徹子の部屋 加藤登紀子 2015.04.14


豆役者らの愛くるしい演技や大見得を切る様子に集まった観光客からは大きな拍手や歓声が湧き起こっていました。
この長浜曳山まつりは、明日15日に本日を迎え長浜八幡宮で子ども歌舞伎が奉納されます。
(黒柳)まあ可愛らしい。
七人目…7人目のお孫さんとご一緒の方が今日のお客様でいらっしゃいます。
芸歴50年という加藤登紀子さんお客様です。
なんといっても色んなお歌あるんですけど『知床旅情』よく皆さんご存じの。
あの曲を作ったのが森繁久彌さんだと仰って…。
その秘蔵映像もございますのでお楽しみにしていただきたいと思います。
50年歌い続けていらっしゃって色んなことあるんですけどもまあとにかくご家族にも恵まれて。
もう今七人目のですね7人目のお孫さんを抱えてらっしゃるっていう…羨ましい。
もうだいぶ…。
1歳過ぎましたので。
あっそうですか。
ちょっと前なんですけど。
本当に2番目の…前に出演させていただいた次女のYaeが3人目の…。
あっそうだったの?へえー。
痲紀ちゃん。
へえー。
ちっちゃいね生まれたばっかりね。
可愛い。
もう本当に数日後っていう感じで。
ピンク色…赤ちゃんっていうぐらいで本当にねピンク色。
可愛い。
色々本当に…Yaeは鴨川のほうに農業をやってる人と一緒になって子育て…男の子2人いて。
あっそうなの。
悪戦苦闘してたんですけども歌も歌いながら頑張っていて。
どうしても男の子2人だとなんか敵に囲まれてるような感じがするんで味方に女の子が欲しいわって言っていて女の子が生まれたっていうことなんですけれども。
あなたも色んなことあったんですけどとにかく50年。
デビュー50年でいらっしゃるってまあ大変…。
しかも古希か…。
古希の1。
古希のワン?71です。
古希プラス1。
古希プラス1でいらっしゃってこの若さで。
とても素敵なね。
とてもお洋服も可愛けりゃスカートも可愛いし。
ソックスっていうんですかね。
タイツも靴もみんな可愛い。
でも本当にねいいですね。
ありがとうございます。
お母様は100歳でお元気でいらっしゃってね。
いつかご一緒にお母様もいらしてくださった…。
奇麗なお母様で。
ありがとうございます。
本当にお母様なんて上品な方なんでしょうね。
今年もやっと誕生日を迎えることができました。
何歳?100歳で。
だから今の写真はちょっと前っていうことですけどね。
ご一緒に来てくださったことなんです。
おばあ様にとってはこれひ孫と一緒にいて何人いるんだって…。
なんだか全部で16人いるんですって。
おばあ様にとってはひ孫が…。
あなたの後ろにお母様いらっしゃいましたけどね。
でもお元気そうで何より。
100歳。
あなたもあれでしょ?色々…随分たくさん色んなことあったけどその間中お母様いらしてくだすって…。
そうですね。
本当に支えてくれたと思いますし。
今年はね戦後70年といわれるんですけどやっぱり70年っていう時間の幅より私が生まれた…戦争が終わる前のあの一番大変な時期に生まれたっていうことですよね。
その1943年からの母が私の命を支えてくれた71年っていうのがやっぱりすごく胸に響く年ですね。
でも私びっくりしたんですけど知らなかったもんですから。
あなたのお父様がNHKの向かい側にあった「飛行館」という録音スタジオで…。
井上ひさしさんのものなんかほとんどそこで録ってたんですよ。
あっそうですか。
あそこであなたお父様…。
あそこにね…支配人をしてて。
支配人!それで『夢であいましょう』の音楽を全部あそこで録音して…。
八大さんいつもあそこで録ってたし。
永さんとか八大さんは…私セーラー服で時々父の顔を見に行ってあそこでかつ丼なんておごってもらってる時にその周りにいらしたそうで。
いつも永さんが「おときさんはセーラー服の時から知ってるからね」って仰るんです。
あっそう。
あそこでね『夢であいましょう』の音楽ほとんど録ってました。
私はそのもっと前から井上ひさしさんの…熊倉一雄さんなんかと一緒にラジオをずっとあそこで録ってて。
