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 30年ほど前に古典研究を決意して、おおまかに解読計画を立てたのですが、ガウスの『アリトメチカ研究』は読まなければならない古典の筆頭で、古典中の古典、大古典でした。それで「ガウスを読む」という方針はすぐに決まり、それからもうひとつ、アーベルの論文「楕円関数研究」も必読の文献でした。この二つについては迷いはなかったのですが、どこまで手を広げたらよいのかと考えると、なんだか茫漠とした思いに心が覆われたものでした。
古典研究ということになれば原典をそのまま読むのが基本中の基本の作業になりますが、数学の原典というのはいったいどれくらいあるのでしょうか。オイラーの全集は80巻を越えてなお未完結。ラグランジュの全集は全14巻。ガウスの全集は全12巻、14冊。ガウス以降の数学者たちの名を回想すると、アーベルを筆頭にして、ヤコビ、アイゼンシュタイン、ディリクレ、ヴァイエルシュトラス、リーマン、クンマー、クロネッカー、デデキント、エルミート、ポアンカレ、ヒルベルト等々と、偉大な数学者たちの名が次々と念頭に浮かびます。オイラー以前にも数学者はいて、ライプニッツ、ベルヌーイ兄弟(兄とヤコブと弟のヨハン)、フェルマ、デカルトなどという人たちは、微積分の形成史を考えるうえでどのひとりも欠かせません。これに加えてニュートンなども気に掛かるところです。この広大無辺の文献の山を、どうしたら読破することができるのでしょうか。
 デカルトの前はどうかというと、古代ギリシアの数学が重い意味をもっています。遠い昔のギリシアの地で長い時間にわたって数学的思索が重ねられ、西欧の近代になって、それらに関心を寄せる人びとが相次いで現れました。デカルトはヒッピアスの『数学集録』を読み、代数学を根底に据えた新しい方法を提案して、未解決問題を解いたり、いっそう簡明な解法を提示したりしたのですが、この試みが継承されて西欧近代の数学の土壌に古代ギリシアの「曲線の理論」が復興し、ライプニッツにいたって微積分の創造という重大な出来事に結実しました。そのうえデカルトやライプニッツには、数学を支える形而上的思索の山も伴っています。
フェルマはバシェが作成したディオファントスの『アリトメチカ』のギリシア語とラテン語の対訳書を読んで、広い余白に48個のメモを記入したのですが、それらは西欧近代の数論の泉になりました。
こんなふうに考えていくと、古代ギリシアの数学を全体として学ぶのが第一歩。デカルト、フェルマとたどってライプニッツ、ベルヌーイ兄弟あたりまでをたどるのが第二歩。それからオイラー、ラグランジュと進むと、これで18世紀の数学が概観できそうです。これで第三歩。
ラグランジュの影響のもとで、フーリエ、ルジャンドル、ポアソン、コーシー、ラプラス等々、フランスに一群の数理科学者が育ちました。その姿を概観することができれば、これで第四歩になります。同時期にドイツにはガウスがいて、それからほぼ19世紀の全体を通じてガウスの継承者が連綿と続いたのは既述の通りです。その様子を概観するのが第五歩になります。
 これだけで西欧近代の数学史が尽くされるわけではありませんが、ひとまずこんな計画が立てられそうです。ただし、あまりにも広大すぎて、とても実行できそうにありません。

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アリトメチカに数論という訳語をあてはめるのは当初からどうも気が進まなかったのですが、そうかといってよい対案を持ち合わせていたわけでもありませんので、当初は広く行われていた流儀にならって、ガウスの著作の書名を『数論研究』と訳していたものでした。平成7年になってようやく翻訳書の出版にこぎつけて、それに先立って関係者の間で書名をどうするかという話し合いが行われたのですが、曲折の末に『ガウス整数論』という穏当な書名に落ち着きました。
