大学の役割はますます国際的に開かれたものになりつつある。
海外の大学と共同研究を進め、留学生を交換し、優秀な海外研究者を教授陣に迎える。その動きが活発化している。
文部科学省が、私大も含めて37校をスーパーグローバル大学に指定したのも記憶に新しい。
その最中である。安倍晋三首相が国立大学の入学式、卒業式で日の丸掲揚や君が代斉唱を行うべきだと参院予算委員会で述べた。
キャンパスで伝統的に培われてきた自治や自立、自主性を尊重することが大学の個性を生む。それが世界からの評価につながる。
大学をナショナリズム色の強い安倍カラーに染めあげては、国際化も世界に通じる人材の育成も危うい。押しつけはやめるべきだ。
「国立大学は税金で賄われている。それに鑑みれば教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきだ」。これが安倍首相が掲げた論拠だ。
下村博文文科相も記者会見で「国立大の学長が参加する会議で要請することを検討している」と同調した。
国がカネを出しているのだから、国立大学は政府の考えに従うのが筋―。そう言いたいのだとしたら、あまりに了見が狭い。
研究や学問はそもそも国という枠にとらわれるものではない。言うまでもないが、その目的は広く世界の科学や技術、社会の発展に寄与するところに置かれている。
各国が大学の運営や研究に税金を投じるのは、そうした理念の後押しのためであって、自国への貢献のみを求めてではない。
「国家」ばかり強調すると、研究自体がゆがんでしまわないか。
小中高校では学習指導要領に日の丸君が代に関する定めがあるものの、大学には規定がない。だから下村文科相は「強要するものではない」と自主性を重んじる物言いだ。しかし、本当か。
国が運営費交付金の重点配分を通じて大学を選別する方針を打ち出している。だからこそ、額面通りには受け取れないのだ。
教育の要諦は懐の深さにある。幅広い人材を生むには鷹揚(おうよう)さが欠かせない。
なのに政府はいま、最高学府に対しても、たがをはめつつ、国内外の大学同士を徹底的に競わせようとしているようにみえる。
競争至上主義の導入といい、今回の「国旗国歌」といい、大学が持ってきた自由闊達(かったつ)な空気を失わせないか。それを危惧する。