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「そもそも当時、坂口博信さんは、単なる横浜国立大学の学生でした。それがAppleIIを手にして、「『Wizardry』すげー」となって、スクウェアでバイトを始めただけのことなんです」(浜村氏)
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この連載で元・ファミ通編集長の浜村弘一氏にインタビューした際、昔のゲーム業界は「まるで"自作ゲーム"みたいだった」という話になった。その際に坂口氏と個人的に親交のある浜村氏から飛び出したのが、上の言葉だった。
この連載で元・ファミ通編集長の浜村弘一氏にインタビューした際、昔のゲーム業界は「まるで"自作ゲーム"みたいだった」という話になった。その際に坂口氏と個人的に親交のある浜村氏から飛び出したのが、上の言葉だった。
坂口博信氏といえば、長いあいだFINAL FANTASYシリーズを手がけて、最近ではスマホゲーム『テラバトル』などのゲームも成功させてきた人物である。そんな氏のゲーム制作歴もまた、80年代にやっと家庭に普及してきたパソコンを手にして、自らの手でゲームを作りだしたことから始まった。
当時、坂口氏はミュージシャンを目指していたという。そんな彼が一体なぜゲームを作りだしたのか。自らを「プログラマ上がり」と語り、はじめは自分の手でコードを書いていたという坂口氏に、その熱気がやがてFINAL FANTASYを生み出していくまでを聞いた。
当時、坂口氏はミュージシャンを目指していたという。そんな彼が一体なぜゲームを作りだしたのか。自らを「プログラマ上がり」と語り、はじめは自分の手でコードを書いていたという坂口氏に、その熱気がやがてFINAL FANTASYを生み出していくまでを聞いた。
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坂口博信(さかぐち ひろのぶ)
ゲームデザイナー
Mistwalker Corporation代表
全世界で1億本以上を売り上げ、今もなお絶大な人気を誇るロールプレイングゲームの金字塔「ファイナルファンタジー」シリーズの生みの親。2004年、自身のゲームデザインスタジオ「ミストウォーカー」を立ち上げ、「ブルードラゴン」「ロストオデッセイ」「ラストストーリー」など話題のゲームを続々とリリース。「ヒゲ」の愛称でゲームファンから人気を博し、常に新作を渇望される存在である。また、日本国外での評価も高く、2000年5月、これまでの高い功績が認められ、The Academy of Interactive Arts and Sciencesより「Hall of Fame Award」(殿堂入り)を受賞、2015年にGDCにてLifetime Achievement Awardを受賞している。2014年10月に、ミストウォーカーオリジナルRPG「テラバトル」をこれまで得意としていたコンソール向けはなく、スマートフォン向けにリリース。舞台を新たにしながらも配信初月内で100万ダウンロードを達成するなど、今もなおゲーム業界に新風を吹かせるクリエイターである。
代表作
ファイナルファンタジー
クロノトリガー
パラサイト・イヴ
ブルードラゴン
ロストオデッセイ
ラストストーリー
パーティーウェーブ
テラバトル
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「僕は"プログラマ上がり"だと思っている」
――坂口さんは、どういう学生だったのですか?
坂口博信(以下、坂口):実は、ミュージシャンになりたくて、スクウェアでバイトを始める直前まではバンドをやってたんですよ。当時はフュージョンみたいなジャズをよく聞いていたんです。あのアドリブ感が好きだったんですね。バンドでは、自分で作詞・作曲もやっていたし、ピアノもギターも弾いて歌ってました。当時は、「俺から音を取ったら、何も残らない」とか平気で口にしていました(笑)。
その後、AppleIIにハマりました。アドベンチャーゲームやRPG、多様なプログラム言語やビジネスカルクなどの初期オフィスソフトを手にしたときに、本当に衝撃を受けたんです。カルチャーショックでした。で、当時はそういったもののデータをいじりまわしていました。そうすると、データ構造とかだんだんわかってきて、自分でも作れるんじゃないかなと思うようになりました。
――そうなると、自作ゲームもやられましたか?
