らぶゆーブログ

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このブログの累計アクセス数が1万を超えました!〜ラノベファンはとても熱い〜

 4月18日にどかんときて19日もその勢いがつづいて、そのあと落ちたんだけど、なぜかギガジン(爆笑)にリンクされめっちゃアクセス数増えました。いまはもう落ち着いた感じです。ちなみにはてなポイントあまりまくってるので「はてなカウンター」設置してみたんですが、なんかだいぶ数値がちがいますね。仕組みはよくわかりません。



 ラノベに言及すればアクセス数伸びると思ってやってみましたが、ほんとに伸びたのでびっくりです。このへんがすでに終わっている純文学とのちがいですね。ぼくがいくら純文学や純文学ファンを叩いたってこんなにアクセス数は伸びないでしょう。むしろ純文学ファンは超傲慢なので一緒になって純文学を叩くでしょう(ちょうどジャズのマイルス信者がマイルス以外を叩くように、純文学ファンは自分のお気に入り作家以外を叩きがち。とくにナボコフ信者が傲慢でやばいです。かれらに近づいてはダメ!)。ラノベはファンが見放してないのがすごいですね。読者にそっぽを向かれたら終わりですよ。個人的には平野啓一郎で純文学は完全に終わったんだなと思いましたね(『決壊』とかすごく幼稚だった)。
 ぼくもラノベはゴミばっかりだと思います。ただそれは他のジャンルでもそうで、ぼくの体感だとどのジャンルも99%はゴミです。だからそういう意味ですべての存在はゴミなので、「ほにゃららはゴミ!」というのは一種のトートロジーなのではないかと思いますね。
 あと「主語が大きい」という批判がされることがありますが、このへんは誇張法という日常的なレトリックだと思いますよ。主語を大きくすることによって、ある種の感情を込めているわけです。こういう用法にたいして「主語が大きい」批判というのはなんというかアスペルガー傾向があるのかなと思ったりしないでもないです。相手は感情を表明しているのに、その明示的な文意だけを汲み取って批判するというのはコミュニケーションとして低次元すぎます。
 ブログは論文じゃないですからね。書き手は感情ある人間であって、論理的にかっちりとした科学的なコミュニケーションを求めているというより、もっと情緒的な漠然としたやんわりゆるふわコミュニケーションを求めているように思います、個人的には。
 ひとがなにかを表現するというのは、なにかから逸脱するということだと思います。ぼくらはなにかを表現するとき、それが完全には表現できないということによってやっと表現できるという状態にあるのだと思います。もしなにかを完全にもれなく表現できるというのであれば、ぼくらはなにかを表現しようなどとは思わないでしょう(一種のテレパシーあるいは神秘体験によって一瞬で永遠を完全に理解しきってしまう。それはもう言語とか時間のない世界です。それは人間のやることではない)。
 それが完全には表現不可能、その射程を、輪郭を、境界線を完全に見切って、それをそれとして言い表すことができる、そんなことが不可能だからこそぼくらは、その不分明な射程を輪郭を境界線をぼやけた視力で眺めてやって、そこで思索がはじまって、言語という道具によって解釈をはじめるのではないでしょうか。なにかを語るということは同時になにかを語らないということであります。ぼくらはいつも見えていると同時に盲目でもあります。
 って、なんの話かよくわからないけど、とにかくラノベファンは熱いなあと思ったのでした。