http://www.nnn.co.jp/dainichi/column/ryoudan/index.html - 04/16/15 15:42:32 - 08/14/13 18:39:36
比例代表議員の除名と議席 2015/4/14維新の党公認で比例代表で復活当選した上西小百合代議士が、自らの「不道徳」な行動が原因で党を除名された後も、「法律に触れてはいないから」と主張して、無所属で議席にとどまっていることについて、釈然としないという声は多い。 確かに、比例代表は、個人ではなく「党」に投票された票 で当選した議員であるのだから、党を除名された以上その者の議員としての存在の根拠は失われたと言えよう。 しかし、二つ反論がある。第一が、その上西議員も、維新の党の候補者として、党の比例票の獲得に何がしかの貢献をしたはずである。第二が、選挙後に党内で内紛が起きた場合に、党内の多数派が少数派を除名しその議席を多数派の同志に入れ替えてしまうとしたら、これはそれで大いに不都合であろう。「国権の最高機関」(憲法41条)の一員として「全国民を代表する議員」(43条)の身分は憲法上厳格に保護されており、「議員の議席を失わせるには…議院…の…出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする」(55条)。だから、党内多数決で議席を奪うこと自体が違憲である。 しかし、上西議員がそのまま議席を維持し続けて、公設秘書給与も含めて年に5千万円以上の公費と議員宿舎とJRグリーン車のパスが同議員に提供され続けることに、納得できる者はいないのではなかろうか。 それは、彼女の行状がひどすぎたからである。議員の最も重要な任務である本会議前夜、体調不良でビタミン注射を受けながら宴席を3軒はしごし、翌日、診断書を提出して本会議を欠席し、それでいて関西に移動して宴席に出席し、同夜の宿泊先を問われて証明できなかった。これでは、議員というよりも、単に宴会を渡り歩いているだけである。 このような人物を公認した党の責任は大きいが、その点は党としても自覚があったようで、速やかに事情を聴取して除名を決定したことは正当であろう。 後は、このような「勘違い」人間を二度と議員に再選しないという、私たち有権者の賢明さ以外に不適正議員の出現を防止する方法はない。そういう意味では、近頃ではたくさんある「政経塾」と称して短期間の研修だけで候補者を大量生産する組織が「出たがり屋」の単なる通過機関になってしまっているのではなかろうか。
政治家同士が法手続き論争をする愚かしさ 2015/4/7沖縄県内における米軍基地の移設問題を巡って、日本国政府と沖縄県庁が法手続き論争を展開している。 県側が「国は埋め立て許可条件を超えてサンゴ礁を破砕している」と言えば、国側は「県はそんな条件を立てなかった。仮に立てていたとしてもそれは、『サンゴ』ではあってもサンゴ『礁』ではない」。果ては「日本国は法治国家である」(国側)うんぬん。 笑える…というか、ギャグとしても趣味が悪い。 本来、政治家は、「憲法違反」だけは許されないが、その下の条約・法律以下の法令については、まず前提としての歴史的・政治的必要性としての当該政策の当否を論争して結論を出し、その実行に向けて現行の法令が障害になればそれを改廃してでも前に進む職業であったはずである。 それを、双方に法律家を従えていわば「小さな」法手続き論争を展開してどうするのか?。 もちろん、形式的には、最初にそのつまらぬ手続き論争を仕掛けたのは県側である。しかし、県にそのような行動に走らせた国側の政治的姿勢にまず問題があったと、私は思う。 わが国の存続にとって日米関係が重要であることは否定できない。しかし、だからといって、在日米軍基地の75%を、わが国で下から1〜2の小さな県に押 し付けたままで良いはずはない。しかも、日米地位協定と言う大きな危険を沖縄県民に押し付けたままである。もちろん、だから「負担軽減のための県内移設」だと日本国政府は言うが、そこが実に分かり難い。大きな負担を減らすための、小さ な新しい負担を…というところが、法的には筋が通っても政治的には分かり難い。 やはり、安倍政権は、「安定政権」だと自負するならば、沖縄に対する強権発動ではなく、その政治力を駆使して「県外移設」を実現すべきが政治の仕事であるはずだ。 科学技術が進歩した現在、沖縄に基地を集中しておくことは、まず、中国の大陸間弾道ミサイルでまとめて壊滅させられてしまう危険があり、また、機動力が向上しているので、分散展開部隊の統合的運用も可能である。 だから、「県外移設」こそが、政治が全力で取り組むべき唯一の課題である。 歴史的に、沖縄は、日本(やまと)とアメリカと軍隊に対して、正当な「恨み」を抱いている。それを直視・解消し得てこそ「政治」であろう。