坂口:やりましたねえ。子鬼(ゴブリン)が沢山いるなかを、うまく線を引いて囲んで倒すゲームとか、そんなのを作ってました。
あと、当時は「Rogue」みたいに「a」や「@」とかのテキストで表現するような時代だったので、AppleIIの四色表現のグラフィックは、それ自体が本当に衝撃でした。しかも、NTSCの滲みを利用してある2色から別の色を作る……みたいなテクニックがあったり、驚きの連続でした。
――プログラミングも自分でされていたんですか?
坂口:はい。AppleのBASICに少しアセンブラを混ぜたりして。フルアセンブラはさすがに無理でしたが。
そんな感じで、あまり信じてもらえないけど(笑)、自分では"プログラマ上がり"の人間だと思ってるんですよ。ゲーム制作の際にも、新しく導入したテクノロジーで何が出来るかや、優秀なエンジニアと組む重要性をいつも考えています。FFでも『テラバトル』でも、そこは変わりません。
――一緒に遊んでいた仲間はいたんですか?
坂口:その後、ずっと仕事を一緒にすることになった田中弘道ですね。その田中と、大学3年になる春休みに、どこかのソフトハウスでアルバイトをすることにしたんです。そのときに、「凄い会社に行ったら俺たち、雑用になっちゃうぜ」と話し合って、自分たちの力でも通用しそうな場所を探すことにしたんです(笑)。
そうしたら求人雑誌で、聞いたこともないゲーム会社が事務員を募集していたんです。それがスクウェアでした。とりあえず「ここならどうにかなるだろう」と二人で話して、面接を受けに行きました。そうしたら、「ゲームを作れる子を探していた」と言われて、ゲーム制作の方に投入されてしまい、いきなりチームのメンバーになりました。
ただ、そのときに作っていたゲームが『鳥人間コンテスト』のゲームで……。
――あの、テレビ番組の……ですよね……?
坂口:もう聞いた瞬間から、怪しいでしょ(笑)。
でも、とりあえず僕はゼッパチ(※)のアセンブラで、縦スクロールしつつ飛行機を操作できるようにして、失敗したら落下するようなプログラムを作っていたんです。
(※)8ビットのマイクロプロセッサ「Z80」のこと。(参考:Wikipedia)
ところが、ある日、会社に来てみたらスタッフがほとんどいないんですよ。聞いてみると、「プロジェクトが解散になった」と告げられるわけです。それで理由を聞いたら、「許諾を得てなかったんだよね」と言われて……いや、もうバカだよね。みんなで勝手に「鳥人間コンテスト」のゲームを作ってただけだったんです(笑)!
ドワンゴの自作ゲーム担当者(以下、D担):すごい話だ(笑)。
坂口:もうね、全員がド素人の集団でしたね。田中と僕にしたら、「俺たちの春休みを返せ!」って気持ちで(笑)。
それで、もうシャレにならないから、自分たちでプロジェクトを立てたのが、スクウェアの一作目のゲームだったんです。僕が初めてしっかりと作ったゲームでもあります。
デビュー作の失敗で「商い」に目覚める
――『ザ・デストラップ』というパソコン用アドベンチャーゲームのことですよね。
坂口: はい。Appleをいじる過程でアドベンチャーゲームのデータ構造は理解できていたので、さて何を作ろうかとなったときに、「あれなら、俺らにも作れるっしょ」という感じで始めました(笑)。
あの作品は、絵とアセンブラのプログラム以外は、テキストもマップ画面もメインのBASICプログラムも、ほとんど僕が書いてます。タイトルのフォントもなんかもです。手作り感満載で、パッケージの写真だって、オフィスで撮って、それをレイアウトしたものですよ。
『ザ・デストラップ』のマップ画面
――本当に、少人数の自作ゲームみたいなノリですよね。
坂口: 完成してみると、とにかく嬉しかったのを覚えています。ある程度の規模の作品を完成させたのが初めてだったし、自分の作品が棚に並ぶ光景というのは、なんだか不思議な感動を覚えるものです。それは、今も変わらないですね。ただ、このゲームは値付けを考えていなかったんです……まだカセットからディスクにパソコンソフトが移行したばかりの時期に、9800円でディスク3枚組というメチャクチャなことをやってしまった。そのせいか売上的にも決して良くはなかったです
