NHKアーカイブス「戦後70年 日本人はなぜ戦争へと向かったのか〜外交敗戦〜」 2015.04.12


(衝突音)
国内外に甚大な被害をもたらした太平洋戦争。
日本人だけでも300万人以上が亡くなりました

日本はなぜこのような悲惨な戦争を始めてしまったのでしょうか。
NHKには戦争への決定に関わった当事者の証言を基に開戦に至った道筋を検証した番組があります
ジュネーブで国際連盟の総会が開かれました。
日本が真の孤立そしてその先の戦争への道に向け大きく踏み出した瞬間でした。
しかしそれは既定の方針ではなく当初の使命は手を尽くして連盟に残る事でした。
それを裏付ける証言が見つかりました。
国際連盟脱退後ことごとく外交に失敗した日本は無謀な戦争へと向かっていきました。
無条件降伏に終わった戦争から70年。
過ちを繰り返さないためにどうしたらよいのか考えます
こんにちは。
森田美由紀です。
この4月から「NHKアーカイブス」を担当する事になりました。
どうぞよろしくお願い致します。
スタジオも一新致しました。
放送が始まってから90年。
さまざまな事を記録しお伝えしてきた放送のお宝がたっぷりと詰まった部屋をイメージしています。
ここで皆さんと一緒に貴重なNHKの映像や懐かしい番組を見てまいります。
さあ戦後70年の今年「アーカイブス」では戦争をテーマにした番組をお送りしていますが今日これからご覧頂きますのは日本はなぜ戦争へと向かったのか。
外交の失敗に焦点を当てた番組です。
早速ゲストの方にお入り頂きましょう。
どうぞ。
ノンフィクション作家の保阪正康さんです。
どうぞよろしくお願い致します。
どうぞよろしくお願いします。
お掛け下さい。
保阪さんは軍人や兵士そして遺族の方々延べ4,000人にインタビューをされて昭和史をテーマにした本を数多く書いていらっしゃいますが私戦後60年の節目に書かれた本を読ませて頂いたんですけれどもその時に10年後戦後70年は今ほど騒がれていないのではないかと書いていらっしゃいましたね。
…と書きましたね。
ええ。
私はまあ10年前そう思ったんですが予想が外れました。
考えてみれば太平洋戦争っていうのは日本人の国民的性格がね凝縮している最良の教科書なんですね。
ですから逆に年月を経れば経るほど検証されていくのかなと改めて思いましたね。
はい。
また後ほどゆっくりお話を伺います。
よろしくお願いします。
それでは早速番組をご覧頂きましょう。
外交の失敗をテーマにした…ご覧下さい。
私の目の下はアメリカ軍基地真珠湾パールハーバーです。
70年前日本軍はここを奇襲攻撃してあのいわゆる太平洋戦争は始まりました。
当時の国力差はアメリカは日本の数十倍でした。
で3年半後日本は悲惨な敗北を喫する訳ですがあの戦争はようやく今になってさまざまな真実が浮かび上がりつつあります。
70年前我々日本人はなぜあのような無謀な戦争へと向かったのでありましょうか。
理由ですか?いや分かんないですね。
軍部の独裁で決めた事なんじゃないの?国を豊かにするため?勝ってさ領土取りたかっただけなんじゃないの?日本が。
やられる前にやる…ですかね。
なぜ日本人は戦争へと向かったのか。
その疑問を解き明かす貴重な手がかりが残されていました。
こちらになります。
戦争への重大な決定に関わった当事者に戦後研究者らが聞き取りを行った資料です。
政府の閣僚から軍の幹部まで総勢およそ100人。
未発表の肉声が大量に見つかりました。
70年前なぜか戦争への道を選んだ日本。
その理由を発見された新たな資料を基に明らかにしていきます。
満州事変から日中戦争そしてあのいわゆる太平洋戦争へと続く戦前の歴史。
その道は単純な一本道ではありませんでした。
いくつもの分かれ道を持つものでありました。
じゃなぜ日本はあの時あの道を選んでしまったのか。
実は今回私たちは非常に貴重な肉声のテープとそれから世界10か国以上からの資料とそれから最新の研究成果を集める事ができました。
そこから見えてきたものはですねこれまで言われてきたような単なる軍部の暴走軍部の横暴によるものではなくてですねそれでは片づけられない繰り返された過去の過ちの数々でございました。