自衛隊は「軍隊」ではない 2015/3/31安倍首相が国会で自衛隊を「わが軍」と呼び、野党はそれを問題にしたが、政府与党は「問題ない」の一言で押し切ってしまった。 しかし、わが国の最高法である憲法はわが国が軍隊を保持することを明白に禁じており、その故に自衛隊を根拠づける法令は警察の法体系になっている。だから、国の最高責任者が自衛隊を「軍」と呼んだことは、最高権力者の憲法認識が間違っていることに外ならず、由由しい問題である。 まず、憲法9条は、1項で国際紛争を解決する手段(これは、国際法の用語で『侵略』目的を意味する)としての「戦争を放棄」している。だから、わが国は、侵略戦争はできないが、自国が侵略の対象にされた場合に自衛はできることになる。ところが、2項で「陸海空軍その他の戦力(つまり、どのような名称で呼ぼうが『軍隊』)は保持しない」と、わが国が軍隊を保有することは認められていない。さらに、それを徹底するために、「国の交戦権(他国との戦争する法的資格)は、それを認めない」と明記している。 だから、わが国の自衛隊は、海外で、他国の軍隊のように行動する法的資格が与えられておらず、仮に自衛隊が海外で軍事活動を行えば、それは免責されず、自衛隊の行動は「海賊」か「山賊」(つまり組織犯罪)になってしまう。 さらに憲法は、76条2項で(軍法会議などの)「特別裁判所は…設置…できない」と明記している。だから、わが国の自衛隊は、他国の軍隊のように職務執行としての破壊・殺人行為について原則として免責される法制度上の保護を受け得ない存在である。 憲法上これだけの制約があるわが国で、警察予備隊(第二警察)として発足した自衛隊は、意味を持って、「軍隊」ではなく「自衛隊」という尊い名称を与えられたのである。 それを、総理大臣が国会で「わが軍」と呼び、それを野党から批判されたら官房長官が「問題ありません」で済ませてしまう。今、日本の政治は、知性というよりも倫理性が弛緩しているようで、心配である。 人間なら誰でも思い違いや言い間違いはある。だから、謝して訂正すれば済むことである。 ところが、安倍内閣では、野党からの鋭い批判には、無視したり、論点をそらしたりする答弁が多すぎる。そして、ついに今回は、憲法無視発言の開き直りである。聞かされている国民はまるで愚民の扱いである。
根強い偏見 2015/3/243月15日(日)の午後、東京のPHP研究所ホールで、松下政経塾主催の公開シンポジウムが行われた。松下政経塾34期生4人が過去1年間の研修の成果として独自の憲法改正草案を発表し、それを受けて2人の政治家と2人の学者でパネルディスカッションが行われた。 塾生たちの改憲案は、現時点までの比較憲法学の成果を公平に渉猟した結果であり、これからのわが国における公論の道標に使えるほどのものである。 それはそれとして、討論の際に、当然、時の話題として、「集団的自衛権」も議題になった。 その際、渡辺利夫・拓殖大総長(経済学者)は、明確に、「『持っているが使えない』権利などということは、おかしい」と断言した。集団的自衛権の是非が論争され始めた当初、行使を肯定する側はしばしばそのように主張した。もちろん、その後の論争の過程で、「持っているが行使できない」権利もあり得ることは広く理解されたと私は思っていた。しかし、その渡辺発言に対する聴衆の反応が意外に肯定的であったことが心に残った。 まず、集団的自衛権とは、国際法(つまり、国家と国家の付き合いに関するルール)上の権利で、自国が攻撃されていなくとも、攻撃された同盟国を助けに派兵する権利であり、国際法上、全ての独立主権国家に認められている。だから、わが国も国際社会の一員として集団的自衛権は「持っている」。 しかし、「持っている」からといって、全て当然に「使える」とは限らない。つまり、国際法上は持っている権利であっても、それをわが国が行使する以上、当然に、それを担当する者はわが国の公務員で、その行動には、憲法以下のわが国の法制度上の根拠と制約が及んでいる。要するに、わが国の自衛隊員である以上わが国の憲法が禁じていることはできないだけのことである。 わが国は、敗戦の反省をこめて憲法9条を制定した。それは、1項で国際紛争を解決する手段としての戦争(つまり侵略戦)を禁じ、2項で軍隊の保持と交戦権を認めていない。だから、わが国は、海外で軍事活動を行う道具(軍隊)の保持とその法的資格(交戦権)を自らの意志で自らに禁じている。以上要するに、海外派兵が不可避な集団的自衛権の行使は本来的に不可能な国なのである。