そのときに、僕は自分なりに「商い」というものに目覚めたんですよ。「次は、絶対に商業的に成功させてやる」と思いました。それで作ったのが、2作目の『ウィル -ザ・デス・トラップII-』です。
――取材前に調べたときに、1作目がめちゃくちゃハードボイルドな内容なのに、いきなり可愛い女の子の絵になっていて驚きました。
坂口:そう。これは、「売れ線にもっていくなら『女の子』だ!」という判断の作品です(笑)。
ただ目を閉じるだけでなく、小さく少し閉じるモーションが入るなど繊細なまばたきになっている。
まずオープニングで、かわいい女の子が瞬きをするアニメーションを入れると決めて作りました。原画を描いてもらって、あとは僕がドットを一つ一つ入力して、目の開くタイミングも何度も試行錯誤しました。そして、BGMもモンスターデザインも自分で手がけて世界観を作った上で、ちゃんとディスク1枚に収めて、5800円の値付けで販売しました(笑)。なんとかヒットしました。
植松伸夫やナーシャ・ジベリとの出会い
――先ほど、音楽も自分で手がけていたと聞きましたが、植松伸夫さんとの出会いはどういう経緯だったんですか?
坂口:その頃、植松さんは……近所のレンタルショップでアルバイトしていました。
デス・トラップで絵を描いてくれた子が彼と知り合いで、作曲しているとは聞いていたんです。だから、「繋がりもあるし、近場で頼もう」みたいな感じでお願いしましたね(笑)
植松さんにとても失礼な話ですよね。でも、当時のゲーム音源は「3音+ノイズ音」のような環境でしたから、いきなりプロの作曲家がかいてくれるなんて、ありえないかなと思っていたんです。そういう状況で出会ったのが、植松さんだったんです。
――なるほど。でも、植松さんのデモテープを聞いてみたら、ビビッと……。
坂口:いや、それがFFの最初のデモテープはボツにしてしまって。
D担:ええええ(笑)。
坂口:その後、植松さんが「新しく作りなおした」っていうのが、単に僕がボツにしてしまったものの曲順を変えただけだったんですけど、それを大絶賛してしまって……なんともわかっていなかったですね(笑)。
――初期のFFで伝説のように語られるナーシャ・ジベリ(※)さんも、FFの前に入ってますよね。
(※) 数々の逸話を持つ天才的なゲームプログラマ。(参考:Wikipedia)
坂口:ナーシャですね。彼は元々イランの王族で、イラン革命のときに国外に出て米国に渡ったと聞いています。
一同:えっ(驚)!
坂口:たまたま当時のスクウェアの社長がゲームショウのパーティで出会って、社長に「日本で稼がない?」と声をかけたのがスクウェアで働くきっかけだったようです。
D担:おおー。
坂口:で、いきなり僕の前にナーシャを連れてきて、「こいつの面倒見てよ」とか言われて、「はあ!?」って感じでした(笑)。 大体、英語なんてしゃべれなかったし、それでもがんばって、夕食すべてに同行して必死に英会話しました。でね、ナーシャはステーキしか食べないんですよ。毎日ステーキっていうのは、なかなかそれはそれで辛かったです(笑)。
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あとはね、「キモノガールはどこだ? とかしつこく聞かれたり(笑)。日本人はみんな着物だって思っていたみたいですよね。結構そんな外国人もいるような時代だったんですね。
あとはね、「キモノガールはどこだ? とかしつこく聞かれたり(笑)。日本人はみんな着物だって思っていたみたいですよね。結構そんな外国人もいるような時代だったんですね。
D担:(笑)。ちなみに、後の話になりますが、ナーシャさんが口頭でバグの修正箇所を伝えたという伝説は本当なのですか?
