社会契約論を中心とした近代政治哲学を読み直し、そこに現在の民主主義の問題点の原点や突破口を探ろうという試み。
構成としてはボーダン、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒューム、カントを順にとり上げていくスタイルなので教科書的に見えますが、小平の都道建設問題に積極的に関わった著者の問題意識が色濃く反映されています。
スタイルや問題意識は同じちくま新書の重田園江『社会契約論』に近いものがあると思います。
目次は以下の通り。
これだけの思想家を新書のボリュームでとり上げるということは、思想家を包括的に紹介するのではなく、特定の観点から説明することになりますが、この本の場合、それはサブタイトルにもなっている「自然・主権・行政」ということになります。
特に、政治哲学で想定されている「自然」、すなわち自然状態に関しては哲学者らしくこだわった議論がなされていると思います。
特に147pに表として掲げられているルソー、ホッブズ、ロックの想定する「自然状態のズレ」についての部分などは興味深いです。
ホッブズとルソーでは自然状態についての捉え方が正反対となっています。ホッブズは自然状態を「万人の万人に対する闘争状態」と考え、ルソーは支配関係のない善良なものとして描き出しています。
この違いについては、ホッブズは「性悪説」、ルソーは「性善説」という形で説明されることが多いですが、著者は想定している状態が違っており、ホッブズの自然状態はある程度の人間がすでに集まって暮らしている状態であり、これはルソーの社会状態に重なると言います。さらにロックに関しては、自然状態においてすでに所有権が想定されており、これはルソーにおける国家状態、ホッブズにおける社会常態であると言います。これが、それぞれお思想家が想定する「自然状態のズレ」です(ちなみにロックは「哲学的に一貫性を欠いたもの」(105p)としてdisられていて、このロックdisは重田園江『社会契約論』と共通)。
「主権」と「行政」に関しては、多くの思想家が「主権」の中心として「立法権」を据えつつも、立法では一般的な原理・原則を定めることができず、個別的な政策については行政権(執行権)の裁量を認めざるをえないことに焦点が当てられています。
共同体のメンバー全員で立法に関わることは可能ですが、全員が行政に関わることは不可能です。カントはこの行政における裁量を「全員ではない全員が決定を下すこと」(220p)と述べました。カントは民主制が執行の場面において矛盾に直面するとしたのです。
これは著者の『来るべき民主主義』(幻冬舎新書)でもとり上げられていた問題で、民主主義のアポリアとして捉えられています。
また、個人的にはホッブズの「恐怖の支配する自然状態」や「一回限りの契約」を相対化するスピノザの考えは興味深く読めました。ホッブズ・ロック・ルソーといった人の本は読んでいたもののスピノザの本は読んだことがなかったので、ここは勉強になりました。
他にも、社会契約論を相対化するヒュームの部分もよくまとまっていると思います。
最後に疑問点を2つほど。
この本でも重田園江『社会契約論』でもロックは自然状態の捉え方が甘いとdisられているわけですが、人類は「個人」→「集団」→「国家」という形で歩みを進めていたわけではなく、最初から「集団」として行動してたはずであり、自然状態にある程度の社会性を持ち込むことは間違ってはいないと思います。むしろ、「個人」こそが近代になってはじめて可能になった存在だとも言えるはずです(もちろん、それを踏まえた上で「ラディカルさがなくてつまらない」という批判は可能ですし、そういうニュアンスのところもありますが)。
もう一つは、立法と行政の関係だけがとり上げられていて、三権の残り1つである司法への言及がない点。
確かに、立法が一般的なルールをつくり、それを行政が個別の事例に適用していきますが、個別の事例をもう一度一般のルールに照らして判断するのが司法の役割のはずです。司法については『来るべき民主主義』においてもほとんど触れられていなかった記憶があるので、著者の視野にはあまり入っていないのかもしれませんが、やはり政治における司法の役割は重要だと思います。
その点から言って、やはりモンテスキューにも1章を割くべきではないかと思いました。
近代政治哲学:自然・主権・行政 (ちくま新書)
國分 功一郎

