白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2015/04/15(水)   CATEGORY: 未分類
観音の千本の手
今回の法王法話は観音菩薩の灌頂であった。これはチベット仏教の歴史と伝統の文脈からみると、非常に深い意味を持つ。ちょっとチベット史をかじった方はご存じかと思うが、チベット人の認識ではチベットの歴史は観音によって作られ、導かれてきたものなのである。10世紀以後のチベット語の史書によると、チベットの起源は以下のように説かれている。
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 太古の昔、観音菩薩はチベットの地を救おうと阿弥陀仏の御前において誓いをたてた。
 観音「すべてのチベットの命あるものを涅槃に導くまでは、私は個人の幸せを求めません。もし私が個人の幸せを求めるようなことがあったら、この顔は十に割れ、体は千に砕けますように」。こうして観音菩薩はマルポリの岡の上に出現され、チベットの命あるものをせっせと救い始めた。
 ある時、お疲れになった観音様は、心を安らがせる瞑想にはいられた。この時の観音のお姿はカサルパニ観音(心を休めている観音様という意味)と言われる。

 しばらくして瞑想からでた観音様は「ずいぶん多くを救ったから、もう半分くらいに減っているだろう」と再び岡の上からチベットを見渡すと、まだまだ多くの命あるものが苦しんでいた。

 そこで観音菩薩は一瞬『自分だけでも涅槃にはいってしまおうか』という気持ちを起こしてしまった。その途端、いにしえの誓いによって観音の顔は十に砕け、体は千に散った。それをみた阿弥陀仏は、観音の砕けた顔を十の顔になおし、自分の頭を頭頂につけ十一面とし、砕けた千の破片を千の手にして、前よりももっと多くの命あるものを救えるようにしたのである。十一面千手観音の起こりである。


 この説話により、チベットは観音菩薩の守護する地とされ、開国の王ソンツェンガンポ王をはじめとする歴代の高僧や王たちはその多くが観音の化身と崇められ、観音真言のオンマニペメフンが全土に鳴り響いてきたのである。17世紀にダライラマ政権が発足した時にダライラマ五世がマルポリの岡の上にポタラ宮殿(ポタラとは観音の浄土補陀洛のこと。)をたてたのも、自らを観音の化身としてのことであった。

 現ダライラマ14世もむろんチベット人から観音菩薩の化身と崇拝されている。ここでピンとくる人もいるだろう。今回の灌頂は数ある観音の中から、カサルパニ観音千手観音というチベットの歴史と深く関わった観音様が選ばれているのだ。

 灌頂は本尊と一体となった導師が、弟子にその本尊の力を授け、修行をはじめることを許可する儀礼である。従って、どれだけ導師が本尊とシンクロするか、弟子が導師とシンクロできるかが、儀式から受ける加持の力の大小に関わってくる。今回の場合、歴史的に観音菩薩の化身と崇められてきたダライラマ14世が、歴史的に法王の前世とつながりの深い千手観音とカサルパニ観音の灌頂を授けるのだから、どれだけ加持があるかもう分からん。だってシンクロするまでもなく本尊と導師が一体なんだから(笑)。

 ちなみに信心深いチベット人のAちゃんは、あまりにもありがたいということで、断食までしていた。

 今回法王がとりあげた四つのテクストも、うち二つは観音と関連している。まず第一テクストの『般若心経』これは観音菩薩が弟子のシャーリプトラとの問答の中で空を解説するものである。これもまた、観音つながり。また第四テクストの『三つの心髄』は、観音さまを本尊とするヨーガの実習法である。

 さらに、法王さまは今回口にされた、千手観音からみのジョークも秀逸であった。ジョークの文脈をより正しく理解するために、シチュエーションについて説明したい。

  法王来日の直前、法王サイトの日本語版の運営がはじまった。法王サイトは法王の過去の業績、日々の動向、予定について告知するサイトで、その情報領は膨大である。日本語があれば多くの人に法王の活躍がしれるのだが、日本事務所の日本語サイトの運営すら人手不足と聞いていたので、当分英語版サイトから情報をひろうしかないかと思っていた。なので、今回突然日本語版が登場した時にはに驚いた。
 そこで、事情をしってそうなMさんにお伺いしたところ、以下のようなメールを下さった。

 ダライ・ラマcom日本語版の経緯について、私の理解の範囲のみで申し訳ありませんが、お知らせいたします。
立ち上げの背景ですが、先ずはじめに、法王さまからマリア〔・リンチェン〕さんに直接、ダライ・ラマcomの日本語版開設のご指示があり、その後、昨年6月にダラムサラにて、法王庁、日本代表部事務所、マリアさんとのミーティングが行われまして、ダライ・ラマcom日本語版プロジェクトが正式に決定しました。
それを受けて、アリアさんを統括責任者として、翻訳作業を行うプロジェクトチームも
発足するはこびとなりました。その後、マリアさんとコアメンバーを中心に、翻訳スケジュールの調整や、翻訳ルールの申し合わせ、また語彙表なども整えられて、6月末から翻訳作業がはじまりました。まず、立ち上げに必要な多くの翻訳データーについて、コアメンバーを含めた20数名でそれぞれに割り当てられた分の翻訳や編集を進めてゆきました。
翻訳記事にかんしてはホームページ全体の記事を翻訳するのではなく、法王庁からの指示のある記事を優先的に翻訳してゆきますというようなお知らせが、当初の連絡事項の中にあったと記憶しています。
 日本語以外に新しく立ち上げる言語には韓国語、ベトナム語、スペイン語があり、現在準備進行中だそうです。日本人の仕事が早いので真っ先に仕上がったそうですよ。


 と、多くのメンバーが去年から関わって着々と進められてきたプロジェクトであることが分かった。今回法王が来日された直後、和訳にかかわったボランティアの方々約20人が法王との謁見の機会をもった。ジョークがでたのはその席である。

 法王「チベット人は私のことをみな観音だと思って亡命してくる。しかし、私の手は千本もなくて二本しかない。残る998本の手はみなさんたちだ。その手にはマニキュアがついていたり、指輪がはまっていたりするんだよ。はっはっはっ。
 チベット人は〔観音の法身である〕阿弥陀仏をアメリカのオバマ大統領だと思っている。どっちもオパメだし(チベット語で阿弥陀はオパメと発音)、西方の仏だからな。はっはっはっ。


 このジョークはいろいろな意味で気が利いている。自ら観音菩薩とおごらず、あなたたち一人一人の慈悲が千手観音の一つ一つの手である、とまわりの人に華をもたせていることや言葉の使い方が絶妙である。

 さて、最後のエピソードは私事となってしまう。でもおもしろいので聞いて頂ければと思う。法王がこのジョークをおっしゃる前日、MMBAの野村くんから「法王は観音菩薩の許可灌頂を、本格的な「灌頂」にしたいと希望されているので、千手観音の仏画を貸してくれないか」と電話があった。

 私「観音様っていっても、いろいろな種類があるけど、本当に千手観音でいいの? 明日は雨だからあまり仏画を外にだしたくない。確定するまでもっていきたくない」と言うと、

