「実は、30年前に整形外科医になったんですけど、手術が下手だったんです。それは、演奏の下手なピアニストぐらい致命的。それで研究者に方向転換したんです」
4月に開催された「新経済サミット2015」の基調講演で登壇した山中伸弥教授はそのように語り始めた。山中教授といえば、今では誰もが知るノーベル生理学・医学賞受賞者だ。血液などの細胞からでも万能細胞(iPS細胞)へと変化させる“スイッチ”を発見した功績が認められ、現在では京都大学iPS細胞研究所所長に就任している。
「手術が下手」なことから逃げただけではそのような成果を生み出すことはできなかっただろう。そこに至るまでどのような経緯があったのだろうか。山中教授の話に耳を傾けたい。
アメリカで教わった“V”と“W”
研究者に転向するために、アメリカに渡りました。そこで研究者としてのトレーニングを受けたのです。受け入れてくれたのはサンフランシスコのグラッドストーン・インスティテュートでした。そこで、トーマス・イネラリティ先生の指導のもと、ポスドクとしてトレーニングされました。
そこでのもう一つの大切な出会いは、当時の研究所所長 ロバート・マーレー先生との出会いです。そこでわたしは生涯モットーとすべき考えを学んだんです。
あるとき、ボブ(ロバートの愛称)がわたしたち若い研究者を集めて、「大切なのはVWだ」と述べました。当時も今も彼はフォルクスワーゲン(VWと略す)に乗っていて、わたしは今もそうですが当時もトヨタに乗っていたので「ああ、車からダメだなぁ」と思ったんですが、もちろんこれは車のVWのことではありません。これは「ビジョン(Vision)」と「ハードワーク(Hard Work)」のことです。
ハードワークについては、わたしは誰にも負けないくらい一生懸命に働いていたという自負がありました。でも、ボブから「Shinya, what’s your vision?」と尋ねられたとき、「いい論文を書くため」とか「いい職につきたいから」と答えたところ「伸弥、それはビジョンじゃない。ゴールだ。本当のビジョンは何だ? どうして医者をやめてアメリカに来たんだ?」と言われて初めて、あ、自分が研究者になったのは論文を書くためではなかったんだと思い出しました。
先程申し上げたとおり手術が下手だったこともあるのですが、それだけが理由で研究者になったのではありませんでした。
わたしは学生時代から柔道やラグビーをやっていまして、ケガをしょっちゅうしていました。幸い、わたしのケガはすぐに治るものばかりでしたが、周りではたった1回の脊髄損傷を負っただけで腰から下、首から下が動かせなくなるといった状態になってしまった人が何人もいました。
そうなってしまうと、わたしとは違い優秀な……どんなに優秀な外科医であっても治せない。もし将来治せるようになるとしたら、基礎医学研究に進むしかない、と思ったんです。
その言葉で、自分のビジョン――今治すすべのない脊髄損傷のような患者さんを何とかして治したい――を思い出すことができたんです。単純だけど非常に重い言葉でした。それ以来20年間はこの言葉とともに自分のビジョンを忘れないよう心がけています。こうして機会あるごとに“VW”という言葉をご紹介しているのも、実は半分以上は自分に言い聞かせるためのようなものなのです。
“万能な”細胞「ES細胞」との出会い
もう1つアメリカ留学中に出会った大切なものがES細胞です。万能細胞とも言われています。
これは、1981年にイギリスとアメリカの研究者がネズミの受精卵(エンブリオ)をお母さんネズミの子宮から取り出して、体外の実験室という環境で培養したものです。これを作るのに成功したマーチン・エバンス先生はノーベル賞を受賞しています。なぜ受賞したかというと、ES細胞が万能だったからです。万能といえば、スポーツ万能などという言葉があるように、何でもできることを指しますよね。
