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    かけはし2013.年5月27日号

一日も早い再審無罪実現を


5.1狭山事件の真相を探る現地集会&現地調査

権力犯罪の真相を明るみに出せ

時間稼ぎ許さぬ世論のうねりを

 五月一日、埼玉県狭山市の富士見集会所で、「狭山事件の真相を探る現地集会&現地調査」が開かれた。
五〇年前のこの日、下校途中の女子高校生が行方不明になり、その後死体で発見された。直前に起きた「吉展ちゃん事件」に続き、またしても犯人を取り逃がした警察は、世論の厳しい非難のなか、部落差別に基づく強引な見込み捜査を開始。二四歳だった石川一雄さんを逮捕した。以来、獄中三二年を経て仮釈放された今も、石川さんには「見えない手錠」がかけられている。

マスコミ向け
 の集会で


 午後一時、主催者である部落解放同盟埼玉県連の片岡明幸さんがあいさつ。「今日はマスコミ向けに企画をした。何人来るのかわからなかったが、一番広いこの部屋のイスが足りなくなった。石川さんの無実を信じて五〇年。ぜひ事件に関心を持ち、真相を知ってほしい」。
 「足利事件」の菅谷利和さんと、「布川事件」の杉山卓男さんも駆けつけた。菅谷さんは次のように発言した。「私は一七年半入っていた。警察につかまってから一年間は、面会も何もない。家からもこない、支援者もいない。一審の弁護士がいいかげんでしたからね。私をはじめから犯人扱い」。「石川さんがどんなに苦しんだか、私には想像できます。一日も早く自由の身になって、自分らと一緒に冤罪をなくすために全国を歩きたい」。無罪確定から早や三年。菅谷さんの独特の口調を、私は懐かしく聞いた。
 杉山さんは、「石川さんとは東京拘置所、千葉刑務所で一緒だった。石川さんを仮釈放の目標にしていた。石川さんが出た時に、俺らも出られると思ったら、本当に出られた」と振り返り、「石川さんの無罪を確信したのは鴨居にあった万年筆。私の目線ですぐ見える位置だ。警察が偽装したのは間違いない。どうせ偽造するなら、置き場所だけでなくインクの色も同じにしろと言いたい。本当にいいかげんだ」と当時の捜査手法を糾弾した。
 弁護団の中山武敏主任弁護士は、「発生して五〇年、苦難の日々だった」としながらも、「二〇一〇年の五月、三六点の証拠開示をさせ、ようやく大きく動き出した」と成果を報告。「第三次請求で筆跡鑑定人、法医鑑定人、嘘の犯行現場で農作業をされていた人の尋問を実現させ、再審開始に結びつけていく」と決意を語った。
 石川一雄さんが紹介された。「今日はお忙しいなかをありがとうございます。私は兄が犯人だと思っていたので自白した。接見禁止が解けて兄と面会したとき、事件当日は確かに夜遅かったが四カ所に集金に行っていた。俺は犯人じゃないと言われた」。
 石川さんはこれを機に全面的に否認に転じ、無実を訴え始める。「看守さんから文字を教わった。私の無実を信じてくれたからこそ、自分のクビを懸けて教えてくれた。そのおかげで刑務所から通信が出せた。看守さんのためにも無罪報告をしたい」。

畑が広がる
農道を歩く


 慌ただしく屋内集会を終え、参加者は三班に分かれて現地調査に出発した。西武線の踏切を渡ると、事件当日は祭りで賑わっていた荒神様に着く。さらに数分歩けば、被害者と出会ったとされる「X型十字路」に。駅からここまでは二〇分もかからない。
 ところが自白では、石川さんはこの経路を一時間半以上かけて歩いたことになっている。しかもアイスクリームを食べ牛乳を飲みながら、である。その姿を見たという目撃情報は皆無であった。
 十字路を右折した農道は、両側に畑が広がり視界が良い。この道を、誘拐した被害者と並んで歩いたという。だとしたら人目につかないはずがない。やがて住宅が建ち並ぶ道に入る。「殺害現場」、芋穴だった地点で説明を受ける。町は大きな変貌を遂げてはいるものの、当時の名残も細部に見られる。
 狭山現地事務所は、石川さんの実家のあった場所に建てられている。「鴨居の万年筆」の位置を確認するため、正確に部屋を再現している。総勢二四名の警察官が二日間・四時間半を費やし、しらみつぶしに捜しても見つからなかった万年筆が、三回目のたった三人の捜索で突然現れるのだ。巡査が部屋に忍び込み、置き去ったことは明らかである。

無知無学
の悔しさ


 集会所に戻ると記者会見が始まった。石川さんは、「無知無学がいかにだらしないか。私を取り調べた三人の警察官は、私を犯人にしたことで出世した。すでにこの世にはいない。それが悔しくてならない。裁判所には真実を見極めていただきたい」と訴えた。
 鎌田慧さんが当時の部落出身者の識字能力の低さを挙げ、「そもそも脅迫状を書くという発想が生まれない」と指摘すると、中山武敏弁護士は、それを補足する形で言葉を引き継いだ。
弁護団は上告審段階で埼玉県教委の協力の下、石川さんの当時の成績を調べた。すると算数・国語だけでなく、図工・音楽・体育にまでマイナスがついていた。被差別部落の人々はほとんど同じレベルだったという。
 事件が起こると、石川宅には石が投げ込まれ、雨戸を閉めたまま兄は仕事に出られず、妹の職場には警察が来て辞めざるを得なかった。一審の中田直人弁護人には、極悪非道の人間を弁護する悪徳弁護士などと、血のついた脅迫状が送られてきた。
 地域では「青少年を守る母親大会」が開かれた。こういう子どもを産んだ親の顔が見たいと、PTA会長が言い放った。新任の教師が部落に家庭訪問に入ると、他の教師から攻撃された。名字を聞くだけで、部落出身者かどうかわかった。
 「そういう状況の中で狭山事件が作られている。裁判所にそれをずっと訴えているが、まったく触れない」。中山さんは怒りをあらわにした。石川さんと同様、被差別部落の貧しい環境で生まれ育った。苦学して司法試験に合格。狭山弁護団に加わったのは七二年の秋。石川さんから依頼の手紙をもらったという。寺尾正二裁判長が二審判決を言い渡した時期だ。

