました。
板橋組はかんかんがくがくの議論を重ねます。
久治はみんなの意見に耳を傾け必死に吸収しようとしました。
大木さんには特に忘れられない事があります。
商法の権威で難解と言われた石井照久教授の本を読んでいた時の事。
久治が言いました。
勉強が一段落すると皆で食事をするのが何よりの楽しみ。
板橋組を結成した昭和35年は全員が不合格。
このころ久治はよく横山と励ましあいました。
結婚し子供がいるという同じ境遇だったからです。
横山からもらった手紙を久治は大切に取っていました。
「君の愛児を伴っての将来への飛躍の想像をしています」。
久治は三重に置いてきた子供たちの事をいつも気にかけていたといいます。
板橋組結成の2年目。
西村中嶋の2名が先に司法試験を突破します。
そして3年目の…久治は期待を胸に一人発表を見にいきました。
しかし自分の番号はありません。
同じ日残る横山大木は共に合格を果たします。
久治は板橋組でただ一人取り残されたのです。
合格発表から1か月後。
板橋組は京都旅行を計画します。
5人の合格を祝う記念の旅行です。
一人不合格となった久治も旅行に参加しました。
かつて学生時代を過ごした京都の町。
仲間のために案内役を務めました。
司法試験突破を目指して切磋琢磨した板橋組はこの日をもって解散となります。
旅の最後に撮られた一枚の記念撮影。
久治はその後仲間と連絡を取る事はありませんでした。
実は取材を進めると板橋組にはもう一人いた事が分かりました。
久治に届いた横山からの葉書。
「栗原は所在不明」。
板橋組が発足してすぐに司法試験を諦めた栗原芳馬。
千葉県茂原市。
その栗原さんが見つかりました。
(取材者)ごめんください。
あるものを見せたいと自宅の倉庫を案内してくれました。
50年前に使っていた法律の専門書。
今もなお保管していました。
(取材者)白熱した議論でしたか?
(栗原)そうでしたね。
栗原さんは大学を卒業して就職したあと金をため弁護士を目指しました。
しかしその蓄えも尽き諦めざるをえなくなったのです。
仲間たちに別れも告げず突然姿を消しました。
その後栗原さんは地元千葉で高校の世界史の教師となりました。
久治と語りあった事を今も覚えています。
三重に戻った久治は一人司法試験合格を目指しました。
家庭を抱えながら孤独な受験勉強でした。
しかし翌年もその翌年も合格を果たせません。
そして長男久寛の中学校入学を機に久治はついに弁護士になる夢を諦めたのです。
41歳。
挑戦を始めてから10年がたっていました。
いやなんかあの…一緒に勉強した皆さんのねああやって記憶の中に生きててうれしいですね。
昔の…「昔の」という言い方は変ですけど皆さんほんとに勉強したんですね。
弁護士目指す…弁護士目指してたのは僕子供の時知ってたんですけど…。
日本で一番難しい試験だからっていう理由っていうのは知らなかったな。
そんな何ですか知識欲というかねえそんな…なんて言うんでしょうか…。
上目指して挑戦する気持ちがあったんだとは…。
なんかこうひと事みたいですけど残念ですね。
合格すればよかったですけどね。
すごく…僕が体験したわけじゃないですけど懐かしい気がしますね。
なんかこの自分の人生のなんかこのなんかこう…パズルがこう…完成したような気がちょっとしますけどね。
三重に戻った父久治さんは家業の林業をしながら暮らしました。
「法律に詳しい人がいる」。
久治さんは地域で頼りにされる存在でした。
弟の久朗さん敦恵さん夫婦。
久治さんに法律の相談をしに来る人がいた事を覚えています。
長年人権擁護委員を務めその功績で町から表彰されています。
学問が好きだった久治さんは子供たちの教育にも熱心でした。
特に長男の久寛さんには厳しかったといいます。
久寛さんは猛勉強の末見事現役で学習院大学合格を果たします。
選んだのは法学部でした。
父久治さんと共に弁護士を目指し同じように果たせなかった…久寛さんが久治さんの長男である事をこれまで知りませんでした。
その事を伝えると…。
ああ!ああ!この人は知ってる!これが息子さん。
ああ〜これは…
(取材者)よくご存じで。
栗原さんの長男も学習院大学法学部出身。
久寛さんの7年後輩に当たります。
栗原さんはかねてから息子と同じ大学同じ学部出身の久寛さんに親近感を覚えていたといいます。
そうでしたか…。
久寛さんは大学卒業後三宅裕司さんと共に劇団を結成。
就職した会社を辞め両親に黙って役者を始めます。
毎週NHKの101スタジオから皆様にお送りいたします。
32歳の時NHKヤングスタジオの司会に抜てき。
お茶の間の人気者になりました。
父久治さんは活躍する久寛さんの姿を見て安どしたといいます。
久寛さんが出演する番組を録画して大切に保管していました。
久治さんは久寛さんの芝居を見る度にいつも口にしていた事があります。
「もっと精進しろ」。
そんな久治さんが自宅の居間で座っていた場所。
座椅子のかたわらにはいつも本が積み重なっていました。
愛用の「六法全書」は今も一番上に置かれています。
精進します。
2015/04/24(金) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「小倉久寛〜800年の誇り 父が語らなかった過去〜」[字]
小倉さんは三重県出身。去年、亡くなった父は、若い頃の事を話さなかった。30歳を過ぎて突然、弁護士を目指した過去が明らかになる。また鎌倉時代に遡るルーツも判明。
詳細情報
番組内容
小倉さんは三重県大紀町出身。去年、亡くなった父は、若い頃のことを全く話さなかった。それが今回、父の若かりし日々が明らかになっていく。兄の急死で実家を継くことになったこと。30歳を過ぎて弁護士を目指そうとした経緯など。父の友人たちが見つかり、証言していく。また、小倉家は元々、滋賀にルーツがあり、800年前に三重に移ってきたと言われている。古文書や集落に残る伝説を頼りに、その謎に迫る。
出演者
【出演】小倉久寛,【語り】余貴美子,大江戸よし々
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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