今更ながら古賀茂明氏「報ステ騒動」の是非を考える
古賀茂明氏の「報道ステーション騒動」からだいぶ時間が経ちましたが、古賀氏や関係しているであろう方々は、ネット上や紙媒体などで報道ステーションやテレビ朝日の批判を続けています。しかし、その主張の内容には改めて首を傾げざるを得ない部分が多いので、今更ではありますが、改めて古賀氏の主張について考えてみたいと思います。
本当に「報道の自由」の危機か?
古賀氏は、今週のネット上の連載で概要、以下のように述べています。
「報道ステーションの中で、原発推進の政策が目立たない形で推進されている、政策金融機関の改革が後退して天下りが復活している、というフリップを出し、これらがなぜ大きなニュースにならないのかという問題提起をしたかった」
「その答えは、政権の圧力でもマスコミ側の自粛でもない。マスコミの現場が圧力に負けたり自粛したりしているうちに、自分たちの重大な責務である政権の監視という仕事を果たす能力を失ってしまったのではないか」
(現代ビジネス『古賀茂明「日本再生に挑む」』2015年4月10日配信「古賀茂明と日本再生を考えるメールマガジン」より要約して抜粋)
その延長として報道の自由の危機を訴えているのですが、この古賀氏の主張には、テレビ番組にコメンテーターとして出演している者として違和感を持たざるを得ません。
報道の自由は当然守られるべきであり、かつ報道機関の使命の一つがいわゆる“Watch Dog”、即ち権力側の監視であることも当然です。しかし同時に、報道機関には、そうした自由や使命とともに、ビジネスという側面があることも忘れるべきではないからです。
ビジネスという側面からは、例えば報道ステーションのようなテレビの報道番組でも視聴率が重要になります。もちろん視聴率自体の良し悪しという問題はありますが、分単位で視聴率が出る中で他局と競争している以上、番組を制作する側は視聴率というビジネスの結果を意識せざるを得ません。
かつ、そもそも毎日たくさんのニュースが入ってきます。古賀氏が言及しているエネルギーや行政の問題のみならず、経済、外交、安全保障、社会問題と多岐にわたり、日々膨大な量のニュースが生まれています。
従って、テレビ局としてはジャーナリズムの観点のみならず視聴率の観点からも日々の番組で扱うニュースを選ぶ必要が出てきます。となれば、視聴者である一般市民の関心が大きい、いわゆる世間受けするニュースを扱う割合が多くなって当然です。
例えば、昨年は、安倍政権の経済運営に問題が多かったにも拘らず、報道番組が音楽家の佐村河内守氏、STAP細胞の小保方晴子氏、更には元兵庫県議の野々村竜太郎氏といった“イロモノ”に多くの時間を割いたのも、マスメディアの現実を考えるとやむを得ない面があるのです。
個人の「表現の自由」と「報道の自由」は違う
ついでに言えば、政策についても、そのときどきによって世間から注目されるテーマは変わりますし、かつ何が政策の重要課題かについての判断は専門家によって異なります。
例えば、古賀氏は報道番組が原発と行革を扱わないことを非難していますが、私は、今はそれらの問題よりもデフレ・低成長からの確実な脱却の方が相対的に重要であり、岩盤規制の改革や地方創生の方が注視すべき課題だと思います。更に言えば、原発についてはむしろ再稼働が大幅に遅れていることと、2030年のエネルギーミックスにおける原発の比率がまだ決められていないことの方が大問題だと思っています。
このように、古賀氏の主張が政策に関するベストの見解である保証などどこにもないのです。私のみならず、多くの元官僚や専門家はそれぞれ独自の異なった意見、考えを持っています。
要は、毎日多量のニュースが生まれ、世間の関心の流行り廃れが激しく、そして政策で何が今重要かの価値判断は人によって異なる中で、当たり前のことですが、毎日の番組でどのニュースやテーマを扱うかを選ぶ権利と責任はテレビ局の側にあります。そしてテレビ局は、ジャーナリズムと視聴率の狭間で悩みながら毎日のニュースを選んでいるのです。