 野村くん「法王が見て決めることですから〔ここで使用するかしないかの確約はできない〕

 というわけで、そのジョークのでた当日、わたしは千手観音の仏画を法王のホテルまでもっていった(厳密に言えばダンナがかついでいった)。法王のインスピレーションですべてがひっくりかえるチベット世界。法王が「観音はやめてターラー菩薩にする」なんて突然言い出しても驚かない。だから、この時点でウチの仏画がデビューできるとは思っていなかった。

 それから一週間たった13日の灌頂当日、壇上にはウチの千手観音様が祀られていた。それを見て、私はなんとなく「チベットの歴史を研究してよろしい」との正式な許可を某所から頂戴したような、そんな厳粛な気持ちになった。

 この仏画はじつは酒飲みのチベット人の絵師に十数年前に頼んで描いてもらったものである。何を描いていただくかという時に、私が迷わず千手観音にしたのは、十一面千手観音がチベット守護尊であり、チベットの歴史を導くスピリッツだからである。 さらに、この仏画はゴマン学堂元座主ゲシェラに開眼していただいた。

 この仏画はこれまで私の手元で講演の際の教材になったり、本の口絵にもなった。それが今や、ダライラマ法王の儀式の本尊として全国デビューである。灌頂儀礼で使われた本尊には、理論上ダライラマ法王の加持力が宿るので、この仏画はもはやプライスレスである ! ちなみに、仏画は法王様のサインも入って戻ってきた(おそらくは野村くんの骨折りによる)。
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 事情をきいた平岡先生が随喜して以下のようにおっしゃられた。「去年法王さまが、『ガクリム』(密教の修行次第)を見たいとおっしゃったので、私のものをお貸ししたところ、サインと韻文をいれて返して下さいました。石濱先生、これは、またとないご縁ですよ。ターラーさんが導いてくださったんですよ
 
 この発言を理解するには、ターラー尊は観音菩薩の脇士であることを知らねばならない。ターラー尊は女性であり、観音菩薩がチベットの命あるものを救い続けて疲れ果てた時、流した涙から生まれた仏とされている。

 平岡先生は師であるギュメ元座主のガワン先生がなくなった直後、先生から授かった法を絶やすまいと、ご自分が受け継いだ諸法のうち、緑ターラー尊の生起法を私に伝授してくださった。以来私はせっせとターラー尊を生起している(その割には慈悲心が身につかないけど)。

  昨年、ゲルク派の密教の本山ギュメを訪問した時には、平岡先生から私のことを聞いていたギュメの執事の方が、美しいターラー尊の仏像を下賜してくださった。金銅仏は型は同じでも、最後に細部をきちんとしあげ、彩色をすることによって精粗が決まる。下賜されたターラー尊はギュメに来てから、「親指のない男」(ソルメ)というあだ名の僧によって金箔をはられ、非常に美しいお姿にしあげられていた。どう考えても私には分不相応なので、お断りしようかと思ったが、お顔をみたらあまりにきれいなので、普通に欲しくなって戴くことにした。開眼はギュメの僧侶たちが行ってくださった。

  平岡先生が「ターラー尊が導かれた」とおっしゃる背景には、観音菩薩とターラー尊の関係性と、チベット密教の伝統がいきている本山において、その本山の僧侶たちによって開眼されたターラー尊は強力で、だからそれが今回のご縁をもたらしてくれた、というニュアンスが含まれていると思われる。

 いろいろな要因がからみあって今回のような灌頂が実現した。おきたことの意味をどう解釈するかはその人次第。一つ言えることは。折角のご縁を、偶然と考えて無感動に通り過ぎていくか、そこに意味を見いだして精進するかの二択を考えた場合、後者の方が御利益がありそうなので、私は意味を見いだしていきたいと思う。

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DATE: 2015/04/07(火)   CATEGORY: 未分類
法王の環境シンポジウム(2015)
 4/2からダライラマが来日されている。このブログで予告しなかったじゃないかとお怒りの向きがあるかと思いますが、一月忙しくて、予告をアップしようと思った頃には一般チケット売り出しが始まっていてそれが瞬時に売り切れたので、予告できなかったのである。しかし、その後、12日と13日の法話(観音菩薩灌頂)は全国の映画館でライブビューイングで公開されることが決まったので、ご紹介。→こちら。現場の四分の一のお値段で法話が聞けます。

 私は5日にチベット學の研究者と法王のシンポジウム、6日に法王が三人の学者パネリストたちと行う環境問題シンポジウムに参加してきた。とりあえず、環境シンポジウムのレポートを以下にあげる。言うまでもないが、録音は禁止されているため、すべてメモに基づいている。内容的にまとめた方がいい箇所は一部編集しました。ボランティアなどをしていてお話が聞けなかった方、参考にしてください。
 この環境シンポジウムは今回で三回目で、法王が臨席されるのは初めてとのこと。三人のパネリストの先生は山本良一(東京大学名誉教授)、宮脇昭(横浜国立大学名誉教授)のはずだったが、一月に長島監督と同じ病になったので、かわりに宮脇先生の仕事に30年連れ添った新川眞(国際生態学センター)先生、おなじみ村上和雄(筑波大学名誉教授)先生。

 ざっとの流れ: 法王の基調講演、三人のパネラーの先生方がそれぞれのご専門のおはなし。法王による最後スピーチ、ラストに「次世代のための環境シンポジウム2015環境宣言」を発表。


「次世代のための環境シンポジウム 2015」


●基調講演: ダライラマ法王
 私はインドに亡命した時、環境問題についての知識はありませんでした。しかし、その後その道の専門家の話を聞くに及び、環境が非常に重要な事を知りました。地球人口は今60億といっていますが、あと何年かで100億を突破する勢いです。貧富の格差も深刻で、天然資源も有限なのに人口が増えるとそれをどんどん消費していきます。そして地球温暖化に伴う気候変動により、天災が各地で起きています。自然を世話することは緊急に必要とされています。それは人類が生きるためです。地球は一つしかありません。技術が発展しようが、科学が発達しようが、人がかつて月におりたち今は火星にいくかといっておりますが、それでも他の惑星に亡命するようなことはありません。我々には地球しかないのです。

 専門家の言うことに耳を傾けねばなりません。気候変動は人間が起こしているものです。 戦争がおきて血が流れていると、これをどうやったらとめられるかみな考えます。しかし、環境破壊は目に見えないところで進み、不可逆的なところまでいってしまいます。
 自然は我々の人生の一部です。まず環境破壊が起きていることを「知る」ことが大切です。知ることで貢献できます。たとえば電気は節約していても一日二回シャワーをあびる生活スタイルをしている人は、自分たちが何をしているのかを自覚しなければなりません。

 70年代から80年代に、イギリスで、貧富の格差を是正すると、天然資源も枯渇するのではないかという議論を行いました(つまり、金持ちがシンプルな生活を行わないと全員が金持ちと同じ生活を行うと天然資源が枯渇するということ)。あれからずいぶん日が経ちましたが、豊かな国のライフスタイルは相変わらずやりすぎな感じです。肥満の人は僧侶のように夜の食事をぬくべきです。私はオランダ人の友人にそういって、彼女もうなずいて聞いてくださるのですが、彼女はものすごい肥満なのです。おかしいと思いませんか?
 