 翻訳書の書名はこれでよいと思いますが、「アリトメチカ」と「数論」の関係はそれからもいつも心に掛かり、書名の訳語としてはやはりこれではまずいのではないかという考えに傾いて、このごろはガウスの著作は『アリトメチカ研究』、ルジャンドルの著作は『数の理論のエッセイ』と使い分けるようにしています。それでまた気に掛かるのは、ルジャンドルがアリトメチカという伝統的な用語に変って新たに「数の理論」という言葉を提案したのはなぜかということですが、本当のところはよくわかりません。ルジャンドルに先立ってラグランジュの論文の中に「数の科学」という言葉をみいだしたことがあり、あるいはこんなことがルジャンドルに影響を及ぼしたのだろうかと思ったこともありますが、ラグランジュはアリトメチカという言葉もごく普通に使っています。
 アリトメチカという、古代ギリシア以来の伝統を負う言葉を捨てて、数論という即物的な用語が提案されたということの背景には、もしかしたら18世紀から19世紀へと移り行くころに、数学の世界全体において起りつつあった大きな動きの片鱗なのかもしれません。ほかにもいろいろな事例が挙げられるとよいのですが、ここではとりあえずそのような問題がありうることのみを書き留めておきたいと思います。


昔、はじめて『方法序説』をひもといたときは特別の感想を抱くこともなかったのですが、このたびの再読ではわかりそうなところが大幅に増えていましたので、われながら驚いたことでした。それで、わかるとかわからないとかいうのはどのようなことを指してそのように言うのだろうと再考してみると、デカルトには数学において何事かをなそうとする強固な意図があり、その心情を理解し、共鳴することができたときに、もう少し正確に言うと、共鳴することができたと思えたとき、そのときはじめて「わかった」という心情に襲われるのではないかと思います。自分ひとりが「わかる」のではなく、「デカルトといっしょにわかる」という感じでしょうか。
 このようなわかり方はライプニッツやオイラーの場合にも同様です。無限小量がわかるというのはどのようなことかというと、無限小量そのものを多少とも合理的に説明することではなく、無限小量、すなわちどのような量よりもなお小さい量という不思議な量を考える事態に立ちいたったライプニッツの心情を理解するということです。関数がわかるというのは関数の定義を具体例を挙げて説明したりすることではなく、関数を提案することを要請されたオイラーの心情を理解することにほかなりません。数学の勉強を重ねているうちに、だんだんとそんなふうに考えるようになりました。
 もともと多変数関数論の勉強を通じて数学の世界に分け入っていきましたので、「関数とは何か」という問いはもっとも根源的な意味合いを帯びています。この問いを立てるとオイラーが気に掛かるのですが、古典研究の計画を立てた当初はオイラーの名は計画表に記入されていませんでした。多変数関数論の出発点を見たいと強く願っていましたので、おおよそガウスとアーベルあたりからはじめればよいだろうというほどの考えで、具体的にはガウスの著作『アリトメチカ研究』とアーベルの論文「楕円関数研究」を読むことから始めました。この選択には高木貞治先生の著作『近世数学史談』の影響も働いていたように思います。
 ガウスの『アリトメチカ研究』の原書名はDisquisitiones Arithmeticaeというのですが、ここにはたった二つのラテン語しかありません。disquisitionesは「研究」という意味の名士の複数形ですので、この単語については問題はありません。arithmeticaeは名詞のように見えますのでつい「アリトメチカの」という訳語をあてたくなるのですが、実は形容詞です。それで、ガウスの著作の書名は「アリトメチカに関するいろいろな研究」というほどの意味合いになりますが、ここにおいて問題になるのはアリトメチカの一語です。