重要ないくつかのターニングポイントがありましたけれども中でも決定的な一歩はですねあの国際連盟からの脱退でありましょう。
あたかも名誉の孤立であるかのようにいわれていたこの脱退劇ですが実は皆さん実際はそうではなかったんですね。
日本はなんとかこの連盟から脱退しないように脱退しないようにという事で心を砕いておりました。
しかし結果としてああなってしまった。
ここにですね日本が繰り返してきた過ちの原形を見るのでございます。
瀋陽郊外の柳条湖で日本の経営する南満州鉄道の線路が爆破されました。
これを中国側の仕業として関東軍は武力による攻撃を開始。
5か月でほぼ満州全域を制圧し翌年には傀儡国家の満州国を独立させました。
日本の行為は国際法違反だとの非難が起こる中1932年12月ジュネーブで国際連盟の総会が開かれました。
松岡洋右を全権とする日本代表団。
審議の末名誉の孤立とされる連盟脱退を演じます。
しかしそれは既定の方針ではなく当初の使命は手を尽くして連盟に残る事でした。
それを裏付ける証言が見つかりました。
当時松岡に密着し一部始終を聞いた記者の肉声テープです。
証言に基づき当時を再現します。
12月6日国際連盟総会。
満州問題の審議が始まった。
各国から次々と日本への非難が起こった
満州国は日本の明白な国際条約違反である。
大国だからといって力を好きに行使してよいはずはない。
この侵略を黙認すれば連盟の威信は地に落ちる。
加盟国の多くは連盟の理念を守るべきだと強調した
一方イギリスなどの列強は露骨な日本批判を控えていた
演説に立った松岡は「日本には非がない」と主張した。
その強気の裏には列強への期待があった
しかしこの時点までは日本は完全に孤立した訳ではなかった事が明らかになってきました。
実は列強各国も揺れていました。
当時のイギリス政府の意外な考え方を示す資料が見つかりました。
国際政治の大物だった…満州事変後の閣議で「日本には宥和姿勢で臨む制裁はしない」との方針を示していました。
逆に中国には「連盟に頼らず自分で交渉すべき」と距離を置いていました。
当時世界は国際協調に基づく脱帝国主義的な外交の在り方を模索し始めたところでした。
しかしそれは現実には徹底されず欧米の列強は植民地や権益を手放していませんでした。
特に1929年の大恐慌以降列強は自国の権益に固執する姿勢を見せていました。
関東軍の行動はそうした情勢を見て起こしたものでした。
日本政府もまた世界をそう認識。
満州を実質的に支配下に置きます。
今回の証言テープから伝わってくるのは自分たちの行動は特別ではないという日本側当事者の楽観です。
しかしこうした希望的な解釈は後の戦争へとつながる国家の判断に大きく影響していきます。
決定的な分岐点はすぐ訪れました。
審議4日目イギリスのサイモン外相が日本代表団に秘密裏に妥協案を提示してきたのです。
「そろそろ事態の収拾を図ってはいかがか?」。
サイモンの提案は中国に直接利害を持つ国で委員会を作り建て前論を越えて話し合おうというものだった
この時妥協点としてサイモンの念頭にあったのはリットン調査団の報告でした。
これは「満州国を認めない」など日本に極めて厳しい内容だったと思われていますが「満州を国際管理にしてそこに日本人顧問も起用する」など実は日本に配慮した提言でもありました。
一方予想以上に厳しい連盟の空気に接した松岡らは強気で押し通す事に限界を感じていた
この際私はイギリスの提案に応じる方が得策ではないかと思う。
協議の末松岡は本国に具申した
「日本側も考え直しむしろ提案を快諾すべきと確信する」。
しかし外務大臣の内田康哉はこのイギリスの妥協案を拒絶します。
というのも当時日本の政党は国民の支持を失い政府は民意を取り戻す事に汲々としていました。
日本の世論は満州国の誕生に熱狂。
政府はこの国内世論を優先するあまりイギリスの提案すら顧みる事はなかったのです。
そこに更にやっかいな問題が持ち上がりました。
関東軍が新たな軍事作戦の許可を求めてきたのです。
今度は長城を挟んで北京に隣接する熱河地方でした。