坂口:それは本当です。ナーシャは自分で書いたアセンブラのプログラムをすべて暗記していました。彼が電話で伝えてくれた16進数を入れ替えたら、すぐにバグが直ってしまった。皆で唖然としてました。
なんか、あの頃はいつもナーシャと一緒にいましたね。
実は出会う前から、彼のことは知っていたんですよ。ナーシャはAppleIIで『Horizon V』や『Zenith』みたいな3D系のゲームを制作した天才なんです。僕にとっては、ずっと前からApple IIにおける「ゲームクリエイターの神様」だったんです。すごく尊敬していました。でもまあ、とんでもないことばかり言ったり、やらかしたりするから、最終的な印象は、憎めない変で無邪気な外国人プログラマーって感じでしたね(笑)。
『とびだせ大作戦』のプレイ画面
僕がナーシャとディスクシステムで作ったゲームは、彼の3Dゲームのノウハウで企画を立てたんです。ただ、僕がアドベンチャーゲームとRPGしか作っていなかったし、上手くいかなかったんですよね。
『とびだせ大作戦』という立体メガネで画面が飛び出すゲームを作ったときには、大量にメガネを作っちゃった。それが売れ残って倉庫に山積みになったときは、「これどうするんだ…」って震えました(笑)。実は、その頃にはスクウェア全体でも、なかなかヒット作は出なかった。ファミコンのスペックでは、RPGを作るのは無理だってあきらめていたんですね。で、自分には向いていないアクションゲーム系ばかりをやっていた。しかも、ちょうどその頃に、銀座の一等地のビルを丸ごと借りちゃったもんだから、もう会社が危なくなって…。
――今、Wikipediaでスクウェアの年表を見たのですが(参考:Wikipedia)、ここまでの話って、実は坂口さんがバイトで採用されてから、たった3年程度の出来事なんですよね。それで銀座にビルを丸ごと……。
坂口:最終的に、御徒町のビルに移ることになりました。で、賃料はなんと1/10になりました(笑)。
とはいえ、さすがに「こりゃヤバイぞ」という感覚になっていて、ヒット作が必要だという空気が漂ってきたわけです。それに僕自身も、出しても出してもゲームが売れないとなると、自分の才能に限界を感じてくるわけですよ。ゲームづくりに見切りをつけて、もう一度大学に戻るべきなんじゃないか、と悩むようになりました。
たった4人から始まったFFの開発
――そこから、あの有名なFFの誕生秘話が……
坂口:誕生秘話というか……。あれはある日、いきなり社長が「会社をA・B・C・Dの4チームに分けよう」と言い出して、「それぞれのチームのヘッドが企画を立ててプレゼンをして、みんな自分が売れそうだと思うチームに行きなさい」と指示をしたの。で、僕がAチームで、田中弘道がBチーム。青木さんがCチームで、Dチームが宣伝系の人見さんだったかな。
実はその頃、ちょうどドラクエが出たんです。彼らは、なんと僕たちの思い込みを打ち破って、家庭用ゲーム機でもRPGが可能だと示してしまったんです。それを見て、だったら最後に自分がずっと大好きだったRPGを作ろうと思いました。それで、もうプレゼンで僕は「RPGで、ドラクエを打ち負かす!」と大々的に言ったわけですよ。
……ところが、蓋を開けてみたら、集まってきたのはナーシャとドッターの渋谷員子さんと、あとひとりだけ。そして、社内では、「坂口がなにかバカなことを言っている」と冷たい目で見られていた。
――坂口さんを入れて、4人だけ……。でも、渋谷さんにしても、今やドット絵好きには大人気の方ですし、錚々たるメンバーという気も。
坂口:当時は、まったくそんな空気ではなかったよね。一方で、他のチームは版権物の企画をしっかりと立てて、そつなく15人とか集めてるわけですよ。
だから、もう仕方なく、僕はリクルートをしました。
そうしたら、孔雀みたいな羽をつけた革ジャンを着てるような、チンピラみたいな奴が面接を受けに来たの。「こんちはーっす。面接やってんすよね?」とか言って。ところが、そいつが開いたノートを見たら、可愛らしいキャラの絵がたくさん描かれていて、「なんだこれは……」と思った。あまりに面白いから、採用です。それがFFのキャラやチョコボの生みの親の石井浩一でした。後に、彼は「聖剣伝説」シリーズを作りました。
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『聖剣伝説2』のジャケット写真
『聖剣伝説2』のジャケット写真
それと、東工大のSF研で日々TRPGを遊んでいたやつも採用しました。それが後に「Sa・Ga」シリーズを作った河津秋敏です。まあ、あのときは集まったメンバーは凄かったですね。なにか運命のようなものが働いていたのかもしれません。
――吸い寄せられるように人が来ていますね。開発が始まってからは、どういう感じだったんですか?
