パンク歴史学者はスキンヘッドをかく語りき


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トビー・モットはロンドン出身のデザイナー/ヴィジュアル・アーティスト。1983年にアート集団「Grey Organisation」を設立し、ROLLING STONES、PUBLIC NENMY、A TRIBE CALLED QUESTのミュージック・ビデオから、DE LA SOUL、INFORMATION SOCIETYなどのジャケット制作、更には世界各国での様々なアート・エキシビジョンを開催。個人になってからはファッション・レーベルTOBY PIMLICOをスタートさせ、マリ・クレール誌の付録では女子大喜びのバッグも作っちゃいました。
 
そんなセレブリティーな彼ですが、もう一つの顔こそがパンク収集家!「The Mott Collection」と称されるそのアイテムは、レコードからフライヤーからポスターから、ホントにホントにとんでもない数!それらの展覧会も各国で開催されており、特に2011年にニューヨークで行なわれたCRASSの展示会は大きな評判を呼びました。
 
そんな彼が、スキンヘッドのエフェメラ(雑誌、ポスター、フライヤー、ファンジン、写真、手紙などの印刷物)に焦点を絞った書物『Skinhead : An Archive』を刊行しました。それを記念してのインタビューがこちら。スキンズとパンクスの違いから、ゲイ・コミュニティとの関係まで、実に興味深く話してくれました!超貴重なエフェメラの画像と合わせてどうぞ!
 

 
例えば、初期スキンヘッドたちが、ジャマイカのルード・ボーイやロックステディに影響されたのであったとすれば、なぜその後のスキンヘッドたちはレイシストとして語られるようになったのだろう? 極右の彼らのルックスが、なぜゲイ・コミュニティにも広く受け入れられたのだろう? もし彼らが労働者階級、男の象徴であるとすれば、なぜファッションや耽美主義に深く関係したのであろうか?
 
そんな疑問はすべてトビー・モットの著作『Skinhead : An Archive』で取り上げられている。この本はDitto Pressから発行されたスキンヘッドのエフェメラ・コレクション。1970年代後半〜80年代のスキンヘッド・ムーヴメントに焦点を当てているが、60年代の英国のルーツにも言及している。トビーに話を聞いてみた。
 
 
あなたはどのようにしてスキンヘッド・カルチャーに関わるようになったのですか?
 
1970年代、私は中産階級のパンクスだったんだ。パンクの優れたところは、階級や人種差別とは関係のない音楽のメルティング・ポットだったということ。パンクに影響されたキッズのほとんどは、反抗的で何らかの問題を抱えていたけど、パンクによって、自分の居場所を見つけることが出来たんだ。でも、70年代後半から80年代にかけてパンク内部に亀裂が生じた。左寄りのアートスクール系パンクと、右寄りのスキンヘッド。両者は共にサッチャーに睨まれたサブカルチャーだったんだけど、スキンヘッドたち…スキンズはそれに対して更に右翼的な行動を取っていたね。
 
パンクは極めて自由な雰囲気で、クリエイティヴな存在だったんだけど、スキンヘッドは非常に厳格なアイデンティティを持ち始めていた。スキンヘッド・カルチャーは、60年代の労働者階級がルーツになっていたんだけど、彼らは更にフェティシズムに走ってしまった。そして80年代頃までには、サスペンダーの幅からブーツの折り返し方、そしてドクター・マーチンのブーツにどれだけ穴を開けるか…、なんてイメージで語られるようになったんだ。
 
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彼らのどんなところに興味を持ったのですか?
 
そうだね、例えば…スキンズになるには、まずそれっぽい服を集めることから始まる。そして仲間たちとの厳格なルールを守らなくてはならない。共同体という概念が彼らのアイデンティティなんだ。そして一番大事な言葉は「信頼」。共通目標は、真のスキンヘッドになること。そんな彼らの意識に興味を持ったんだ。
 
あなたは左寄りのパンクスでしたよね。スキンズとの間に何か問題は生じませんでしたか?
 
うん、パンクスは常にソウル・ボーイズやテディ・ボーイズ、そして暴力的なスキンズたちに攻撃されるんじゃないかという恐怖の中で生活していたよ。元々スキンヘッドのルーツはパンクだった。SHAM69のようなパンクとスキンヘッドを股にかけたバンドもいたんだよ。でも結局、両者は敵対関係になってしまった。
 
もちろん私もスキンズに殴られたことがあるよ。でもね、言っておきたいんだけど、誰も死んじゃいないんだ。確かに暴力は溢れていたけど、そこまでヤバくはなかったと思う。なんたってみんなティーンエイジャーだからね。私もその頃はバスに飛び乗ったり、ストリートを走り回ったりして、逃げまくっていたよ。おかしな光景だったな。
 
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スキンヘッドのエフェメラ・コレクションを始めたのはいつですか?
 