この時の現地軍の事情を当時の参謀が証言しています。
年明け1月政府は対応を迫られた
関東軍が許可を求めている熱河作戦ですが行動は満州国の内部すなわち長城の東側に限定するよう厳命しております。
政府は関東軍の要求をはねつける事ができなかった
長城を越えないならばという条件で作戦を許可した
関東軍が今動けば連盟の交渉には差し支えますよ。
そうは言っても熱河は満州国の中だ。
説明すれば連盟も分かってくれるだろう。
それはまたしても希望的判断だった。
「満州国内の治安活動なら国際問題にはならないだろう」。
軍との摩擦を避け内側の事情を優先した選択だった
その一方世界の出方については更に甘く見ていた。
全権団に送った指示は「連盟に事態を静観させこのまま満州問題から手を引かせよ」。
連盟の一方的譲歩を求めるものだった
松岡の怒りの電報が届いた
大臣ジュネーブから至急電です。
「国家の前途を思い率直に申し上げる。
ものは8分目でこらえるのがよい。
一切の行きがかりも残さず連盟に手を引かせるなどできない事は最初から政府もご承知のはずである」。
国際連盟脱退の真相は最近になって明らかになってきました。
2月初め連盟が対日勧告の作成に入ったところから事態は急展開します。
外務省は重大な誤算が生じた事に気付きました。
連盟の勧告が出るタイミングで日本側が挑発的な行動をとった場合規定により日本は経済制裁を科されるおそれが出てきます。
ところが関東軍は閣議の了承と天皇の裁可も得て既に動き出していました。
つまりこの行動と勧告の時期が重なってしまったのです。
経済制裁は恐慌から立ち直っていない日本には致命的でした。
にもかかわらず誰も関東軍に作戦を撤回させようとしません。
むしろそのかわりに外務省が場当たり的に持ち出したのが連盟脱退論でした。
窮余の策に飛びついた政府は松岡らに連盟脱退の方針を伝えました。
連盟残留を目標にしてきた松岡。
政府の場当たり主義に激しい失望を覚えました。
2月24日。
リットン案より更に厳しい勧告案が連盟総会に提出されました。
(拍手)日本が真の孤立そしてその先の戦争への道に向け大きく踏み出した瞬間でした。
この時日本は何を誤ったのか。
それはこの時の行動原理が内側を向いていたという事でしょうか。
つまり内部の対立を避けてですね外に向かってはまああれぐらいの事は大丈夫だろうという希望的判断に終始したという事です。
でそれが甘い幻想だと分かるとですね急場しのぎに奔走するという事になる。
つまり国家としての基本的な戦略がないためにですね何か事が起こると小手先の弥縫策に走ってしまうという事になります。
そしてもう一つ深刻な問題が顕在化致しました。
それはこれをご覧下さい。
大恐慌のあった1929年から6年の間に7人の首相が日本替わってる訳ですね。
短い間にコロコロコロコロ日本の首相が替わっていく。
つまり政党が民意の支持を得られず内閣が求心力を失っていく。
軍部をはじめ各組織がですねてんでんばらばらに自分の政策や外交を展開していく事になる。
そうした中で思わぬ形で始まったのが1936年ナチス・ドイツへの接近でありました。
孤立を始めた日本の行方に影を落とすものがありました。
軍による外交への介入です。
お疲れさまです。
(小谷)お疲れさまです。
防衛省で世界の暗号や情報戦の研究をしている小谷賢調査官。
日本軍の知られざる暗号解読力を明らかにし軍が外交介入へと至った背景を浮かび上がらせました。
これが当時やってた暗号解読の実際の書類です。
これはアメリカのものですね。
中国のアメリカ大使からアメリカの国務長官に宛てた電報で。
これはフランスのものですね。
東京のフランス大使に宛てたものですね。
これはイギリスの外務大臣から…。
戦前の日本軍の暗号解読力は世界トップレベル。
米英ソなど年間数万通の外交文を読み通していました。
これは中国のものですね。
中国に関しては軍事暗号までほとんど解読。
高度の情報収集によって現地軍は独自の対中観を持ち始めていました。
1933年蒋介石の国民政府は日本との停戦に応じ妥協姿勢に転換していました。
しかし軍はこれを全く信用していませんでした。
