ウクライナと国境を接する…国道を走る真っ黒に汚れたバス。
内戦が続くウクライナ東部からやって来ました。
乗っていたのは避難民です。
戦闘が激しくなった2月避難民は増え続けていました。
駅の構内に集まる人々。
これまでに61万人以上がロシアに逃れてきています。
(発射音)去年4月にウクライナ東部で始まった内戦。
政府軍とロシアが支援する親ロシア派との戦いは人々の暮らしを破壊。
大勢の避難民を生み出しています。
ロシアの避難所に身を寄せる家族たち。
一刻も早い故郷への帰還を待ち望んでいました。
そうした中ようやく結ばれた…しかし帰還した故郷で待っていたのはなおも続く砲撃でした。
危険な故郷に戻るのか戻らないのか。
家族の間でも意見は割れ始めています。
戦争に翻弄され故郷を追われた人々。
ウクライナに戻れる日はいつになるのか。
混沌とした時代だからこそ一瞬一瞬を懸命に生きる。
ドキュメンタリー「NEXT」。
避難家族の葛藤と決断の日々です。
ウクライナから避難民の流入が続くロシア・ロストフ州。
海沿いに位置するネクリノフスキー地区です。
ロシア政府は国境に近いこの地域に5つの避難所を開設していました。
去年6月最も早く開かれた…取材を始めた1月250人が身を寄せていました。
公共の宿泊施設を利用した避難所。
狭い部屋に複数の家族が同居していました。
多くの人は生活資金が乏しくロシア政府の支援に頼らざるをえません。
食事は一日3回。
無料です。
幼い子どもたちは近くの学校に通っています。
避難所で暮らしながら人々は故郷へ戻る機会をうかがっていました。
半年以上にわたって避難生活を続けているユリヤ・ゴルシコワさんです。
去年8月故郷の町が突如空爆され夫と4人の子どもたちと避難してきました。
介護が必要な父親と祖母も一緒です。
父親は糖尿病が悪化し寝たきりです。
着のみ着のまま逃げてきたユリヤさん一家。
初めはすぐに自宅に帰れると考えていました。
夏服ばかりを持ってきたの。
今は人道支援でもらった服を着ています。
こんなに長くいるとは思いもしませんでした。
(爆発音)戦闘が始まったきっかけは去年2月首都キエフで起きた政変です。
大規模な反政府デモによってロシアが支持していたヤヌコービッチ政権が崩壊。
その後の選挙で欧米寄りのポロシェンコ政権が誕生しました。
新政権を支持する欧米とそれに反発するロシア。
新冷戦とも呼ばれる厳しい対立が続いています。
ユリヤさんの故郷ウクライナ東部でも対立が生まれました。
新政権を支持する…それに反対する…ウクライナ系とロシア系の住民の数がきっ抗するこの地域では対立はエスカレートしていきました。
そして1年前親ロシア派がウクライナからの独立を一方的に宣言。
鎮圧に乗り出した政府軍との間で激しい内戦が始まったのです。
(爆発音と悲鳴)ロシアの支援を受けた親ロシア派は支配地域を拡大。
東部は二分されます。
戦闘は境界付近で激しさを増し大勢の人が故郷を追われました。
親ロシア派の地域から避難してきたユリヤさん。
ロシア寄りの政権を支持していました。
故郷の町では意見の対立はあっても人々は平和に暮らしてきました。
しかし戦闘が始まると互いに憎み合うようになったといいます。
対立は憎しみへと変わっていきました。
考えの違う人を殺してしまうほどの激しい憎しみです。
静かに暮らしたかっただけなのに戦争が人生に入り込んできたのです。
避難生活が長引く中ユリヤさんの疲れは限界に達しています。
故郷では看護師として日々忙しく働いていました。
ここでは洗濯と掃除だけで毎日が過ぎていきます。
更に気がかりなのは子どもたちの事です。
16歳の長男ビクトルくん。
地元では専門学校に通いスポーツに打ち込んでいました。
しかし今は一日中避難所に閉じこもっています。
まるで小さな人形の家に暮らしているようです。
自分の居場所はありません。
子どもたちのためにも家族全員で故郷に帰りたい。
携帯電話には故郷の写真が僅かに残っていました。
(ユリヤ)私たちの庭です。
きれいでしょう?
