薄暗い部屋だった。
窓がない。
正確に言えば、ガラスがなく、鎧戸が開いていた。
古びた壁のあちこちに隙間が出来ていて、そこから陽の光がぼんやりと差し込んでくる。
竈はすすけ、部屋全体がうっすらと汚れていた。
古い家なのだろう。
あちこちに痛みが見えた。
壁が灰に煤けているのは、炭を使う証だ。
この家はガスではなく、薪や炭で火を起こしているのだ。
家の中でコーン、コーンと木を打ち付ける高い音が、休むこともなく響き続けている。
一人の男がノミと木槌を使い、何かを作っていた。
それは竹だった。
綺麗に割った竹を、ノミを使って削りだし、細長い串のような形を作り出している。
木槌を使う度に、非常に細い竹の繊維が削られていく。
真円を描いていた竹は、ノミが差し込まれる度に姿かたちを変え、素材から物へと変化していく。
作業をしている男の身長は、一七〇を半ばといった所だろうか。
引き締まった体をしている。
腕や肩は使い込まれているのか、筋肉がうっすらと浮き上がっている。
年の頃は二〇を後半に入りかけたあたりだろう。
黒い短髪、灰色がかった黒い瞳。
精悍という表現がピッタリの顔つきだ。
綿で作られた服を着ているが、脱色はされていない。
縫い跡は荒く、針が太いことを物語っている。
それだけ周りの技術水準が低いのか、男の収入が低いのか、どちらかだろう。
「エイジさん、ずいぶんと細かい作業ですけど、何を……お作りになっているんですか?」
「タニアさんの仕事を減らそうと思いましてね」
「私の仕事を?」
「大変でしょう。それ」
エイジと呼ばれた男の視線の先には女がいる。
タニアは二〇を超えた辺りだ。
艶やかな黒髪が肩を越えている。
うっすらと焼けているが、それでも地の白さが目立つ肌。
服はゆったりとしたワンピースのような形をしている。腰元で一度締められていて、折れるように細い腰に、豊満な胸がよく分かる。
なによりも目立つ、くりっとした大きな瞳は、髪よりもなお黒い。
少し厚めの唇が、情の厚さと優しさを表しているようだった。
エイジから見て、タニアは美人だった。
おそらく十中九は同じ意見を持つだろう。
一度見たら忘れられないような美貌なのだが、その顔には拭い切れない疲れが浮かんでいる。
わずかながらも頬がこけ、着ている服もツギハギが当てられ、みすぼらしい印象をあたえてしまうのだった。
美しい女性なのに、もったいない。
エイジは思う。
きっとキレイな服を着て、しっかりとした食事をすればただでさえ整った顔が、一際花開くだろう。
タニアの手には小麦の麦穂がある。
黄金色の沢山の実がついていて、まだ脱穀されていないものだ。
右手には滑らかな二本の竹材を持っている。
この二本の木材の間に小麦を挟み、引きぬくことで脱穀するのだ。
小麦は一〇把で一束に纏められ、それが部屋の隅に山と積まれている。
丸一日かけて、一〇〇把前後の小麦を脱穀する。
延々と前かがみの姿勢で、同じ作業を続ける。
大の男でもくたくたになる大変な重労働だった。
「夫に先立たれた私としては、大切な仕事ですから」
「そうですね。私もそう思います。だからその仕事を楽にする道具を作っているんですよ」
「ええっ、エイジさんは技師や発明家なんですか?」
「そんな大したものじゃないですよ。お恥ずかしい」
畑を耕し、獲物を狩る。または職人的な仕事は、男のものだ。
女は機を織り、料理を作り、洗濯をし、家畜の世話をする。
何らかの理由で夫を失った女は、脱穀の仕事をあてがわれる。
農作業を終えて、脱穀するほどの余裕はない。
ならば、畑を自分で耕せない独り者の女に、やらせれば良い。
分業制といえば聞こえは良いが、負担の押し付けともいえる。
そんな不平等が許されるのは、村の存続には子作りや労役が大きな比重を占めるからだった。
たとえどのような理由であろうと、子を産んでいない女の価値は、大きく下がってしまうのだ。
エイジはチラリと外を見た。
開かれた窓からは、だいぶ日が傾いてきている。
裏庭の畑を耕す仕事が残っていた。
「もう少し歯の数を増やさないといけないんですが、今の状態でも充分仕事は捗ると思います。これ、使ってください」
「これは……?」
「
千歯扱きと言います。突き出た竹の突起の間に、麦穂を何本かまとめて通します。本当は鉄で作りたいんですが、まずは竹製で我慢して下さい」
エイジが差し出したのは、千歯扱きというものだった。
脚のついた板の上に、一〇本ほどの竹の突起が櫛のように並んでいる。
「使い方を説明しましょう。見ていてください」
「お願いします」
「といっても、すごく簡単なんですけどね。このように麦をいくつか握って、竹の突起に引っ掛けます」
「はい」
「これを引きます」
エイジが小麦を五把ほど掴んで、櫛にかけると、引きぬく。
バラバラ、と音を立てて実が落ちていく。
タニアの目が驚愕に見開かれる。
「こ、これは! え、ええっ?」
「といっても一度で全てが取れる訳じゃありません。2度か3度繰り返してください。もう少し歯が増えたらもっと効率が上がります」
「す、スゴイです! これだけ一気にとれたら、私本当に仕事が楽になります」
「疲れてるでしょう? これで今日の分をやったら、少し休んでくださいよ」
「エイジさん……ありがとうございます」
タニアの表情が感動に覆われ、深く頭を下げられた。