坂口:まずは、RPGを何も知らないナーシャに、「RPGとはなにか」を解説しました(笑)。
D担:とりあえず、ナーシャ・ジベリへのRPG講義から(笑)。
坂口:しかもさ、マップがマス目になっていて、ブロックがこういうふうにあって、とか一生懸命に講義するんだけど、ナーシャの方は「サカグチ、ソンナモノ、ドコガ面白インダ?」なの。もう全く理解してくれないから、最後は「分かんなくてもいいから作ってくれ」って感じで(笑)。
――(笑)。天野喜孝さんは、FF1からですよね。どういう経緯で参加されたんですか?
坂口:誰かいいイメージイラストを描いてくれる画家はいないかなとスタッフ皆で探していたら、石井が「それなら、天野さんがいいと思いますよ」と言ったんです。
天野喜孝氏が手掛けた『グイン・サーガ』の表紙絵
でも、『グイン・サーガ』は読んでいたのに、なぜか名前を認識していなかったんだね。「誰だよ、その人。知らないぞ!」なんて言って却下してしまいました。ところが、自分でパラパラと本を開いて探していたら、すごい絵を見つけたんです。さっそく石井に「これだよ!」と言ったら、「あの……坂口さん、それが天野さんです」と言われた(笑)。もう、すぐに天野さんに会いに行きましたよ。そうしたら、天野さんがゲーム制作を面白がってくれて、二つ返事で受けてくれました。
ところが、天野さんがさっそく送ってくれたモンスターの絵が、手書きのドット絵で描かれてた(笑)。慌てて「天野さん、普通に描いていんですよ!」と言ったら、「えー、ドット絵じゃないんだ?」なんて言われてね。あの絵は紛失しちゃったんだけど、いま思えば、残しておくべきでしたね。
――本当に黎明期という感じのエピソードですね(笑)。実際の制作は、どういう部分から着手されたのですか?
坂口:シナリオという意味では、世界観から作り始めていますね。火・水・土・風みたいな四元素で、クリスタル存在という設定からです。アドベンチャーゲームをずっと作り続けてきたから、ストーリーはしっかりと入れたかったので、そのために世界観をまず構築しました。
――社内の空気はどう変わっていったんですか。
坂口:上手くいく企画というのは、みんな雰囲気で分かるんですね。徐々にチームに人が入ってくれるようになってきて、ナーシャ以外のプログラマも増えました。グラフィックも渋谷さん以外に絵描きが増えていって。終わりの方は、チーム総勢で15人くらいになっていたと思います。また手応えもかなり感じていて、「これはかなりいけるんじゃないか?」と感じ始めていました。
――社内の不人気チームがいつの間にか、大所帯に。
坂口:そうですね。あっ、それと、ある日ナーシャがいきなり「サカグチ、押シテミロ」とか言いながら、自慢げに画面を見せてきたの。そこで言われたとおりにコマンド操作をしたら、いきなりパズルゲームが始まったのを思い出しました。
D担:あの有名な隠しパズル ですね!