例えば現地軍がつかんだ国民政府ナンバー2の極秘発言です。
こうした情報を軍は外務省側に伝えませんでした。
そして国民政府の妥協姿勢を偽装と決めつけ一方的な敵視を強めていったのです。
そして1935年5月現地の陸軍は思わぬ行動に出ました。
対ソ防衛を理由として国民政府を相手に中国北部からの退去を要求するという外交上の越権行為に出たのです。
現地軍の行動は政府にとって寝耳に水でした。
外務省は軍とは逆に国民政府への支持を軸に日中関係を改善し国際的孤立を回避しようと考えていたからです。
軍と外務省。
一つの国家に全く相いれない外交方針が併存する二重外交が生じていました。
なぜこの時期に外交の分裂が生じたのか。
かつて日露戦争の頃は対外情報を総合的に判断する組織や外交方針をまとめて各組織に従わせるリーダーが存在していました。
30年代にはその役割を政党内閣が担うはずでしたが政党の不人気や相次ぐテロなどで内閣は弱体化。
独自の行動を強める軍を統一した方針の下に従わせる事ができなくなっていたのです。
特に中国大陸では軍の独断行動が顕著でした。
対中国外交の矛盾をどうするか。
外務省の緊急会議で思いも寄らぬ案が飛び出した
陸軍が中国に出した要求は日本と中国が共同でソビエトに備えるためと説明してはどうか。
重光次官がひねり出したのは国家を超えて共産主義に対抗する「防共協定」というアイデアだった
当時共産主義の拡大は各国首脳にとって大きな懸念となっていました。
特に中国では国民政府と共産党の内戦が激化する様相を見せていました。
共産主義に対抗するという名目で蒋介石に連帯を呼びかけようとしたのです。
新たな国家戦略として急浮上した防共外交。
その中心を担った人物の遺族に会いました。
あっ山室さん。
外交官有田八郎の孫の山室宗光さんです。
1936年春に外務大臣となり防共外交を強力に推し進めた有田八郎。
手帳もこんなあるんですよね。
これ30年代20年代。
今回有田家からは膨大な資料が見つかりました。
びっしりとあるんですよ思いの痕跡が。
日本の要は日中関係にあると考えた有田は国民政府に防共協定の働きかけを強めました。
有田の防共外交は中国を手始めに更に世界へと広がっていました。
最近になって情報公開が始まったポーランド。
日本の防共外交の痕跡が残されていました。
有田がポーランドに防共協定参加を呼びかけた資料が今回初めて確認されました。
ほかにもオランダベルギーなど日本が懸命に孤立脱出を模索した実態が分かってきました。
有田の構想は既に働きかけている中国に加えさまざまな国に対ソ防共の連帯を呼びかけ孤立脱出の足がかりにしようという大がかりなものでした。
この時期外務省とは別の外交工作がドイツの片隅で一人の男によって進められていました。
日本の戦争への決定的なターニングポイントになったとされるナチス・ドイツへの接近です。
ベルリン駐在陸軍武官大島浩。
ヒトラーや大作曲家リヒャルト・シュトラウスらと交流し日独接近の立て役者となりました。
自分は国をミスリードしたっていう事はねそれはとにかく公式にいった訳ですからね。
そういうところの責任はあるという事は考えてたと思いますよ。
世界がまだ大恐慌の後遺症に苦しむ中最も見事な経済回復を遂げていた国がドイツでした。
ヒトラーの下で猛烈な軍拡を進めるドイツは激しい緊張を周囲にもたらしていました。
大島は陸軍中央の了解を得てドイツとの軍事的同盟を模索し始めました。
またしても生じた外交分裂。
1936年の初め陸軍の動きを知った外務省は危機感を覚えます。
ドイツへの安易な接近は欧米諸国の反発を招き日本を更に孤立させるおそれがあったからです。
しかし有田らは陸軍を止めるのではなくある国と手を結ぶ事で対処しようとします。
反ドイツの急先鋒だったイギリス。
外務省はここを味方に引き入れる行動に出ました。
有田の意を受けイギリスの説得に当たったのは…
1936年7月30日。
吉田は対イギリス工作を開始した
イーデン外相に対し防共外交への協力要請をこう切り出した
日本と力を合わせるよう中国にはあなた方の口添えを頂きたいのです。
失礼ですが中国側もこの事は了解しているのですか?