井上ひさしさんはすごくあそこを…なんていうの?懐かしく思ってるはずなの本当はね。
それで私はあまり頭の中でつながってなかったんですけど私が大学行って演劇をやっている時に突然父がシャンソンコンクールに申し込んだんですね。
えー!なんで私の父がシャンソンコンクールに申し込んだのかな?って思った時に…あとになって気がついたんですけど八大さんと石井好子さんがすごい親しくて。
それで石井好子さんがシャンソンコンクールを始めるよっていうことをたぶんいち早く聞いてらしたと思うんですよ。
そこでセーラー服の女の子っていうのが話題に上ったかどうかはわからない…。
それで私がシャンソンコンクール受かって最初のツアーが全部八大さんのツアーだったんです。
あらラッキー。
それでこれはある時…もうデビューしてすぐにコマーシャルソングか何かをね披露した時に…。
この2人のツーショットがね珍しいんです。
でも八大さんねこの頃さ若くてハンサムでねもうバリバリでしたもんね。
私は全国何十回もコンサートで回りました。
ラッキーでしたね。
いい方だったでしょ?私も大好きでしたね。
すごい接点がありましたね。
それからもう一つの接点がさっきのあなたのね本当にお得意になってらっしゃる『知床旅情』なんですけど。
あれは本当に森繁さんが作詞・作曲なすったんですってね。
私が歌う10年前1960年に『地の涯に生きるもの』っていう映画をね作られてその撮影が終わる時にアドリブで歌って羅臼の人たちに贈ったのがこの『しれとこ旅情』っていう歌だった…。

(森繁)「知床の岬にはまなすの咲く頃」このレコードを京都の「リラ亭」というある小さなバーがあってそこのマスターがこの曲を…。
小さなポータブルのねこういうのを置いているお店なんですよ。
それずっとかけていて。
そこに通い詰めていた私の…その後結婚する藤本敏夫がそこでこの歌を覚えていたんですね。
彼と出会うことになって…。
東大出ました。
初めて2人でデートをした夜に『しれとこ旅情』を歌ってくれたんです。
彼が?そう。
その時にね私はもう歌手3年目になっていたのに朗々と歌手を目の前にして歌って聴かせる彼の心に打たれてねもう返す歌がなくてとてもショック受けたんですね。
だからなんかシャンソンとかっていうとなんか難しい…ステージの上に上がってっていう…。
だけど本当はこんなふうに夜空の下でたった一人の人のためにも歌うようなそういう歌が本当の歌だってもうかなりショックを受けて…。
それでちょうど1年後ですね。
1969年の3月に彼がちょうど…国家の一番安全なところに入れられている時に『ひとり寝の子守唄』を作ったんですね。
その『ひとり寝の子守唄』を初めて弾き語りで歌ってる時に森繁さんと出会ったんです。
あっその頃?だから巡り巡って私は『しれとこ旅情』から大きな感激を受けて私の心の中からたった一人の自分自身と彼のために作った『ひとり寝の子守唄』を弾き語りで…。
「あゆみの箱」っていう…。
私もやってました理事なんか。
その時に大勢の歌手が出る中で私が一人でしょんぼり歌ってましたら森繁さんが袖に立っててくださって「ああお前さんがこの歌を歌ってたのか」と。
あっそう。
「僕の歌心と同じだ」って言ってくださって。
それですっかり…。
意気投合して…?意気投合して抱き締めてもらって…という夜がありました。
それから弾き語りで『しれとこ旅情』を『ひとり寝の子守唄』と一緒に歌っていたんです。
でもなかなかレコーディングにはならなかったんですけどその後レコーディングすることになってヒット曲になったということなんですね。
なるほどね。
でもなんかそういうさっきあなた波瀾万丈なね人生って申し上げたのはやっぱりそういう素敵な男の人に会って。
学生運動をしてる人で。
それで一番安全なところに入れられてた…。
何年ぐらい入ってらしたの?彼は。
1968年には拘置所ですね。
勾留されていたのが8か月プラス2か月…10か月近く…。
あっそう。
その後裁判が終わって1972年に実刑が下りて。
それでまた2年半ぐらい。
相当でしたね。