坂口:「ナーシャ、いったい何を…」と絶句しました。
けっこう思い入れのあるオープニングシーンなどを作っていましたから、そこにいきなりパズルって……もう台無しじゃん(笑)っていう感じで。ナーシャは、飛空艇のプログラムみたいにぶったまげるような仕事もしてくれるんだけど、こういう余計なこともよくやるやつだったんだよね……(苦笑)。
――そんなドタバタがありつつ(笑)、完成にこぎつけてどうでしたか。
坂口:今でも覚えているけど、当時のプログラマに「いやー、坂口も初めてマトモなものを作ったよね」とか褒められた(笑)。
――その発言は喜んでいいんですか(笑)。
坂口:ええ。そんなこと滅多に言わないやつでしたから。みんな20歳そこそこでほぼ同い年みたいなチームでしたし、そんなもんです。
でもみんな、なにか不思議な達成感を覚えていたんですよね。
でもみんな、なにか不思議な達成感を覚えていたんですよね。
なので、生産本数を決める会議で営業担当の取締役が「初回出荷を20万本にする」と言い出したときには、もう「ふざけるな」と怒鳴って、なんとか40万本にしてもらいました。実は、その人とはその後も親密なお付き合いがあって、このあいだ飲んだ時に、「あのとき、俺たちがどれほど腹をくくったのかわかるか!?」と説教されましたけど(笑)。
『FF1』のジャケット写真
本当に、まだ何もわかってなかったんだよね。当時のスクウェアみたいな小さな会社がファミコンで40万本の初回出荷をするのが、一体どういうことだったのか――よくわかっていなかった。
坂口博信が考えるゲームと物語の関係
――でも、結局、勝ったわけですよね。
坂口:まあ、ドカンというほどじゃないけど、売れました。で、社内的には、「次、行こうぜ!」という雰囲気です。で、そこからは、2、3、4と出て、クロノトリガーが出て……という感じですよ。
――そこからは、もう現在まで続く快進撃ですよね。ただ、ある時期から、坂口さんはかなり物語を重視した制作になっていきました。
坂口:FF3を制作していたときに、母が自宅で火事に遭ったんです。電話で聞いて、すぐに夜中の高速をぶっ飛ばしたのですが、実家に戻ったときには、もう家は燃えカスでした。たぶん、20代半ばの頃ですね。身近な人の死に直面したときって、悲しみが突然やってくるんですよね。急に涙がボロボロとこぼれてきて、「なんでオレ泣いているんだ?」と、変に俯瞰で自分を見て驚くんです。
大切な人が死んでしまったときの、生き残った者の辛さをいやというほど味わいました。そして、どうやって、この悲しみを乗り越えていけばいいのか、生き残った者のすべきことはなんなのか、そんなことをいろいろと考えるようになりました。
――それが、その後のFFの「死」をテーマに扱う物語に繋がっていった。
坂口:そうですね。あとは、FFに大きな影響を与えたという意味では、当時のジャンプ編集部の鳥嶋さん(※)もいますね。
(※)鳥山明などを育て上げ、黄金期のジャンプを築き上げた「週刊少年ジャンプ」の名編集長。(Wikipedia)
FF3のときにいきなり鳥嶋さんに広告代理店のセッティングで会うことになったんですが、広い会議室に二人きりで、その場で1時間近く「なぜFFはだめなのか」を厳しく説明されました。
最初は「???」という感覚でしたが、その後、鳥嶋さんの歯に衣をきせぬ言葉にひそむ真実に、とても影響されました。
――FFにもジャンプのメソッドが影響していた。
坂口:そうですね。あともうひとつ大きかったのは、FF3くらいから、キャラクターに小芝居をつけられるようになったことですね。徐々に進化して、容量の増加もあってさまざまなポーズを作り、それがイベント演出の盛り上げにつながったと思います。FF6のオペラのシーンなんかいい感じですよね。
D担:よくインターネットでは、FF5でガラフがエクスデスに何度も立ち上がるシーンが、話題になるんです。ああいうゲームならではの演出はどう思われますか?