吉田の提案は10項目に及んだ。
イギリスは中国に防共への参加を説得してほしい。
ゆくゆくはイギリスも加わってほしい。
しかしイーデンは簡単に吉田の誘いには乗らなかった
一つ間違えばこの協定は世界を割ってしまうおそれはないでしょうか。
防共外交は迷走を始めました。
ベルリンの大島は早い段階からイギリスが防共協定に消極的な事をつかんでいました。
ヒトラーの腹心のリッベントロップが既にイギリスとの連携を模索失敗していたからです。
またしてもこの陸軍側の情報は吉田ら外務省側には伝えられませんでした。
一方の吉田もイギリスとの交渉を独自の考えで進めだしました。
東京の意向を確認せずイギリスに中国の共同経済開発を打診したのです。
イギリス側は戸惑いました。
ベルリンの大島らの動きも監視していたイギリスは全てがちぐはぐな日本側の真意を疑い次第に不信感を募らせていきます。
世界を股にかけなんとか孤立を回避しようとした防共外交の試み。
しかし自らを統制できない日本外交の現実はかえって日本への信頼を失わせていました。
最初に防共協定を持ち掛けた中国でも日本のまとまりのなさが影を落としていました。
1936年10月蒋介石と川越茂大使の間で防共協定を巡る交渉が大詰めを迎えます。
中国をなんとかつなぎ止めようと日本側は焦っていた
ただ親善を口にしていても意味はないでしょう。
共産主義に対抗する共通の目標を掲げましょう。
我が国にはソビエトに反対する事を好まぬ空気があります。
まずはそれをどうするかなのです。
だがこの時点で国民政府が日本の呼びかけに応じる可能性はなかった
1935年の暮れまでに中国が日本を見限りソビエトとの関係強化に踏み出していた事がソ連側の資料で初めて確かめられました。
更に最近公開された資料を詳細に読み解いた鹿錫俊教授はこの時期の蒋介石の心理を新たに明らかにしました。
(鹿)10月18日の中で対ソ関係と対日関係の利害および軽重関係についてつまり注意しなければならない。
日本の出方を注意深く見守っていた蒋介石。
日本が外交方針を統一できないと見るやついに決心を固めました。
(鹿)12月15日の注意の中で蒋介石はいろいろ悩んできましたけどもソ連との提携に傾いた。
ソ連とはもう提携…。
・・そうかやはりそっちも駄目か。
イギリスやポーランドとの交渉も進展はなく日本側の思惑は空回りしていた。
その中で避けたかったドイツだけとの交渉が着々と進んでいった
1936年11月25日。
日独防共協定成立。
協定はソビエトはもちろん欧米各国の猛反発を引き起こしました。
この世界の反応については大島ら陸軍側も読み違いを犯していました。
孤立した日本は翌年中国との全面戦争に突入します。
世界との関係を回復しようとした日本は気が付けばドイツ以外の世界中を敵に回していました。
孤立を避けようとした外交が逆に日本を後の世界大戦への道へと引き込む事になります。
なぜ日本は孤立化への道を歩んだのか。
それはその時代の選択の一つ一つがですねきちんとした長期的な計画のもとに行われていたのではなかったという事であります。
むしろ見えてきたのははっきりした国家戦略を持たずに甘い想定のもとに次から次へと起こる事態の対応に汲々とする姿でございました。
一体誰が情報を取りまとめ一体誰が方針を決めるのか。
そして一旦決まった事がなぜ覆るのか。
そういった事が何も見えない日本はやがて世界の信用を失っていく事になるのです。
方針も情報も一本化できずに内向きの都合のいい現実だけを見続けた果てに日本はあのいわゆる太平洋戦争を迎えます。
外交敗戦ともいうべき国家の誤算は開戦に至るその日まで繰り返されたのです。
欧米との対立の激化した1940年。