そうした現実を考えると、自分が重要と思うテーマが自分の思った形で扱われないことをもって報道の自由が危機だとテレビ局や番組を批判するというのは、少し違うのではないでしょうか。古賀氏が原発や行革が最重要と考えて主張するのはあくまで個人の自由(思想・信条の自由、表現の自由)に過ぎず、それを番組で扱うかどうかを決めるのはテレビ局の自由だからです。
ついでに言えば、テレビ局に圧力をかけたと官房長官や官邸を批判することにも違和感を覚えます。安倍政権の政策を批判する識者や番組がたくさんある中で、それらの個人やテレビ局に対して圧力をかけられるほど官房長官はヒマではないし、そもそも古賀氏が最重要人物(危険人物?)と官邸が考える理由もないからです。
例えば、小泉時代に不良債権処理や郵政民営化に取り組んでいるとき、本当にたくさんのテレビ番組、新聞、週刊誌や識者が、竹中大臣(当時)を人格否定も含めて激しく批判・攻撃しましたが、竹中大臣も当時秘書官だった私もそれらに対して圧力をかける余裕など一切ありませんでした。それが政権中枢の現実なのです。
古賀氏が改革を進めたいなら
“ゼロ・イチ”になってはいけない
ちなみに、古賀氏の報道ステーションでの言動について付言しておくと、コメンテーターの役割は番組で扱うテーマに沿ってコメントして新しい視点を提供することです。コメンテーターは公共の電波を使って自分が言いたいことを主張できる機会や権利を与えられた訳ではありません。そうした中で心あるコメンテーターの多くは、そのルールを守りながらも色々な工夫をして自分の主張や正論を織り込んでいるのです。
そうした現実からは、古賀氏の番組内での発言は単なるルール破りに止まらず、コメンテーター全般に対するテレビ局側の不信や制約を増幅させかねない意味で、迷惑極まりない行動だったと思います。
ところで、噂では古賀氏はこれから政党を組織するのではないかと言われています。それに参加するという有名人の名前も数名聞きました。それに向けた打ち上げ花火として報道ステーション騒動を起こしたのか分かりませんが、もし政治の場を通じて自分が信じる改革を進めたいと本当に考えているならば、そのこと自体は評価できるかもしれません。
ただ、古賀氏の有能さは誰よりも知っているからこそ、私は、古賀氏が政治の場から改革を本当に進めたいならば、今の“ゼロ・イチ”のスタンス、つまり自分が信じる100点満点が実現されないならすべてダメだというやり方を、変えてほしいと心から思ってしまいます。
これまで古賀氏は、経産省を辞めるときは自分を登用せず東電を破綻処理しない経産省を厳しく批判し、大阪市の特別顧問として脱原発を進めようとしたときは橋下市長が現実路線を取ったことを批判し、今度は報道ステーションを批判しました。しかし、自分の意見が全面的に取り入れられないからといって、自分が一時期でもお世話になったところに後ろ足で砂をかけるように全面否定しては、誰も古賀氏を応援しなくなってしまいます。実際、元官僚の大半が「もう古賀氏とは関われない」と言っています。
そして、このことこそが、政策の世界で改革派と言われる人が「報道ステーション騒動」から学ぶべき教訓ではないかと思います。改革派と言われる人には古賀氏のような“ゼロ・イチ”のスタンスの人が意外と多いのですが、このようなスタンスを続けると、いくら改革を進めようと思っても難しいのではないでしょうか。
小泉時代の経験から私は、特に日本のように既得権益が強固な国では、改革は、もちろん最初は100点満点を目指しつつも、実際には60点の成果が得られれば合格点であり、満足すべきだと思っています。更に言えば、郵政民営化の今の状況からも明らかなように、改革では「三歩進んで二歩下がる」が当たり前です。そういう現実的な改革を目指すことが必要であり、原理主義的になり過ぎてしまっては、逆に改革派が内紛を起こしてしまい、結果として既得権益を利するだけなのです。