「後方支援」という空想 2015/3/17昨年7月の閣議決定によって海外派兵は許されたとばかりに、海外派兵手続法制の準備が進んでいるが、その中で、「後方支援」という言葉がうまいマジック・ワード(魔法の言葉)になっている。 いわく、わが国は憲法が禁じる海外での武力行使はできないので、武力行使を遂行している有志連合諸国の軍隊の「後方支援」を行うとのことである。 ここには、かつてのような「非戦闘地域」においてだけ活動できるという制約もない。つまり、戦場で現に戦っている米軍に対して、自分たちは戦闘には参加しない(つまり最前線で米軍と一緒に引き金は引かない)が、その米軍の真後ろに行き、補給、医療、輸送などの後方支援を行う…というのである。 しかし、その武器、弾薬の補給、負傷兵の治療、部隊の輸送なしに米軍は有効に戦争を遂行し得ないはずである。だからこそ、どこの国の軍隊も、それぞれの内部に、補給管理、医療、輸送の専門部隊を組織している。それらがそろって一つの軍隊である。 つまり、今後は、わが国の自衛隊は、米軍と一体となって、海外で一つの戦争を遂行する…ということである。 もちろん、そう指摘しても、政府当局者は、「戦争を遂行しているのは米軍であり、わが国の自衛隊はそれを『後方支援』しているだけで、わが国は戦闘すなわち戦争に参加してはいない」と強弁するであろう。これが、「後方支援」という言葉がマジック・ワードたるゆえんである。 それは、米軍と戦っている側から見てみれば分かりやすい。例えばそれが「イスラム国」軍だとする。彼らから見れば、米軍は、自分たちの近くにある一つの基地から出撃してくる。確かにそこから来て、自分たちを攻撃しているのは米軍である。しかし、その出撃を可能にしているチームは日本の自衛隊で、彼らが、出撃前の米軍に武器・弾薬、ガソリン、食料・水を補給し、傷付いた兵士に応急処置を施しさらに後方に搬送し、同時に、あらゆる物品と人員の輸送を手伝っている。 こういう現実を目の前にした場合に、その「イスラム国」が、米軍と日本の自衛隊を区別して米軍だけを攻撃する理由はない。むしろ、「海外での武力行使はできない」などと言い張っている自衛隊の方が攻撃しやすく、そこを攻撃して米軍の戦力を削ぐ方法を選択する方が自然であろう。
「文民統制」の意味 2015/3/10今、あらためて、軍隊に対する文民統制(シビリアン・コントロール)の意味が問われている。 文民統制とは、本来、軍隊の運用については、政治が決定し政治がその責任を負う…という憲法上の原則である。それは、防衛省内で、いわゆる制服組に対していわゆる背広組が上位に立つという原則ではない。 国家が有する広義の「行政」機能の中で、「軍事」力は、例外的に強烈なものである。つまり、国家の軍事活動だけは、他の行政分野と比べて、その効果が大きすぎてやり直しが効かない「異次元」のものである。 例えば教育、公衆衛生等の行政作用は、社会的な必要(例えば児童の学力の低下、インフルエンザの流行等)に対して、学校のカリ キュラムの改廃や予防接種の実施などの対策を行う。それが効果を発揮す ればそれでよいが、失敗した場合にはまた別の対 策が試みられる。試行錯誤である。 このように、行政とは、一般に、国民の幸福の総体の増進を目的に法律の枠内で継続して行われる国家による試行錯誤である。 ところが、軍事分野は別モノである。つまり、国家の決断として戦争を決定した場合、勝てば国家は存続するが負ければ国家は滅びる。だから、この問題については試行錯誤など許されない。 そういう意味で、戦争と平和の問題に関する決断だけは、その分野の専門家である官僚たちに一次的な判断権を委ねず、あくまでも、国の主(あるじ)たる主権者国民の直接代表たる国会を中心に、直接、国家の存続にかかわる歴史的決断を下す仕組みになっている。 だから、文民統制の意味をより具体的に説明すれば、国会に宣戦と講和の権限があり、機動性を維持するために一部閣僚による国家安全保障会議による決定と、それを執行する最高司令官としての内閣総理大臣が役割を分担している。 ただ、軍事も他の行政分野と同じく高度な専門的学識と技術が必要な領域であるので、政治家は、その決断に際して、専門の行政官による補佐を受けなければならない。そして、そこに、軍事の専門家としての公務員の能力が生かされることになる。そこには背広を着た専門家と制服を着た専門家がいる。つまり、制服組と背広組が協力し合いながら政治家による決断と執行を支えている関係、これが文民統制(政治による軍の統制)である。
