レンアイについて。最近も色々ありました。
この前、台南で結婚式に参加した後そのまま新竹に向かいました。あるアートスペースに呼ばれ、ライブをすることに。このライブのことは日記には書いていませんが、思うことはあったので後で書くかもしれません。
自分はソロも演奏したのですが、その時、コントラバスのほとんど目の前で聴いている女の子がいました。そのライブ全てが終わった後に、彼女がカウンターでコーヒーを飲んでいたので「楽しめましたか?」と声をかける。彼女は笑顔で「はい」と。
なんとなくその後もその場にいた皆さんで話をし、流れでそのまま飲みに行くことに。深夜にも関わらず開いている、かなり隠れ家風のいい店にアートスペースのオーナーが連れて行ってくれました。この日出会った皆さんも本当いい人達で清々しくて、面白くて、「今日このライブに呼ばれてよかったな」なんて思っていました。
コントラバスの目の前で聴いていた子のことが気になっていました。実際、彼女は中国で出会った美芸によく似ていたんです。後から聴いた話だと彼女は北京に四年いたとのこと。中国(とは言っても広いですが)の発音がちょっと残っているせいか、彼女の口調とすごく似ていました。そして、美芸と持っている空気が似ていました。その日はそういう印象が強かったように思えます。彼女はファッションデザイナーで、彼女もまたアーティストです。
食事が終わった後、我々は解散。ライブをしたアートスペースは泊まれる場所もあって、自分はそこに戻りました。そして寝る前、彼女に「また近々会いましょう」とメッセージを送る。向こうも「そうしましょう」という感じで結局、その翌日に我々はまた会うことに。夕方まで練習をした後、このアートスペースのスタッフの男の子と一緒に食事をし、新竹を案内してもらった後、結局夜中まで酒を飲んでいました。いい日でした。自分はこの日彼女に会うためだけに新竹に一日長く泊まっていました。
翌朝目覚めると彼女から「もし今日練習をしているなら見に行きたい」メッセージがきていました。というわけで、我々はその日も会うことに。自分はこの日に台北に戻りましたが、結局出会ってから6日間で我々は5日間も会っていたんです。その翌々日、彼女が台北までわざわざ来ました。その後に向こうが台北に来ることもあって、我々はもう既に恋人のような関係にあります。恋人ではありませんが。
彼女はすごく台湾人らしい人だと思っています。この前日記に書いたような純粋性を保っていて、まるで子供のようです。自分がコントラバスを弾いている時、彼女が自分の演奏を見ている顔は、路上でよく見かけるコントラバスを聴いている子供達の顔と似ています。そして、自分が練習していると聴きたがり、「コントラバスを弾いてもいいかな?」と向こうが言うと平気で一時間近く楽しそうに弾きます。色んな人にコントラバスを弾かせることはありますが、彼女程コントラバスを長く手放さなかった人は見たことありません。その弾いている様子もまた、子供のようです。
台湾の路上では愛し合っているカップルを多く見かけます。今までは他人事でしたが、今回彼女と出会ってから彼らの気持ちがよく分かったような気がします。恋愛においても、台湾人の純粋性は貫かれています。そのせいか、時折路上で見かけるカップルは、なんだか中高生のようにも見えたりします。
今回、この期間でこういう関係になってしまったことに躊躇しているんです。というのは、この前まで好きだった花蓮で出会った子のことをまだ気にかけていることが大きな一つの理由です。
花蓮で出会った子との日々は嵐のようでした。我々は一緒の場所で生活していたこともあって、花蓮と都蘭で多くの時間を過ごし、その後自分は彼女を日本にも連れていきました。このあたりの日記は公開していませんが、いいことも悪いことも多くのことを感じ、とても忘れられない記憶です。
彼女と出会って3-4ヶ月の間に大きな衝突も小さな衝突も幾度もあり、結局自分はもう疲れ果ててしまいました。というか、我々の目指す方向は違うということがこの期間によく分かったんです。同じ方向を向く努力をできるだけの忍耐が自分には無かったと言った方がいいかもしれません。自分は冷たい人間であることは自分がよく知っています。