 この言葉自体は古いギリシアの数学にも現れているもので、全13巻で編成されているユークリッドの『原論』でも、第7、8、9巻はアリトメチカにあてられています。「数の理論」という意味ですので、日本語の文献ではガウスの著作はよく『整数論考究』『数論研究』などと書かれています。これでもよいのですが、もう少し考えてみると、今度は「整数論」とか「数論」という言葉が気に掛かります。この言葉の原語は英語ならTheori of NumberやNumber Theoryが該当します。フランス語でもドイツ語でも同類の表記になりますが、西欧近代の数学史での最初の使用例はルジャンドルの著作“Essai sur la theorie des nombres”(数の理論のエッセイ、1798年)の書名です。ここに見られるtheorie des nombresという語句をそのまま訳出すると「数の理論」になりますが、実はこれが西欧近代の数学史における「数論」という言葉の初出です。
 古代ギリシア以来の伝統を背負うアリトメチカという言葉は次第に使われなくなり、代わって「数論」が広く受け入れられるようになりました。ガウスの著作に見られるアリトメチカの一語に「数論」という訳語を当てるようになったのもそのためですが、「アリトメチカ」は伝統を負い、「数論」にはルジャンドル個人の意志が働いていることに鑑みると、「数論」に統一するのはあまりよくないようにも思います。

関数と曲線の話が長々と続きましたが、どうしてこんなことになったのかというと、一昨年あたりからデカルトの『方法序説』を読み始めたためです。といっても、「序説」はともかく三つの試論のうち「気象学」と「光学」は難解ですし、もっぱら「幾何学」に読みふけりました。読みふけるとはいうものの、わかりそうなところはおもしろいので何度も読み、読み返すとそのたびに理解がふかまっていくような気がしてうれしく思いました。その反面、わかりそうもないところは(このあたりは読んでもわからないだろうと、ちょっと見るだけでなぜかわかってしまうものです)何度読んでも同じことで、全然わかるようになりません。
 このあたりの消息は謎めいていて、どうしてそうなのか自分でもよくわからないのですが、ひとことで言えば「わかるところしかわからない」ということです。それならどうして今ころになってデカルトを読もうと思い立ったのかというと、なんだか今ならわかるかもしれないと思ったからです。実際に読み始めてみると実におもしろく、(わかりそうなところに限ってのことですが)とてもよくわかりました。
 これだけではまだデカルトを読み始めた理由を語ったことにはなっていませんが、根本的には「微積分とは何か」という問いに対し、自分なりに答えたいという思いがありました。微積分とのおつきあいは長いのですが、端的に「微積分とは何か」と自問すると、簡単に答えられるようでもあり、案外むずかしいようでもあり、いつもあいまいになりがちでした。微積分を解説する本は汗牛充棟、山のように存在しますが、どれを読んでも判然としませんでした。それでいつか自分で微積分の歴史をたどってみたいと思っていたのですが、このあたりが出発点であろうと想定されたのはやはりデカルトでした。原亨吉先生の翻訳で読んだのですが、意味を取りにくいところに出会ったときは原文を参照して考えました。
 デカルトの『幾何学』のおもしろさは無類だったのですが、考えてみるとこの本のことは昔から気に掛かっていました。何度も読もうとしたのですが、読んでもわからないだろうという気持ちが先に立って実行に移せませんでした。どんなことでも、わかりそうになる時期にならないとわからないものです。
 デカルトは大昔のギリシアの人パップスが編纂したと伝えられる『数学集録』という書物を読み、古代ギリシアの作図問題を観察し、未解決のまま放置されていた一系の問題を知りました。それらを代数の力を借りて解こうとした試みの軌跡が『幾何学』の契機になっているのですが、深い感銘を受けたことが二つあります。ひとつはデカルトが千数百年もの時空を越えて古い数学書に向き合い、継承しようとしているという事実です。『幾何学』を読むということは、古代ギリシアの数学が西欧近代の土壌に移されつつある現場に立ち会うことになるのですが、デカルトはどうしてこのようなことができたのでしょうか。考えるほどにいかにも不思議です。
