米国のペリー提督が那覇に最初に入港したのは1853年5月だった。日本の開国を求め、黒船で浦賀沖に向かう前のことである。その後も訪問を重ねるうちに、琉球の人々は米国人に友好的になっていった。ペリーの報告書『日本遠征記』が喜ばしげに記している▼翌年7月、琉球王国は合衆国と修好条約を結ぶ。これは琉球が「独立国」と認められていたことを意味する。一方で薩摩藩の支配を受けつつ、他方で当時の清にも朝貢を続ける。「日中両属」の状況下での琉球外交は複雑だったろう▼1879年に明治政府から「琉球処分」を受け、沖縄県となる。それは「国を失う」衝撃だったと、日本総研理事長の寺島実郎(じつろう)氏が指摘している。諸藩が県になるのとは違う。元は独立国だったのだから、と▼いま沖縄県民の間で再び「独立」が語られる。米軍普天間飛行場の辺野古移設問題への怒りである。「沖縄が日本に甘えているのか。それとも日本が沖縄に甘えているのか」。翁長雄志(おながたけし)知事のかねての訴えが、怒りの深さを映す▼知事と首相との初会談がきのう実現した。やっとである。首相は辺野古移設が「唯一の解決策」と繰り返し、知事は「絶対に辺野古新基地は造らせない」と応じた。歩み寄りの気配はうかがえない▼首相の言う「日本を取り戻す」の中に沖縄は入っているのだろうか。知事が先日、官房長官にぶつけた問いである。独自の歴史に誇りを持つ沖縄を一層の礼をもって遇しない限り、平行線は交わるまい。