彼女は先に台湾に戻り、自分は後で戻りましたが、日本以降会っていませんし、彼女からきた連絡にもちゃんと返事ができていない状態にあります。彼女が望むかは分かりませんが、一度いつか会うべきだろうな、とずっと思っていました。そういうわけで、毎日彼女のことは気にかけています。
また、彼女のことをそういう風に思う中で、今までの恋愛のことも思い出し、色々と考えていました。その内容が今躊躇しているもう一つの大きな理由です。
どこかに書いたかもしれませんが、自分は半年以上人と付き合えたことがありません。そして、過去の恋愛のことを思い出す度に思うんです。「一体あの時あういう風にしていたことで、今の自分に何が残った?」そう考える度に傷跡と罪悪感以外に何も残っていないことを感じるんです。数少ないですが、幸福を感じた時間も、もちろん覚えていないわけではありません。ただ、幸福感というのは持続しません。傷跡は持続するのに、幸福は持続しないというのは人間の大きな欠点であるように思えます。
昔とても好きな女性がいました。ただ彼女と付き合うことは結局できませんでした。今でも彼女のことは時折思い出しますし、稀ですが夢にも出てきます。この前彼女と会う夢を見ました。そしてその夢の中で彼女が一言「会いたかったよ」と言ったんです。その瞬間に視界全ては真っ白になり、光に満ちていて、全てが救われたような気さえしました。あんなに光に満ちた夢はこの時が初めてです。
たった一人のたったの一言で、ここまでのことが起こる。そのことは驚くべきことですし、このことを通して自分の奥底を自覚し、またとても馬鹿馬鹿しくも思えてきました。実際現実世界で彼女が自分に言ったことは「(あなたが私を好きでいようがいまいが)どっちでもいい」でした。あの一言を聞いた時程、苦しかったことはありません。その後は生まれて初めて不眠症にも悩まされ、大量の切れ毛まで発生しました。
もちろん今でも彼女に対して特別な感情はありますが、恋をしているわけではありません。恋をしていないのに、こんな夢を見てしまうのは、あの時の傷跡が自分に今でも深く刻まれていているからです。幸福は残らず、傷跡だけはいつまでも残ります。自分が夢の中で聞いた「会いたかったよ」はその傷跡を消したいという自分の願望の表れなのだと思います。
すごく若い頃、何度か付き合っていた彼女からフラれました。当時は苦しかったです。自分が本当に何を求めているのかよく分からず、そういったことが苦い経験を引き起こします。当時はコントラバスにも出会っていなかったので、恋愛の方に対するエネルギーは今よりも圧倒的に強かったように思えます。
歳を重ねるごとに人間はお互いの色の違いが如実になってきますが、逆に若い頃はそういった色が皆弱く、皆似て見えます。それに、当時は自分にそういった色の違いを見極めるだけの目も無かったため、自分とは進む道が違う女性のことを好きになることが大半でした。そして、そういう女性と付き合うと大半は「重い」と言われフラれていました。その度に、深い傷跡を重ねていたものでした。今その付き合っていた子達をFacebookなどで見ると、フラれるのが当然なのはよく分かります。我々はあまりにも見ている方向が違います。今ではお互いの色が濃くなり、もはや全く別世界の人々です。
自分の恋愛経験の初期はそういったことばかりでした。そういった経験からか、その後、自分は相手に別れを告げるとホッとしているところがあります。この点は自分の大きな問題だと思っています。ただ、自分の持つ傷跡がこういった問題を根深く植え付けていて、もはや自分の人格とイコールで、解決できるものでもないとも諦めてもいますが。
罪悪感はより深まります。傷跡の苦痛を知っていながら、傷跡を相手に引き受けさせることで、自分が傷跡を引き受けることは回避させているという意識があるからです。もちろん、傷を持つことを回避するために別れを言うわけではありませんが、結果的にはこういうことになっています。この一連の心情が自分に強い罪悪感を抱かせます。
過去の恋愛を思い出した時、そういった傷跡と罪悪感の集積が自分が過去の恋愛を思い出した時に起こってくる感情です。だから、「一体何が残った?」と思うんです。
花蓮にいた頃、前まで好きだった女性と衝突が起こり、その時にこんな日記を書きました。
-------------------------------------
