ニコニコ動画やYouTubeの音楽関連のタグで、よく「民族音楽」という言葉を見かける。M3のカタログにも毎回一定の数、「民族音楽」のサークルが登場する。でも、これってよくよく考えてみると不思議なことじゃないだろうか。
民族音楽。
別に特殊な言葉じゃない。ニコニコ動画で「民族音楽」というタグを検索して見ればたくさんの動画がでてくる。2ちゃんねるのスレッドなどでもよく使われているようだ。それどころか、「民族音楽+電子音楽の楽曲を教えろください!」なんていうような質問も見かけたりする。
同人音楽即売会や、音楽サークルのホームページを見ても「うちは民族です!」と、「民族音楽」を旗にかかげる人たちもたくさんいる。僕も同人音楽でよく聞くような「民族音楽」がとても好きだ。たとえばこんな一枚のCDがある。
アルティナ・トスの召喚壁に捧ぐ
もちろんTSUTAYAにそんな棚はない・・・・・・と思ったらあった。某都心のTSUTAYAのレンタルCD棚には「民族音楽」の棚は、日本でもブームを巻き起こした「ワールドミュージック」を中心に「アフリカ大陸セネガル民族音楽ジェンベ・シリーズ」がちゃんとおいてあった。TSUTAYA、やるじゃねぇか……っ。
でも、TSUTAYAの民族音楽(ないし民族)の棚と、同人音楽における「民族音楽」はちょっと様子が違っているようにも見える。TSUTAYAの棚では、特定の地域に住んでいる部族が受け継いできた器楽と音調からなる音楽だったり、宗教祭儀に使われたりする音楽が並んでいる。けれどもイベントに合わせて制作された同人音楽CDは、そうした民族の生活や祭儀と深い関係をもつ「民族音楽」なわけではない。
だから、「民族音楽」と区別し「民族調音楽」という呼び方も一般的だ。でも、今回は「民族調」とは言わずに「民族音楽」で統一させてほしい。
例にあげた『アルティナ・トス』がHPで標榜している「民族音楽の要素」、つまり「民族音楽らしさ」というのは一体なんだろう? それは、どこから来たのだろう?
それから、なぜ世界中の諸地域の音楽と、別にそうした地域の生活を代表しない民族調の音楽が共に「民族」と「音楽」という共通した言葉で説明されるのだろう。そしてなぜそれが同人音楽の世界で広く需要され制作されているのだろう。いろんな疑問がわいてくる。
同人音楽の中の「民族音楽」は、同人音楽の発展の中で小さくない役割を担ってきた。一般的なミュージックシーンではあまり聞かない「民族音楽」が一つのジャンルを形成していて、その中にも多種多様の音楽が存在する。同人音楽における「民族音楽」の世界は奥深いし、また一般社会での「民族音楽」との関係を通しても面白いものが見えてくるはずだ。そこで「同人音楽と民族音楽の世界」に踏み込んでみよう、というのが今回のテーマである。
「民族音楽」とはそもそも何か?
さて、同人音楽では当たり前に使われるジャンルである「民族音楽」。繰り返すけどもちろん、その大半は現実世界にいる諸民族の音楽の何かを代表しているわけではない。そもそも、文化が違えば音楽も違う。いまの僕らが多種多様な世界中の音楽を――なんとなくであれ――「民族音楽」として認識できるのは、過去にそうした音楽好きな人が世界中で音源採集や採譜に励んできてくれたからだ。その軌跡は、学問的には「民族音楽学」としてまとめられている。
「民族音楽学」の起源は、西欧圏の音楽を中心にした上で、それ以外の音楽を比較する学問「比較音楽学」である。その領域の名著に、アレクサンダー・ジョン・エリス『諸民族の音階』(音楽之友者、1951:原著1885)がある。
これは、いろいろな民族音楽の「音階」を明らかにした本だ。西洋で広く使われている平均律や、古い鍵盤楽器で使われていた中全音律(ミーントーン)などとは異なる音階が様々な地域にあることを(比較的)数量的・定量的な方法で明らかにしている。
この「比較音楽学」は現代の民族音楽の研究に大きな足跡を残した。世界中のどこに、どんな音楽があるのか。私たちの知っている音楽と違う音楽はどんなものなのか。それらを具体的に比較する素地がこうした研究によってつくられた。
もし、比較音楽学や民族音楽学がなければ、世界中にある多種多様な楽器の音色が、不協和音として切り捨てられていた可能性だってあるだろう。
そういえば、あるコンポーザーの友人に「民族音楽らしさって何で判断する?」と聞いた時「音階」と答えてくれた。たとえば「ドレミファソラシド」の「レ」と「ラ」を抜いて曲をつくると琉球楽器ではない曲でも沖縄音楽っぽくなる、といった具合だそうだ。こういう発見も間接的であれ比較音楽学の成果によるところと言ってもいいだろう。
そうやって世界中の音楽を訪ねてみると「比較」なんて簡単にできないぞ、という当たり前のような事実も判明してくる。地域ごとに音楽があるだけではなく、もともと別のところの音楽であったものが、地域を移動すると新しくアレンジされていくこともわかってきたし、そもそも当地の人たちは「音楽」と見なしていない音楽もあることがわかってきた。音楽が、遊びや仕事や生活と密着に関係していて、現在で考えられているような切り離されたものではないケースもたくさんあったのだ。
民族音楽学は西洋の音楽を中心とする「音楽の常識」に疑問を投げかけていった。例えば、労働歌や田植え歌のような生活に密着した音楽がある。西洋の和声理論から逸脱した不協和音もある。音楽と思って聞いていたらダンスだったとか。あるいは中東の伝統音楽に見られるような一度限りで即興性が高く、西洋の常識で測れない響きを音楽とみなしてよいのか、遊びとみなすべきなのか、儀式とみなすべきか。当時の「音楽観」を揺らがすような発見が幾つもあったのだった。これらは現在でも有効な問いかけだろうと思う。
僕達が世界中にある諸民族の音楽として抱く「民族音楽」のルーツのひとつはこうした世界の「諸民族の音楽」にある。TSUTAYAの棚のセネガルのダンスだって、誰かがこうして集めたものだ。これらの民族音楽が僕達にとって魅力的であることに変わりはない。
諸民族の、地方の音楽にこだわって楽曲を作るサークルの一つに、casketさん(http://www.yukinohana.net/~casket/index.php?Home)がいる。様々な国や地方の楽曲から構成されるコンピレーションアルバム「Musicatlas」シリーズは多くの民族音楽ファンの心をつかむ良企画だ。
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