かつての国際連盟全権松岡洋右が外務大臣に就任しました。
この時松岡が事態打開の切り札と期待した日独伊三国同盟はいよいよ日本を太平洋戦争へと追い込んでいきます。
日本が開戦へと向かう大きな分岐点になった国際連盟からの脱退。
それは積極的に脱退しようとしたのではなくてむしろ逆。
脱退しないようにしないようにしていたというのは…。
本当は脱退したくないけどもそういった選択をせざるをえなかったっていう形でこういう番組は出来たんでしょうけどもこういう事実はやはり何年かたつと明らかになるんだなあと率直にそう思いましたね。
結局そういう事はもう同時代史からですね歴史へ移行するっていう事で史実そのものが深まりを持つと。
同時代の空気を知ってる人それから同時代の一面をよく知ってる人がだんだん相対的に数が少なくなってその時代を知らない人が増えてくる訳ですから歴史的解釈歴史的な分析っていうのが当然ながら起こってくる。
そういう起こってくる中でこれまでの解釈とは違うなあっていうのが当然出てくる訳ですね。
このケースもそういった形で見ていくとよく分かりますね。
はい。
私は松岡が国際連盟脱退した時の事はもちろん知りませんけども当時の新聞等を見るとですね日本は脱退すべし。
もう意気軒こうこれしか道がないんだっていう事でしたけどもそれが同時代史の空気を作りそしてそれが戦後何年か語られてきたんですが今こうして見るとですね実はその中にはもっと違う要素があった。
本当はできるだけ孤立化を防ぎたいんだという政策担当者の意気込みがあったんだなという感じがひしひしと伝わってきますね。
この国際連盟からの脱退をはじめ日本の外交というのはことごとく思惑とは異なる方向に行く。
失敗をしていく事になりますよね。
昭和8年のこの国際連盟脱退がですね日本が孤立化する第一歩だったんですね。
でまあそれは昭和史全体を見るとその第一歩からだんだんだんだん孤立化してくんですがやっぱり孤立化を防ぎたいと思ってた人たちがいてしかしなぜじゃあ孤立したんだろうと。
問題はそこにあるんですね。
孤立したくない。
しかし孤立してしまう。
…とそのギャップがやっぱり歴史的な解釈あるいは私たちが次の世代として検証しなきゃいけない事ですね。
要はその外交の失敗の原因という事になるかと思いますけれどもそこには何かこう日本の国民的な日本人の傾向というんでしょうかね…。
やっぱりあると思いますね。
僕はもう率直に見てですねまず一つには主観的願望っていうのがですね客観的現実にすり替えてしまうっていう事が一つありますね。
自分の思っている考え方っていうのがですね相手もそう見てるっていうのが客観的に間違いがないというふうにだんだん確信してくそのプロセスの中に一つ問題があるなという事ですね。
それからもう一つ情報の収集がですね結構随分行われてると。
はい。
しかしその分析そしてその分析を終えたあとにどれを選択するか。
そしてそれを国策の決定の中に生かすか。
そのプロセスそのシステムが全く機能してないという事ですね。
3つ目はですね政策を決めるのは誰なのか。
そこのところが最大の問題点だったと。
昭和は国際連盟の孤立化から始まってその政策が…まあこの番組でも言ってましたけど軍事とそれから政治の側とそれから内閣ともうバラバラになっていく。
で…そのバラバラになっていくところが国際的信用を日一日と失われていったと。
更に場当たり的。
結局は戦略がないというか基本的な土台になる考え方っていうのがぜい弱だから。
あるいはそれがくるくる変わるからだからその〜あっちへ行ったりこっちへ行ったりってする事によって何かこうその迷走そのものが私たちの国のいろんな欠陥を集約した形で出てる訳ですね。
それに対するチェック機能がない。
