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(6)「選手からスタッフへ転身し、『サッカーをやらせてもらっていた』というのが初めてわかった」 川崎フロンターレ・集客プロモーション部 伊藤宏樹氏
Jを語ろう更新Jリーグでは毎年、多くの選手がピッチから去っていく。ほとんどは新天地を求めて現役を続けるか、指導者への道を模索する。スタッフとして選手やクラブの力になる道を選択する人材は少ない。2013年シーズンまで選手としてJリーグの川崎で活躍し、14年からは同クラブのスタッフとして汗を流す伊藤宏樹氏に、「支える側」になって気づいたこと、日々のやりがいや楽しさ、今後の夢などを寄稿してもらった。
■気づいた周囲の支え■
2001年に川崎フロンターレに加入して13年間プレーし、13年シーズン終了とともに現役を引退しました。14年からは集客プロモーション部スタッフとして働き、今年2年目を迎えました。
よく、「なぜ指導者ではなくクラブのスタッフの道に進んだのか」と聞かれます。指導者ならば自分の経験をダイレクトに伝えられますし、仕事もスムーズにできたかもしれません。選手としての経験しかない私が、クラブを支えるスタッフの道に飛び込んで、どうなるかわからない部分もありましたが、今まで信頼してきたスタッフがいたので、そこに大きな不安はなかったです。もちろん、大変なことはたくさんありました。周りの方に助けてもらい、なんとか一年を過ごすことができました。2年目になって仕事には慣れてきましたが、まだまだ学ぶことばかりです。
私が所属する集客プロモーション部とは何をする部署なのか。一言で仕事内容を説明するのは難しいです。「フロンターレでみんなを幸せにするために何でもやります」とよく答えています。試合当日は、イベントの企画運営に走り回ります。
早朝からフロンパークというイベント広場で行うステージのセッティングを行っています。基本的にはお金をかけずに手作りでやっているので、大工のように自分で装飾を施しますし、看板や印刷物も自分たちで作っています。イベント広場に敷く人工芝を大きな台車を使って運ぶ作業が大変で、男4人がかりで2時間ぐらいかかりますね。選手時代は、お客さんは試合だけを観にスタジアムに来ていると考えていたので、朝からこんなに重い荷物ばかり運んでいる仕事があるとは考えもしなかったです。片付けは、試合中に行っているので、ほとんど観戦はできません。ナイターの試合だと片付けが終わる頃にはいつも日付が変わっています。チームを支える側になったことで、こんなにたくさんの人の支えがあって、サッカーができていたのか、と感じました。だからこそ、選手には「今を頑張れ」と強く言いたいですね。
■「ヒロキー」誕生■
フロンターレの試合には家族連れが多く、キッズランドというイベントもあり「子どもを楽しませよう」という企画も多いのですが、平日のナイターゲームのときはどうしても集客が難しくなります。少しでも集客につなげるため、満足度を上げるために、何かインパクトのあるイベントをやりたいと思っていました。そこで私がこれまで選手時代に培ったバックボーンをうまく活用し、自らコスプレをして、「ヒロキー」というキャラクターになってみました。最初はかくれんぼをしようということで「ウォーリーをさがせ」をパロディーにした企画「ヒロキーをさがせ」から始まり、それが反響を呼び、「ヒロキーを救え」、「ヒロキーを祝え」などシリーズ化につながりました。
2年目の今年はさらにパワーアップしています。先月の名古屋グランパス戦では、昨年名古屋で引退したばかりの中村直志さんを「ナオシー」とネーミングして招き、「VS ヒロキー」と銘打った対戦イベントを行ってみました。対戦クラブのレジェンドを招くという新しい切り口ですね。試合では何度も対戦していた中村直志さんと、特別に親しかったわけではありません。名古屋さんに企画書をメールして、本人と連絡を取って協力してもらいました。サムライの衣装を着てもらったのですが、被りものが初めてだったそうで抵抗感があったみたいです(笑)。ナオシーのおかげで、当日のフロンパークには名古屋のサポーターもたくさん来てくれました。
■街にとけ込んだユニホーム■
川崎フロンターレは、Jリーグが行っているスタジアム観戦者調査でJリーグ所属の全52クラブの中で、地域貢献度5年連続1位に輝きました。これは本当に誇らしいことだと思っています。スタッフだけ、選手だけが頑張るのではなく、お互いに話し合い、サポーターともコミュニケーションを密に取っています。一緒になってフロンターレを盛り上げようとしている姿勢が、地域貢献度につながっているのだと思います。
クラブの歴史を振り返ってみると、川崎は、もともとプロスポーツ不毛の地といわれていた土地です。私が加入した2001年はまだJ2リーグで戦っていて、スタジアムのお客さんは2000人から3000人ぐらい。等々力競技場はだいたいガラガラでした。今の若い選手たちには想像できないかもしれませんね。当時の私が掲げていた目標は、J2優勝と等々力を満員にすること。試合に勝ち続ければ、お客さんは増えると思っていましたし、実際、少しずつ増えていきました。クラブが続けてきた地道な地域イベントなど、いろいろなものが徐々にリンクしてきたのだと思います。
03年には勝ち点1差でJ1昇格を逃しましたが、04年には昇格を果たしました。この時期ぐらいから後援会員もかなり増え、スタジアムも埋まり始めました。試合の日になると、フロンターレのユニホームを着用している人が街に増えていったのがうれしかったですね。今ではユニホームを着て街を歩いているサポーターがいても、違和感がないですし、普通の光景になってきていると思います。それが地域に根付いたということなのだと思います。
昨年12月、私はJリーグから「功労選手賞」として表彰されました。Jリーグおよび日本サッカーの発展のために貢献した選手に贈られる賞で、8人の受賞者の中に名を連ねさせてもらいました。実は自分の総出場試合数は496試合で、受賞基準である500試合に4試合足りなかったんです。日本代表経験や個人タイトル獲得経験もありません。
しかし「クラブの社会貢献活動にも企画段階から加わりJリーグ、クラブの理念を率先して推進してきた」という理由で、選出していただきました。これはフロンターレの地域活動をJリーグが評価してくれたということで、とても価値があること。もちろん、僕がたまたま受賞しただけで、ほとんどスタッフのおかげだと思っています。加入した時代に恵まれたおかげで、フロンターレとともに成長させてもらったことに心から感謝しています。
■イベント担当としてクラブの戦力に■
スタジアムに足を運ぶきっかけは何でも良いと思っています。はじめからサッカーが好きじゃなくてもいいし、選手の外見から好きになってもらってもいい。この前、街でスケジュールポスターを張っていると、応援番組でヒロキーを見て「この人、なんか面白くて良いわね」と興味を持ち、スタジアムに足を運ぶようになったというお母さんに声をかけられました。いまでは家族で毎試合来ているそうです。僕が元Jリーガーだというのは全然知らなかった、とも言っていました。たとえ1人でも、ヒロキーが集客につながったことを知ってうれしかったですね。
クラブとしては毎年優勝を期待させておいてガッカリさせているので、まずはタイトルを獲りたいですね。そして応援してよかったと思われるチームになること。自分はそのためのきっかけ作りを、イベント担当としてたくさん仕掛けていきます。今年は元選手ということに関係なく、昨年以上にクラブの戦力になれるように頑張っていきたい。そしてお客さんに喜んでもらえるように、自分じゃなければできないことを楽しくやっていきます。