坂口:あれはいいですよね。でも僕じゃなくて、戦闘シーンの担当者が作ったものです。もちろん、僕から「ここにこういうシーンがほしい」と言うこともあるんですが、色んな人がアイディアを持ち寄って、面白くしていくのがFFでした。
FF7が売れた理由とは?
――それにしても、坂口さんにはプロデューサーというイメージがあったのですが、かなり細かい部分まで見ていたんですね。
坂口:スクリプトでイベント演出をやっていたのですが、自分でもそのデータを作っていました。そのうえで、全体のディレクションもやっていた感じです。
――実は取材の準備の中で、坂口さんがゲームプロデューサーの仕事についてインタビューを受けている本を見つけたんですよ。
坂口:いやあ……本当は当時、プロデューサーとディレクターの違いなんて、なかったんですね。なんか「プロデューサー」のほうがカッコいいかなと思って名乗っていました(笑)。
一同:笑
坂口:「俺はプロデューサーな。じゃあ、お前はディレクターで」みたいなノリですよ、本当にそれだけの話(笑)。
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そもそも、当時の僕はプロデューサーがどういう職業なのかなんて、知らなかった。あの頃、一緒に飲みに行っていた他社の連中も、同じような感じだったんじゃないかなあ。昔のゲーム業界って、そんなノリの世界だったんですよ。
――とはいえ、やっぱり坂口さんの話を聞いていると、売れるためのプロデューサーらしい企画設計には強くこだわられていると思いますが……。
D担:以前、知り合いの小説家が「なぜFF7は、あの時代にスチームパンクの世界観をいきなり提示して、大ヒットさせられたんだろう」と不思議がっていたんです。今となっては、もう馴染みのある世界観ですけど、当時としては相当に尖っていますよね。一体、坂口さんがどういう技を使ったんだろう、と話していたんです。
坂口:FF7は、あのタイミングに3DのCGを使ったRPGを出したことが、そもそもの勝因かな、と。
3DCGへの移行が始まった矢先の、みんなの興味が集まった瞬間にRPGとしてそれを出せたことがすべてだったと思います。だから「スチームパンクな世界観をいきなり提示した」という状況であっても、受け入れてもらえたんだと思います。
――シリーズものという意味でも、かなり毎回FFは企画の趣向を変えてきた印象があります。
坂口:ドラクエ3の登場に、打ちのめされたのを覚えています。エンディングにああいうオチで「もう敵わないな」と思いました。
だけど、そこはライバル心というか、戦っていきたかったんですね。「俺たちのは、毎回変化させていこう」、「毎回出し切って作ろう」と言っていました。誰も歩いていない場所を探して、そこに足跡をつけることを目標にしようと考えていました。
いま思うと、FFは本当にガッツのあるチームでした。モチベーションがないチームが作ったゲームは絶対にエネルギーがこもりません。FFは自分が出会ったさまざまな人たちとのエネルギーの集合体ですね。そのエネルギーが限りなく高かったんだと思います。
――それに、FFを通じて、みんなが育っているのが凄いと思うんです。これはとても失礼な感想かもしれないですが、先ほどのお話を聞きながら、みんなスクウェアに来なかったら、現在のようにはなっていなかったかもしれない……と思ってしまったんです。それは、坂口さんのプロデューサーとしてのマネジメントもあったのかな、と思うのですが……。
坂口:いや、「ファイナルファンタジー」がそうさせたんだと思います。
それは、作り手だけの話じゃないですよ。ユーザーの皆さんも一緒に集まってきて、何か熱のようなものが広がって、それをまた僕たちが感じ取って、「もっと熱いものを作らなきゃ!」と、さらにもう一段階、自分たちが上に行ってしまう……そういうムーブメントの中で、どんどん熱気が膨らんでいったんですよ。
――そういう熱気の始まりは、坂口さんがプレゼンしたときに、もうあったんですか?