 それからもうひとつ、代数の力を借りるというアイデアも驚嘆に値します。代数の歴史も細かく見ればいろいろなことを言わなければならいのですが、デカルト以前の段階で特筆に値するのは16世紀のイタリアで3次と4次の代数方程式の解法が発見されたことであろうと思います。デカルトはこのわずかな事実に励まされて前進する勇気を与えられたのであろう思いますが、それもまた実に大胆な行為です。あるやなしやというほどのささやかな事実に秘められている巨大な氷塊を見ることのできる不思議な能力をもつ人が、数学史にはときおり現れます。デカルトはまさしくそんな人びとのひとりでした。


曲線に接線を引くといっても、紙の上に手書きででたらめに描いた曲線に接線を引くことはできません。デカルトはシソイドやコンコイドに法線を引きましたが、それはこれらの曲線を表す方程式から出発したからでした。フェルマはサイクロイドのような超越曲線に接線を引く独自の方法を考案しましたが、それは直線上に円を滑らないように転がすという、サイクロイドの描き方がはっきりしているからです。この点はライプニッツの場合にも同様で、ライプニッツの万能の接線法の対象でありうるためには、その曲線が何らかの式で表されている必要があります。
 クザーヌスのアイデアを採用して曲線を無限小辺無限多角形と見ることにすれば、接線の観念は確かに定まりますが、それだけでは計算に乗りません。計算に乗せていくには曲線を方程式で表すことが必要で、この点ではデカルトとライプニッツは一致しています。ここまでくれば「万能の接線法」までは一歩の距離でしかありませんが、それは語るのは当面の目標ではありませんので、接線法についてはこのくらいにしておきたいと思います。
 昔日、数学の勉強を心がけるようになった当初から、数学という学問におもしろさを感じることができないために大いに困惑したことはだいぶ前に述べた通りです。曲線と接線を定義して接線を引くための計算法に習熟しても別段、おもしろいことはありませんが、古代ギリシアの未解決の作図問題に向き合って、新たな曲線の概念を模索して挑戦するデカルトの姿には感銘を受け、共感を覚えます。そのデカルトを批判して、超越曲線をも幾何学的曲線の仲間に入れて、逆接線法の世界に求積法を包み込もうとしたライプニッツの思索にも心を打たれます。デカルトとライプニッツを受けて、オイラーは関数の一般概念をもって曲線の世界全体を把握しようとしたのですが、そのねらいは変分法にありました。
 デカルトの代数曲線もライプニッツの超越曲線もオイラーの関数も抽象的といえば確かに抽象的ですが、これらの抽象には抽象のねらいがあり、抽象の風呂敷にいっぱいに具象が詰め込まれていますので、抽象が抽象に感じられません。デカルトは幾何学的曲線とは何かという問いを立てたのだろう、代数曲線に限定したのはなぜなのだろう、ライプニッツがデカルトのどこに不満を感じて批判したのだろう、オイラーはなぜ関数などというものを考えたのだろう、等々と考えていくと、歴史研究の意味合いがこの手につかめてくるような感慨を覚えます。
 数学はやはり「人が創造する学問」です。曲線とは何か、関数とは何かと観念的に問いを立てるのではなく、デカルトならどう言うだろう、ライプニッツならどうか、はたまた
 オイラーは、というふうに、数学の創造に携わった人びとのひとりひとりに聴いてみなければならないのではないかと思います。数学史研究への道がここに開かれていきます。


具象の詰まった抽象と具象の伴わない抽象の話の途次、一例を挙げるつもりで関数と曲線の話を始めたのですが、オイラーからさらにさかのぼってデカルトや古代ギリシアの話になってしまい、おもいもかけない長丁場になってしまいました。ここまでのところをひとまず要約すると、次の通りです。
○ 曲線の定義はなくてもいろいろな曲線が存在した。
○ デカルトは曲線の定義が必要な数学的場面(具体的には、与えられた線の本数を任意にして、n線の軌跡問題の解決をめざしたことが考えられます)に直面し、「代数方程式で表される図形」という定義を与えた。
○ 接線法もしくは法線法の確立が要請されるのは曲線の定義が一般的(抽象的と言ってもいいかもしれません)になり、形状を把握するための一般的方法が必要になったためである。
これで曲線の定義のひとつが登場しましたが、曲線の定義は接線法とセットになっていることに、くれぐれも留意したいとことです。
