こんにちは、春樹さん。
以前に、神戸の三宮でヘイトスピーチを見かけました。私は日本で生まれ育った韓国籍です。小さな嫌がらせは何度か受けたけど、こんなむき出しの暴力を突き付けられたのは初めてでした。怖くて、気付いたら夫の腕をぎゅっとつかんでいました。
物心ついたときからずっと、この「在日」という言葉に「私」が吸い込まれていなくなってしまうような息苦しさを感じてきました。一部の「在日」や一部の日本国籍の人から向けられる「在日だから……すべき」というまなざし。これに答えられない自分が恥ずかしかったり、でも反発したりで、20代まではなんだか心の中がグチャグチャだったように思います。
だから、大人になって、春樹さんの小説で「在日韓国人」が普通の人として出てきたのを読んで、びっくりしたのを今でも覚えています。こういうの、ありなんや、と。ホント、3センチぐらい飛び上がりました。肩の力が抜け、気持ちをずいぶん楽にしてもらいました。感謝(笑)。でも、このヘイトスピーチを見かけてからまた考え込んでしまいました。そして最近、少し私の心に変化がありました。今までずっと逃げて触れ合わないようにしてきたけど、結局は逃げられないし、戦争責任の問題を当事者でない日本国籍の人が考えることを時に求められるように、私は「在日」であることに責任のようなものがあるんじゃないだろうか、と思い始めました。私のほんの一部であっても、それもまた自分だ、という感じかな。
大人になって、あまり周りに振り回されないでいられるようになった。だからこそ向き合うべきなのかな、とも思うんです。
だからといって、何かすべきことを見つけたというのでもなく、何ができるのか、そもそも何かすべきなのかもまだ分からない。選挙権さえないですからね。「在日」の私に普通のまなざしを向けてくれた春樹さんに、こういうときはどう考えたらいいのかずっと聞いてみたかったんです。
大量メールへの返信、大変ですね。返事があったらラッキー! という気持ちで期待せずに待ってます(ハート)。
(なな、女性、44歳、会社員)
在日コリアンの方には先日、差別問題についてのメールを差し上げました。そちらをお読みになっていただければと思います。もちろん僕はそのスピーチを実際に聞いたわけではないので、内容について具体的なことは何も申し上げられません。でも一般論として申し上げれば、そのようなキャンペーン(あなたの言う「むき出しの暴力」)が公衆の面前で堂々とおこなわれるというのは、一人の人間として本当に恥ずかしい、情けないことです。もちろん意見を公に表明するのは自由ですが、特定の国籍や宗教を一律に口汚く非難するのは社会行為として明らかに不適切です。
いちばんの問題は、愛よりは憎悪の方が、理性よりは怒りの方が、簡便に言語化できることです。ポジティブなことよりは、ネガティブなことの方が、人の心に直接的に訴えかけやすいことです。「あんなやつはカスだ、アホだ、無価値だ、非国民だ」と罵倒するほうが、「あの人はとても立派な人です」と説明するよりは、多くの場合インスタントな説得力を持ちます。条理を説くよりは、憎しみや恐怖をあおる方が人々の耳目を引きます。しかしそういうものを「しょうがない」として放置しておくと、それが根を下ろして、知らないうちに大きく育っていきかねません。たとえばナチの反ユダヤ・キャンペーンを「まあ、あんなのは口で言ってるだけで、本気じゃないだろう」と思って見過ごしていた人々が、後日大きな悲劇に見舞われることになりました。何よりも怖いのは社会が品位を失っていって、それが既成の事実として人々に受け入れられていくことです。何か手が打たれるべきだと思います。
村上春樹拝