その間あなた東大お出になった方で歌手だって大変だったじゃない。
それでそのまた旦那さんの人が思想的な問題でそこへ入ってるっていうんで一生懸命ねなんかさ…獄中とのなんか恋みたいなので相当世の中が騒いだ時代があって。
あの…そうですね…。
私は子供ができていたので。
あっそうか。
ええ。
一大決心して結婚することに踏み切ったんですけど。
本当はその裁判が終わった時に結婚しておきたいと私は言ってたんですけどもう3年もいないのに2人の関係がどうなるのか。
しかもその前科者の男がねこの人をお嫁さんにくださいとは僕は言えないというので結婚せずにいってしまっていたんですね。
でもその時は一度は歌手をもう辞めてもいいっていうところまで思いがあったんですけども。
あっそう。
結局子供ができたら歌いたくて歌いたくて。
それから本当に…。
森繁さんは…あなた「『しれとこ旅情』を歌いたいんです」って森繁さんに仰ったんですって?私は実は何にもそのお許しも得ずレコーディングしてしまったんですね。
あっそうなの?今だったらちょっと怒られるところなんですけど。
そしたらねあの…。
あら可愛い。
新幹線の中でね当時できたばっかりの新幹線ですけど。
ばったり森繁さんとお会いして。
えー!こんなのができましたってお渡しして。
事後承諾なんですけど聴いていただいて。
そしたら「歌はうまくはないが心で歌ってるからいいだろう」ということで認めてくださって。
あっそう。
「僕も色んな歌をね自分流に歌ってきたからそんなのは問題にしないよ」って言ってくださって。
でもあなたちょっとステージ…今のステージで盛り上がってらっしゃるとこだかなんかちょっと映像ありますのでちょっと見せていただいていいですか?「私の新しい恋人森繁久彌さんです」すごい。
日比谷の野外音楽堂。
ハハハ…。
「恋人にしちゃ少し年を取っておりますけども」「今日は誘われて私もときちゃんのリサイタルに花を添えるというんじゃなくてじじを添えて…」36年前。
「乾杯!」えー!あんなことやったの?そうなんです。
「お酒やめたんだけど」でもよく残ってましたね。
それでね本当に…。
よく残って…。
『屋根の上のヴァイオリン弾き』の真っ最中だったんですね。
それで私が楽屋までお訪ねして「ちょっと隣のあの舞台で」…日比谷まで帝劇から…。
もう向かいだもんね。
「ちょっと来てくれませんか?」って言ったんですね。
「僕はとても忙しいんだよ」って仰って…。
そりゃそうでしょうね。
「でも忙しくたってご飯食べるぐらいの時間あるでしょ?」って。
「ちょっとその間の1分でいいですから」なんて言ったら「お前さんはうまいこと言うな」って。
で来てくださって。
コンサートの冒頭でね参加してくださって素晴らしい思い出です。
あっそう。
でもあの方の『屋根の上のヴァイオリン弾き』は本当に素晴らしかったですもんね。
私大好きで。
大好きでした。
森繁さん戦争に…。
まあね。
私の父もまさにその世代ですし私は引き揚げたのでどこかでこの森繁さんとの出会いは運命だなと思いますね。
森繁さん絶対に何があったかっていうことを仰ってないんですよ。
私ね森繁さん何かね秘密があるなってずっと思いながら結局亡くなったんですけど。
あんなに仲よくしてたんだけどやっぱりね戦争後どんなだったかっていうことは絶対お話しになってないね。
お話しなさらないままにあの方は…。
なんか地獄のようなものを見てじゃあこれからの世の中は楽しく生きようと思って帰ってらしたんじゃないの?自伝を書いてらっしゃいますね『森繁自伝』。
その船の…引き揚げの船の中でもみんなで歌ったり芝居をしたりみんなで楽しくしなきゃねってなさったというのをね…。
だから楽しくしなきゃねっていうふうに切り替わったんだと思います。
ただたぶんそういう地獄は見たんだけどそれは絶対人に言わないで亡くなったんだと私は…。
だから森繁さんのそういうところをね私好きなとこもあったのでどんなことがあってもいい人だと思ったんですけど。
これからちょっと秘蔵映像をお目にかけますがこの秘蔵映像はね『徹子の部屋』の第1回目です。
