7100分de名著 ブッダ 最期のことば 第2回「死んでも教えは残る」 2015.04.15


ブッダ最期の言葉をまとめた…死の直前弟子たちは不安に駆られこれから何を道しるべにして生きればよいのかとうろたえました。
そこでブッダは自分がいなくても自己鍛錬を続けていく方法を授けたのです。
そしてその教えは今を生きる私たちにとっても苦しみを和らげてくれる処方箋となるのです。
第2回は自分自身との向き合い方をブッダの最期の言葉からひもときます。

(テーマ音楽)「100分de名著」司会の…さあ今月はブッダの最期の言葉が書かれている「涅槃経」を見てまいりましたけれども1回目どうでしたか?そうですね…。
最初雲をつかむような話だなと思ってたのが入り口にはたどりつけたような気がします。
「仏法僧」そしてその「僧」がサンガの事であるあたりまでは何とかついてきております。
組織論にもつながっていくというお話でしたが今を生きている私たちにもヒントをたくさんくれるこの「涅槃経」でございます。
今回また更に深めていきたいと思います。
指南役ご紹介いたしましょう。
(一同)よろしくお願いいたします。
前回は旅立ちの最初のスタートでしたね。
そして今回はいよいよ実際の最後の旅に入っていきましてブッダが病気になってやがて死期を悟る。
そうすると後に残ったお弟子さんたちが私たちはこれからどうやって仏教を守っていったらいいのかという点で不安になるわけですね。
それに対してブッダがさまざまな形で指示をしていくとそういう話をしていきたいと思います。
それではブッダの最後の旅の続きご覧頂きましょう。
今回もブッダ解説者のシッタッタさんとそのアシスタントのアッシジさんに再現して頂きます。
(2人)よろしくお願いします。
ブッダはナーディカ村へと移動します。
その途中弟子のアーナンダがブッダにこう質問します。
アーナンダは何人もの亡くなった修行者の名を挙げ彼らはちゃんと涅槃に入ったのかとブッダに聞きました。
ブッダはアーナンダを制してこう言います。
ブッダがいなくても涅槃への道がちゃんと保証されているか自分で判断できる基準「法鏡」を教えたのです。
この4つを自分でちゃんと判断できれば涅槃に入る事ができると言っているのです。
その涅槃に行く方法のインストラクターとしてのブッダから涅槃度チェックみたいなねその到達度チェックみたいなのを教わるという事ですね。
そこで法鏡というものを授けよう教えようという事でこちらがその「法の鏡」。
リーダーがいなくなったあとに残された人たちは何を基準に修行していったらよいかというその問いに対する答えなんですね。
それは仏法僧に対して清らかな信頼の気持ちを持ちそして正しい規律を守りながら生きているかという事ですから言ってみるとそんなに難しい事を言っているわけじゃない。
これはですねブッダがいなくなったあとの人たち…頑張れというそういう思いが入っているんですね。
もう全てのサンガはそれぞれが独立して運営していけという事になってますからそれぞれの中で自分で自分を励まして修行していかなくちゃいけません。
自分の価値を高めておきたければ自分がOK出さないかぎりは駄目だって言っちゃう方が楽ですよね。
もしくは自分が免許皆伝した何者かがOKを出さなきゃ駄目だみたいな。
そういうインストラクター制度の習い事もいっぱいあるじゃないですか。
もしそれをやりますと…認める人と認められる人の構造が出来ますとそうすると自分は今度認める側に回りたいという形で…それを避けたいんですね。
そうするとみんなが等しく生きがいを求めて努力するというその構造が崩れてしまうんですね。
そういう意味では一般社会にあるさまざまなその生きがい組織の中でこのサンガが言っているような自分で自分を判断するという原則はとても大切だと。
僕がすごく聞きたいのはその自分で自分を見つめるために僕らは何ができますかね。
それは時間をとって自分の心を見つめる時間だけとる事です。
時間をとる。
はい時間をとる事が大事です。
その間は外からの情報をシャットアウトする事。