このES細胞も万能なので、何にでもなれます、どんな細胞でも作り出せるのです。さらにこの細胞には別の性質があります。それはほぼ無限に増やせるというものです。増やした後で神経や筋肉や皮膚、血液、身体に存在する200種類以上のあらゆる細胞を、しかも大量に作り出せる。これによって、ネズミのあらゆる部位を作ることができ、それを研究者が使えるというわけです。
ネズミはわたしたち医学研究者にとって最も大切な実験動物ですから、その細胞を、大量に、どんな細胞でも作れるというのは、医学研究・生物学研究にとって大変有意義なことです。だから、ノーベル賞につながったというわけです。
わたしはアメリカ留学中にこの細胞に出会って、それ以降20年間にわたってずっとES細胞をはじめとする万能細胞の研究に携わっています。
深刻な「米国後うつ病」に
留学して3年が経ちました。このES細胞の研究がおもしろくて、自分ではずっとアメリカでやりたいと思っていたんですが、なんと、一緒に来てくれていた妻が子ども2人を連れて日本に勝手に帰ってしまうという暴挙に出ました。わたし1人、アメリカに残されてしまいました。ちょうど上の娘が日本の小学校に入る歳になって、日本で教育を受けさせたいという理由から、旦那は二の次ということだったんですね。
わたしが1人になってしまい喜んだのは、ボスのトムでして、「伸弥! これでいくらでも研究できるな」と言われました。それでわたしも一生懸命研究しましたが……半年くらい頑張ったんですが……寂しくて、日本に帰ることにしたんです。
日本に帰ってもES細胞の研究で頑張るんだと張り切っていましたが、そういうわけにはいきませんでした。
サンフランシスコでは研究者も多く研究環境も申し分ないものだったので、ことがスムーズに運んでいたのですが、日本ではそううまくいきませんでした。
それに、先輩たちからも「山中先生、ネズミのなんたらいう細胞、研究としては面白いかもしれないけれど、もうちょっと人間の病気に関係したことをした方がいいんじゃないの」と忠告も受けました。自分の研究が理解されないというのは研究者にとってものすごく辛い出来事です。
そういうことを繰り返しているうちに、とうとう病気になってしまいました。「PAD」という病気です。聴衆の中にはお医者さんもいらっしゃることでしょうが、この病気が何かを知っている方はいないと思います。なぜなら、わたしたちが勝手に作った病名だからです。(会場笑い)
これが何かと言いますと「Post America Depression(米国後うつ病)」の略です。
これは結構大変な病気でした。ネズミの世話ばかりしていて、自分のビジョンが達成できるんだろうか? 手術が下手でも、もう一度臨床医に戻ったほうがいいんじゃなかろうか? と自分を追い込むまでになってしまいました。そのため研究もできなくなってしまったんです。
しかし、たまたまこの時期に生じた2つの出来事によってPADを克服することができました。
1つ目は1998年アメリカのジェイミー・トムソンという人が人間のES細胞を作るのに成功したことです。これは「再生医療」の切り札になるとして一気に期待が集まりました。当時のわたしが研究していたのは同じES細胞でもネズミのものでしたが、役に立つかもしれないと勇気づけられました。
もう1つは、奈良県にある先端科学技術大学院大学というところに採用してもらえ、研究室を持てたことです。待遇は今でいう准教授の助教授だったのですが、上に教授がいなかったので、それは「自分の研究室」でした。
大学院大学ですから、研究環境がアメリカくらい整っていますし、優秀な教員もたくさんいました。また、毎年全国から優秀な学生が大学院生としてやってくるという素晴らしい環境です。
この2つの出来事のおかげで患っていたPADを克服することができました。
そして1999年12月、緊張と喜びに包まれながら、この大学の門をくぐったことを今でも覚えています。
お金も業績もない研究室でどう生き残る?