森繁さん私の胸なんか触ったりなんかしてるとこあったので何回もそれ映ったりしたんですけど今日はそこじゃなくて。
まあちょっと…。
皆さんお楽しみになさってください。
これは本当に貴重映像なんです。
今まで出したことないかもしれませんね。
第1回目の『徹子の部屋』ですけど。
コマーシャルです。
さて貴重な第1回の『徹子の部屋』なんです。
ここのとこいつもしょっちゅう出るのは森繁さんが…私がタキシードみたいなTシャツ着てる胸をスッと上手にお触りになるとこがよく出るんですけど。
そうじゃなくてその日には歌を歌ってくださって。
いわゆる『しれとこ旅情』なんですけどその時はね『オホーツクの舟唄』というふうに変えて…。
そうですね。
『知床旅情』がヒットしたあとにこの詞にしてお歌いになったんですね。
まあちょっと即興でも入っているような感じなんでしょうか。
歌ってくださってますので。
これ珍しいことなのでちょっとご覧ください。
「皆様こんにちは。
『徹子の部屋』でございます」「今日がその第1回目でございますのでなんかまだ落ち着かなくてそわそわしておりますけれども」「さて今日の最初のお客様ですけど私の最も尊敬して私が大好きなあの森繁久彌さんをお招きいたしております」「一番私の大好きな歌を歌ってくださるって…」「マイクロホンそこにしまってありますので」「それで恐れ入ります」「陰謀だな」アントニオ古賀さんです。
「皆様ご存じ『知床旅情』でございます」「自分の家で聴くのはまた格別」「レコードよりとてもいいみたい」「新しい歌詞ですから」「あっ…」うわー…。
今ふと思ったんですけどねこの森繁さんが『しれとこ旅情』が…。
たまたまねこの歌はなぜあらためてお作りになったかはきっとこの映画のテーマをそのまま歌に残したいっていうのがあったと思うんですね。
だから『しれとこ旅情』はなんとなく最後の晩に作って…即興でお作りになった歌だった…。
そうですってねうん。
そういうふうに一つの歌だけど本当はこれを伝えたかったんだよっていうのをお作りになったっていうのでね今ふと思ったのは私は『百万本のバラ』っていう歌を歌ってるんですけどあの歌は元々がラトビアという…バルト三国の。
そのラトビアで子守歌として作られた歌だったんですね。
実はもとが。
へえー。
それで子守歌だったものがロシア語に翻訳されて『百万本のバラ』という…。
最初に小さな…ラトビアのローカルな歌だったのが『百万本のバラ』となって全ソ連の大ヒット曲に変わったわけですね。
この間私は今年50周年でこの『百万本のバラ』という歌の持っている運命っていうかその歴史の背景にとても…こだわってラトビアに…。
いらしたの?本当は1968年に…初めての海外旅行がバルト三国だったので…。
あっそう。
47年ぶりに行ってきたんです。
すごい。
でもその…ここで生まれたものがこうやって歌になって歌詞が変わってポピュラーになっていく。
でもずっとそのバックにこの…背景があるっていうのはね今の『しれとこ』の…本当似てるなってふと思ったんですけど。
今年1月にラトビアに行ってきた…。
そのVTRかな?ちょっとあるそうですのでちょっと見せていただいていい?あっそう。
雪がまだ。
美しい。
美しい街でね。
あっそう。
うっとりするような旧市街なんですけど。
「夢の世界に入っていくような…楽しい気持ちでいっぱいです」13世紀ぐらいからの…。
この方『百万本のバラ』の作曲者です。
ライモンズ・パウルスさん。
そう。
『百万本のバラ』わあ。
リエパーヤっていう街のオーケストラなんです。
あっそうなの。
人口7万人の街でこんな素晴らしいオーケストラがあってね。
これ練習場です彼らの。
本当に音楽を何よりの誇りにしてきた国なんですよね。
色々政治的には支配されることが多かった代わりにここはやっぱり古いヨーロッパの文化をずっと…それこそロシアフランスドイツ色んな影響の中で育まれてきた文化ですのでその誇りがすごくて。
今聴いていただいたあのオーケストラを今年日本に招いて…。
うん。
6月にコンサートをするんです。
「百万本のバラコンサート」。
そうですか。