  国家は国を護らねばと武器にお金を使います。誰も戦争を好きな人はいません。戦争は人を殺すことです。そのようなものにお金を使ってどうするのですか。戦争では火のようです。負けそうになるとさらに兵士と武器を死地に送り込みます。人間の命を燃料とする火です。私の国、彼らの国といった、「うち」と「そと」の考えが争いをうみます。しか、今の環境も経済もグローバル化している時代に、国境や民族の境界には意味がありません。意味があるのは人間性だけです。好むと好まざるとにかかわらず、異なったものとも共存していかねばならないのです。これが新しい現実なのです。70億人が一つになれば「うち」と「そと」の対立はなくなり戦争の根拠もなくなります。

 科学者は〔破壊のための兵器造りとがなくて〕建設的な実験を行って欲しい。日本は核兵器をおとされた唯一の国である。その悲惨さを知っているが故に、核兵器廃絶の先頭にたって行かねばならない。昨年、最初南アでやろうとして〔中国の妨害で〕ローマで行われたノーベル平和賞受賞者会議において、核兵器廃絶のためのタイムテーブルを今すぐ作らねばならないと声明をだしました。
 一時的にスカっとしたいためだけに、私が、私がというエゴをとおしたいかために、兵器を用いて何かいいことあるでしょうか。核兵器廃絶のために世界をひっぱっていきなさい。

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山本良一先生
 三人の先生方トップバッターは山本良一先生。山本先生ははじめにダライラマ14世が環境問題にどれだけ関わってきたかの歴史を述べた。そのうち2008年にITCGでその中で気温上昇を1度未満に抑えること、大気中の二酸化炭素量350ppmにとどめることを目標とした、「気候変動」に関する仏教徒宣言「Time to act now」に最初の署名者となったことを主に紹介。詳細はこちら

 スタンフォードのアンソニー・バルモスキー(Anthony Barnosky)が生態系の臨界点(これ以上すすむと加速的に絶滅がはじまる点)が迫っている。今子供が大人になる頃には大量絶滅時代がはじまる、と警告している。国連には気候変動パネル、国際資源パネル、生物多様性パネルの三つのパネルがあるが、「国際倫理パネル」を加えることを提案したい。
 昨年も80名の宗教者、神学者、哲学者が化石燃料から再生可能エネルギーへの転換を決議した。ダライラマ法王もBeyond Religionという著作でエコ文明実現のための普遍的な倫理を説いている。

 次に、ここ数年、世界中でおきている、水害、寒波、旱魃の写真をその被災地とともに紹介する。
 まずはハリケーンハイエンの襲ったフィリピンでは、COP19のナドレブ・サニョが涙ながらに演説をした。
 年々干ばつのひどくなるカリフォルニアでは、2013年5月21日、州知事がアメリカと中国の二大二酸化炭素排出国にの気候変動に関するアンソニー・バルモスキー(Anthony Barnosky)の報告書を送った。これにより、アメリカと中国は環境問題解決のため政府間が協力をはじめたという。

 山本先生は16年にわたりエコプロダクツ展の実行委員長をつとめており、最近『低炭素革命』という本を出し、国連に倫理パネルの創設を行う運動をしている。とくに日本の仏教者たちに働きかけていて、2012年6月2日真言・天台・神社本庁のトップの三人があつまって環境問題について宣言するようにもっていったそうな。

 さらに、胎蔵界マンダラを翻案したエコマンダラを提示した。大日如来は、宇宙・地球であり、あとの四仏は(1) 惑星スチュワードシス、(2)環境マネジメント、(3)共生、(4) 社会的責任となった図である。
 そして、結論として環境危機は倫理的な問題あることを強調。
(1) 商品がどこで生産され、どこで流通しているかわからない。
(2) 科学の発展により、倫理的な判定の難しいサービスが増えている。
(3) 市民が環境政策に関われない現状
などを問題点としてあげた。

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●宮脇昭先生代理新川先生

二番目のパネラーは宮脇昭先生の代理で登板した新川眞先生。
 今年87才になる宮脇先生は「いのちの森」をつくっている。
 宮脇先生はお若い頃から日本全土をくまなくめぐり植生を調査した。そうして完成した『日本植生誌』は2006年の日本ブループラネット章を受賞された。先生はこれまでに4000万本の植樹を国内外で行ってきた(先生のご著作『明日を植える』にはそれまでの先生の業績が都道府県別に記録されている。)。
 ここから宮脇先生がつくった森の話になるのだが、感動的かつおもしろかった。宮脇先生は大企業と交渉してその企業のもつ土地、たとえば工場や建物のまわりに森を作ってきた。
 プロジェクターはまず小さな苗木だっだものが、どんどん大きくなる姿をうつしだす。8年でこうなって、10年でこのような森になって、それで今はこんな森になりまりした、という写真がつづく。不可能といわれていた熱帯雨林の再生にも30年前とりくんで、今は森になっている。

 そして次に、「命をまもる森」の話にうつる。日本は災害国家であるが、森は人々の命をまもってきた。関東大震災の際に板塀に囲まれた被服廠に逃げた人は95%が焼死したが、緑に囲まれた深川岩崎邸に避難した人は100%生き延びた。 国のつくる海浜の松林は壊滅したが、宮脇先生がイオンのお金でつくった植え込みは、津波の際にもたえて、引き波で車が沖合に流されるのをくいとめた。今は東日本大震災後の被災地にも大槌町にはじまり防潮林をつくる活動を続けている。

 聴衆は森の成長過程を次々とみせられると、ほぉ~っと感嘆の声をだし、現在の堂々たる森の姿がでてくると万雷の拍手に変わる、を繰り返した。

 比較するのも失礼かと思うが、山本先生の胎蔵界マンダラよりも、成長していく森の方が、言い換えれば具体的な行動とその結果をみる方が、希望が生まれていい。 

 植林は最初の二~三年は資金も手もかかるけど、そのあとはほっておけばいいらしい。木が大きくなっていく時、上にのびる枝はのこし、横に伸びる枝はカットするのが大切でこれは「人事と同じ」とのこと。 面白かった話としては、企業のトップは植林に前向きなのだが、その企業の中間管理層、先生いうところの「不透水層」が、だいたい植林に反対するそうな。しかし、この反対によって心をかえるトップはダメで、将来をみこした判断のできる経営者いる会社では植林ができるのだ、という。

 そして、ラストに、宮脇先生の言葉で、「人類は緑の寄生虫でいるしかない。命を心を文化を護るために木を植えましょう。今すぐできることは木を植えること。命ある限り私は木を植えます。」とメッセージを送り、聴衆は拍手で応じた。

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村上和雄先生

 三番目に登壇したのは、遺伝子研究の村上和雄先生。この環境シンポジウムと法王をつないだ方である。村上先生は無表情にギャグをいうのが持ち味で、出だしは恒例の「娘が明日お父さんが死ぬと予言したら隣のオジサンが死んだ」という笑えないギャグから(笑えないので笑える)。

村上先生はご自身の研究を、(1) 心と遺伝子研究会( 糖尿病の人が食後笑うと血糖値が上がらないことなどを発見)、(2) 笑う鼠の研究(鼠を一人にすると攻撃的でストレスに弱くなるが、友達といれるとその逆になる。従って、幼少期の遊びは重要)。(3) 祈りの順番に紹介。最後の「祈り」については今論文にしている最中だとのこと。