証拠開示で
再審開始を


 筆者佐藤が事件を知ったのは一九歳の頃。その時の衝撃は大きく、国家権力すなわち警察への考え方は、それまでと一八〇度転換した。冤罪の恐ろしさを学びつつ、善良な市民が犯罪者に仕立てあげられる不条理に、怒りがわいてきた。
 私にとって「狭山事件」は特別な意味を持つできごとであり、石川さんも憧憬の対象となる特別な存在だった。だからこそ小さな集会にもできるだけ参加し、関連文献を読みあさってきた。
 検察がひた隠す未開示証拠は、積み上げると三メートルにも達するという。誰がどう見ても、石川さんは犯人ではあり得ない。
 司法が徐々にではあるが、冤罪の解明に動く昨今。本件はどこへ向かうのか。弁護団のK弁護士はある集会で、「狭山事件だけは特別か」と問いかけた。
 もし狭山事件の再審が始まり無罪が決定されると、警察・検察・裁判所すなわち国家権力は、その存在を揺るがしかねない窮地に追い込まれる。狭山事件とは、それほど大きく深く重い、日本国家総体の比重をかけた、稀代のデッチ上げ事件なのである。
 だからこそ敵も内心は戦々恐々とし、のらりくらりと時間を稼いでいる。事件関係者がこの世から消えれば、警察と国家のメンツが保たれる。そんな胸算用が透けて見える。
 不当逮捕から半世紀。七四歳の石川さんにこの先、十分な時間があるとは言い切れない。裁判所を包囲する圧倒的な世論で、一日も早く再審無罪を勝ち取ろう。検察はすべての証拠を、今すぐ開示せよ。
        (佐藤隆)

コラム

へぼの会

 
 前の職場の同僚達が相次いで退職し、気の合う面子も揃ってきたので何かやろうということになった。
 私は囲碁をやりたかったのだが、打てる人間はいなかった。すったもんだしたあげく、将棋ならばということに落ち着いた。それぞれ親の介護や孫のおもり、家事などがあり、毎週は無理、月に二回のペースで朝から夕方までということになった。その後は、当然にも飲み会に流れる。全一日行動だ。我が家に辿り着いた頃には、酔いも重なりくたくたである。這うようにして風呂に入り、何時寝たのか覚えてもいないことになる。
 場所は、公民館等で会場費は安いが、飲食は禁止なので敬遠せざるを得ない。昼飯時には、もちろん一杯入ることになるからだ。いろいろ関係筋を調べた結果、或る由緒ある神社の和室を借りることになった。飲食はOKだ。部屋代も公民館ほどではないが、結構安い。由緒ある神社なので、庭園は驚くほど広い。四季の花木も立派で、疲れを癒す散策には十分すぎるほどである。残念なことは、現在は宿泊が出来ないことだ。
 会の名称については様々な案が出たが、いずれも面白くなかった。「将棋研究会」「将棋クラブ」「将棋道場」「歩の会」等だ。「へぼの会」は私の提案で、圧倒的多数を占めた。メンバーの中では、私がいちばん下手である。文字通リヘボがつくくらいだ。小学校時代の縁台将棋の域を出ていないからだ。以来今日まで、自慢ではないが、将棋は指したことがない。番付表をつくろうという話が出たが、懇願して、なんとか私の顔を立てて、つくらないことにしてもらった。
 ところで、この神社には、もう一つ将棋と囲碁のグループがある。私たちとは、時々曜日が重なる。将棋は「一手会」、囲碁は「遊碁会」という。なかなか良い呼び名である。彼らの自信の程が窺える。日本語は、奥行があるというか、深みがあるというか、なかなか面白い言葉である。「へぼの会」は、もしかすると、とんでもない強者達なのかもしれない。という印象を与えることも可能なのである。
 「一手会」「遊碁会」と時間帯が重なった時は、何故か私たちのグループは、急に静かになり、姿勢もよくなる。その名称に惑わされているのだ。「他流試合」の声も出たが、私を含め、誰一人として賛成する者はなかった。どうやら、私の仲間たちは人見知りをするらしい。彼等もまた、「へぼの会」に興味津々であるように見えた。
 いつもの飲み屋にながれた。和風の造りで座席も広く、落ち着いて飲むことが出来る。肴も良い。満席の時や、私たちが総出で陣取ったときは、かなり騒がしいが。
 その日は雨横様で、不吉な予感がした。政治的な発言をする面々だけになったからだ。酒が入ると、互いに一層頑固になり、時間も長引き、悪酔いをすることになる。多士済済?である。共産党から社民党、民主党、果ては橋下維新の会の支持者まで居る。とは言っても、強固な支持者でもないので、言う内容もかなりあやふやだ。かえって始末が悪い。彼等は、私の様な主張を聞くのは始めてなので、いつも目をパチクリさせることが多い。あいつは変わった奴だということで、私には「変人」のあだ名がついた。
         (灘)


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