 デカルトは自分が定義を書いた曲線を特別の名前で読んだわけではなく、代数曲線という呼称を与えたのはライプニッツです。この呼称は超越曲線と対をなすのですが、ライプニッツもまたデカルトのように「幾何学に受け入れることのできる曲線とは何か」という問題を考察し、ある特別な理由があって、幾何学的曲線を代数曲線に限定することができなくなったのでした。その理由というのは求積法のことで、ライプニッツは曲線に囲まれた領域の面積や曲線の弧長を求めるために逆接線法を適用する方法を考案したのですが、これを実行すると求積線と呼ばれる曲線が出現します。ところが求積線が代数曲線の範疇におさまるということはなく、ひんぱんに超越曲線になってしまいます。
 デカルトの関心はおおむね作図問題に終始して、求積法に関心を示した様子はほとんど見られません。ところが、ライプニッツのように求積法に関心を寄せて求積線を描こうとすると、双曲線の求積線は対数曲線になり、円の求積線は逆正弦曲線になるというふうで、さまざまな超越曲線が現れます。そこで超越曲線を正確に描くことが新たな課題になりますが、そのためにはまず超越曲線の一般概念を把握して、その後に接線法を確立しなければなりません。思索の構造の面ではデカルトの行き方が踏襲されています。
 超越曲線というのは代数的ではない曲線というだけのことですから、曲線の一般概念を規定しなければならないことになりますが、ライプニッツは15世紀のドイツの神秘主義的数強者クザーヌスの思想を汲んで、「曲線とは無限小の辺が連なって形成される無限多角形である」という見方を採りました。曲線をこのように見ると、曲線上の任意の点はあす無限小の線分に所属していることになりますが、その線分を無限に延長していけば、その点における接線が描かれることになり、状況はきわめて簡明です。
問題はその無限小線分をどのように把握するかということですが、ライプニッツはそれを斜辺とする無限小直角三角形を作りました。現実に作ることはできませんが、心のカンバスに描くのでしたら可能です。直角をはさむ二辺もまた無限小ですが、それらをdxとdyで表すと、斜辺はdxとdyの間の一次関係式によって表わされます。そこでdxとdyの関係を記述することが問題になります。これが究極の問いです。


幾何学に受け入れうる曲線を幾何学的曲線と呼ぶことにします。古代ギリシアでも曲線の分類ということは考えられていて、平面軌跡、立体軌跡、曲線的な線などという区分けがなされていました。直線と円は平面軌跡です。円錐曲線を認識するには円錐のような立体が必要になるというので、これらは立体軌跡です。古代ギリシアではここまでが幾何学的曲線で、ニコメデスのコンコイド、ディオクレスのシソイド、ヒッピアスの円積線、それにアルキメデスの螺旋は機械的な線とされて、幾何学的曲線の仲間に入れてもらえませんでした。
デカルトは曲線の分類という考え方そのものは継承し、そのうえで分類の仕方に批判を加えました。『幾何学』にはその思索の経緯が詳細に叙述されているのですが、デカルトが到達した結論はコンコイドとシソイドは幾何学的曲線の仲間に入れるが、円積線と螺旋は仲間に入れないというものでした。この区分けの基準は何かというと、方程式でした。
 平面上に曲線Cが描かれたとき、それを表す方程式を立てるというのがデカルトのアイデアです。それにはどうするのかというと、同じ平面上に一本の無限直線Lを引き、これを軸と名づけます。軸の上に任意に点Aを指定し、それを始点と呼びます。曲線C上の任意の点Pから軸Lに向かって垂線を降ろし、その垂線の足、すなわち軸との交点をMとします。軸の始点AからMまでの距離を測定してxで表し、推薦PMの距離をyで表します。これで曲線C上の各点Pに対して二つの数値xとyが配属されました。xとyをそれぞれ点Pの切除線、向軸線と呼ぶことにします。
 このようにしたうえで、xとyの間に成立する方程式を考えるのがデカルトのアイデアです。しかもデカルトはその方程式を代数方程式に限定し、方程式の次数により曲線を分類しようとしました。デカルトのいう幾何学的曲線はこのようなもので、後年、ライプニッツはこれを代数的な曲線、略して代数曲線と呼びました。