例えば今アメリカにね「ナイトスタンド・ブディスト」と呼ばれる人たちがいる。
9時から5時まで仕事をして家に帰ってきてカーテン閉めてそして部屋のナイトスタンドをつけてその薄暗がりの中で自分の心を見つめるという事をやる自分で自分の修行をやる人たちですね。
情報が入るという事は我々の感覚器官がその情報の方を向くわけですから…さてブッダの旅は更に続きます。
ヴェーサーリーを訪れたブッダはアンバパーリーという遊女の林に滞在します。
遊女でも悩みを抱え熱心な信者だったアンバパーリーはブッダたちを食事に招待します。
ブッダは感謝し承諾します。
しかしそこにリッチャヴィ族の裕福な者たちがやって来ました。
しかしブッダは…。
…と答えます。
すると…。
そしてブッダは次の日アンバパーリーの家を訪ねたのです。
喜んだアンバパーリーは言いました。
ブッダは喜びアンバパーリーの思いに応えて教えを説いたのです。
仏教というのはインドで生まれましたが…厳しい身分制度があったんですね。
今もありますけども。
本来的に人間を生まれながらに差別するという事を非常に嫌うというか絶対的に拒否する宗教なんです。
カーストがある中でのこの考え方はかなりショッキングなというか革新的な考え方ですね。
これ今なら当たり前と思うかもしれませんがカーストの真っただ中でこれが出てきてるという事に意味があるんですね。
遊女ですからまあ花魁みたいなものでお金もあるし土地もあるんです。
それでもやはり遊女という立場は当時のインドでは非常に低い卑しい身分だと考えられていたんですね。
どれだけのものを持ってようがどれだけの気持ちがあろうが順番的にその階級の上の人と会うべきだという世の中があった上でもそうしないという事が単に先にある約束だからというだけできちんと尊重して何の問題がありますか?っていう事を言ってるっていう事ですね。
それが言いたいんですね。
だからブッダとしては当たり前の事なんでしょうけれどもリッチャヴィ族の人からするとものすごく腹が立つから「女に出し抜かれた」なんていう捨てぜりふを言うわけですよね。
ただしこの「平等」というのが我々が今考えてる平等でみんなよかったという話じゃないんです。
というと…?全員平等に不幸だというのがブッダの考え方です。
どう苦しいんですか?生き物として生まれている事自体が苦しみだと。
そのいわゆる生老病死。
そうですね。
生きているものにだけ襲いかかってくる苦しみで。
この遊女アンバパーリーは林を…マンゴーの林をお布施しますと。
寄付は受け付けるんですか?寄付はね受け付けます。
御飯から何から全部一般の人たちからもらう事になります。
もらうためには先週出しましたこの法律がありますがこの律という法律に基づいて正しい生活をしなければなりません。
そうしますと一般の人たちは「あああの人たちは立派なお坊さんたちだ」という事で布施をしてくれます。
逆に言うとそれに説得力があるぐらい正しい生き方をしてなきゃ駄目という事ですよね。
もちろんそうです。
それを守らなかったらお布施を断たれてサンガは崩壊するんです。
ちょっともしかしたら我々の仕事にも似てるような気がするな。
例えば芸人に対して普通の人たちがご祝儀くれるという事は「お前面白い事やるために使う人なんだよな?これ全部」というところに多分発生してるからちょっと近いような気もする。
私もそう思いますね。
「善く生きるとはどういう事だという修行をするためにお前らは使うんでしょ。
だったら私たちのできない事をやってる分ちょっとやってくれよ」というその感じですね。
それを他の事に使ったらそれは下さった人を裏切る事になるんです。
だからお坊さんは仕事してはいけないんです。
だから現代でもまあ例えば税金で運営されている組織があったとしますわね。
そういう組織が中で何かトラブルを起こしたら必ずその組織自身が浄化しなければならんという事なんです。
宗教だけでなくてね一般的な組織に当てはまる話ですね。
ですね。
広く当てはまる話ですね。
さすが2,500年続いてきた仏教のサンガ。