さて、奈良先端科学技術大学院大学に行くと、すぐに大きな克服しなければならない課題が待っていました。それは自分の研究室にどうやって大学院生に来てもらうか、ということです。
ここには20個ほどの研究室があり、入学してくる120人くらいの大学院生たちが好きな研究室を選んで所属していきます。人気がなければ誰も行きません。
その頃のわたしはまだ若く、全然無名で研究費もほとんどないですし、有名な業績もありませんでした。大学院生がゼロだと非常に困ったことになります。この生存競争の中、どうやって生き残ろうかといろいろ考えました。
急に有名になれないし、急に多くの研究費ももらえない。そうだ、「ビジョン」だ! とひらめきました。ビジョンだったらすぐに持てます。
先ほど、人間の受精卵からES細胞を作るのに成功した、ということを申し上げましたが、そのためには人間の受精卵をバラバラにする必要がありまして、倫理上さまざまな議論が交わされていました。今でも反対派はいます。そんな状況では日本で医療のために使えません。
でも、わたしたちが目指しいるのは患者さんの役に立てる新しい医療をつくるということです。そのための具体的な目標を研究室のビジョンに掲げました。
それが、万能細胞を受精卵からではなく患者自身の皮膚や血液の細胞から作る、というものです。
みなさん、コンピューターを使われていると思いますが、あれは買ってきたばかりの時は真っ白でいろいろと後から書き込んでいきますよね。でも、リセットボタンを「ピッ」と押すとまたまっさらになり元に戻ります。
人間の細胞も、受精卵はまっさらな状態です。そこにいろいろな情報が書き込まれて皮膚になったり血液になったりします。きっと同じようなリセットボタンがあって、それを探して「ピッ」と押したら万能細胞になるんじゃなかろうか、という単純な発想ですが、これをビジョンに掲げました。
そして、4月に学生さんが入ってきて、彼らの前でこれとほとんど同じスライドを使って一生懸命アピールしました。
もちろん、これがどれだけ難しいかというのは、わたしも研究を始めて10年以上経っていたのでよく分かっていましたが、そういう難しいということは全く言わずにこれができたらどれだけ世の中の役に立てるか、というようなことだけをとうとうと語ったら、うまくいきまして、3人の学生さんが入ってくれました。ビジョンは僕が、ハードワークは学生さんたちがしてくれたおかげで、楽でした。(会場笑い)
そして、彼らのハードワークのおかげで20年から30年かかるかだろう、と思っていたのが、リセットボタンの発見がわずか6年でできました。当時、リセットボタンが1個ではないかと考えていたハーバードなどのグループでも同じ研究をしていましたが、わたしたちは複数あるだろう、と見当をつけて探していたのが良かったようです。
iPS細胞のネーミングはiPodのパクリだった
発見したら、今度は名前をどうしようか、という問題にぶつかりました。エンブリオ(受精卵)から作ったわけではないので、ES細胞とは呼べません。
ところでみなさん、日本人が発見したりし名前をつけたものってセンスが無いと思いませんか? そのために、アメリカとかイギリスの人が非常にセンスのいい名前をつけてしまうものだから、そちらが一般化してしまうということが何度もありました。
わたしはそれは避けたいと思い、なんとかセンスの良い名前を付けたいと考えました。一生懸命考えた挙句、当時人気の出てきたiPodの名前をパクるという素晴らしいアイデアでした。そこで作り出したこの万能細胞に「iPS細胞」という名前をつけたのです。
これが大当たりで、ボストンのグループもその名前を使ってくれました。翌年2007年には人間でも同じ数のスイッチを同時に押すことでiPS細胞ができるということを発見しました。そして現在、iPS細胞という名前で知れ渡っているというわけです。
このように、わたしが偉そうに紹介していますが、実際、iPS細胞を作るためハードワークしてくれたのは、研究室の3人の若いメンバーです。彼らがいたからこそ万能細胞ができ、iPS細胞という名前にもなったわけです。彼らがこのiPS細胞の立役者だと思っています。
真のビジョンを忘れない
このように、どんな細胞にでもなる万能細胞を作り出せたのですが、わたし「たち」研究所(現在では奈良から京都大学に移動)のビジョンはiPS細胞を作ってそれで終わりではありません。これを応用して医療に役立てることです。
