日曜なので軽めのネタを。
急に思い出したので。
こういう話を聞いたことがある。
あるとき娘が「動物を殺して食べるなんて残酷だ」と言い出した。
そこで父は命への感謝だとか説明したが聞かず、娘は以降肉を一切食べなくなった。
あるとき父は「野菜だって生き物なのだからそれを食べることも残酷じゃないのか」と言ってしまう。
それから娘は野菜も食べなくなり、部屋に引きこもるようになってしまった。
ある日、娘が部屋から出てきて、叫びながら襲い掛かってきた。
「生き物を殺すお前らは悪魔だ、悪魔は死ね」と。
父親は抵抗しながら言った。
「悪魔なら殺していいのか?」
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確かこんな感じの話だったと思う。
星新一だったかロアルド・ダールだったかしらしらないけれど、この話の最後の父親の言葉は娘に届いたろうか。
娘の行動基準はシンプル。
「殺すのは残酷だから悪だ」
これ以上でもこれ以下でもない。
殺すことがなぜ悪か?
悪は何か?
という思考はない。
残酷なことに対し生理的嫌悪感がある→だから”悪”
ここで思考停止している。
理屈ではなく生理で考えているが、それを「論理」だと考えている。
時計を”見る”。
しかし時計を見ただけで人間は理解できない。
時計というものの形を見ただけでは時間はわからない。
時計を見て文字盤を”読む”。
読んで初めて今が何時なのかわかる。
時計を見て時間を知るには「見る」「読む」という2つの行動が必要になる。
しかしひとは「見る」というひとつの行動で全て済むと誤解することも多い。
考えないほうが楽だし、シンプルな方が楽だから。
「見る」だけで満足し「読む」ことをしない。
冒頭の話に戻る。
「殺すことは悪だ」という思考の先に、本来その悪の意味や殺すという行為の意味を考える必要がある。
でなければ
「なぜ悪いのか?」
「なぜ殺すのか?」
には永遠にたどり着かない。
悪がいて、それは全て間違っている。
間違っていることは考える必要がない。
否定するより、認めるほうがよほど楽。
人間は存在自体が悪なのだ、と。
自分も人間だから悪だし、だから殺す。
しかし悪を殺す悪だから他よりもよほどいい悪だ。
そのことに気づいている自分が止めるしかない、殺すしかない。
でなければ人間は生き物を殺し続ける。
思考を放棄し、楽な考えに頼り、まともに向き合わず否定する。
自分の正しさだけを信じ周囲を全て否定する。
自分を否定するのは間違い。
大前提として自分は絶対正しい。
自分を否定する連中のいうことは聞く必要がない。
考えなくてもいい。
自分の正しさは充分に自分の頭で考えている。
わかってる。
周囲にいる9,999人に間違っていると言われた。
今はインターネットがある。
1万人に1人の狂った思考が、1万人に独りの狂った思考と結びつく。
2万人の中で2人の狂った「正しい」考えを持つ2人になる。
たったひとりでも「君は正しい」と言ってくれる相手がいる。
3万の中の3人、4万の中の4人、10万人の中の正しい10人、100万人の中の正しい100人。
99人の狂った人間に「君は正しい」と言われれば、99万9千900人の間違った連中に否定されても、その狂った思考を否定する理由があるか?
だから人と人は話してわかるわけがない。
狂った人間に狂った人間が結びつき、狂った人間が支える。
正しい言葉は狂った人間の鼓膜を揺らしても、心や思考にまで届かない。
肉親ならまだしも、狂った赤の他人に道理を話しても仕方がない。
勝手に狂い、勝手に慰め合い、勝手に負けて、勝手に死ね。
台所から包丁を持ち出し、馬乗りになり胸に突き立てようとする娘。
その力は若い娘とは思えないくらいとてつもなく強く、その手を抑えるので精一杯。
体重をかけて刃を落とそうとしてくる。
目には狂気の色しかない。
「あくまはしねあくまはしねあくまはしねあくまはしねあくまはしね」
つぶやき続ける娘に父は
「悪魔なら殺していいのか?」
と聞いた。
すると娘はニヤリと笑って言った。
「悪魔だけは殺していい」