私の公募応募歴 10年前から公募に応募し続け、応募した数66件。面接に呼ばれた回数10回。内定した数2件。 52連敗後にやっと初めての内定をもらいました。 ・10数年前の博士課程時に10ヶ所の公募に応募し、全滅。 ・仕方なくポスドク(PD)に応募し、決まりかけていたときにDQS底辺私大にコネで 就職決定。 しかしそこでの仕事はカルチャーショックの連続であった。学生や教員の質が著しく 低く、また、山のような雑用。さらに自分の専門Aとは異なる分野Bの仕事ばかりを やらされていた。当然研究業績は伸び悩む。 脱出しようと年に2-3ヶ所ずつ公募に応募(全て分野A)するが全滅。 (私の連敗記録は現本務校に就職後からカウントしています) ・2003年、鬱症状が出始め、毎日苦しみながら仕事をしていた。雑用に鬱が重なり、 ほとんど研究できない日々が続いた。夜も寝つきが悪く、眠れたとしても3時や4時に 早朝覚醒し以降眠れなかった。特に2003年秋から2004年初春にかけて鬱症状がひどく、 死んだ方がマシなのではないかとまで考えるようになった。 ・2003年後半、自分の大学に将来がないことを痛感。自分にも将来がないと感じ、 鬱がひどくなる。この時点で就職後24連敗中。 着実に鬱が悪化しているのでこのまま行けば半年以内に全く何もできなくなる。 まだ頑張れば少しは何かできる気力が残っているこの半年以内に自分の環境を変え ないと自滅してしまうと自覚し、死ぬ気で教員公募に応募することを決意した。 応募する分野もAだけに絞らず、B分野にも広げて応募することにした。 また、文部科学省の様式第4号と呼ばれる書類を書いてみて、自分にはいわゆる 研究業績だけではなく様々な業績があることを知った。 今までは宝くじを買う気分で応募していたが、これ以降は1つ1つの応募書類を 書くのにかなりのパワーを割くようになった。同時に出せる公募は出来るだけ 出すように心がけた。 以降、どんどん面接に呼ばれるようになった。 同時に2ちゃんねるの「教員公募星取り表」スレに書き込むようになる。 ・2003年末、初めての面接(分野B)。地方国立大。 締め切りの2週間後、職場に電話で面接の連絡。 驚きで電話を持つ手が震えた。 [面接] 選考委員長の持っている書類の束の数から推測するに、呼ばれていたのは 7人か? 感触× 面接から1ヶ月半後に不採用通知。 ・2003年末、2つ目の面接(分野A)。首都圏私立大。 締め切りの5日後、自宅に郵便で面接の通知。 [面接] 感触○ 面接から4日後に不採用通知。 ・2004年1月、3つ目の面接(分野B)。地方国立大。 締め切りの2週間後に自宅に電話で面接の通知。 [面接] 感触○ 面接から1ヵ月後に不採用通知。 ・2004年2月、4つ目の面接(分野B)。地方国立大。 締め切りの2週間後にメールで面接の通知。ここはコネのある唯一の応募である。 [研究内容と今後の抱負のプレゼン+面接] 強力な対抗馬がいたらしく、圧迫面接。感触× 面接から2週間後に不採用通知。 ・2004年春から少しずつ鬱が軽くなってきた。 ・2004年6月、5つ目の面接(分野B)。地方公立大。 締め切りの3日後にメールで面接の通知。 [模擬授業+面接] 感触○ 面接から2週間後に不採用通知。 ・2004年10月、6つ目の面接(分野B)。地方私立大。 締め切りの1週間後に郵便で面接の通知。 [自己紹介や抱負についてのプレゼン+面接] 感触△ 面接から12日後に不採用通知 ・2004年11月、7つ目の面接(分野A+B)。地方私立大。 応募前に条件を見て何か引っ 掛かりがあったが、悩みながら応募。 締め切りの1ヵ月後にメールで面接の通知。 応募後、いろいろ調べたら自分にとってあまりよい条件のポストではないことが判明 した。内定後に断ると先方に迷惑がかかるので面接を断った。 不戦敗とし、連敗記録に追加した。 教訓:転職を焦っていたとしても、あまり行く気がない公募には応募しないこと! ・2004年11月、8つ目の面接(分野B)。首都圏私立大(*) 締め切りの12日後にメールで面接の通知。 [模擬授業+面接] 感触× 面接の11日後に内定の通知のメールがきた。 ・2004年12月。鬱症状はほとんど消失。よく眠れるようになった。 ・2004年12月、9つ目の面接(分野B)。首都圏私立大 締め切りの1ヶ月後にメールで面接の通知。 [面接] 感触○ 面接から10日後に不採用通知 ・2004年12月、10個目の面接(分野B)。地方のちょっと特殊な国立大。 締め切りの2週間後に自宅に電話で面接の通知。 [面接] 感触○ 面接の2日後に自宅に電話で内定通知。 翌日、辞退の連絡をメールと郵送で送った。 ・2005年4月。8つ目の面接で内定の出ていた首都圏私立大に着任。