2010年、京都大学は「iPS細胞研究所」という新しい部局を作りました。その英語名は「Centre for iPS Cell Research and Application」。アプリケーション、つまり応用がわたしたちにとって一番大切なワードです。リサーチも大切ですが、あくまでも医学応用を実現するといういうのがわたしたち研究者の最大の目標だからです。
現在では、血液の細胞からもiPS細胞を作れるようになったため、より身近なものになりました。血液を数ミリリットルだけいただければ、どんどん増やせる万能細胞ができてしまうのです。元「血液」が心臓の細胞にだってなります。
今、この技術を使って、2つのアプリケーションに取り組んでいます。
1つが細胞を移植することによって実現する再生医療。ここに書いたいくつかの病気では間もなく実際の患者さんに協力していただいて、効果と安全性を確かめるための臨床研究がなされようとしています。神戸の高橋政代先生が行なっている、目の「加齢黄斑変性」という網膜の病気に関しては、2014年10月に臨床研究が開始されました。iPS細胞から網膜の細胞を作って移植するというものです。彼女はきっとこれからもほかの網膜の病気に対してiPS細胞の応用をしていくことでしょう。
また、わたしたちの研究所の高橋淳教授も負けてはいません。彼は日本で増えつつあるパーキンソン病の原因である、ドパミンという特殊な物質を作る神経細胞のに注目しました。そこで、そのドパミン神経細胞をiPS細胞から作ることに成功、猿のモデルで既に安全性と効果を見ています。今年中には厚生労働省に臨床研究の神聖視をし、来年には最初の手術を行なう、と張り切っています。
余談ですが、彼は脳外科医としてもパーキンソン病の研究者としても非常に有名です。でもそれ以上に彼を有名にしているのは、先ほどの高橋政代先生のご主人だということでしょう。ぼくは、高橋淳教授は、日本のクリントンだというふうに言っています。あんまり分かんないかもしれませんけど。(会場笑い)
もう1つ取り組んでいるアプリケーションは、患者さんからのiPS細胞を使った薬の開発です。
例えば、今、日本で増えている認知症の腫瘍原因の1つであるアルツハイマー病。病院に行けば皆が同じ薬を処方されますが、全員に効果があるわけではありません。副作用の起きてしまう患者さんもいます。これをiPS細胞を使って予想し、治療に役立てようというのが同僚の井上(治久)教授の行なっていることです。
それぞれの患者さんから作り出したiPS細胞を使って、脳の神経細胞を作り出し、薬を投与する。人間としてのレベルでは同じような症状を呈していても、細胞レベルで見ると、原因が異なっているということが分かるようになってきました。これを進めていくことで、予めその患者さんに効く薬を探し出し、狙い撃ちで投与する「個別化医療」が実現すると考えています。
わたしたちはこうした「今は治せない治らない病気を治せるようにしたい」というビジョンを常に掲げているため、目標を見誤らずにすんでいますし、文科省などの強力な後押しもいただけて、iPS細胞を使った再生医療という分野では、間違いなく世界の中で日本が先頭を走っていると言えます。
再生医療というイノベーションを支える人々
このような研究をしていくには、多くの人材が必要ですが、人材を確保するためには資金も必要になります。現在、国から資金援助も得ていますがそれは「競争的資金」といって、プロジェクトに対して投資されているものです。でも、プロジェクトを続行するには人が必要です。
わたしたちの研究所にいる約300人のスタッフのうち、不安定な「有期雇用」されているのは287人です。これがアメリカでは、研究所の費用のうち半分がプライベートファンディングや企業からの寄付、また州からのお金で賄われています。そこでわたしたちもiPS細胞研究基金というファンドレイジングを立ち上げて、安定的な雇用のため、足りない部分を補えればと思っています。
その一環として、ファンドレイジングを受けられるマラソンで走ったりしています。もちろん、すべての資金をマラソンで得ようとすれば、体がもちませんが。(会場笑い)
しかし、わたしたちのビジョン、iPS細胞で、今は治せない治らない患者さんたちを近い将来、治すというビジョンの達成に向けて、これからも全力で頑張りたいと思います。