序章 龍の道
1
ぎぃ
と、少年は哭いた。
咽喉から迸り出るのは、金属を擦り合わせるような、痛ましい声であった。
ぎぃ、
ぎぃ、
その音が、尖った牙の間を抜ける時、風が混じる。
八坂龍一というのが、少年の名前だった。
彼は、今、地面に蹲っている。蹲りながら、奇怪な声を上げているのだ。
その声を発している自分に対して、この姿勢を取っているのだろうか。
森の中である。
湿り気を帯びた木々のざわめきが、少年を囲んでいる。
龍一の破けたズボンから覗いた膝に当たるのは、土だ。
シャツも、ズボンも、スニーカーも、ぼろぼろになっており、肌が覗いている。
土や垢で汚れてはいるが、そもそもは、色白な方であった。
地面に垂れる程、髪が長い。それが表情を隠しており、その髪の筋の間から、
ぎぃ、
の、声が漏れているのである。
龍一は、時折、苦しそうに身体を跳ねさせた。それを抑え込もうと、両腕で、自分の身体を抱きすくめる。
その手が、異形である。
指が普通の人よりも随分と長い。しかも、逞しい。
血管が浮かび上がって、龍一の鼓動を外に伝えている。
爪が長い。
指の先に、象牙を取り付けたかのように、黄色く濁った爪が、伸びていた。
自分を抱くと、その爪が、肌に食い込む。
喰い込んで、爪が刺さった箇所から、血が、とろりと流れ出す。
しかし、龍一がその手を離すと、太い錐でほじくり返したかのような傷口は、見る見る内に塞がってしまうのであった。
良く見ると、爪先のなくなったスニーカーの先からも、足の指がはみ出していた。
やはり、人よりも長く、逞しく、異形の爪が伸びている。
脹脛が、身体が跳ねようとするのに合わせて膨らみ、龍一が自らを押さえ込むと、風船のように萎んで行った。
そういう事を、少年は、繰り返している。
ぎぃ、
ぎぃ、
ぎぃ、
痛ましい哭き声を上げながら、少年は、独りであった。
男がいた。
黒いコートの男だった。
サングラスを掛けている。
夜の町に溶け込むような、黒い男であった。
コートの下のジャケット。
ネクタイ。
ベスト。
シャツ。
ズボン。
ベルト。
革靴。
ソックス。
全てが黒い。
肌の色だけが、蒼褪めている。
闇に沈む漆黒を纏った、死人のような蒼い顔の男であったが、不思議と、その蒼い肉体の内から、エネルギッシュなものが溢れているようであった。
月光がそうであるように、刃のような銀色の光が、男の中から滲み出しているのだ。
夜を歩いている。
町の中を、ぽつぽつと、男は歩いている。
独りだ。
男は、独りだった。
様々な人の形が、夜の町の中にはあった。
会社帰りのサラリーマン。
水商売の女。
ポン引き。
学生。
老人。
彼らは、ネオンの中に生きている。
光の中で酒を飲み、肉を喰い、異性を抱く。
或いは、歌い、眠り、争い、賭け、遊び、そして歩く。
しかし、この男は、そうではなかった。
その中には、決して混じろうとはせず、夜に他人を引き込もうともしなかった。
独りである。
自分は独りなのである。
それを、強く自覚しているようであった。
その様が、何とも、誇り高い。
しかし、それを誇り高いと感じる人間は、この夜の中にはいない。誰もが、彼の持つ夜には踏み込めていないからである。
男は、歩く。
孤高な歩みであった。
人と人との間を通って、男は行く。
夜であった。
冷たい風が、黒いコートの上に叩き付けられる。
冷たい風は、人々の生きている匂いを男の身体に吹き付ける。
歩いている内は、或いは、息をしている内は、彼は、飽くまでもこの世界の者である。
それに抗うかのように、孤独な男であった。
男の名前は、龍玄寺京次郎といった。
千葉秋月は、それを叩いている。
竹に、藁を巻いたものである。
青竹の強度は、人骨のそれと似ており、古来の剣士は、これを切断する稽古を積んだ。
それを、叩いている。
拳だ。
素手。
グローブもない、バンデージも、サポーターも、付けていない。
剥き出しの拳で、巻き藁を叩いていた。
皮膚が、ずるりと剥けてしまっている。
一つ、拳を放つたびに、捲れ上がった皮膚の間から、赤い肉が黒ずんで行く。
千葉秋月は、拳が壊れそうになる痛みを堪えて、突きを繰り出し続けていた。
右で、一つ。
左で、一つ。
右で、一つ。
左で、一つ。
疲労で、構えている方が下がりそうになる。立っている膝が崩れそうになる。
それも堪える。
それも堪えて、拳を放ち続ける。
拳の皮膚が削げる。拳の皮膚が剥ける。拳の皮膚が散って行く。
肉が血を飛ばし、血が肌に落ち、肌が掻き消えて行く。
それでも、彼は、拳を放ち続ける。
整った顔立ちの男であった。
切れ長の眼。
潰れた鼻。
上半身は、裸だ。
僧帽筋が盛り上がり、なだらかながらも力強い肩に続いていた。
体脂肪率が低く、引き絞られていた。
脚が、大地に根を張っているように、動くまいとしているようだった。
それで、狂ったように、巻き藁を叩いている。
叩く。
叩く。
叩く。
休む事なく、千葉秋月は、拳を繰り出し続けた。
血涙も流さんとばかりの、鬼気迫る表情で、痛みと疲れに咽ぶ己の肉体に鞭を打って、身体を動かし続けた。
独りだった。
この世界には、自分しか存在し得ない――
独りであった。
男は、孤高であった。
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