中国を統一した強大な秦王朝。
建国した始皇帝は紀元前210年に世を去ります。
再び戦乱の時代が訪れました。
天下を手中に収めようと2人の英雄が熾烈な戦いを繰り広げます。
項羽はこの時20代の前半。
その後70を超える戦いに勝利した中国史上屈指の戦の天才でした。
一方劉邦は50歳も間近。
項羽との戦いではいつも負け続けていました。
ところが最後に勝利をつかんだのは劉邦でした。
長江の下流にある江蘇省宿遷。
古代には楚と呼ばれた地域です。
項羽はこの町の名門の武将の家に生まれました。
楚はかつて秦に滅ぼされた国です。
その復興を夢みた青年項羽は秦の打倒を目指して兵を挙げます。
中国大陸の各地では秦に対する反乱が相次いでいました。
斉魏趙などかつて秦に滅ぼされた国々が次々と立ち上がったのです。
その中で最も強い勢いを示したのが楚の国の反乱軍でした。
黄河の支流河が流れる河北省鉅鹿。
ここでの戦いで項羽の名は中国全土にとどろく事になります。
鉅鹿の戦いです。
敵は反乱鎮圧のために遠征していた秦の主力軍。
項羽の軍は戦力では圧倒的に劣勢でした。
この時項羽は劣勢を挽回する優れた軍事の才能を発揮します。
当時の河は川幅も広く激流渦巻く大河でした。
項羽の軍はこの川を渡って秦の軍に決戦を挑みました。
この時項羽は全軍が川を渡り終えると乗ってきた船を全て沈めます。
兵士たちの退路を断った項羽。
項羽は兵士たちに生きては帰らないという覚悟を求めたのです。
数を頼りに何度も波状攻撃を仕掛ける秦軍を項羽の軍はことごとく打ち破りました。
項羽が収めた大勝利。
その配下に加わろうと次々と兵士が集まり項羽の軍は大軍に膨れ上がりました。
一方劉邦はどんな人物だったのでしょうか。
劉邦も項羽と同じ楚の国の生まれでした。
江蘇省金劉村。
中国の正月春節を前に新たな年の行事や村の役職を決める会合が開かれていました。
劉邦はこの村で4人兄弟の末っ子に生まれました。
長ずると下級役人を務めこのような会合を取りしきっていました。
司馬遷が記した「史記」。
村役人だった頃の劉邦についてこう記しています。
「酒と色を好みそしていつも酔い潰れていた」。
そんな劉邦に40代後半の頃転機が訪れます。
農民や流民たちが集まった秦への反乱軍の頭領となり項羽の配下に加わったのです。
劉邦の軍は戦闘経験が乏しく秦軍との正面衝突を避けながら秦の都咸陽を目指していました。
そしてある戦いをきっかけに急速に力を伸ばします。
南陽を包囲していた劉邦の軍。
そこに項羽が鉅鹿で勝利を収めたとの知らせが伝わります。
母国の滅亡は近いと悟った秦の兵士たちは戦意を失います。
降伏を願い出た兵士たちを劉邦は許し自らの軍に迎え入れたのです。
敵をも許す劉邦の戦略。
うわさは広がり秦の兵士が次々と投降。
およそ3か月で劉邦の軍は10万人の大軍勢に膨れ上がったのです。
項羽と劉邦の前に秦軍にはもはや抵抗する力は残されていませんでした。
まず劉邦が戦わずして秦の都咸陽に入ります。
2か月後項羽も入城しました。
かつて秦の都咸陽があった町です。
都に入ってからの2人の行動は大きく異なっていました。
それを物語るのが有名な兵馬俑です。
秦の始皇帝が自らの墓を守るために造らせた兵馬俑。
項羽と劉邦が咸陽の都に入城したのはこの兵馬俑が完成して間もない頃でした。
実はこの兵馬俑には発掘当初から注目されてきた謎があります。
一部の兵馬俑に不自然な赤い色が見られるのです。
これは火にさらされて兵馬俑が焼けた痕跡です。
20年以上兵馬俑の発掘を続けてきた…「史記」にはこう記されています。
「項羽は秦の王宮に火を放った。
火は3か月消える事なく燃え続けた」。
この時兵馬俑も燃えたと考えられています。
かつて祖国の楚を滅ぼした秦への深い恨み。
その栄光を項羽は徹底的に破壊したのです。
一方劉邦は大将である項羽には告げないままひそかに独自の動きを見せていました。
「史記」は劉邦の行動をこう記しています。
「秦の図書を得る」。
そして「秦の図書これを隠す」。
「図」とは地図の事「書」とは戸籍などの行政文書の事です。
劉邦は王宮から秦の戸籍などを持ち出し項羽の目につかないよう独り占めしました。
支配の基盤となる人々の実態を自分だけが正確に掌握しようとしたのです。
要するに各家族ごとに国は把握するわけです。
その家には家族は誰がいて年齢はいくつで男女はどうか。
そうすると年齢に応じて税金を課していきますね。
人頭税を課しますね。