それと同時にそれを反省するといいますかちょっと私たちの国の政策は相手からどう思われてんだろう。
もっとこういうとこきちんとしなきゃいけないな…っていうような反省がない。
客観視したりふかんして見る人がいない。
ないですね。
はい。
さあ…。
国際連盟を脱退したあと日本は孤立を深めていきます。
そこで戦争を避けようと望みを託したのがアメリカとの交渉です。
しかしこの外交も失敗します。
今度はNHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか第4回」から10分ほどご覧頂きましょう。
世界で戦争が拡大していた1941年各国の指導者は危機の時代を乗り切ろうと懸命でした。
リーダー自らに権限を集中し迅速な決定で激動に対応しようとしていました。
一方の日本。
突出した権力者はいませんでした。
当時は第2次近衛内閣。
国家の運営は内閣の国務大臣と統帥権を担う軍のトップが責任を負っていました。
経済制裁や中国問題を巡ってアメリカとの交渉が始まる中彼らのリーダーシップが大きく問われる事になります。
午前11時半首相官邸で内閣および軍のトップが国家方針を検討するいわゆる大本営政府連絡会議が始まった
アメリカのハル国務長官には既に野村大使から我が方の条件を手渡しました。
回答には少し時間がかかるでしょう。
日米交渉ではアメリカに経済制裁の解除と中国との調停役を期待していた。
だがそう甘くはない事も分かっていた
もしアメリカが「大陸からの撤兵三国同盟の破棄」を条件に蒸し返すならこちらに応じる余地はない。
その辺り抜かりはないでしょうな。
無論こちらの条件は念を押してある。
だがものになるかは三分。
正直厳しいと思う。
交渉に見込みはあるのか。
交渉以外に道はあるのか。
首脳部は揺れ続けていた
首相や外相陸海軍の代表など各組織のトップが集うこの連絡会議が実質的な日本の最高意志決定機関でした。
重要な国家方針は御前会議にかけられますがそこでは天皇の承認を受けるのみ。
その方針案は連絡会議が責任を持って全会一致で示す事が原則でした。
しかし会議では各代表の権限が対等で首相にも決定権がなく反対者が1人出ると何も決められません。
そこで話をまとめるには各組織の要望を均等に反映した曖昧で実体のない決定に合意するのが慣例となっていました。
6月下旬この日本の意志決定の問題点があらわとなります。
三国同盟を結んだドイツとソビエトの間で全面戦争が勃発。
日本の首脳陣はどう対応すべきか判断を迫られました。
当初ドイツ軍は目覚ましい進撃を見せました。
この時陸軍の中からは「北のソビエトをたたけ」という北進論が海軍の中からは「南の資源を確保せよ」という南進論が同時に浮上しました。
陸海軍が自分たちの組織の都合を訴える中で連絡会議の近衛首相ら首脳陣の方針は定まりませんでした。
7月2日リーダーたちは当面の対応方針を打ち出します。
それは方針とは名ばかりで選択肢を「外交交渉」「南進」「北進」どれかに絞る事なく全て進めるという総花的プランでした。
しかも具体的な事は「状況を見て別に定める」。
つまり何も決めず準備だけするという実質様子見先送りでした。
(汽笛)
連絡会議の方針に基づき陸軍は北進準備の動員を開始した。
総勢16個師団85万人の大兵力。
準備がどこまでを指すかは軍の判断に任されていた。
任務は秘密兵士の見送りも許されなかった
方針の曖昧さをいい事に陸軍は準備の内容を最大限に解釈。
この大動員が波紋を広げる事になります。
陸軍の準備は行き過ぎではないか。
国家に緊張が走った
聞いてますか?関東軍が行動の自由を要求しシベリアの占領統治計画も作っているとか。
どういう事だ?陸はまた勝手に戦を始める気なのか?