私の研究の中で一番苦しかったのは、稲の遺伝子を解明している時だったが、それは結果として世界最高の業績をあげることとなった。しかし、私は遺伝子を読んだだけで、書いた方がエライにきまっている。遺伝子を書いたのは人ではない。自然だ。遺伝子は2000億文の1gの重さの中に万巻の情報が入っている。

 「昼の科学」と「夜の科学」があるが、「夜の科学」とは直感の科学である。それ以外に「真夜中の科学」があるけどこれは私の評判にかかわるのでこれ以上はいいません(笑)。私はこう思うんです。「本当に必要なものは目に見えない。愛とか。何かすごいものは見えないものなのだ。大腸菌も人間も同じ遺伝子暗号をつくって書かれている。あらゆる生物は遺伝子レベルでは同じコードをつかっている。しかし、人は大腸菌をコピーできても作れた人はない。命のしくみはわかっていない。人間は60兆もの遺伝子が協力しあってできあがっている。遺伝子は利己的だというが、利他の遺伝子があると思う。生きているのはすごいことなのだ。シンプルで慎み深い生活をせねばならない。

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●法王が感想を求められて

 私はいつもこう思う。日本人は技術力があり、責任感か強いんだから、もっと海外にでて貢献できるはず。サハラ砂漠には森はない。しかし太陽がある。この太陽で電気をつくり、その電気で海水を淡水にかえて、サハラを緑化したらそこに人が入植できる。アジアも日本もアフリカにできることはある。小さな苗木があんな森になるのだ。日本にはもう森林があるから、アフリカを緑化することもできる。
 BBCのニュースでとあるアフリカの村で私の考えていることが実現していることを知った。世界は一つ(oneness)という感覚が大切なのだ。
  北インド、ホボナというところにいる私の友は、私に「ヒマラヤに行くときは土地の人に木を切るな、木を植えろ」と言って下さい、と頼まれて、以来、私はずっとそれを実行している。木を植えることは政治的な問題にはふれないから、木を植えよう。ふるさとを護ることに反対する人はいない。

 コペンハーゲンの地球サミット会議で私が期待したように各国が二酸化炭素削減のために合意にいたらなかったのは、各国が国益を主張したからである。順序が違っている。優先するのはまず世界で次が国益だろう。世界の指導者は近視眼だ。
 私は亡命してダラムサラにすんですでに50年になる。昨今はダラムサラでも今までにない気候が続き、農民は大変困っている。気候変動はグローバルなものだ。兵器ではなく、建設的なことにお金を使うのだ。動ける人は東西南北動いて技術や知恵をだしあえ。
 イラクの危機はみんなで対処したろう?。何か起きたら金持ちは逃げ、貧しい人が苦しむ。貧しいとはそこらへんで歩いている人だ。熱波がきたら金持ちはエアコンつければいいが、道端で寝ている人は熱波で死ぬ。冬は凍死する。無関心を装うことはできない。

 人間の性質は利他的なものだ。ニュースで殺人、レイプ、いじめなどをみていると人間の本質はネガティブかと思うが、それは違う。彼らは自信がないだけ。人間は本来ポジティブなものだ。テロリストだって親から愛されていた子供時代にあのように攻撃的ではなかったはずだ。環境や思想がネガティブな人間をつくりあげていく。
 全ての宗教他者を助け、喜びを与えるこれが重要だと兄弟愛をとくが、宗教心をもたない人もリスペクトすることが大切だ。〔村上先生の方をみて〕ねずみでも愛をわかっているんだ。鼠が笑うのは宗教とは関係ない。世俗的な倫理を振興することによっても人間性は推進できる。日本人も外向き敬虔でもじつはもう仏教を信じていないでしょう。〔だから宗教のない人たちには倫理を説かねばならないのだ〕
 倫理は自他を健康にするメリットがある。外見の美しさではなく、内面のあり方が重要なのだ。


 というわけで、このあと国連に倫理パネルを、環境問題にいますぐ取り組みましょう、科学の発達には倫理的な視点が大切といった宣言が行われた。

 私の感想。とにかく木を植えよう。たくさんの鳥がやってくる木を植えたい。
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DATE: 2015/03/29(日)   CATEGORY: 未分類
元寇遺蹟と近代ナショナリズム
下関と博多に、新旧ナショナリズム遺構をみにいった。旧ナショナリズムは元寇の際もりあがった敵国降伏のナショナリズム、新ナショナリズムは幕末からWW2の敗戦に至るまで、対清・ロシア・米英の順にもりあがったアレである(笑)。この二つの出来事は、実は元寇の記憶をもつ博多で時代をこえて一体となっている。
 
 3月19日、前の飛行機がバードストライクで止まっているとかで滑走路が短時間閉鎖され、遅れて離陸。 犠牲になったお鳥様に手を合わせつつ博多に近づくと、今度は別の飛行機が部品を滑走路におとしたとかで、またまた空港閉鎖。ベタ遅れで到着。

 ついてすぐ下関に向かおうとするも新幹線の表示板をみてびっくり。新下関にとまる「こだま」は一時間に一本しかねえ。仕方ないから「のぞみ」で小倉までいって、そのあと在来線で下関まで行くことにする。こうやっていろいろあっても富山で感じたアウエイ感はない。母の父は北九州の寒田の出で、母は小倉で育ったので私は東京生まれの東京育ちとはいえ、DNAの半分はメイドイン九州であり、祖父が生きていた頃は何度も九州に来ているので、何となく安心感がある。

 下関につき、T先生と唐戸市場で昼食をとり、そのあと関門海峡鎮守の亀山八幡宮で伊藤博文が奧さんとしりあった場所とか、攘夷の砲台跡とかを見て(ここに砲台ができたのは神様の力添えを期待してだろうな)、そこから歩いてすぐの、下関講和条約の舞台となった春帆樓へ行く。春帆樓は今も営業を続けているが、条約の結ばれた建物はすでに建て替えられており、代わりに条約の席を再現した間が記念館内に作られている。
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 中から大量の本土中国人の観光客が観光を終えてでてくる。
 
S大学のT先生「この資料館、奥行きないんですけど、よくこんなたくさんの人が入ってましたね」

私「自分たちの国が負けて不平等条約を結ばされたこの場所で、どんな解説をされて、何を言い合っているのかが興味深いですね。想像つくけど。」

 このあと、旅館に隣接する赤間神宮へ。ここはあの耳無し芳一の怪談で有名な寺。

T先生「ここの境内にある大連神社をご存じですか。日露戦争後に、満洲の玄関口大連に総氏神として祀られた熱田神宮のご神体を、敗戦とともにここに移したものです。ここには満州国の資料がたくさん所蔵されていて一橋大学の学生さんたちが整理にあたっています」

 本殿の横には終戦の月の25日に天皇陛下にわびるために自決した大東塾の塾生14名(大東塾十四烈士)の霊が祀られている。 幕末に欧米諸国の船に大砲をぶっぱなしたり、尊皇攘夷もりあげたり、下関には排外ナショナリズムのかほりが横溢している。