それから年齢に応じて兵役に出る事を強要しますね。
それを管理するのは戸籍があって初めてできるわけです。
ですからその情報の中に秦が支配してる時にどの地域でどういう人口があったのかというどこが経済的に重要なのかという情報が全部そこにあったわけですからこれは非常に貴重な文書です。
これは金銀財宝よりも価値ありますよ彼にとっては。
秦は滅亡しました。
次に天下を握るのは誰か?ついに項羽と劉邦は初めて激突する事になります。
圧倒的な武勇を示す項羽。
率いる軍も項羽の力を分け与えられたかのように強さを発揮します。
これに挑んだ劉邦の軍は粉々に打ち砕かれます。
十数万の兵を失い敗走する劉邦。
その狼狽ぶりを「史記」はこう記しています。
「逃げる馬車から劉邦は実の子供を蹴り落とした。
蹴り落とす事三度に及んだ」。
劉邦の惨敗でした。
黄河中流域にある河南省陽。
彭城の戦いの4か月後劉邦はこの地に逃げ込みました。
起伏に富んだ地の利を生かし項羽の追撃をかわそうとしたのです。
その後戦いは膠着状態となり3年にわたる持久戦が続きました。
小規模な戦いで勝ち続けはするものの劉邦に決定的な打撃を与える事はできない項羽。
一方劉邦は各地に配下の武将を派遣しある計画を進めていました。
劉邦の秘策とは一体何だったのでしょうか。
劉邦が率いていた軍の姿を伝える兵馬俑があります。
その数は3,000以上。
劉邦と共に戦い後に漢王朝の将軍となった周勃の墓から出土しました。
この中に中国中心部中原の兵士とは異なる姿の兵馬俑がありました。
頭の後ろに髪を束ねています。
これは中国の西南部に暮らす少数民族苗族独特の風習です。
苗族は勇猛さで名高い戦士でした。
これは騎馬兵です。
細面の小柄な体格から現在の甘粛省周辺にいた遊牧民族と推測されます。
彼らは馬上から弓を射る技術に長けていました。
騎馬兵の存在は劉邦の軍の戦力を向上させました。
頬骨が張った四角い顔は滅ぼされた秦の兵士たちと考えられています。
劉邦は中国の広大な地域に暮らすさまざまな人々を一つの軍にまとめ上げていたのです。
項羽との戦闘に負け続けながらも各地の勢力を味方に引き入れる周到な戦略でした。
安徽省に広がる平原の一角垓下です。
長い間膠着状態を続けていた項羽と劉邦がついに雌雄を決する事になりました。
勝利を確信して戦場に立った項羽。
しかし目前の光景に驚がくします。
見た事がない劉邦の大軍勢が現れたのです。
それまで歩兵中心だった劉邦の軍には精鋭の騎馬部隊が加わっていました。
兵力も項羽の軍のおよそ6倍60万を超えていました。
初めて強いられた苦戦。
項羽の軍は食糧も尽き劉邦の大軍に幾重にも包囲されていました。
夜になり項羽の耳に四方から歌声が聞こえてきました。
祖国楚の国の歌でした。
項羽の反応を「史記」はこう記しています。
「楚の国は実際には滅びていなかったものの項羽は既に楚の国が落ちたと思い込んだ。
そして劉邦の軍に楚の国の人が多い事に驚き失望し戦意を喪失した」。
有名な「四面楚歌」のエピソードです。
やがて項羽は長江のほとりで自ら命を絶ちました。
西安。
かつて漢の都長安が置かれた町です。
紀元前202年劉邦は周囲に推される形で皇帝に即位。
漢王朝を開きました。
国づくりにあたって劉邦は一族や功臣に土地を与えて諸侯とし一定の権力を許す事で王朝の安定を図りました。
漢王朝は400年にわたって続きその支配体制はその後の中国王朝の基盤となりました。
2015/04/12(日) 03:50〜04:10
NHK総合1・神戸
古代中国 英雄伝説「項羽と劉邦」[字]
始皇帝の死後にすい星のように現れた二人の英雄、項羽と劉邦。二人は天下をかけて激突する。項羽は軍事の天才だったが最後に勝利したのは劉邦だった。その理由は何なのか?
詳細情報
番組内容
紀元前3世紀、始皇帝亡きあとの秦末にすい星のように現れた二人の英雄、項羽と劉邦。二人は天下をかけて激突する。項羽は中国史上最強と言われるほどの軍事の天才だった。項羽と劉邦が直接戦ったときには、項羽が敗れたことは一度もない。しかし、最後に勝利したのは劉邦だった。その勝利の理由は何なのか?近年、劉邦の軍団の兵馬俑が発掘され、その強さの秘密が明らかになりつつある。意外な劉邦の実像、そして項羽の弱点とは?
出演者
【語り】兼清麻美
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:18247(0x4747)