危機感を持った海軍省幹部は陸軍省に乗り込んだ
佐藤。
貴様らは本気でソ連に出るつもりなのか?誰がそんな事言っておるんだ。
北進は陸軍の単独作戦となる。
国を潰すぞ。
食い止めるんだ。
様子見のために曖昧にした首脳部の方針が逆に現場の拡大解釈を許す結果となった。
近衛らは陸軍を止める代わりにその関心を南に向けようと今度は南方準備に同意した
「日本仏領インドシナ共同防衛の取り決めに引き続き我が陸海の精鋭を南仏印に…」。
この南部仏印進駐も連絡会議での南方準備に基づく行動でした。
首脳部としては事前交渉でフランス側の合意を得た少数部隊の派遣にすぎず石油のあるオランダ領や英米が神経をとがらせるイギリス領には手を出さない。
北方と同様様子見のつもりでした。
しかし陸海軍のバランスをとったこの内向きの対応が最悪の結果を生む事になるのです。
仏印への進駐はアメリカの態度を決定的に硬化させました。
それまでの部分的な輸出制限から一気に一滴の石油も日本に売らないとする全面禁輸へと踏み込んだのです。
当時アメリカの反日世論は急激に高まっていました。
アメリカ政府内では対日強硬派が力を拡大し日米交渉での時間稼ぎを考えていたハル国務長官らを徐々に圧迫。
そうした中で強硬措置をスタートさせたのです。
ルーズベルトもこれを追認。
制裁解除には中国と仏印からの撤兵が条件に掲げられます。
日本の首脳部が方針を曖昧にして選択肢を残そうとした事が最悪の結果を引き起こしました。
全面禁輸など覚悟していなかった軍の中枢でもたちまち混乱が広がりました。
南部仏印進駐がアメリカの全面禁輸を招き日米開戦がもう避けられないものになったと…。
そうですね。
いう事ですね。
南部仏印に入るという時にですねアメリカがどう出るだろうか。
石油を止める。
いろんな経済制裁加える。
あるいはアメリカの中にある対日資産を凍結するとかいろんな事が考えられてたけども7月の初めの2日でしたか会議で南部仏印決める時ですね我々が本気で南部仏印入っていけばその中に「戦争を辞せざる決意のもとに」という一言を入れるんですがその気持ちで入っていけばアメリカはその覚悟を見るだろうから戦争を避けるだろうと。
でそれと同時にそういう制裁もしないだろうと思って入っていくんですね。
全く逆でしたね。
予想してたよりもずっと大きな仕返しというか先の全面禁輸という処置を受けた訳ですね。
まさに本当に希望的な観測だった訳ですけれども…。
そうですね。
ここにねやっぱり主観的願望を客観的事実をすり替えたというのが一つあるんですね。
しかし太平洋戦争へと至る事になった外交の大きな失敗。
そこから現在の日本の外交への教訓。
結局この時のマイナス面をうんと検証する事によってこれが全部現在の問題になるんですね。
現在それを克服してるか克服する事によって日本の外交は円滑にいってるのかっていう事は常にチェックする必要があると思いますね。
それから当事者たちが責任を実感するっていう事ですね。
その責任は省とかある時代の責任だけではなくて歴史の流れの中で自分は今ここ携わってるっていうのは日本をどういうふうにしていくための携わり方なんだっていう事を考えないといけないですよね。
戦後70年当時の事に真摯に耳を傾けそして見つめながらだけどまあいろんな立場からそれを考えていくという事が大事だと…。
私はね昭和史ずっと調べてね史実は実はね声を発してるんですよ。
声を発してるし…変な言い方になりますけどある場合は泣いてるんですよね。
私たちは全ての史実が正しいとか間違ってるというのはそんな決める権利はありませんけど史実が泣いてるあるいは笑ってるあるいは「どうだ」っていうのがあってもそういう事をくみ取る力っていうのが試されてると。
70年っていうのは史実と向き合う時の私たちの姿をねもう一回見つめ直すっていう意味があるんじゃないかと。
大事な教訓は語り伝えられるんだと改めて思いました。
はい。
戦後70年「アーカイブス」では今度は5月に戦前のメディアについてお伝えする番組をお送り致します。
その時にも保阪さんにまたお話を伺います。
どうぞよろしくお願いします。
今日はどうもありがとうございました。
どうもありがとうございました。
2015/04/12(日) 13:50〜15:00
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「戦後70年 日本人はなぜ戦争へと向かったのか〜外交敗戦〜」[字]

新年度から森田美由紀キャスターが番組を担当。その1回目として、戦後70年の年に、日本人はなぜ戦争へと向かったのか、国際的な孤立の道を歩んだ外交について考える。

詳細情報
番組内容
【ゲスト】作家…保坂正康,【キャスター】森田美由紀
出演者
【ゲスト】作家…保坂正康,【キャスター】森田美由紀

ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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