 円、円錐曲線、コンコイド、シソイドはみな代数曲線で、多項式f(x,y)を適切に選定すると、方程式f(x,y)=0で表されますが、逆に任意に多項式f(x,y)を取って方程式f(x,y)=0を書き下すと、何らかの代数曲線が描かれます。こうして非常に広大な代数曲線の世界が手に入りました。この世界では代数方程式がそのまま曲線なのですから、方程式のみを手掛かりとして、その方程式で表される曲線の形状を知ることが基本的な問題として課されます。
一例を挙げると、デカルトは、『方法序説』が刊行された1637年の翌年1638年に、
      x^3+y^3=3axy (aは定数)
という方程式を書きました。この方程式は、後年「デカルトの葉」と呼ばれることになる曲線を表しますが、その形状を正確に認識するにはどうしたらよいのでしょうか。こうして新たな問題に直面するのですが、「接線を自在に引けるようになれば曲線の形はわかる」というのがデカルトの所見で、この課題がいかに重要であるかということを、デカルトは『幾何学』の随所で繰り返し強調しています。
 円や円錐曲線のように具体的に描かれた曲線に接線を引くというのであれば、個別に工夫を凝らして接線を引くことができそうですが、方程式のみを手掛かりとして接線を引くというのは確かにむずかしく、まったく新しい、しかも一般的な方法を考案する必要があります。実際にデカルトが提案したのは接線法ではなく法線法ですが、接線が引ければ法線も引けますし、その逆も言えますから、接線法と法線法は実質的の同じことになります。細かな話をするときりがありませんが、おおよそのことを言うと、デカルトの法線法は代数方程式の重根条件に基づいています。
 デカルトは曲線とは何かという問題を「幾何学に受け入れることができるかどうか」という点に足場を求めて考察し、代数曲線をもってこの問題に答えました。法線法もしくは接線法への関心は微分法の出発点になりライプニッツによる「万能の接線法」への道を開きました。


数学という学問を成り立たせているのはひとりひとりの人のアイデアであり、そのアイデアは何事かを知りたいという心から生まれることを、関数と曲線をめぐるオイラーの思索の姿はよく物語っています。オイラーが曲線を知るために関数の定義を試みたように、数学における定義は何かしら知りたいことを知ろうとする思索の試みなのですから、重要なのは定義の文言そのものではなく、定義の表明を要請された人の心です。
その際、認識の対象は定義に先行して実はすでに存在しているということも重要なポイントです。存在するものを認識しようとして定義が生れるのであり、何ものも存在しない場所に唐突に言葉が語られて、それによって何かが生れるということはありえません。
認識の対象は明瞭に感知されていることもあれば、新たに発見されることもあります。後者の場合の事例を思うと、なんだか考古学みたいな感じがします。
 曲線を例にとって、この間の消息をもう少し具体的に語ってみたいと思います。曲線が存在するのに定義が不可欠というわけではなく、定義はなくても曲線はいわば先天的に存在します。古代ギリシアの数学を回想すると、定規があれば直線を引くことができますし、コンパスを使えば円を描くことができます。円錐を平面で切れば、切り方に応じて、切り口に放物線、楕円、双曲線という三種類の曲線が現れます。これらは円錐曲線と総称されています。ニコメデスのコンコイド、ディオクレスのシソイド、アルキメデスの螺旋、ヒッピアスの円積線は有名ですが、それぞれ指定された描き方にしたがって精密に描くことができます。西欧近代の数学でもっとも有名な曲線はサイクロイドであろうと思いますが、サイクロイドは直線上に円を置いて転がせば描かれます。ここに挙げたいろいろな曲線を描くのに曲線の定義は不要です。
 曲線の定義はなくとも個別の曲線は存在するのですが、何かしら特別の理由が生じて曲線の一般概念が必要になることがあります。たとえば、デカルトの『幾何学』にはデカルトが直面した「特別の理由」が詳細に語られています。