坂口:いや、そんなことはなかった。本当に、1が出来上がる直前ですね、うん。
1の途中まではさ、もう本当にバラバラだった。さっきも言ったように、「ナーシャ、いいから言ったとおりにつくってくれ」みたいなノリで。正直に言うと「もー、どうなるんだろう、これ?」と思ってた(笑)。
自作ゲームのクリエイターに一言
――最近は、ミストウォーカーで小規模の開発に復帰されていますよね。
坂口:ええ、元に戻りましたよね。いやもう、単純に楽しいですよ。
『テラバトル』のプレイ画面。攻略情報はこちら。
『テラバトル』の中核は、5人なんです。キャラクターデザインの藤坂がいて、プログラマーは大野くん1人で、ゲームデザインの西村がいて、UIやエフェクトなどのグラフィクスの葉山くんがいるだけ。
――でも、中核だけなら自作ゲームくらいの規模感といえば、確かにそうですよね。
坂口:大野くんという優秀なプログラマと出会えたときに、ちょうどスマホ市場が大きくなっていて、「ラッキー」と思ったんです。コンシュマー市場でコア5人体制で作るのなんて無理だけど、スマホならそういうことが可能になる。また昔のような規模感で作れるなんて、夢のようでした。
――少人数ゆえの限界もありませんか?
坂口:もちろん。大規模開発は巨大建造物を建築するようなもので、「一体、こんなものを人間がどう作ったんだろう?」みたいな、もう単純な感動があるじゃないですか。
――自作ゲームについては、どう思いますか?
坂口:いま、ゲーム自体がスマホでどんどん変化していますよね。でも、たぶんこの先には、ユーザーにもっと光が当たって、もっと皆さんが主役になっていく時代が待っているんだと思うんですよ。それは、インターネットが登場して、誰もが発信することの喜びを覚えたからですよね。eスポーツやゲーム実況もそうだろうし、自作ゲームもその流れの一つなんだと思います。
D担:最近は、ゲーム実況の面白さを織り込んだ自作ゲームが登場していますからね。
坂口:いい話じゃないですか。もう、お仕着せでゲームをやる時代じゃなくて、ゲームを使ってユーザーが発信できる時代になったということですよ。『Minecraft』みたいなコンストラクションのゲームなんて、昔は地味なジャンルだったのだけど、今はすごいことになっていますよね。
そういう意味で、ひとこと言うとすれば、「もはや主役はあなたたちなんです」ということです。ぜひ自信を持って続けてください。発信し続ければ、そこから何か新しいヒントを見出せるし、その繰り返しでより自分らしく、より高度な発信ができるようになっていくと思います。
何度でもトライして、チャレンジし続けてほしいと思います。
(了)
【聞き手・構成:稲葉ほたて】
自作ゲームフェス5の選考委員に、FFの坂口博信さんとゼビウスの遠藤雅伸さんが決定しました!応募期間を5/10(日)23:59:59まで延長!
歴史的名作を生み出したゲームクリエイターに自分の作品を見てもらうチャンスです!過去作品も投稿可能ですので、ぜひ応募お待ちしております!
【自作ゲームフェス5】 審査員にFFの坂口さん、ゼビウスの遠藤さん決定!「超あほげー」の開催も
超会議2015 超自作ゲームゾーン2日目にて、誰でも簡単にゲーム制作が体験できます!
当日参加をご希望の方は、以下のお時間の10分前に、ブースまでお越しください。
開催日時 2015年4月26日(日)13:00~14:00/15:00~16:00
※状況に応じて、体験ができない場合がございます。ご了承ください。
超会議2015公式サイト http://www.chokaigi.jp/
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