(ユリヤ)みんなのお気に入りのソファーです。
(ユリヤ)故郷は私たちの根っこです。
いい時も悪い時もここで過ごしてきました。
心を奪い取られたかのようです。
帰りたい…。
苦しいです。
およそ1年にわたって戦闘が続いてきたウクライナ東部。
2月初め砲撃は更に激しさを増しました。
破壊された町。
それでもそこにとどまる人たちもいました。
地下室に身を潜め生き長らえていたのです。
2月8日。
直前までウクライナに残り続けていた家族が避難してきました。
母親と息子娘2歳の孫と共に命からがら逃げてきました。
民族的なルーツはロシア系のタチヤナさん。
それでも祖国ウクライナを誇りに思い欧米派を支持していました。
キエフのデモ隊を支援するために町からお金や物資を送っていました。
それが戦車や兵士を見る事になるなんて思いもしませんでした。
タチヤナさんの町で戦闘が始まったのは去年9月。
自宅近くの小屋にも砲弾が当たりました。
タチヤナさん一家は砲撃の度に地下室へ逃げ込み耐えてきました。
住み慣れた家を離れたくないと残り続けたのです。
(タチヤナ)10年前にようやく建てた家を失いたくなかったんです。
戦争のせいでそれを犠牲にするなんて我慢できません。
しかし2月砲撃が連日続くようになると一家は避難を余儀なくされます。
夫だけが家を守るため自宅に残りました。
平和が欲しい。
それ以外は何もいりません。
もうこれ以上誰かに銃口が向けられない事を願っています。
戦争は本当に恐ろしい。
避難所では人々があるニュースを固唾をのんで見守っていました。
東部の停戦を巡りロシアとウクライナドイツフランスによる首脳会談が始まろうとしていたのです。
会談が成功し戦闘が終わればウクライナに帰れる可能性が出てきます。
16時間。
夜を徹して続いた会談。
翌日ロシアのプーチン大統領は停戦に合意したと発表しました。
タチヤナさんはこの決定に希望を抱きました。
停戦は本当に実現するのかしないのか。
避難所はその話題で持ちきりでした。
1週間後避難所にタチヤナさんの姿は見当たりませんでした。
娘たちには家に荷物を取りに行くとだけ告げ突然故郷に帰ったといいます。
タチヤナさんは数日たっても戻ってきませんでした。
タチヤナさんは故郷でどうしているのか。
ウクライナ東部コムソモリスコエ。
前線から50キロ離れています。
かつて1万2,000人が暮らしていた町。
住民の大半は避難していました。
タチヤナさんです。
自宅の様子を自分の目で確かめるために戻ってきたと言います。
食べ物はこれまで地下に蓄えていた食料で賄っていました。
自宅に残っていた夫と過ごすタチヤナさん。
明るい表情を取り戻していました。
すぐに引き返すつもりでしたが我が家を離れられなくなっていました。
初めは荷物を取ってすぐに避難所に戻るつもりでした。
でも家や庭を見ているうちに「違う。
やっぱりここにいるべきだ」と感じるようになったんです。
私はここで生まれ育ちました。
私の魂はここにあります。
しかし一歩外に出ると厳しい現実を目の当たりにしました。
かつてよく買い物に来ていた食料品店。
品物はほとんどありませんでした。
家に帰る途中地響きのような音が聞こえてきました。
(地響きのような音)停戦合意にもかかわらず戦闘は続いていたのです。
砲撃を受けて壊れた住宅も目にしました。
ロケット弾が撃ち込まれ女性と5歳の子どもが亡くなっていました。
タチヤナさんは避難所に残してきた子どもたちに電話で状況を知らせています。
故郷にとどまるかそれとも避難所に戻るのか。
タチヤナさんの心は揺れていました。
怖いです。
遠くで砲撃の音が聞こえるとまたあれが来るのかと怖くなります。
毎分毎秒神に祈るような気持ちです。
家族や親戚に弾が当たらないように生き残ってくれるように祈っています。
家族全員で故郷への帰還を目指すユリヤさんです。
停戦合意から2週間。
ユリヤさんの期待は膨らみ始めていました。
このころテレビでは停戦合意が守られている事をアピールするニュースばかりが流れていました。
停戦を信じて故郷に戻ろう。
この日ユリヤさんは子どもたちに伝えました。
長男のビクトルくんは賛成しました。
しかし長女のマルガリータさんは強く反対しました。
議論は平行線をたどったまま終わりました。
二十歳のマルガリータさんは故郷に戻るよりもロシアで生きていきたいと考え始めていました。
子どもに勉強を教える事が大好きなマルガリータさん。
ロシアには親戚も知り合いもいませんが大学に入っていつか小学校の先生になりたいと考えています。
ウクライナで前のように暮らせないのならほかの場所で生きていきたいんです。
静かに暮らせる場所を見つけたい。
そこでアルバイトをしながら勉強を続けていきたいです。
ロシアへの避難民が増え続ける中避難所では受け入れが限界に達していました。
ロストフ州だけでも避難民の数は4万人以上。