でもすごいな。
2,500年前にもうそうやって考えちゃうというのがすごいと思いますね。
さて更にブッダの旅は続きます。
アンバパーリーの林で心行くまでとどまったあとブッダはベールヴァ村へ向かいます。
そこでブッダは大病を患います。
ちょうど雨期でじめじめしていたので恐ろしい病がはやっていたのです。
死を意識したブッダはこう考えます。
ブッダは本当はここで自分は死ぬだろうと感じていました。
この言葉は「自灯明法灯明」というブッダの教えの一つです。
不安がるアーナンダに対し道しるべは一つは自分もう一つは法自分自身とブッダの教えを大事に生きればいいのだとブッダは説いたのです。
あれは「自灯明法灯明」という有名な遺言。
実際の言葉では「島として生きよ」という「島」と言う場合もありますし「灯明」と言う場合もあって両方あるんです。
島というのは洪水で流された人が川の中州につかまって何とかはい上がって命を救われるよりどころ。
灯明は暗闇を歩くランプ。
提灯ですね。
どちらもよりどころの無くなった苦しみの中で何にすがったら自分は助かるかというそれを表す言葉。
同じ意味ですね。
それが今おっしゃったとおり自灯明法灯明と言うんですから「自灯明ブッダ灯明」とは言わないです。
そうですね「仏灯明」って言ってもおかしくないじゃないですか。
すごい教えを作った人ではあるから。
でもその人じゃないんですよね。
教え自体という事ですね。
なぜならブッダというのは我々と同じ人間です。
人間が正しい道を発見したわけですから私たちにとって…教えの方が価値があるんです。
ですからそれをよりどころにせよと言ってるんですね。
そしてもう一つは「自」自灯明ですから自というのもあります。
つまり…これは2つなければなりません。
これはもう独断的にその教えだけを守って…だからこの2つがなければなりません。
この自灯明法灯明を実践するためにはこういう事が必要なんだそうです。
今日はその具体的な例として一つ最初のものを挙げてみましょう。
「四念処」は身受心法という4つから成っております。
「受」というのは感受。
「法」というのはこの場合には仏法僧の「法」とは違って…この4つに対して私たちはふだんから全く間違った見方をしてるという事です。
間違った見方をしている?はい。
どんな見方かといいますとまず肉体に対しては我々の肉体は掛けがえのないすばらしい美しいものだという思いを持っている。
これが大間違いだというんですね。
大間違いだという事。
はあはあ。
それにしがみついて結局それが苦しみにつながるというわけです。
なぜならば私たちの肉体は決していつまでもすばらしいものでもないし日を追うに従ってだんだん衰えていき本来自分が思っているこうありたいという姿からだんだん遠ざかっていきますね。
苦しみが増えるばかり。
苦しみが増えます。
受もそうです。
これはどういう間違いかというと世の中は楽しい事ばっかりだというのが間違った考え方です。
わあ楽しいと思って楽しい事だらけだと思ってると…年を取るに従ってねそれは苦しみになっていきます。
心というのはこれは何かと言うと私たちの心は生まれてから死ぬまで一つの心でずっと続いているという思い。
つまり私という存在は変わらずいつも一緒続いてるという考えですね。
これも間違いだと。
それからこの世の存在要素全てというのはこの中に「私」が含まれているという間違った考え方。
つまり「私」という存在は実際はいろんな要素のただの集合体にすぎないのにそれが一つの絶対的な要素として世の中に存在してるという考え方これも間違い。
それによって「私」というものに対する執着がすごく強くなる。
そうするとその「私」がだんだん老い衰えて死んでいく状態がますます苦しみになっていく。
だからこれは全部ひっくり返して考えなくてはいけないと。
肉体は美しくないすばらしいものではないという事を認識せよ。
感受作用は全て苦しみがベースであるという事を認識せよ。
私の心というものは変わらずいつも存在しているのではない。
一瞬ごとに全部違う私の心が起こってくると認識せよ。