日記(7/29)
自然にも音楽にも自分は大きな喜びを見出せます。それは自分が消えていく感覚です。ただ、恋愛はどうだろうか。うまくいっている時、相手と一体になっている喜びを感じます。ただ、その時自分は消えているのだろうか。むしろ相手を欲する自分が強まっているのではないだろうか。そして、こういう悪い状況になると見えてくるのはひたすら自分です。自分の感情が自分という存在をどんどん膨らませてくる。通常状態の何倍も膨らんでくる。これは自分が最も望まない方向性です。昨日もたぶん書きましたが、自分の感情に自分がとてもじゃないけどもはや付いていけません。
最近は何かあると海に入るようにしています。海が聖域のように思え、海の中にいると少し心が落ち着くからかもしれません。今日は、もう正直海の中で何を考えていたか覚えていません。海の中で波に向かっていきながら時々声をあげながら、水面を殴るようにしながら、一時間くらいいたような気がします。最後、僕は海に向かって語りかけました。
「あなたに全てのことを話したい。私が海から生まれたとしても、神が海を作りその海が私を作ったとしても、いずれにしてもいつか私はあなたのもとに帰ります。ただ、あなたに帰る前に今は話を聞いてほしいんです。そして、もしよかったら何らかの教えがほしいんです。僕はただただこの世界と自分の関係性を知りたい。それは昔生きる意味を考えた末、全ては認識に基づくという結論を出して以来ずっとそうです。ただ、今改めて考えると、今自分は生きる意味などあまり考えていません。認識を重要視するようになってからは、この青臭い問いはもはやナンセンスに感じているのかもしれません。認識というものの中にこの問いは含まれているからかもしれません。では、自分は今何を求めているのでしょうか。」
「喜びでしょうか、幸福でしょうか、快楽でしょうか。喜びはよく分かります。幸福はよく分かりません。快楽は何も残しません。自分が喜びを感じる瞬間はよく分かります。それはあなたと一体になる瞬間です。その時自分はいなくなる。僕は今まで度々そういう経験をしてきました。そして、その瞬間のために生きている気さえします。世界を知るということと世界と一体になるということと私がいなくなる、ということ、それらは僕にとって全て同じことを意味しています。それを本当に知るためには一体にならなければならず、一体になった時私という存在はいなくなります。では、この喜びの先にあるのは何なんでしょうか。。。」
「きっと、救済という言葉が最もしっくりきます。世界と一体になる時、私という存在は薄れ、その時救済は成立します。救済ということの意味はきっと、この自我からの解放です。よく分かりません。生まれてきて、別に不幸だとも思っていない、むしろ恵まれているとさえ感じる中で、どうして救済を求めるのか、よく分かりません。ただ、明らかに自分は救済を求めています。世界を知るということは、世界と一体になることであって、その時自分は消えます。だからこそ、救済は成立するんです。僕が感じる喜びの意味はきっとこういうことなのだと思います。」
喜びと救済を繋げて考えたのはこの時が初めてでした。海が教えてくれたのだと思っています。
海の中で長時間過ごしていた自分は体力を失い、しばらく太陽を浴びながら横になり、廃墟に練習をしに向かいました。海を眺めながら、その響きのいい空間で演奏をしていると心はどんどん穏やかになっていきました。この世界との連続性を確認できたからです。演奏は感情を昇華し、自分という存在の時間軸上の現在の一点と世界の空間時間の広がりを繋げます。さっきまであれほどまでに荒れていた心はすっかり穏やかになっていました。
もう分かっています。楽器は間違いなく自分を救済へ導いてくれます。他人に聴いてもらうためでも、いい音楽を作るためでもなく、ほとんどそのために楽器を弾いています。僕はそのことをもっと自覚した方がいいかもしれません。そして、今この状況においてとても特異なのは、その廃墟が自然との繋がりを容易に達成できる空間であることです。僕に必要なのはこの部屋です。他のどんなことよりも、コントラバスとこの部屋だけは信用できる。この場所が理想郷に思えるのはこの部屋の存在です。