 おおよそのところを回想すると、古代ギリシアの数学でいろいろな曲線が考案されたのはなぜかというと、作図問題を解くためでした。主眼は作図問題に注がれていて、曲線は作図問題を解くための手法として考えられたのですから、「曲線とは何か」というような形而上的な問題は出る幕がありません。三大作図問題と総称される三つの問題、すなわち、円の方形化、角の三等分、立方体の倍積の問題もそんなふうにして解けたのですが、「3線・4線の軌跡問題」のように、解けなかった問題もあります。この問題も作図問題ですが、一定の条件を課して、その条件を満たす点の軌跡はどのような曲線になるかということが問われています。3線・4線の軌跡問題の場合は、答は円錐曲線になるだろうと予想するところまでは追い詰めることができましたが、正確に確認するにはいたりませんでした。
 このようなことがパップスの著作と伝えられる『数学集録』に記されているのですが、西欧の17世紀になってデカルトがこの書物を読んだところから微積分の歴史が流れ始めました。
 デカルトには独自の解析幾何学のアイデアがあり、それに基づいて3線・4線の軌跡問題を解くことができました。答は円錐曲線になり、パップスの書物で予想されていたことが確認されたのですが、デカルトはさらに歩を進めて、5線、6線以下、一般n線の軌跡問題さえ考えようとしました。曲線とは何かという問いが大きな問題になるのはこの場面においてです。なぜなら、n線問題の答はどのような曲線になるのか、まったくわからないからです。
 古代ギリシアの数学で提案された問題に関心を寄せ、解けなかった問題を解くだけに留まらず、さらにその先に開かれていく問題を考えようとするところに、西欧近代の数学の特質が現れています。それでデカルトはどうしたのかというと、「幾何学に受け入れることのできる曲線とは何か」というふうに問題を立て、思索を重ねました。いかにも形而上的な問い掛けですが、考察しようとしている問題の一般性が高まっているのに対応して、必然的に現れる現象です。

オイラーにとって代数方程式の代数的解法を確立することがきわめて重要な問題になった事情は前記の通りですが、ここには数学の問題が発生する理由の典型が現れています。16世紀のイタリアの数学者たちが3次と4次の代数方程式を解こうとしたことには、特に深い理由はなかったのではないかと思いますが、それなら引き続き5次、6次と、高次方程式の解法の探究に自然に向かうのかというと、そのようにはなりません。
形式的に問題を作るのではやはりだめで、オイラーのように明確なアイデアをもって数学に立ち向かうとき、そのときはじめて行く手をはばむ高い壁が出現します。それを乗り越えていこうとするところに数学の問題が発生するのですが、壁を作ったのはほかならぬオイラーのアイデアなのですから、自分の心がみずから作り出した壁に自分自身がさえぎられていることになります。これを要するに「数学の問題は人が作る」ということです。
 自分が作った問題に行く手をはばまれて自分でかってに行き詰まっているのですから、だからこそいつまでも行き詰まって考え続けていることができるとも言えそうです。
 関数の話が長々と続いていますが、関数の出所来歴を語ろうと思い立ったのはなぜかというと、数学がわかったりわからなかったりするのはなぜかという問いを考えるための事例を挙げようとしたのでした。こんなに長引くとは思いませんでしたし、早く元の考察課題に手をもどしたいのですが、超越関数のことがありますので、もう少し続けたいと思います。
 関数を大きく代数関数と超越関数に分けるのはなぜかというと、曲線の世界が代数曲線と超越曲線に区分けされているからです。代数曲線を代数関数のグラフとして把握したいのと同様に、超越曲線は超越関数のグラフとして把握したいというのがオイラーの数学的意図なのですが、超越曲線というものの正体が不明瞭なだけに、超越関数の姿もまたなかなか明確になりません。超越曲線というのは代数的ではない曲線というほどのことで、具体的な事例を挙げると、正弦曲線や余弦曲線、対数曲線、サイクロイドなどは超越曲線です。ですが、具体例をどれほど書き並べても、それだけでは超越曲線の一般概念を把握するにはいたりません。