感謝の言葉が震えている。
タニアの頬を、音もなく涙が伝った。
「あ、あれ……。勝手に涙が。いや、恥ずかしい」
エイジが詳しく聴いたわけではないが、耳に入る限り一五で嫁いだらしい。
ただでさえ遅かった結婚は、初夜を迎える前に戦があり、出向いた夫はそのまま帰ってこなかった。
以来、独り身を続けている。
体は疲れ、心は乾いていたはずだ。
本来ならとっくに次の夫を迎えていい筈だった。
だが、人口が少ない村では、すべてが上手くいくわけではない。
また、他にも色々な要因が重なったのかもしれない。
エイジにはタニアの思いはわからない。
辛い思いをしてきただろう。
しかし、涙を流すとは思わなかった。
綺麗な女は、涙も絵になるんだな……。
タニアは、自分がどうして泣いたのか、すぐには理解できず、恥ずかしそうに手の甲で涙を拭っている。
服の襟から大きな胸の谷間がのぞいていた。
そっと視線を外す。
この人は無防備だ。男をなんだと思っているんだろう。
そのまま押し倒したくなる気持ちを押し殺し、エイジは扉に向かう。
「少し、裏に行ってきます」
「はい、畑ですか?」
「ええ」
扉を開くと、乾いた空気が吹き付けてくる。
土の道、広がる麦畑と、綺麗な夕焼け空。
青々とした土の匂い。見渡せる限り高い建造物はない。
それはエイジの住んできた世界とは、かけ離れたものだった。
エイジの記憶にかすかに残る光景は、高層建造物が並び、人で溢れていたものだ。
涙から逃れるように家を出ると、すぐに裏手に回る。
裏には畑があった。
小麦や大麦といった作物には税がかかる。
村に官吏が取り立てに来る。
だが、こうして家の裏に作られた野菜は、無税なのだ。
どこの家にも個人で育てられる程度の小さな畑があった。
タニアもこちらの畑は自分で耕していたのだろうが、非力な女の手によるものだ。
掘り返した深さが足らないし、地力が弱い。
石が取り除かれていないと問題は多く、良い畑とは言えなかった。
エイジは木の鍬を振りかぶる。
先にだけ、青銅が被せられている。
農具の鉄の導入は、意外にも迅速に行われた。
つまり、いまだ青銅が使われているこの時代では、鉄といえば青銅を指す。
鋼鉄は鍛造方法が確立されていないため、直ぐに錆び、悪鉄と呼ばれ重用されなかった時代だ。
紀元前の文明なのは間違いないだろうな、とエイジは思う。
そこが狙い目といえば狙い目だな、とエイジは土を掘り返しながら思う。
小さな石を丁寧に除き、雑草を引きぬく。
細かな石と、土だけの畑が少しずつ増えていく。
抜いた雑草はひとまとめにして、籠に突っ込んでおく。
畑の開墾が一段落ついたら、落ち葉を集めて腐葉土堆肥を作るつもりだった。
青銅の鍬は固い土を掘り起こすのには向いていない。
鍬を振り下ろす度に、手のひらに痺れるような刺激が返り、背中が張る。
全身から汗が吹き出していく。
エイジには鉄の冶金知識と技術があった。
少なくとも青銅で農具を作るよりも、鉄を利用したほうが安価で高性能だ。
そしてツルハシを作る。
最初の開拓から鍬が使えるのは、土質の軟らかい地域だけだ。
ツルハシでなければ、堅い大地を開墾するなんて、とてもではないが続けられない。
絶対にやってやる。固く決意しながら、作業を終える。
植えられていた豆を収穫し、エイジは家に戻る。
タニアはいなかった。
脱穀作業は終わっているようだったから、炊事のために水を汲みに行ったのだろう。
竈に残っている種火に薪をくべながら、竹筒に口をつけ、静かに風を送る。
木炭の小さな種火が真っ赤に燃え、ゆっくりと小さくだが、薪に火が燃え移った。
パチパチと木の表面が弾け、音を立てる。
「あ、帰ってたんですね。おかえりなさい」
「ただいま。水汲みに?」
「ええ。それよりもエイジさん、あの道具本当にすごかったわ!」
「完成すれば、もっと早く終わりますよ」
思い出したのだろう、興奮するタニアに、エイジは苦笑で返した。
土鍋に
水甕から水を移し、竈にセットする。
豆と古い黒パンと古いベーコンをまとめてぶち込み、そのまま炊き続ける。
やがて豆が充分に煮えたのを確認して、火を落とす。
薪も木炭も貴重な資源だ。使い続けることは出来ない。
森の中で乾いた小枝を集めるのも、村人の日常的な仕事だ。
日が完全に落ちきる前に食事を摂る。
空腹を覚えていた。遅い二度目の食事だった。
非常に質素な食事だった。
水でかさを増やさないと、二人のお腹が満足に膨れない。
「物足りないかしら」
「いえ、ごちそうさまでした」
だが、決して贅沢は言えない。
誰もがひもじい思いをしているのだ。
しかも男手のない後家生活だ。
こうしてエイジの分の食事を用意することも苦しいはずだった。
「ごめんなさいね、大した食事も出せなくて」
「食べさせてもらっているだけで十分すぎますよ」
「でも」
「それ以上は言わないで。本当に感謝してるんです」
恥じ入るような様子のタニアに、エイジは申し訳なく思う。
何故自分はこんなにも力がないのか。悔しさを口にだすことは出来ない。
ただ手のひらを握りしめ、知恵を絞ろうと誓いを新たにする。
早くお腹いっぱい食べられるような生活を送ってもらえるようになりたい。
こうして遠慮されないようになりたい。
自分にはそうするだけの理由がある。
「あなたは記憶を失って倒れた私を、助けてくれたのですから」