技術だけでは未来は変わらない。iPS細胞研究所ファンドレイザーに見る「研究支援者」という生き方【特集:New Order】
2015/04/16公開
生物のさまざまな細胞に成長できる「多様性」を持ち、再生医療や創薬に応用し得るiPS細胞を初めて作製、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞したiPS細胞研究所(CiRA=サイラ)所長の山中伸弥教授。その山中氏が今年2月、CiRAのある古都・京都の街を舞台にした京都マラソンに出場、4時間を切る好タイムでフルマラソンを完走した。
山中氏は2012年にも京都マラソンに出場し、42.195キロを走り切っている。
先端医療の実用化を目標に掲げる研究所の所長が、なぜマラソンを走るのか? もちろん、個人的な趣味というだけではない。ファンドレイジング(寄付募集)Webサイト『JAPANGIVING』を通じて、「iPS細胞研究基金」への寄付を募るのがその目的だ。
iPS細胞の医療応用は非常に長きにわたる道だ。その道程を“完走”するためには、研究者だけでなく、特許の確保や維持、企業との契約締結、広報などを担う「研究支援者」と呼ばれる職員も、継続的に雇う必要がある。
研究機関には国からの大きな資金援助があるが、基本的にはプロジェクト単位の支援であり、目的も期間も限定的。人を終身雇用できる種類の財源は、ごく一部に限られている。広く一般から募った寄付によって成り立つ「iPS細胞研究基金」は、こうした研究者・研究支援者の人件費などに活用されるためのものという。
iPS細胞は遠からず医療の未来を変えるだろう。しかし、研究者の手による研究の進展だけでは、未来を変えるには不十分だ。
今回取り上げるのは、普段はなかなか日の当たらない「研究支援者」という立場から医療の変革に寄与するゲームチェンジャー。CiRA国際広報室で「年間5億円の寄付を集める」というミッションを担う、ファンドレイザー(寄付募集専門職員)の渡邉文隆氏に話を聞いた。
「iPS細胞の実用化」までの溝をどう埋めるか
山中教授が京都マラソンを走ったのも、ファンドレイジングサイト『JAPANGIVING』を通じて「iPS細胞研究基金」への寄付を募る目的があった
2010年4月に創設されたCiRAが目指すのは、iPS細胞研究の進展によって1日も早く先端医療を実現すること。ただ、iPS細胞の実用化とひと口に言っても、それは大きく「再生医療」と「創薬支援」の2種類に分けられる。
このうち「再生医療」の分野で大きく注目された例といえば、昨年9月に理化学研究所のプロジェクトチームが行った手術が挙げられる。加齢黄斑変性の70代の女性の細胞から作ったiPS細胞を網膜の細胞に分化させ、シート状にした組織を女性の右目に移植することに成功した。
このように、「再生医療においては日本は世界にかなり先行している」と渡邉氏は言う。
ところが、一方の「創薬支援」となると話は違ってくる。欧米、特にアメリカと比べるとかなり遅れをとっているのが現状という。
その原因の一つは、研究機関とベンチャー企業の間に広がる大きな溝だ。
「アメリカでは、研究機関とベンチャー企業の間が非常に近い。大学で生まれた基礎的な技術の特許を取得し、実用化のメドをつけて製薬会社に買収されるという成功パターンがかなり確立されている。日本にはそこまでベンチャーの風土が育っていないのが現状なので、そこは不利といえます」
日本でも、免疫細胞を用いた細胞療法の開発を目指す「アストリム」、心臓治療応用の「iHeart Japan」、加齢黄斑変性治療法の「ヘリオス」などのiPSベンチャーが立ち上がっているが、米国に比べるとバイオベンチャーの数はまだまだ少ない。
アカデミズムとビジネスサイドの距離の問題は、ITの世界でもよく聞かれる話。だが、「隣の青い芝生」を眺めてただ嘆いていても仕方がない。日本は日本の成功パターンを確立しなければならない。
CiRAに務める300人のうち、数十人を占める「研究支援者」は、iPS細胞実用化の成功パターンの確立を担うキーマンといえる。
「例えばCiRAの中には、企業との共同研究などの契約専門のチームがいます。企業と大学をつなぐ上での一つの問題は専門的な言葉が通じないということですが、彼らは企業と研究の両方が分かる人材。一方的に不利な契約になっていないか、研究者の希望や研究所の長期的な目標との整合性が取れているかなどをチェックしつつ、両者をつなぐ役割を担います」
大量双方向の情報発信を実現した『gacco』のオンライン講義
さまざまな役割を担う「研究支援者」の中でも広報という立場にある渡邉氏は、日本ならではのエコシステムの確立のためには、iPS細胞という技術についてかなり広く周知することが不可欠と考えている。
「iPS細胞には産業として幅広い可能性があると思います。細胞の作製といった基幹となる産業以外にも、細胞の安全な輸送や冷凍技術、細胞を作る工場で働く人や、その作業を極力自動化するための設備投資など、さまざまなビジネスがあり得る。そういう可能性について、ベンチャーが勝手に見いだしてくれるのを待つのではなく、研究機関が前のめりに発信していかなければならないと思っています。なぜなら、iPS細胞のビジネス化にはどうしても、『とっつきにくさ』というハードルがあるからです」
例えば、自分で日々ブログに記事を書いている人であれば、その中で感じた「もっと良いブログサービスがあったらいいのに」という問題意識を起点に新しいブログサービスを起業するのは、非常に「とっつきやすい」。しかし、最先端かつ専門的な領域であるiPS細胞について、研究内容や事業的な可能性を全て把握し、かつリソースを調達できるというのは、かなり高い要求である。
「その高い階段をどこまで上ってもらえるか」が、iPS細胞の周辺産業が立ち上がるためには重要なのだ。
患者はもちろん、広く一般にまでiPS細胞技術を広報するために始めた新たな取り組みの一つが、今年1月から4週にわたって行った、Webサービス『gacco』を通じたオンライン講義。iPS細胞について一般の人にも分かりやすい内容で情報発信するというもので、1回目でありながら9000人以上のユーザーが登録した。
このプラットフォームの活用には、従来の情報発信方法の限界を超える可能性を感じているという。
というのも、プレスリリースによる既存メディアへの露出は多くの人に情報を届けられる反面、一方的な発信になってしまう部分があった。研究者と気軽に話せるリアルな場である「サイエンスカフェ」は、双方向ではあるものの小規模にならざるを得ないという側面があった。
大量かつ双方向の情報のやり取りができる『gacco』は、ITが医療の発展に寄与できる分かりやすい例といえるだろう。
この講義のコンテンツ開発や講師は、すべて渡邉氏ら広報担当者が務めている。CiRAの広報担当者には、博士号を持ち、研究の中身をかなり深くまで知りながら、あえて研究者以外の道を選んだ人もいる。こうした研究支援者の存在があって初めて、「とっつきにくい」先端医療の世界を一般の人に広く知らしめることができるし、研究者は心置きなく研究に専念することができる。
「日本に寄付文化は根付かない」は本当か?
