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2015-04-17 菊地成孔先生の『セッション』批判について
日本では今日(4月17日)から公開される映画『セッション』を、ジャズ専門家である菊地成孔先生がジャズ音楽家の立場から酷評しています。
それを公開前に読んだ人々が「素晴らしい批評」「これを読んで映画を観る気が失せた」「ジャズ専門家の言葉だから信じる」などと評判を呼んでいます。
ジャズ・ドラマーを目指した若者が監督した映画『セッション』を潰そうとする菊地先生は
『セッション』の、ジャズ・ドラマーを目指す若者を潰そうとするJKシモンズ扮する先生にダブります。
主人公を「リズム音痴のガキ」と罵倒し続けるのも、まさに劇中のJKシモンズそのものです。
私は菊地先生が罵倒し続けている「ジャズ素人」ですが、『セッション』の監督デミアン・チャゼル(30歳)は違います。
彼自身がドラマーを目指してひどいシゴキで挫折した経験を基にして『セッション』を作ったそうです。
チャゼル監督デビュー作のインデペンデント映画『ガイ&マデリン・オン・ア・パーク・ベンチ』(2009年)は、ゴダールの『はなればなれに』を思わせる、ヌーヴェル・ヴァーグ・タッチのジャズ・ミュージカルでした。
脚本を書いた『グランドピアノ 狙われた黒鍵』も、コンサートでミスをしたら殺すと脅迫された若手ピアニストの話で『セッション』のスリラー版ともいえます。
「ジャズ素人」の私には、菊地先生の1万6千字も費やした文章の論旨がちゃんとつかめていないかもしれませんが、
先生の『セッション』批判のポイントを挙げると、以下のようになるかと思います。
1 主人公は「ジャガジャガうるさいばかりの不快なドラミング」で「グルーヴがない」
2 主人公がドラマーとしてバディ・リッチに憧れるが、引用されるのはチャーリー・パーカーで、タイトルが8ビート・ジャズなのでジャンルが「ぐちゃぐちゃ」
3 出血シーンが「愛を欠いた」「痛々しいだけ」である。
4 JKシモンズ扮する鬼先生の「作曲も選曲も編曲も、肝心金目の指揮ぶり」は「中の下」で、「この点が本作の最大の弱点」。
5 「巨人の星」のような鬼コーチのシゴキはジャズとは違う。
6 このような教師がいたら「訴えられる」か「生徒にリコール」される。(劇中で実際に訴えられている)
7 「この程度の鬼バンマスは、実際の所、さほど珍しくない」。
★ここから先はネタバレを含みますので、映画をご覧になった後でお読みください。
では、「ジャズ素人」の私が僭越ながら、自分の意見を書かせていただきます。
菊地先生のおっしゃる通り、主人公は「ただ手数が早ければいい」と思い込んでいるだけの少年で、グルーヴもつかめていない、
ジャズを人生の成功のための武器としか考えていない、つまりジャズがわかってない、というか、音楽がわかってないと思います。
彼にとって音楽は貧しい自分と父をバカにしてきた世間を見返すための武器でしかないのです。
だから、JKシモンズ先生は彼を認めなかったし、がむしゃらに叩くだけだから出血したんでしょう。
「愛と青春の旅立ち」で鬼教官がリチャード・ギアに「お前は自分が貧しさから抜け出すことしか考えてないからダメだ!」と潰そうとするのと同じで。
ただ、「愛と青春の旅立ち」と違って、JKシモンズ先生自身のほうもダメ人間なのが『セッション』の問題です。
彼は意味もなく主人公を潰すことしか考えてません。
そういう時は「意味もなく」ではなく、「いったいなぜだろう?」と考えてみましょう。
たいていの映画では、描かれなくても、重要な人物の行動の理由が作者の中にはあるものです(ない場合もあるが)。
おそらくJKシモンズ先生は、自分も演奏家になりたかったのでしょう。
それが何かの理由で挫折したんでしょう。
それこそ、菊地先生がおっしゃるように、アーティストとしては「中の上」程度してかなかったからではないでしょうか?
だから、若い才能を、おそらくは無意識のうちに潰そうとしてしまう。
二人とも、自分の心の傷をジャズに向けているだけで、ジャズとして、いや、アーティストとして明らかに間違っているのです。
明らかにそのように描かれています。
その意味で菊地先生の指摘の通りです。まさにそれが監督の意図ではないでしょうか?
先生のお好きなプロレスに例えれば、金と名声のためにレスラーを目指す青年と、トップ・レスラーになる夢が挫折して若手潰しで鬱憤を晴らそうとするコーチの物語にでもできるでしょう。
そして、音楽もプロレスも、グルーヴとスイングのアートです。
菊地先生が『セッション』を批判する個々のポイントはすべて仰る通りだと思います。
それはすべて作品中に内包されて、フィニッシュで昇華されているように思います。
菊地先生は『セッション』批判文のなかで、ご自分の「鬼バンマス」体験についてこう書いています。
素晴らしい文章なので引用させていただきます。
菊地雅章氏という(中略)の作曲者のバンドにワタシが参加した時は、この映画のような激しい物ではなく、陰湿で粘着的な物でしたが、目を覆うようなハラスメントが行われた事がありました。(中略)
ワタシは、そのターゲットとなった先輩プレイヤーが半べそをかかされるのを見て、菊地氏を音楽家として心から尊敬していなかったら、本番が出来ないように、一本残らず指を折ってやろう、いや、一本だけで良い。切断するのであれば。と、心中で何度も何度もシュミュレーションを重ね、いつでも実行出来る様に待機していました。
しかし結果としてステージは素晴らしく、病的な鬼バンマスである菊地氏も、ハラスメントを受けた先輩も、殺意を抱いていた若き菊地成孔氏も、全員グルーヴィーでハッピーになったのです。
これこそが音楽の、正常な力なのです。
まさにその通りのことが起こるのが『セッション』のラストではないでしょうか。
あの演奏は最初は主人公の先生への逆襲ですが、そこに先生が「よし」と参加した時、二人はそれまでどうしてもつかめなかったグルーヴをつかんでスイングします(少なくともそのように描かれています)。菊地先生のおっしゃる「グルーヴの神」が降りてきたのです。
最初、主人公は鬼先生へのパンチのような気持ちでドラムを叩きはじめますが、
そのうちに、その顔には微笑みが浮かんできます。
この映画ではずっと彼は辛そうに苦しい苦しい顔でドラムを叩いてきましたが、この時、初めて本当に楽しそうに叩いています。
ああ、楽しい。
叩いているうちに、憎しみも恨みも、愛する女性を失った悲しみも、立身出世も、何もかもどこかに吹っ飛んでいきます。
そうか、音楽って楽しむものだったんだ。忘れてた。
それは先生も同じです。
だから、先生も最後は笑顔でうなずきます。
観客は映りません。
格闘家たちがパンチを交わし合い、技をかけあった戦いの果てに世界のすべてを忘れてしまうように。
だから観客も映りません。
先生は主人公に救われたのです。彼も音楽の楽しさを思い出したのです。
いや、主人公ではなく音楽が二人を救ったのです。
この戦いの本当の勝者は音楽だったのです。
もう一度、菊地先生の言葉を引用します。それはこの映画のラストそのものです。
結果としてステージは素晴らしく、病的な鬼バンマスである菊地氏も、ハラスメントを受けた先輩も、殺意を抱いていた若き菊地成孔氏も、全員グルーヴィーでハッピーになったのです。
これこそが音楽の、正常な力なのです。