相変わらずの「有識者懇談会」政治 2015/3/3戦後70年の節目に、安倍首相が、日本国を代表して談話を発表することは当然で、今日の激動する世界情勢の中で、諸国も注目していることだろう。 そのために、また安倍首相が「有識者懇談会」を立ち上げた。 でも、なぜ有識者懇談会なのかが、いつも私には理解できない。 まず、国家として大きな政策的決断を下そうとする場合、議院内閣制を採用しているわが国では、何よりも、主権者国民から直接選出され、その故に『国権の最高機関』と呼ばれている国会で公開討論にかけることが筋で、その際に、「有識者」の知恵が借りたければ参考人として呼べばよい。それに、通常の知識は、官僚集団が高度で正確な最新情報を保有しているのだから彼らに補佐させればよい。 そして、その一環あるいは前提として、各政党内部でそれぞれに十分に議論した内容を議場へ持ってくるべきであろう。 その公開討論を経た後に、議院あるいは国会として談話を発表したいのならば、起草委員を互選し、その成果を国会の決議で確定することになる。 内閣で談話を発表したいならば、内閣内で十分に議論した上で、起草委員を互選し、その成果を閣議で確定することになる。 首相が単独で談話を発表したいならば、それこそ公的には一人で起草し発表し、一人でその歴史的責任を負うべきであろう。もちろん、その過程で首相が信頼する学識経験者の意見を個人的に聴することは自由であるし、それは行った方がよい。
しかし、何の民主的正統性もない人間集団を集めてあたかも公式の起草委員会のような役割を担わせることには何の正当性もない。しかも、昨年の安保法制に関する懇談会の場合に、安倍首相は、初めに、有識者の意見を拝聴するとして内容の正当性を担保するかのように語っておきながら、その後の与党協議や閣議決定では、自説を通して懇談会の報告書に従ってはいない。
だから、歴史の大きな曲がり角においてわが国の首相の地位にある人物として「安倍談話」を発表したいのであれば、堂々と、一人で準備をし一人の責任で発表し、一人で歴史的責任を負うべきであろう。それが世界のトップリーダーとしての普通の行動様式である。
(慶大名誉教授・弁護士)
9条護憲派の「石頭」 2015/2/24私は一貫して憲法9条の改正を主張してきた。その趣旨は、文意が曖昧で不毛な論争が絶えない9条を、もっとスッキリした文言に書き直して、国家として「してもよい事」と「してはならない事」を明確にして、よって、9条の規範性を高めようとするものである。 具体的には、大要、次の提案である。つまり、(1)「わが国は、世界平和を誠実に希求し、間違っても再び他国を侵略しない」(2)「ただし、わが国も、独立主権国家として、他国から侵略の対象にされた場合には自衛戦争は行う」(3)「前項の目的を達するため、わが国は、陸海空軍その他の自衛軍を保持する」(4)「自衛軍による国際貢献は、事前に国連決議と国会による承認を得ることを必要とする」 こうすれば、まず、(1)自衛隊の正当性に関する不毛な論争が不要になり、隊員は堂々と任務にまい進することができる。加えて、(2)戦後70年間、9条の下でわが国が一度も戦争(海外派兵)をしないでこられた実績を維持することもできる。つまり、国連の安全保障理事会には常任理事国の拒否権制度がある以上、世界が陣営に分かれて争っている紛争では国連の安保理決議は出されようがないわけで、わが国は一方の助っ人として戦争に加担しないで済む。しかし、安保理が一致して決議した場合にはその相手は世界秩序の敵であると認定されたわけで、大国・日本が世界の「警察」活動に参加しないわけにはいかないであろう。 ところで、私は、憲法9条をそのままにして海外派兵(集団的自衛権の行使)を敢行しようとしている安倍首相の考えに、それは立憲主義に反する…として反対しており、その故に、最近、9条護憲派の集会に招かれて講演する機会が多くなった。 そこで、最近、同じ論難にしばしば遭遇した。いわく、「9条を改正しろと言うが、9条が存在したからこそこれまで70年も戦争をしない国でいられたのだ。だから、9条に触れるべきではない」 しかし、今、その9条の「解釈」と称して海外派兵(戦争)ができる…と言う首相が9条を破壊しつつあるのではあるまいか?だから、そういうことをさせないために、私は今、9条の趣旨を変えずに文言を工夫することにより9条の規範性を高めようとしているのである。 それでも「9条に触るな!」と繰り返す護憲派は、「石頭」としか言いようがない。(慶大名誉教授・弁護士)