 排外といえば下関名物、長周新聞に触れねばなるまい。この時丁度、同紙は市長の学位請求スキャンダルを糾弾していた。この件は確かに市長の行動に非があったが、それを糾弾する新聞の口調がなんとも文革的というか、知的でない。調べてみると、この新聞社、中国に従って日本共産党を除名された福田正義が1955年に設立したものであった。
サイトにある福田正義が書いた「偏っているか」を声にだして読んで見たら、中国がチベットを「平和解放」した時の共産党の宣言文を思い出した。反米、反帝国主義、愛国の論理と口調が全く同じ。一見の価値があるのでこのサイトで確認してみて。 内容の是非についてはご自身の価値観で。21世紀になっても毛沢東主義を奉じているとは、インド・ネパールのマオイストのよう。その後、T先生の研究室で学術情報を交換して、夜は小倉の親戚の家に泊まる。

 明けて20日は博多に移動し、元寇遺構と元寇にかこつけた近代ナショナリズムを調査する。

 日本は島国であったため、他のアジア諸国と比べて、外国人の襲来にさらされることはなかった。しかし、例外として13世紀にフビライ・ハン時代のモンゴル(元)に二度にわたり攻め込まれている(元寇)。これは日本人のトラウマとなり、19世紀に関門海峡に近代的な兵器を備えた外国の艦船がうろつきだすと、外国侵略の恐怖とともに元寇の記憶が再び呼び醒まされた。
 
 かつてモンゴルの脅威を退けた「神風」(台風ともいう)が吹いたように、今目の前にある危機も神仏の助けによってのりこえようという気運が幕末に生まれ、その中で北条時宗の時代を追慕し、元寇遺蹟を整備する動きが日本中に広がった。

 藤田東湖を初めとする幕末の志士たちが「正気の歌」を読んでいるが、同名の歌は南宋の遺臣文天祥が、フビライの仕官の誘いを断り、前王朝に殉じて獄死する際に詠んだものである。幕末の志士たちは、自らを宋王朝の遺臣の漢人に、欧米をフビライ・ハン率いるモンゴルになぞらえていた。

 さらに明治に入ると日蓮主義がもりあがる。

 日蓮と元寇の関わりを雑に紹介するとこんな感じ。フビライ・ハンが王位に即位した1260年、日蓮は時の執権に、『立正安国論』を献じ「このような不穏な出来事(地震・水害・飢饉)が続くのは、幕府が法華経を信じずに邪教(念仏宗)を信じているからである。このままだと外国軍が日本を滅ぼすぞ」と説いた。

 1274年、1281年、二度にわたりモンゴル軍が博多湾に攻め込み、残虐の限りを尽くしたため、日蓮の言葉は成就したかに見えた。このうち、二度目のモンゴル来寇は結構本格的で、日本に死亡フラグがたった。にも関わらず、幕府は各地の御家人によびかけて海岸線に防塁を築き果敢に戦い、さらに運良く来合わせた台風で多くの元・高麗の船が沈んだため、勝ってもうた。
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 この故事にちなみ、日蓮の思想を奉じれば、外国侵略ははねかえせると信じた日蓮主義者たちは、国柱会などのナショナリスティックな政治団体に集い、石原莞爾などが満州でブイブイいったことは有名である。元寇の記憶の残る博多の地はとくに1904年から20年にかけて、元寇遺蹟の整備・顕彰・慰霊が進んだ。つまり、江戸時代にはとくに注目されていなかった元寇遺蹟が、近代に入ってからの排外ナショナリズムの勃興とともに注目されたのである。

 近代に入ってからの元寇時代追慕のもっとも興味深い例は、1904年に福岡県庁の前に建立された、日蓮像と亀山上皇像であろう。私事になるが前にここに来たのは、十代のはじめ頃であった。神風に袖を翻す巨大な日蓮像を見て圧倒され、像の足下にある銅版画にモンゴル軍の非道(捕虜の手のひらに穴をあけて紐を通している)が刻まれているのを見て「蒙古こわあい」と思ったものだ。
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 その後すっかり忘れて大学に入ってモンゴルゼミとかに入ったところを見ると、あの時感じた怖さは現実のモンゴルに対してではなく、「外国からやってくる話の通じない暴力」に対してだったのであろう。

 日蓮像護持協会が運営する元寇史料館から、これらの像の建立の経緯を引用すると以下のようである。

 記念碑建設の起こりは、二年前(1886) の八月に起こった"長崎清国水兵事件"によるものである。その事件とは、定遠を旗艦とする清国北洋艦隊が長崎に寄港した際に、上陸した水兵等が酒に酔い大暴れ、鎮めようとした巡査・市民など多数を死傷させ、家屋を破壊し、そのまま出港してしまった。この清国水兵による惨害の補償は、当時の国力の差から日本の無き寝入り同然の結果となり、人々は国辱だとくやしがった。この事件を担当した湯地丈雄は、再びこのような屈辱があってはならないと胸にきざみこんでいた。その後、福岡警察署長に着任した湯地丈雄は、元寇の地、博多に国難殉死者の慰霊碑が一つもないことから、再び外国からの辱めを受けないための精神的象徴として元寇記念碑を建設することを思い立った。

 この長崎事件における清國水兵の破壊・暴力 → 弁償しないで逃走 → 日本人大怒り の構図は、なんか現代の中国での反日デモにも通じて、つくづく中国は進歩ない。

 で、この福岡警察署長、湯地さんの提案に、日管(日蓮本仏寺住職)が協力を申し出て、碑文は、北条時宗像に日蓮の肖像をはめこむデザインでいこうとしたら、仏教各派から猛烈な反対がでた。日蓮は他宗派を強烈に批判した人だし、蒙古降伏は他宗派だってさんざん祈っていたのだから当然であろう。

 で、この反対を契機に日蓮宗は湯地と袂を分かち、湯地さんは亀山上皇像を、日蓮宗は単独で日蓮銅像の建設にとりかかった。制作監督は両方とも芸大の前身の東京美術学校。警察署長が発起人になり、県庁前という立地、奈良の大仏・鎌倉大仏につぐ巨大さなど全てから、このプロジェクトが公的な性格を持ち、当時の人々の気持ちを広く代弁していたことが分かるであろう。

 亀山上皇・日蓮聖人の両像はともに1904年に完成した。チベットの都ラサにイギリスのヤングハズバンドが侵攻し、奇しくもダライラマがモンゴルへ亡命した年である。像の建設期間には日清戦争があったため、資料館には撃沈した清の艦船からひきあげた品も展示されている。像が完成した1904年は東郷平八郎がバルチック艦隊を殲滅した年なのでこの像には一際神秘的な箔がついたことであろう。

 資料館には東郷平八郎、乃木希典肖像が祀られ、日本初のパノラマ画家Issho Yada(矢田一嘯 1859-1913)の代表作『元寇戦闘絵図』など、も所蔵されている。この収蔵品からも「神風」は、昔の話ではなく、眼前にある外国の脅威に対抗するための、切実な切り札、最低でも心の安定剤として作用していたことは明らかである。しかし、この神頼みの精神論が日本にああいう惨禍をもたらしたわけだから、やはり戦略とか戦術とか軍備とか戦の正当性とかを客観的に省察する心は重要である。

 ※ここで豆知識。元寇史料館は観光サイトでみると土日開館、平日閉館であるが、直接聞いたところでは、土日はしまり、平日は予約すれば開けてくださるとのことである。全く逆なので気をつけよう。