日本では、CiRAのような一研究所が、大学本部とは別に広報や知財専門の部署を抱えるケースは珍しい。また、そうした人たちを雇うためにCiRAほど一般の人から広く寄付を募る例も多くないという。こうした取り組みは、CiRAとともに米グラッドストーン研究所にも籍を置く山中氏が、当地で得たノウハウを日本に持ち込んだものだ。
しかし、日本とアメリカとでは、寄付文化の浸透に大きな差があるのが現状だ。
個人資産の規模にはそこまで差がないにも関わらず、1人当たりの寄付額には大きな隔たりがあるとされる。寄付金税制の違いや宗教的な文化の違いに由来するところも少なくないが、「日本にはまだまだ努力の余地が残されている」と渡邉氏は主張する。
「アメリカの大学や研究機関には、ファンドレイジングをするための研究支援者も多く在籍し、寄付をどう集めるかを一生懸命に考え、活動しています。職種も細かく分かれており、デジタルマーケティング、イベント運営、データ分析、データベース管理など、それぞれが高い専門性を持っている。日本は寄付文化がないと言われていますが、こうした組織体制や努力の差が、寄付募集における日米の差の大きな要因であるように思います」
渡邉氏は学生時代、マーケティングを社会課題解決に活かすこと、特にHIV/エイズなどの分野のNPO運営や寄付集めに活かす方法をテーマとして、研究に取り組んでいた。マーケティングと寄付を組み合わせることによって、日本においてもまだまだ新しい可能性が開けると感じているという。
医療の変革に寄与するIT。まずは知ることから
CiRAでのファンドレイザーという役割に運命を感じ、使命感を抱いているという渡邉氏
大学卒業後、マーケティング・広報の担当者として環境ビジネスの会社でしばらく働いていた渡邉氏。そこから非正規雇用のCiRAへと転職するのには、プライベートに大きな出来事があった。
「授かった子供が先天的な病気を持っていて、生まれてすぐに手術をしなければ命がないという状況でした。祈るような思いで手術を受けて、かろうじて助かったのですが、その際に掛かった医療費の約500万円は、ほとんどが保険でまかなわれたんです。日本の医療の技術と制度のすごさを感じました。でも同時にふと思ったんです。30年後、僕の孫がもし同じような状況に陥った時、果たしてこの優れた日本医療の技術と制度は、今と変わらないままあるだろうか、と」
地方ではそもそも経済的に成り立たなくなる自治体も増えている。たまたま東京にいなかったら、現代であっても同じ手術を受けられたかどうか。渡邉氏の中で「医療の未来」に対する不安が膨らみ、そこに貢献したいという気持ちが強くなっていった。
そうしたタイミングで偶然出会ったのが、現職であるCiRAの求人だった。
寄付、マーケティング、そして「医療の未来」への貢献、そのすべてが重なった現職に、渡邉氏は運命を感じ、使命感を抱いている。
そんな渡邉氏はベンチャー起業家のみならず、エンジニアに対してもまず、iPS細胞という技術を知ってほしいと呼びかける。
CiRAでは今年、1人のWebデザイナーを雇った。スピーディーで誤解のない情報発信のためには、自前のデザイナーが不可欠との判断からだった。「組織の中だけでなく、デジタルヘルス領域で起業するなど、ミクロからマクロまでITが医療に貢献できる場は他にもいくらでもある」と渡邉氏は言う。
「前職時代にデジタルハリウッド大学院へ通っていたこともあり、ITの世界は最先端の技術にキャッチアップし続けるだけでも大変なことを知っています。でも、実際にはその技術で何をするのか、つまり技術『プラスα』がすごく重要だと思っています。僕の場合も、たまたまマーケティングという『手法』に医療という『プラスα』が加わって、今がある。
そして、プラスする『α』はマニアックであればあるほど、他の人との差別化ができます。iPS細胞はとっつきづらいかもしれないですが、その分、武器にもなるということ。まずは食わず嫌いすることなく知ってほしいと思います。iPSは、皆さんのお子さんやお孫さんの医療を確実に左右する技術です。皆さん自身の手でそれに寄与できるとしたら、それは素晴らしいことではないでしょうか」
取材・文・撮影/鈴木陸夫(編集部)
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