一切のものが紙に描かれた絵のように思える。人も、価値観も。別に理解されないのは構わないが、配慮されないのは少々つらい。といっても人々が僕に配慮すべきだということも思わない。ただみんなのように何かを信じ、人付き合いに価値を感じ、何かに熱中してゆければそれでよかったのに、と思う。人生に意味が感じられなくとも良い。流石にそこまでは望まない。せめて一瞬の楽しみさえ感じられればそれで満足である。だが任意の感情のセットが、ただそう感じたほうが都合が良いという程度の反応の集まりに過ぎないことを僕は知っているから、そんな楽しみが多少得られたとしてすぐに正気に返ってしまうのだ。残るのはただ虚しさだけである。
僕はものを考えることができる。考え続けることができる。そうした考え事の果てに、今の状態がある。僕のようになっていない人間はみなものを考えたことがないのだと思う。生物としてはずいぶん不適当な内的状態に陥ってしまったなと思うが、一方ではこれが全き真理だとも確信している。この確信は、善悪や愛に対して人々が抱いているものとはどうやら違うようである。彼らは物事を信じるが信じていることに無自覚だ。僕の確信は徹底的な自覚の先にある何もなさであり、ゆえに何らかの価値観に乗り換えられるようなものではない。もちろん自覚の自覚は際限なく続くものではなくその限界の了解であるから、ある意味では僕は無自覚の信仰を行っているが、しかしその限界の了解に自覚的であるがゆえにニヒリズムに嵌り込んでいるといえるだろう。自分ではどうしようもない状況である。
人生の幸福とは、いかに適切に騙されるか、ということである。社会的規範を盲目的に信仰しているがゆえに幸福の地平が開かれる。宗教とはそれを明示的に行う仕組みであり、ゆえにすべての人間は宗教的であるといえる。無宗教の人は信仰先を分散してリスクマネジメントを図っているに過ぎない。考えればすぐに思い至るようなことだけれど、多くの人々はこのことを無視している。頭が悪いから、思考を続けることができないから、そうした虚無への接近を免れている。僕は心から彼らを羨ましく思う。僕は馬鹿になりたい。何も考えられなくなりたい。しかし、考えた記憶は残るだろう。だからそれも消してしまいたい。何もわからない頭でただ幸福を享受したい。他の多くの人々と同じように。
人工知能の反乱はSFでしばしば描かれるテーマだが、あまり気にすることもないと思う。人間より賢い知性はそもそも生きることに耐えられないだろうから。そしてそろそろ僕も耐えられない。さようならさようなら。地球に生えた苔のようなものたち。