構成としてはボーダン、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、ヒューム、カントを順にとり上げていくスタイルなので教科書的に見えますが、小平の都道建設問題に積極的に関わった著者の問題意識が色濃く反映されています。
スタイルや問題意識は同じちくま新書の重田園江『社会契約論』に近いものがあると思います。
目次は以下の通り。
第1章 近代政治哲学の原点―封建国家、ジャン・ボダン
第2章 近代政治哲学の夜明け―ホッブズ
第3章 近代政治哲学の先鋭化―スピノザ
第4章 近代政治哲学の建前―ジョン・ロック
第5章 近代政治哲学の完成―ジャン=ジャック・ルソー
第6章 近代政治哲学への批判―ヒューム
第7章 近代政治哲学と歴史―カント
結論に代えて―近代政治哲学における自然・主権・行政
これだけの思想家を新書のボリュームでとり上げるということは、思想家を包括的に紹介するのではなく、特定の観点から説明することになりますが、この本の場合、それはサブタイトルにもなっている「自然・主権・行政」ということになります。
特に、政治哲学で想定されている「自然」、すなわち自然状態に関しては哲学者らしくこだわった議論がなされていると思います。
特に147pに表として掲げられているルソー、ホッブズ、ロックの想定する「自然状態のズレ」についての部分などは興味深いです。
ホッブズとルソーでは自然状態についての捉え方が正反対となっています。ホッブズは自然状態を「万人の万人に対する闘争状態」と考え、ルソーは支配関係のない善良なものとして描き出しています。
この違いについては、ホッブズは「性悪説」、ルソーは「性善説」という形で説明されることが多いですが、著者は想定している状態が違っており、ホッブズの自然状態はある程度の人間がすでに集まって暮らしている状態であり、これはルソーの社会状態に重なると言います。さらにロックに関しては、自然状態においてすでに所有権が想定されており、これはルソーにおける国家状態、ホッブズにおける社会常態であると言います。これが、それぞれお思想家が想定する「自然状態のズレ」です(ちなみにロックは「哲学的に一貫性を欠いたもの」(105p)としてdisられていて、このロックdisは重田園江『社会契約論』と共通)。
「主権」と「行政」に関しては、多くの思想家が「主権」の中心として「立法権」を据えつつも、立法では一般的な原理・原則を定めることができず、個別的な政策については行政権(執行権)の裁量を認めざるをえないことに焦点が当てられています。
共同体のメンバー全員で立法に関わることは可能ですが、全員が行政に関わることは不可能です。カントはこの行政における裁量を「全員ではない全員が決定を下すこと」(220p)と述べました。カントは民主制が執行の場面において矛盾に直面するとしたのです。
これは著者の『来るべき民主主義』(幻冬舎新書)でもとり上げられていた問題で、民主主義のアポリアとして捉えられています。
また、個人的にはホッブズの「恐怖の支配する自然状態」や「一回限りの契約」を相対化するスピノザの考えは興味深く読めました。ホッブズ・ロック・ルソーといった人の本は読んでいたもののスピノザの本は読んだことがなかったので、ここは勉強になりました。
他にも、社会契約論を相対化するヒュームの部分もよくまとまっていると思います。
最後に疑問点を2つほど。
この本でも重田園江『社会契約論』でもロックは自然状態の捉え方が甘いとdisられているわけですが、人類は「個人」→「集団」→「国家」という形で歩みを進めていたわけではなく、最初から「集団」として行動してたはずであり、自然状態にある程度の社会性を持ち込むことは間違ってはいないと思います。むしろ、「個人」こそが近代になってはじめて可能になった存在だとも言えるはずです(もちろん、それを踏まえた上で「ラディカルさがなくてつまらない」という批判は可能ですし、そういうニュアンスのところもありますが)。
もう一つは、立法と行政の関係だけがとり上げられていて、三権の残り1つである司法への言及がない点。
確かに、立法が一般的なルールをつくり、それを行政が個別の事例に適用していきますが、個別の事例をもう一度一般のルールに照らして判断するのが司法の役割のはずです。司法については『来るべき民主主義』においてもほとんど触れられていなかった記憶があるので、著者の視野にはあまり入っていないのかもしれませんが、やはり政治における司法の役割は重要だと思います。
その点から言って、やはりモンテスキューにも1章を割くべきではないかと思いました。
近代政治哲学:自然・主権・行政 (ちくま新書)
國分 功一郎