あっそう。
その時に私はさっき『オホーツク』と『しれとこ』だったようにラトビアの子守歌だった歌…。
その時に本当にこの国の悲しさをこの歌に込めて歌われていたこの歌が『百万本のバラ』っていうラブソングになってもう全世界に広がっていった。
これを物語として語りながらオーケストラとコーラスを…。
あっそう。
『百万本のバラ』物語というふうな感じで初めて聴いていただくことに…。
これ作曲した方外務大臣かなんかだったっていう方?今の方が独立して最初の文化大臣でした。
あっ文化…。
じゃあそうなんですよ。
その方がお作りになったっていう話でしたから。
文化大臣。
あっそうですか。
えー。
だから本当にある意味で…あんなに夢いっぱいに1989年にみんな独立していったわけですねウクライナも。
今『百万本のバラ』っていうのはボズネセンスキーっていうゴルバチョフの片腕だったというふうな改革派の先頭に立ってた人が詞を作ったんですけど。
彼はグルジアっていう国のピロスマニっていう画家の…。
知ってる。
私映画で見ました。
ねえ。
そのピロスマニのモデルでこの歌が作られて…。
えー!たまたま…そうなんです。
だから本当にまあグルジアもバルト三国もソ連から独立してやっと主体的な国になったんですね。
ぜひこういう国…小さい国たちが平和であり続けてほしいという大きな願いを込めて今回はじっくりと『百万本のバラ』をテーマに据えました。
あっそうなの。
でこのオーケストラがいらっしゃるわけね。
ふーん。
ちょっとコマーシャルです。
長らく独立できない虐げられたそれでもその中戦ってきた人たちがオーケストラでいらっしゃってあなたが『百万本のバラ』をお歌いになる。
NHKホールでもなさるんでぜひ皆様いらしてください。
NHKホール大きいですしね。
50周年なので私が…。
1部はオリジナルでね『時には昔の話を』とか『難破船』とか色んな曲をオーケストラのアレンジで。
2部はヨーロッパから『さくらんぼの実る頃』から始まってアストル・ピアソラの『リベルタンゴ』とか『忘却』とかあとはピアフの『愛の讃歌』とかそして『百万本のバラ』なんですけど。
もう本当になんとか50年分を一つのコンサートでじっくりと1曲ずつ聴いていただけるコンサートにと思って今準備しています。
初日が越谷のホールで。
サンシティホール。
そこから横須賀に行って…。
NHKホールにいらっしゃるのね。
最後が6月14日にNHKホールで。
ぜひいらしてください。
そうですよね。
そういう色んなみんなのその…なんていうんですかね。
混沌としただけど自由になりたいっていう平和が欲しいそういうものがね。
やっぱり常に音楽はそういう素晴らしいものを伝えていければと。
今でもね平和になればいいと思ってますよね。
どうもありがとうございました。
このあとも引き続き『ワイド!スクランブル』皆様どうぞご覧ください。
2015/04/14(火) 12:00〜12:30
ABCテレビ1
徹子の部屋 加藤登紀子[字]

〜100歳母と孫7人!“知床旅情”誕生秘話と森繁さんへの想い〜加藤登紀子さんが今日のゲストです。

詳細情報
◇ゲスト
今年デビュー50周年を迎えた加藤登紀子さんがゲスト。
◇番組内容
故・森繁久彌さんが作詞作曲した名曲『知床旅情』に最も思い入れがある登紀子さん。実はこの曲を初めて聴かせてくれたのは亡き夫・藤本敏夫さん、彼の歌声が心に染み、歌手として目覚めるきっかけになったと語る。もう一つの代表曲『百万本のバラ』のルーツを探るため、この曲が生まれた地ラトビア共和国を最近訪れたという。今も活躍する作曲者に出会うなど、そこには数々の出逢いが…。今日は歌手生活50年の歴史と秘蔵映像を。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
映像
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz

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