 夕方、ホテルで温泉からあがってテレビをつけると、今日が福岡県西方沖地震から十周年であると連呼している。十年前壊滅的被害をうけた玄海島は現在は復興し、ヘリポートが建設されている。テレビを見ていると、ゼミの卒業生で、今博多で仕事をしているTくんから電話。Tくんは同じくゼミの卒業生で博多勤務のHちゃんと月いちごはんをしているそうで、夕方二人で来てくれるという。なので晩ご飯はフリチベ友達と二人の卒業生とともに博多の地物がでるお店でお食事する。

 翌朝は桜の便りも聞こえる暖かさで、一週間前富山で雪に埋まっていたのが、今はうすいブラウス一枚で、桜の便りを聞いているのだから、季節の変わり目はすごい。
 午前中はT君が車を出してくれてHちゃんと三人で志賀島にいく。この島は日本史で有名な金印が出土した土地であり、元寇の際の古戦場でもある。

 志賀島は本土と細い道でつながっている。本土と島の境目付近の砂浜で車をおりて、磯に出ると、昨日の生の松原と異なり、大量のゴミが漂着している。拾い集めてみると、一番多いのはハングル、次が中国と日本。T君によると博多の休日の過ごし方は「浜辺でバーベキュー」だそうなので、浜辺の日本ゴミはその連中のものである可能性が高い。ハングルゴミと漢語ゴミはもちろん彼方から漂着したものである。

 「漂着ゴミの現状」に関する環境省のレポートはここをご覧ください。https://www.env.go.jp/water/marine_litter/conf/c02-08/mat03.pdf

 蒙古塚につくと良いお天気で、三人で記念撮影を行う。この碑文も日蓮宗の日統が1927年にたてたもので、1928年の除幕式にはアノ張作霖が「大日本志賀島蒙古軍供養塔讃」という一文をよせている(三ヶ月後に爆殺)。解説によると、1938年には蒙古自治連盟政府の徳王(デムチョクトンドゥプ)も参拝している。1938年は日中戦争も始まっており、日本は東部モンゴルと満洲の地を勢力下にいれていたため、もはや蒙古は敵ではなく友軍扱い。従って、この碑文も元寇でなくなったモンゴル人の慰霊碑となっている。昭和期の蒙古に対するイメージの推移を研究してもおもしろいかも。T君は馬賊で卒論を書いたので張作霖の讃を喜んで見ている。
張作霖

 相撲好きのK嬢によると、最近はモンゴル力士たちもここに献花に訪れているという。今や日蒙友好の地になっているようだ。
 この蒙古塚は私が13歳のころ、志賀島に来た時はここにはなかった。例の福岡県西方沖地震により碑文も倒壊したため、今の地に移されたのである。
 再び福岡本土にもどり、T君のおすすめで鮮魚市場でふぐ定食を頂く。彼は博多にきてまだ一年目だが、大学時代の友達が訪れてくるたびにこうしていろいろ案内しているのだという。駐博多早稲田大使である。

 で、午後は福岡福祉プラザでチベットのお話をする。T君とHちゃんにはせっかくの休みなんだからもうサクラにならなくていいよ、というが最後までいてくれた。それどころか、プロジェクターのコントローラー、ホワイトボード、レーザーポインターを借りてきてくれるなど非常に働いてくれた。ホント良い子たち。

 私の話が終わると、福岡在住のチベット人ゲレックさんが、自分の故郷(遊牧地域)に学校をたてるための支援のお願いにたった。彼の故郷マチュには漢人がどんどん入植してきて、近代教育をうけていない故郷の人たちは漢人が変化させていく社会において隅においやられていること、日本で集めたお金を地方政府にわたして学校を建てるように頼んでみたけど、「中国は豊だからあなたの支援は必要ありません」と受け取ってもらえず、そのくせに故郷に学校がたつなどの変化は起きていないこと、今の時点では集めた募金を教育ボランティアの人にわたしたり、教材を買ったりすることに用いているが、将来的には中国の制度の中で上級の学校につないでいける学校の建設を目標としていること、この会のお金は透明性を保つために、現地の受け入れ組織には彼の親族や友達は入れていない、とのことであった。質問のある方、支援をしたい方、興味のある方は、ゲレックさんにご連絡を。

ノマディツク・チルドレンの会 事務局
gelek@ncoamdo.com Tel 080-1971-7815
ホームページ http://www.ncoamdo.com/

 このあと、T君は空港まで送ってくれ、三人でスタバでお茶して別れる。ありがとう、楽しかった。Tくん、Hちゃん。そして福岡のフリチベのみなさんたち
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DATE: 2015/03/23(月)   CATEGORY: 未分類
雪女、富山ですべる (後) 薬都富山をいく
 (前回のあらすじ)「チベット伝統医学の本を出版したので、写本の所蔵元にご挨拶にきたら大雪だった」

 一夜明けて外を見ると、雪がまっている。よく天気予報で「スジ状の雲」が雪を降らすというが、富山にくる前はこの筋状の雲って鰯雲のようにイメージしていたけど、実際は雪が上がって日が差したかと思うと、またすぐ雪が降り出すような天気だった。たぶん、この波状の天気が「筋状の雲」の正体である。何事も体験しないと分からない。

 午後一の富山大学薬学部の訪問を前に、午前はホテルから近い広貫堂資料館に行くことにする。

 富山藩はかつて全国にその名をはせた富山の薬売りの総本山である。彼らの販売する薬の中でももっとも名高いものは「反魂丹」とその名も死んだものもよみがえる効き目の薬であった。明治に入り、廃藩置県で富山藩はなくなり、近代的な薬事法が導入されたため、硫化水銀を用いる反魂丹も制作はかなわなくなった。
富山の薬売り5

 富山の薬売りを統轄していた役所反魂丹も閉鎖となった。ここで薬売りたちはお金をだしあって広貫堂という名の会社組織をつくり、お役所「反魂丹」のトップを会社の総理(初代社長)に迎え、役人もみな横滑りで採用して、近代の変動に対応したのである。もちろん硫化水銀を用いた反魂丹はもう薬事法に触れてつくれないため、法律に許可される範囲内で伝統的な生薬--地黄や熊胆など---を販売した。

 広貫堂はあの「ケロリン」のナイガイ製薬よりも遙かに古い製薬会社なのである。資料館は道に面しておらず広貫堂の工場のたつ敷地内にあるので、間違えないように。訪問者にはもれなく広貫堂のスタミナドリンクがプレゼントされるのもうれしい。
薬の包装紙

 資料館入り口の富山の薬売りのマネキンの前で、どこぞのマスコミが北陸新幹線開業特集のためか、テンション高く画像収録をしているが演じるのも一人、撮影も一人なので寂しい感じ。

資料館の「反魂丹」の看板みているうちに、突然、なき母が口にしていた「越中富山のハンゴンタン、鼻×そ丸めて万金丹」という意味不明な口上を思い出した。私は資料館の係のかたに

私「あの口上のハンゴンタンって漢字で反魂丹で、薬名であると同時に富山藩の厚生省だったんですね、深いわー」と言うと

資料館の方「団体がいらしたらこのお話をするんですが、特別にお話しましょう。その口上は正式には『世の妙薬と言えば、越中富山の反魂丹、それにひきかえ鼻×そ丸めて万金丹、そんなの飲む奴あんぽんたん』というのです。万金丹とはかつてお伊勢参りのお土産に買って帰る万能薬だったのですが、お伊勢参りの流行とともに万金丹も飛ぶようにうれたため、ニセモノも大量に出回りました。そのことが、『万金丹という名前をつければ鼻くそ丸めても売れた』という口上をうんだのです。もちろんこれ(フルバージョンの方)は富山の人が富山の薬を売るために作ったものだと思いますが」