 超越曲線とは非代数的曲線のこととのみ理解するのであれば、それに対応して、超越関数もまた代数的ではない関数とのみ言うほかはありません。オイラーはいろいろな例を挙げていますが、sin x、cos x、tan x、e^x、log xなどを解析的表示式の仲間に入れてこれらを関数と呼ぶことにすれば、既知の超越曲線はたいてい超越関数のグラフとして認識されます。それでも関数の一般概念をはじめ代数関数についても超越関数についても今日のいわゆる厳密な定義は表明されていないのですから、その点を指摘して、オイラーは厳密ではないと批判する余地は確かにあります。ですが、オイラーには「曲線を関数のグラフとして認識する」というアイデアがあり、このアイデアを具体化しようとして関数の概念を模索しているのですから、オイラーにとってこの批判は意味をなさないと思います。

曲線の根底に関数の姿が見えたとして、それに言葉を与えることができれば関数の概念が定まります。オイラーの苦心はそこにありました。曲線の定義はなくても曲線は存在するのですし、関数の概念はなくてもオイラーの心の目には関数の姿がありありと見えたのでしょう。
 いくつかの定量と1個の変化量に対して代数的演算、すなわち加減乗除の四則演算と「冪根を作る」という演算を合わせた五つの演算を適用して組み立てられる式を代数的表示式と呼ぶことにします。解析的表示式を関数と呼ぶというオイラーの流儀によれば、代数的表示式をさして代数関数と呼ぶのがよさそうに思います。そこで、もし代数方程式がいつでも代数的に解けるのであれば、代数曲線は代数関数のグラフとして描かれることになり、代数曲線と代数関数の間にきれいな対応がつきます。
『無限解析序説』の第1巻の叙述を見ると、オイラーはこれを確信していたのではないかと思われますが、そのためには一般の代数方程式の代数的可解性を確認しなければなりません。代数方程式の代数的可解性が重要な問題として認識される基本的な契機がここにあります。もっともオイラーのように曲線の世界を関数概念により制御しようとするアイデアがなくても、代数方程式の代数的解法はオイラー以前のデカルトの時代からすでに基本問題でした。実際、代数方程式を代数的に解くことができて、根を表示する代数的表示式が手に入るなら、根の取り得る値を精密に算出することが可能になりそうに思えます。デカルトに先立って、タルタリア、シピオーネ・デル・フェッロ、フェラリのような16世紀のイタリアの数学者たちの手で、3次と4次の代数方程式の解法が確立されたことも、この試みに希望をもたらしたであろうと思います。
代数方程式の解法を試みた人は多く、デカルト、ベズー、チルンハウスなどの名が念頭に浮かびますが、オイラー自身もこの系譜に連なっています。後に、アーベルの「不可能の証明」が現れて、次数が4を越えると、一般の代数方程式の代数的解法は不可能になることが明らかにされました。その結果、代数関数は代数的表示式の範疇にはおさまらないことになりましたので、「代数関数とは何か」という問題は振り出しにもどったのですが、この問題それ自体は生き続けました。アーベルの後にリーマンが出て、「閉じたリーマン面上の解析関数」を指して代数関数と呼ぶというアイデアが提案されました。リーマンの考え方は今も継承されています。
 オイラーが解析的表示式をもって関数の定義にしようとして心情の一端はこのようなものでした。曲線を関数のグラフとして把握しようとするところに真意があり、このアイデアを具体化しようとして関数概念の表明に腐心し、解析的表示式という名に相応しい何ものかを提案されました。その肝心の解析的表示式そのものに定義がないという事態は、今日の目には厳密さの欠如と映じるのかもしれませんが、オイラーの関心事は自分のアイデアの成否にありました。もし代数的表示式が代数関数のすべてを尽くしているのであれば、オイラーは代数的表示式を明示して、それを代数関数の定義にしたにちがいありません。
 オイラーは新しいアイデアの具体化の途上にあったのであり、その姿を見て厳密さの欠如を指摘するのは正しい評価とは言えないのではないでしょうか。



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