そしてこの世の全ての存在要素のどこを探しても「これが私です」という本体はないという事を認識せよという事です。
それを念頭に置いて暮らせというのがこれが修行の第一歩だと。
第一歩。
でもこの何か自分の煩悩だらけの47年間の人生の中でちょっと楽になった瞬間の事とか考えると何かあながち間違ってない。
ある日突然僕病気をして自分がいなかったらみんな困るだろうなと思ってた。
レギュラー番組があったんですけど休んだ日に何か楽になって分かったんです。
要するにずっと「僕がいなきゃ何ともならない」と思ってたものが「それはちょっと考え方として違ってる」って思った瞬間にちょっと楽になった。
何か自分にしがみついていた状態が少し緩まる状態というのはすごく気が楽になる。
これは全ての人にそのままこれをやりなさいという話じゃないんですよ。
そういう人にこれを教えるんです。
もう今幸せいっぱいで何の憂いもなく夢を抱えて生きてる人にこんな話したってそれは意味ありませんし。
しかしながらやはりこの4つを感じながら次第に心に苦しみが増えてきた人に実はそれを価値転換する事で消す方法がありますとその時初めて教えるそういうものなんですね。
すごい大事な気がする。
それは自分の中で調子がいいものをわざわざねえ。
「いや〜そんな事はない」と思う必要はない。
だけど苦しい時にもともとベースは苦しいんだよと思ってもう一回考え直してみると穏やかになれますよという。
私はいつも「仏教は心の病院だ」と言ってるのはそういう事で病院というのは別にこちらから出かけていく仕事じゃありません。
病気になった人に玄関を開いて門戸を開いていつでも入ってきて下さいって待ってる宗教ですから。
それは何かいつも思うんです。
病院がどこにあるか知ってる方がいいじゃないですか。
病院があるという事を知ってる方がいいから。
この事を知ってるだけで調子悪い時に「あの時あのEテレで言ってたやつだ。
ブッダがもともと言ってたの」ってそういう感じだと思うんだよね。
そうですねやっぱり病院の場所知らないといけないですね。
その時に助けてもらわなくてもね助けてもらえる場所があるという事を知ってるだけでとてもその安らぎが生まれてきますね。
しかも二千何百年も前からあって残ってるという事はそこそこ信憑性ありますでしょという。
そういう事かあ。
うわ〜これ覚えよう。
(一同)身受心法。
常備薬にはちょっとなりそうじゃん。
この身受心法という言葉をちょっと心で。
ここに立ち返りましょう。
さて次回も更に読み進めてまいりますがブッダの死の直前に一体何があったのか見ていきたいと思います。
ありがとうございました先生。
ありがとうございました。
2015/04/15(水) 06:00〜06:25
NHKEテレ1大阪
100分de名著 ブッダ 最期のことば 第2回「死んでも教えは残る」[解][字]

ブッダは最後の旅において、自分の死後に判断基準となるような教えを繰り返し説き続けた。ブッダの死後も生き続ける「生き方の指針」を読み解いていく。

詳細情報
番組内容
ブッダは最後の旅において、自分の死後に指標となるような教えを繰り返し説き続けた。その代表例が「自灯明・法灯明の教え」。「私がいなくなっても真理の法は生きている。自らを灯明とし自らをよりどころとしなさい。法を灯明とし法をよりどころとしなさい」。この言葉は、自分の死後リーダーが不在になったとしても、修行を続けていける方途を示したものだ。ブッダの死後も生き続ける「生き方の指針」を読み解いていく。
出演者
【講師】花園大学教授…佐々木閑,【司会】伊集院光,武内陶子,【朗読】大杉漣,音尾琢真,【語り】小野卓司

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ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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