「おお。『タン』で脚韻んでますね。長年意味の分からなかったものが突如霧が晴れたように解決しました。ありがとうございます」

さて、その後、お寿司屋さんカウンター席に座って、昼食をとりながら富山の話しをいろいろ伺い、その後、雪のふりしきる中、富山大学に向かうバスに乗る。

 富山大学の五福キャンパスは市内の路面電車の終点にあるものの、薬学部は市内から遠く離れた岡の上、杉谷キャンパスにある。付属病院が併設されているためまあバスの便は悪くない。薬学部は正門正面奥の建物であるが、折しも工事中で通りがかりの人が案内してくれなければ迂回路は分からなかった。訪問先は和漢医薬総合研究所の小松かつ子先生の研究室である。小松先生はアーユルヴェーダ学会の会長であった富山医科薬科大学名誉教授の難波恒雄先生の直弟子であり、同学会の理事もつとめていらっしゃり、難波先生の死後、難波先生が世界中から集めた、インド、チベット、韓国、インドネシア、タイ、朝鮮、などの伝統医学の薬材標本を、それぞれの地域から伝統医学の先生たちをお招きして整理・分類・研究したデータベースを作っていらっしゃる(一部は一般にも公開中)。
難波恒夫

 私は伝統医学の薬材の現代薬への利用の橋渡しのような話しを興味深く伺い、先生は実は歴史がお好きだとかで、私のダライラマ13世のチベット医学復興語りを興味深そうに聞いてくださる。お話が一通り終わると、薬学部に併設されている民族薬物資料館(HPはこちらから)の館長先生の伏見裕利先生をご紹介くださり、見学できるように取りはからってくださる。難波先生が世界中から集めてこられた薬材は今この資料館に所蔵されている。

 ネットで見ると、この資料館は年に三回くらいしか一般公開していないので、見学は諦めていたのだが、富山大学薬学部の学生はもちろん実習に用いているし、研究者が来た場合も開けているとのことで、閉まりっぱなしではない、とのことである。

 小松先生の元を辞去して急いで資料館の入り口に向かうと、資料館正面入り口の前がシャーベット状の雪でぐしゃぐしゃになっていて、あっと思った時にはもう転んでいた。思い切り内股の腱を伸ばして痛いのなんの。とくにしゃがんだ状態から立つ時が地獄。

 伏見先生は難波先生の最後のお弟子さんだとのことで、資料館のセクションを順に案内してくださる。チベットからはちゃんとメンツィーカンからダワ先生が招聘されたとのことで、チベットの薬材には美しいチベット文字でラベルが貼られている。また、『四部医典』を図解した80枚の医学絵画の一部が展示されているので来歴を伺うと、難波先生がラサで全部手写させたものが一セット納入されているとのこと。モンゴルの薬にはキリル文字と旧文字の両方でラベルがはってあり、資料館にモンゴルの方が訪れた際寄贈したのか、モンゴル旧文字の習字がはってある。何と書いてあるのかと伏見先生に聞かれたので。

「ああ、これ『富山大学』ってモンゴル語で大書してるんですよ。モンゴル人の習字って、チンギス・ハーン、とかフフ・モンゴル(青きモンゴル)、とかなんか固有名詞多いんですよねー」といったらうけた。

伏見先生からは少部数しか刷られていない、モンゴル薬草図鑑をサイン入りで頂戴してしまい恐縮する。モンゴル医学もチベット医学を翻訳しているので、同じ『四部医典』を聖典として奉じている。この日は一生分の薬材を見せて頂いた。

 突然ですが豆知識。富山大学の五福キャンパスにはラフカディオ・ハーンの蔵書と研究書を集めたへルン文庫があり、月二回一般公開されている(詳しくはコチラ)。また、この富山大学図書館は旧高専の図書館も併合しているので満洲国関連の資料も多い。富山大学は研究者にとってはなかなかに魅力的な大学なのである。

 このあと私は帰り着くなりひたすら温泉につかって痛めた腱を湯治する。これがきいたのか、最初の晩はあまりに痛いので、朝一で医者にいって鎮痛剤をもらわんと帰れないかと思ったが、翌朝起きてみると、若干足がむくんで痛みはあるものの、なんとかなった。
 そこで調子にのって最終日に富山売薬資料館にいく。なぜかというと広貫堂資料館での聞き込みによると、反魂丹のレシピが公開されているというから。今は薬事法にふれて売れないこの薬も将来末期がんとかになって健康を心配することもなくなったら、頼ることもあるかもしれない。従って、一応作り方を控えておく。反魂丹のレシピの下には原材料の生薬が標本になっていて、昨日の資料館と同じ感じのプレゼンをしている。
薬材タナ

 その後富山駅前に戻り、CICビル5Fにある広貫堂プレゼンツのくすりミュージアムを訪れる。ここは富山の薬売りを先進的なビジネスモデルとして紹介する空間(まず使わせて、使った分だけお金をとるという後払いシステム、または、顧客情報のストックの仕方etc.)。お昼は薬膳カフェ春々(ちゅんちゅん)で薬膳カレーをいただく。なぜこのカフェがちゅんちゅんなのかというと、広貫堂の商標が羽を広げた二羽の雀だから、ちゅんちゅん。ダジャレである。

 こうして三日間にわたる薬都訪問をおえ、痛む足をひきずり羽田に戻ったのであった。余談であるが、この時、生薬の薬材標本を大量に見続けたためか、それからしばらく、薬材標本のある部屋を部屋から部屋へさまよい歩く夢を見ることとなった。
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DATE: 2015/03/17(火)   CATEGORY: 未分類
雪女、富山を行く (前) 寺本婉雅ゆかりの城端へ
新著 『チベット伝統医学の薬材研究』の第三章で扱った医学写本は寺本婉雅によって明治時代雍和宮からもたらされたものであり、現在は富山の宗林寺に所蔵されている。今回は同寺に御礼を申し上げ、東洋の伝統医学の研究で名高い富山大学の小松かつ子先生と伏見裕利先生に拙著を献呈するため富山にいってきました。長くなるので前後にきってお送りします。
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 富山入った3月10日はよりにもよって三月には珍しい低気圧が北陸上空にかかりサイアクの天候。羽田からの飛行機は「悪天候のために羽田まで戻る場合がございます」と何度もアナウンス (聞いたところでは富山空港は有視界飛行とな)。富山につき空港バスでまず高岡までいく。寿司屋の大将から聞いた話では、富山市の西側にある呉羽山という丘をはさんで富山の文化は金沢文化圏?(武家文化)と富山文化圏?(農村文化)に分かれるという。従って、高岡と城端は富山にありながらも気持ち的には金沢に近いらしい。そのせいかどうか知らんが、高岡と城端の観光大使はゆるキャラではなく、大正期の袴姿のアニメの萌えキャラである(え? 関係ない?)。