他国軍隊に対する「非」軍事的支援とは? 2015/2/17安倍内閣は、今回、他国に対するODA(政府開発援助)の運用方針を改定して、今後は、これまで自らに禁じてきた、他国の軍隊に対する支援を、非軍事的事項に限り解禁することにした、とのことである。 軍隊に対する非軍事的事項に限った支援とは、一見、分かり難いが、例えば、他国の軍隊が災害救援のような非軍事的活動を行うことに対する支援のような非軍事的活動を行うことに対する支援のようで、他に、消防車、食料、医薬品、テント等の物資の支援や医療班の派遣などが考えられる。 この「災害復旧」支援と言われた場合、それを悪いとは言い難いものである。 しかし、他国の軍隊に上記のような支援を行った場合、それだけその国の軍事予算が節約できるわけで、その分、戦費が補強されることは自明である。だから、それは明白な間接的軍事支援である。 これまでわが国がそのような行為を慎重に自制してきたのは、言うまでもなく、憲法9条の存在の故である。憲法9条は少なくとも海外におけるわが国の軍事活動を禁じている。だから、これまでわが国は、海外派兵の禁止はもちろんのこと、わが国を直接守るための日米安保条約は別として、他国との軍事協力に消極的であった。そして、その9条が今でも有効に存在している事実を忘れてはならない。 今回の新方針でいくと、他国の軍の基地内の子女教育のための学校の建設・運営、家族住宅の建設、保養施設の設営等、支援の対象はほぼ無制限に広がっていくような気がする。 しかし、それで良いのであろうか。 かつてわが国は、軍国主義的対外進出に失敗し、その反省の証として憲法9条を戴き、非戦国家(しかも、比類なき復興を遂げた経済・技術・文化大国)として70年の歴史を刻んできた。その結果、わが国は好戦的でないという定評が確立し、戦乱直後の治安の悪い地域でもわが国のNPOの活動家は襲われない(襲ってはならない)という慣行が確立していたはずである。 それが、小泉内閣以来のわが国が軍事をタブーとしない姿勢を強めてきていることから、日本人が海外の戦場周辺で危険にさらされる事例が頻発するようになってきたのではなかろうか。 憲法9条をそのままにしてそれを空洞化することは、憲法違反以外の何ものでもない。
言論には言論で 2015/2/10権力者が「黙れ!非国民!」と怒鳴り散らしているような、嫌な「空気」が漂っている。 誰かが政府を批判しかけると、それが政府の痛い所をついていると思われるような発言であればあるほど、政府当局者は、真正面から反論せずに、「敵を利する発言で不謹慎だ」と怒り始める。これは要するに「黙れ!非国民!」と怒鳴っているに等しい。さらに、政府当局者がメディアに対して「公正な報道が望まれる」と申し入れる。これは要するに「政府批判の報道はするな」と脅しているに等しい。 そこで、最近の事例を事実に即して冷静に分析してみたい。 まず、今、この地球上では、キリスト教文化圏の勢力とイスラム教文化圏の勢力がお互いに十字軍戦争以来の怨念を抱いて、血みどろの戦いを繰り広げているように見える。 キリスト教とイスラム教はそれぞれ「唯一絶対神」をあがめるもので、理論上は、お互いに相手は悪魔の化身になるので、「殺してもよい」存在になってしまうのだろう。その結果、双方に、歴史的にたくさんの敵意の根拠が残っている。だから、現時点で優位にあるキリスト教側がイスラム教側からの攻撃を「テロ」「犯罪」と認定しても、イスラム教側は「聖戦」だと信じてひるまない。 それに対して、わが国は、森羅万象に神性を認める多神教である神道に人格の向上を目指す仏教が重なった「第三の文明」であるために、キリスト教とイスラム教の排他的厳格性がピンとこない人が多い。だから、対立する両者の片方の側に立って「対イスラム国戦争を遂行する諸国に支援する」と宣言することの危険性が理解できず、単に「人権支援」を宣言しただけで問題ないではないか…という愚痴になってしまう。 私は、2人の人質を取られていることを承知であの発言をした安倍首相はうかつであったと思う。ところが、今の日本でそれを言ったら、まず、「敵を利する」と批判される。しかし、あの首相発言の相当性は検証されるべきであろう。 善意の同胞の命は至高であるし、テロに屈すべきではないことも当然である。 だからこそ、あのテロを招かない方法はなかったのか?その延長線上で、今後、新たなテロを招かない方法はないのか?真剣に検証されるべきである。