ロンドンのイズリントンにあるパブ「Hope and Anchor」でのライヴに行き始めた頃かな。RUTS DCとかADAM AND THE ANTSなんかが演っていたと思う。客は15、6歳のキッズばかりだよ。そんな場所で政治的なリーフレットとかフリージンとかを配っていてね。それを集め始めた。レコードとか服なんかよりも興味が沸いたんだ。
 
どのようなものを選びましたか?
 
まだ政治に関しては無知だったんだけど、なんだか面白く感じて、左翼も右翼も関係無く集め始めた。私は左寄りだったけれど、近所ではブリティッシュ・ムーブメントのリーフレットをしょっちゅう手渡された。でも私はまだ投票出来る年齢じゃなかったから、馬鹿馬鹿しく思っていたね。でもスキンズたちは熱心に配っていた。そんな雰囲気が気に入っていたから、とにかく私は黙ってリーフレットを貰っていたよ。彼らの考えとか目的とか、そういうことに魅力を感じていたわけじゃないんだ。
 
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それではパンクとスキンヘッドのエフェメラにはどのような違いがありましたか?
 
実はスキンヘッドに関するものは非常に少ないんだ。というのも、ビジュアル的にハッキリしないものが多いから。スキンヘッドには、パンクにあったようなアートっぽい雰囲気が無かった。だから彼らが作ったものは雑なものが多かった。パンクスにはアートスクールに通っているヤツも多かったから、ダダとかジョン・ハートフィールドとかもちろん知っているけど、スキンズは労働者階級集団であって、アートスクールへの憧れなんて、これっぽっちも無かった。彼らは完全に拒絶していた。そういう文化を持っていなかったんだ。
 
スキンヘッドは、ゲイ・コミュニティにも取り入れられていましたが、なぜそのようになったと思っていますか?
 
うーん、学問的に理論化することは出来ないけれど、ゲイ・カルチャーやレザーを着た男たち…例えばバンドならVILLAGE PEOPLEとかを見れば、ゲイが超男性的な人間というアイデンティティを目指していることがいくらか分かると思う。70年代には、ゲイタウンで有名なサンフランシスコのカストロ地区に憧れる「カストロ・クローン」がたくさんいた。彼らは口髭を生やし、レザーキャップを被り、白のTシャツと黒のレザージャケット、そして黒のレザーパンツとブーツを纏ったゲイだった。しかしイギリスの若いゲイたちは、カストロ・クローンを真似ていなかった。どちらかと言うと、BRONSKI BEATを聞いて、ゲイだったヴォーカルのジミー・ソマービルみたいなスキンヘッドにして、ただ単にお洒落をしていたんだよね。
 
本当におかしいよね。だって、スキンズは迫害者のユニフォームを着て、ある意味弱い者いじめをしていた。ゲイたちももちろん彼らを恐れていた。でもその二年後には、キングス・クロスには、何百という数の頭を剃ったゲイがいたんだから。
 
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なるほど。
 
更にレイシストで、ブリティッシュ・ムーブメントのリーダーだった悪名高いスキンヘッドのニッキー・クレインは、ゲイとして現れた。だからゲイ・スキンズの中には、実際に右翼である人もいた。すごく奇妙だったよ。
 
ゲイを公言していなくても、よく観察すればすぐに「コイツはゲイだ」って分かるスキンズもいた。すごく洒落ていてね、スキンズ集団の中でもかなり特徴があったね。彼らはそれを「ワーキング・クラス・ダンディズム」と呼んでいた。ゲイ・スキンズの同人誌では、そんなファッションも取り上げていた。以前は、そんなことに関して興味はなかったハズなのにね。
 
『Skinhead : An Archive』発行のいきさつを教えてください。
 
1976年から1980年頃にかけて、3,750ものパンクやスキンヘッドのエフェメラを集めた。それをまとめることになったんだけど、すべてをチェックするのに一年半もかかったよ。これはおそらく初めて世に出たスキンヘッド・カルチャーの体現書だと思う。だから一切妥協したくなかった。レイシストとか反レイシストとか、国際情勢とか、それにまつわる女の子とか…きちんと取り上げたかったんだ。
 
最終的に客観的で中立的な立場で、この文化を伝えることが出来たと思っているよ。有害と思われるかもしれないし、同調されるかもしれない。でも攻撃的な本だとは思っていない。単にこの文化を紹介することだけを考えて作ったのだから。ニック・ナイトを始め、スキンヘッドに関する写真集はたくさんある。でもこの本は写真集ではなくて、スキンズのエフェメラだから、そう、スキンズ自身が作った本なんだ。
 
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