ひとつきで多い時には4億円の財政負担がのしかかっています。
副知事は各地の避難所を回りロシアのほかの地域へ移住するよう求めました。
避難民の中にはロシアで生きていく事を決断した家族がいます。
3人の子どもと暮らすアナスタシア・ペルベンコさん。
夫は戦闘に巻き込まれ去年亡くなりました。
アナスタシアさんが避難所にやって来たのは2か月前。
初めは故郷に戻るつもりでした。
しかし幼い子どもたちの事を考えるとここに踏みとどまっている時間はありません。
一日でも早く仕事を見つけ安定した暮らしを手に入れたい。
アナスタシアさんは避難所を出てロシアで暮らす覚悟を決めたのです。
つらいです。
戦争さえなければ故郷で暮らし続けられました。
でもしかたがありません。
帰りたいですが今は難しいです。
あそこでは生きていけません。
向かう先は3,000キロ離れたシベリアです。
そこに暮らす遠い親戚のつてだけが頼りです。
この先子どもたちを養っていけるのか?不安を抱えながらもアナスタシアさんは新たな一歩を踏み出しました。
(アナスタシア)人生を変えるために行かなければなりません。
その場所がどんなに遠くても。
そこで落ち着いて暮らしたい。
希望を持って歩んでいきたいんです。
2月下旬。
ピオネール避難所は華やいだ空気に包まれていました。
春の訪れを祝う伝統のお祭り。
人々にひとときの笑顔が戻りました。
ユリヤさんの長女マルガリータさん。
お祭りを中心になって取りしきっていました。
娘を見守るユリヤさん。
気持ちに変化が生まれていました。
避難所で週に2回開かれている就職相談会。
この日マルガリータさんとユリヤさんの姿がありました。
ユリヤさんは3月には故郷に帰る事を決めていました。
しかし娘だけは生活費が稼げるならロシアに残す事にしたのです。
まだ向こうの状況は不安定で仕事も見つからないと思います。
娘だけはロシアに残して大学に行かせます。
彼女はもう二十歳です。
一人でやっていけると思います。
8日後には避難所を出ようと考えていたユリヤさん。
しかしこの日故郷に残る友人から知らせがありました。
戦闘が再び始まったというのです。
故郷の町では戦車が集められ本格的な戦闘の準備が進んでいました。
ユリヤさんは出発を諦めざるをえませんでした。
3月初め。
もう一つの家族に決断の時が訪れました。
故郷に帰ったままだったタチヤナさん。
2週間ぶりに避難所に戻ってきました。
家族との久しぶりの再会です。
タチヤナさんは娘たちを安全な避難所にとどめ自分は故郷に残る事を決めていました。
娘たちに伝えたのは別れの言葉でした。
「あなたたちはロシアで新たな人生を歩んでほしい。
自分と夫は故郷に残り家を守る」。
僅か2時間の滞在。
一家全員で過ごせる貴重な時間です。
ウクライナとロシア。
それぞれの国で生きる事を決めた家族です。
(泣き声)
(銃声)停戦合意から1か月以上。
ウクライナ東部では散発的な戦闘が続いています。
死者は6,000人を超えました。
ユリヤさんの故郷でも砲撃が激しさを増しています。
帰れる日が遠のく中家族はそれぞれの道を歩み始めようとしていました。
長女のマルガリータさんはこの夏には家族と別れ避難所を出ていきます。
そしてユリヤさんは故郷に帰れるその日まで避難所で耐え続ける覚悟です。
私たちの人生は風で宙を舞う落ち葉のようです。
自分では何も決められません。
風が吹く方向へ流されていくのです。
それでも太陽は私たちを照らしています。
光はどこかにあるはずです。
「戦争のあとには必ず平和が訪れる」という格言があります。
そうなってくれると信じています。
戦争に翻弄され続ける人々。
祖国ウクライナへと続く道。
戦火の故郷に再び平和が訪れる日を家族は待ち続けています。
戦国時代2015/04/15(水) 02:25〜03:15
NHK総合1・神戸
NEXTスペシャル「戦火の故郷〜ウクライナ 避難家族の決断〜」[字][再]
ウクライナ政府と親ロシア派の戦闘が始まって1年、隣国ロシアへの避難民は61万人を超える。戦闘が続く中、故郷への帰還をめざすか、諦めるか。家族の決断の日々を追う。
詳細情報
番組内容
混迷が続くウクライナ。政府軍と親ロシア派武装集団の戦闘が始まって1年、前線のウクライナ東部から隣国ロシアへ流出した避難民は61万人を超える。ウクライナとの国境近くにあるピオネール避難所。2月、停戦合意後も戦闘が繰り返される中、避難民たちは大きな選択を迫られている。このまま避難生活を続けて故郷への帰還をめざすのか。それとも、ロシアで新たな生き方を探るのか…。避難家族たちの葛藤と決断の日々を見つめる。
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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