 宗林寺訪問は常識的な14:00に設定してあったので、その前は観光をする。というか、高岡駅で城端線に乗り換えようとすると、乗り換え時間が1時間半あったので、せざるを得ない(笑)。高岡駅から徒歩10分の瑞龍寺(前田家の菩提寺)があるので、雪の中とぼとぼと寺まで歩く。瑞龍寺は三大禅堂と称えられる荘厳な伽藍で、国宝の立派な禅堂もあるのに、聞けば修業者ゼロ。ザ・観光地。大雪の中朝一に現れた私に受け付けの人は優しかったので、これはご時世ということにしておく。
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 高岡から城端線にのると、終点城端に近づくにつれ山に近づくため車窓は白く変わって行く。「合掌集落につく頃はいい感じに雪景色にかわっているな」などとこの時はのんきなことを考えていた。終点城端駅に降りるとあたりはすっかり雪景色である。

 しかし駅前からでるはずの相倉集落行きのバスが来ない。しばらくすると駅の関係者が「北陸新幹線開通に伴うダイヤ改正で今日から05分のバスはなくて55分まで来ません。気づくの遅くてすみませんね」とのこと。ちょっと待て私が時刻表をHPで確認したのは一昨日くらいだぞ。ちゃんとアップデートしろ。集落ではガイドさんがまっているのに50分も待たせるわけにいかん。

 仕方ないので駅前にある唯一のタクシー会社に向かうも、折からの雪で三台しかない車は出払っており、四輪駆動とスノータイヤでうっている五箇山タクシーも車の調子がわるくこれないと。車の運転ができない観光客はこうなると地縛霊である。仕方ないのでタクシーがどこぞから戻ってくるのを30分まち、予定時間を大幅にこえてタクシーで出発する。

運転手さん「この雪ほんとに先ほどから降り出したのに、もうこんなに積もっているんですよ。この先、富士山の高さと同じ長さのトンネルがありますが、それを越えるとまたひと味違いますよ」

「トンネルを越えるとそこは雪国だった、と言いますが、すでに雪国なので、ドカ雪国ってことですか?」

運転手さん「そうです」

 そしてトンネルをぬけると・・・。確かにすごい。除雪車がよけた雪が両側に壁になり、ちょっとした立山アルペンルートになっている。

 そして集落の入り口にくると、運転手さんは、「ちょっとすみません。この車では集落の駐車場まで上れません」という。ガイドの山崎さんには車でつくと直前にいってあったので待っているだろう。大した距離ではないからと私はタクシーをおりて、ずぶずぶと集落に向かう登りを急いだ。

 雪と風ははんぱなくふきつけてきて、あっというまに雪まみれ。荷物もって傘をさしているので雪がはらえず、雪女状態で、観光バスのわだちをたどりながら雪中行軍。八甲田山ネタが頭によぎったが不謹慎なのでやめておく。
相倉

 駐車場でやっとガイドの山崎さんと合流して、ご挨拶。100円で長靴と傘を貸してくれるというので、はきかえると、山崎さんはびしょびしょの私のスニーカーを詰め所のストーブの側においてほしてくれた。長靴はガードをあげるとヒザまで隠れるのでずぶずぶオッケー!

山崎さん「昔の農家はみな藁葺きだったんですよ。それがたまたまここは早くから保存が進んで世界遺産になって。その頃は世界遺産のありがたみなんて分からなかったから、こんな小さなくす玉割ってちょっとお祝いしてすぐに家に帰りました」

「大きな田んぼもつくれないこんな山の中で何を生業にしていたのですか」

山崎さん「加賀藩の流刑人を世話したり、火縄銃の弾に使う硝石を生産していました。流刑人とはいえお侍さんななので学があって、ここの集落の人はみな囚人から文字や学問をならっていました。」

 山崎さんは本業が写真屋さんなので新旧の写真をもって近代にはいってからの相倉の歴史をお話してくださる。ちなみに、大雪なので外歩きは簡単にあきらめて合掌作りの2階で集落を見渡しながらの説明であった。
 山崎さんのおばさんは例のトンネルの入り口の人と結婚して、東京にでて夫婦で土建屋を手広くやっていて、この集落の上の世代はその会社につとめていた人が多く、集落はゆたかになったという。
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山崎さん「しかし、その会社も東京大空襲で焼けて従兄弟はみな無くなりました。70年前の今日です」

 たしかにそうだ。今日は東京大空襲の日だ。チベット蜂起記念日も今日ですよ、と言おうかと思ったけど、説明が長くなりそうなのでやめる。代わりに新刊の医学本をおみせして富山にきた理由を説明する。山崎さんは「柳田国男もそうだし、ここは多くの研究者が通り過ぎてきた」と感慨深げにいう。柳田国男に並べられてなんかカンゲキ。

 こうして相倉合掌集落を後にすると、タクシーで城端の宗林寺まで送って頂く。行きのタクシーは駐車場まで行けないとのことだったが、帰りはちゃんと上がってきていた。

宗林寺の現住職の桂恵子師は寺本婉雅とその養子である昌雄氏のお話をいろいろしてくださった。詳細は拙著の後書きとかをご覧頂くとして、簡単にいうと、ここ城端にはかつて寺本婉雅を顕彰する「黙働会」があった。そこの中心となって動いていたのがここ宗林寺の桂香厳ご住職(現住職恵子師の祖父)である。その縁で寺本婉雅が宗林寺に出入りする内、桂香厳師の次男の昌雄氏の英明さに目をとめ、養子にとって家督を継がせた。その関係で寺本婉雅の死後、令室がたびたびここを訪れ、彼の遺品の一部が宗林寺に伝えられたのである。

 宗林寺の蔵にあった寺本婉雅の遺品は昌雄氏と黙働会のもので、いろいろ散逸したあとの残りである (今は大谷大学に貸し出されている)。お寺には当時の栄華?を伝える黙働会のインド人のコスプレ写真とかがある。恵子師に富山で一番大きな地方紙はどこかと伺うと、北日本新聞社である、というので、富山についたら直接訪れることとする。

 城端から富山市まではJRを乗り継いだが、今度の乗り継ぎは夕方なので比較的スムーズであった。富山駅は新幹線の開業を14日に控えて町中が総出で盛大な前夜祭をやっていた。仮駅舎の前にたつ仮設の特選街では店のご主人が、「はいっここでスタン張っていてください」とか言われて直立しているし、至る所にテレビカメラがはいっている。ここまでくる線路添いにも、新幹線の導入とともに消えていく列車を記録するため、雪をかぶった鉄たちが三脚立てて写真撮影をしていた。工事中なので仮設駅の出入り口がおおきく動いていたため、路面電車にのるには、大雪の中あるいてかなり遠くのビルの麓に行かねばならない。傘をさして荷物もって雪まみれになりながらとぼとぼ歩く。雪ふりすぎ。

 こんなんじゃ北日本新聞社いっても相手にされないだろうなと思いつつ、せっかくきたので「きちゃった」のノリで一応よってみる。受付で名刺をわたすと意外にスムーズにつないでくれ、上にあがると、ひろーいフロアは記者が出払っていてガラーンとしている。対応してくださった偉い方は、「ご覧の通り、いま北陸新幹線の開業関連で記者は出払っており、大手マスコミも全国から集まっています。郷土の偉人については私たちも興味がありますので四月中頃くらいの感じで」とぺつに急ぐ話しでないので、きた甲斐があったこととする(後篇へと続く)。
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