恋愛はどうなのだろうか。認めたくはないですが、自分が求めるものではないのかもしれません。恋愛を通して見えてくるのはひたすらに自分です。ひょっとしたら喜びを感じている瞬間さえそうなのかもしれません。だから、その先に救済はあり得ないように思えます。もちろん、自分が無くなるような恋愛を実現することができれば救済は成立するかもしれませんが、そういった感情を抱いたことは未だかつてありません。
-------------------------------------
この時の日記に書いていることは信じられます。恋愛を通して感じるのはひたすらに自分です。そして、こういった形で自己を感じることは自分が向かっていきたい方向とは全く逆のことです。イサのことが終わり、そういった考えに対する確信は増しました。少なくとも、より確実なものであると思ってきました。
そんな最中に今回出会った子は現れ、もう引き返せないところまできてしまいました。だから、頭の中は混乱しています。また、彼女は時折、昔傷つけた恋人と似た表情をします。その顔を見る度、自分はまた相手を傷つけてしまうかもしれない、という恐怖さえ感じます。彼女はとてもとてもいい子であるからこそ、なおさらに怖く思います。
彼女は最近8年付き合っていた恋人と別れたとのこと。自分と出会うまで、その悲しみの中にあったと言います。今何を肯定していいのか分かりませんが、彼女が自分を通してまた新しい気分になれたことだけはよかった、と思っています。八年など自分には想像もつきません。彼女は別れた後「空っぽを感じていた」と言います。
色々と書いてしまったので、誤解されないように書いておきますが、もちろん彼女に自分も好意を抱いています。ただ、それ以上に様々な感情が起こっているということです。こういった気分が続く限り、彼女とは恋人にはならないと思います。というか、今の気持ちとしては、旅をしている限り恋人は作りたくはない、と最近はずっと思っています。
新竹ではピンティーも一緒にいました。彼女は先に台北に戻り、遅れて台北の陽明山に戻ると彼女は言います(我々は同じところで生活しています)。「純はあの子のことが好きでしょう?」。思わず笑ってしまいました。自分は「たぶん、そうだよ」と。この子は本当いつも何でも分かっています。
この日記にもたくさん書いてきましたが、台湾に来た初期の頃から多くのことを共有し、同じ時間を過ごしてきたのは彼女でした。自分は11月7日生まれ、彼女は5月7日生まれで、我々はちょうど半年だけ違って生まれてきたことになります(歳は自分が一つ上です)。そのせいかもしれませんが、彼女は歳の同じ兄弟のように思えます。姉でも妹でもありません。
最近、自分は本当に彼女を必要としているんだな、と改めて感じています。路上演奏が終わって山に戻って来て、彼女とビールを飲みながら話す時間はとても大事な時間です。毎晩彼女とは話したくなります。我々は話がいつもつきません。彼女の観点はいつも面白く、会話は進みます。
また、自分が彼女を必要としているだけでなくて、彼女のためなら何でもしたいと思います。つまり、彼女には愛を感じます。ただ、恋という感覚は全く抱きません。これだけ一緒のところで生活しているのに、男女としてのことは一切無い。お互いそういったことに関しては手が早い分、我々の間に何も無いことはお互いにとってとても特異なことです。
恋と愛はいつも自分にとって別物です。だから、恋愛という単語には違和感を感じます。きっと、愛を抱くには時間が必要なのだと思います。ただ、自分の恋はいつも長く続きません。だから、恋と愛は今まで交わったことがないのだと思います。そんなことを、今している恋についてピンティーと話す度に考えています。
新竹で出会った子とこの前話していました。自分は彼女に対し、「恋人がいないと恋人が欲しいと思うか」という質問を投げかけました。自分はそうは思えず、そういう気持ちがよく分からないからです。彼女は言います。「そうかもしれない。ただ、問題は恋人がいるかどうか、ということではないの。私はただ愛がほしい。」
彼女はシュガーグライダーというムササビのようなペットといつも一緒にいます。ピンティーはこの前言いました。「もしあなたがあの子を相手にするのなら、彼女があのペットに常日頃注いでいるような愛情をあなたは彼女に注がなければいけない。」ピンティーはいつも痛い程正しいです。