
「尾山北原塚古墳」は、世田谷区尾山台2丁目にかつて所在した古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号137番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳は多摩川下流域左岸の武蔵野台地上に分布する「野毛古墳群」を構成する古墳の中の1基です。支谷を挟んだ東側の舌状台地上には「八幡塚古墳」や「天慶塚古墳」といった帆立貝式前方後円墳が、また西側の舌状台地上にもやはり帆立貝式前方後円墳であることが考えられている「狐塚古墳」が所在しています。
1930年代には、当時大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されています。当時の記録によるとこの尾山北原塚古墳は「西岡13号墳」の名称で次のように紹介されています。
第十三號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡玉川村大字尾山
新地名 東京市世田谷區玉川尾山町坂田岩雄氏所有地
(型式)圓型墳
(現況其の他)崩壊甚だしかりし為、現在高さ約二米ばかり其の中心部分が残存し上部に相當立派な稲荷祠がある。未發掘?のものである。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』312ページ)
調査当時まだ残存していたというこの古墳はその後、玉川全円耕地整理により完全に削平されて正確な墳丘の位置や規模もわからなくなっていました。しかしその後、平成8年(1996)に行われた個人住宅建設に伴う発掘調査により周溝が確認されています。
古墳は墳丘径約21m、幅約4.5mの周溝を含めた規模は径約29mで、ほぼ1m間隔で埴輪が立てられていたと考えられています。埋葬施設はすでに消滅していたようですが、出土した埴輪から6世紀前半の築造と推定されています。
画像の道路を登りきった左側あたりがこの古墳の跡地ですが、野毛大塚古墳、天慶塚古墳、八幡塚古墳、御岳山古墳、狐塚古墳といった舌状台地上に並ぶ首長墓と同様に、尾山北原塚古墳も台地の一番高いところに造られているのがわかります。
西岡秀雄氏による調査の際に確認されていた「相当立派な稲荷祠」が気になっていたのですが、この周辺を散策した際にはすっかり忘れてしまっていました。それほど大きなお稲荷さんは見かけなかったように思うのですが、どこかに残されているのでしょうか。。。
<参考文献>
西岡秀雄『『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
世田谷区教育委員会『1996年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
- 2015/04/14(火) 23:51:25|
- 野毛古墳群
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「八幡塚古墳」は、世田谷区尾山台2丁目に所在する古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号138番の古墳として登録されています。
この古墳は多摩川下流域左岸の武蔵野台地上に分布する「野毛古墳群」の中では比較的大形の古墳です。支谷を隔てて東には「天慶塚古墳」や「西岡16号墳」「西岡17号墳」があり、さらに東側には「田園調布古墳群」が続いています。また西には「狐塚古墳」、「御岳山古墳」が所在しています。
古くは、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「大塚 字堂の上ニアリ。事跡ツマビラカナラズ。」と記載されており、この古墳が江戸時代にはすでに知られた存在であった事がわかります。
また、その後の大正14年(1925)前後には畑の開墾中に遺物が出土しており、昭和26年(1951)に出土品が紹介されています。また、1930年代には当時大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されており、「西岡14号墳」の名称で紹介されています。さらに昭和46年(1971)には早稲田大学文学部考古学資料室によって墳丘の測量が行われ、この当時は墳丘径30m、高さ5mの円墳であると考えられていました。
画像は、八幡塚古墳が所在する「宇佐神社」の境内を南西から見たところです。画像右側の丘の上に古墳が残されています。

その後の平成7年(1995)2月、この八幡塚古墳において直刀が露出しているとの通報が世田谷区郷土資料館にもたらされたそうです。これにより、区埋蔵文化財係が現地を確認したところ、露出どころか墳丘上に直刀がぽんと置かれているような状態で発見されたそうで、これには担当者もビックリしたそうです。
古墳は、この年の4月から5月にかけて確認調査が行われており、この古墳を復元すると、墳丘長約33m、後円部直径約30m、高さ約4mで、幅約7.5m、高さ約1mの造出部を持つ造出付円墳と考えられています。埋葬施設は、北主体部が箱形木棺の直葬で、南主体部は組合せ式の箱形石棺で、中央の主体部は未確認ながらも粘土槨であると推定されています。埴輪や葺石については現在、存在していたか否かは断定されていないようです。
画像が、八幡塚古墳を南から見たところです。墳丘には石段が設けられており、墳頂部に登ることが出来ます。

墳頂部から見下ろしてみたところです。こうしてみると意外に高さがあるのにびっくりしますね。

墳頂部のようすです。玉垣が造られており、内部には元々祀られていた神明社の両側に天慶塚から移設された天慶の祠、狐塚古墳から移設された稲荷社、御岳山古墳から移設された御岳社がそれぞれ祀られています。
画像の左側あたりには、埋葬施設の石材と思われる石が見えます。

墳頂部に祀られている祠は、右から稲荷社、神明社、御嶽神社、天慶社が並んで立てられています。古墳から古墳へ渡り歩いた神様がこれだけ並んでいるというのはなかなか珍しい光景ですね。
敷地内は基本的に立ち入り禁止となっていて無断で入ることは出来ません。年に一度行われている野毛古墳祭りの「古墳群探索」でも敷地内にまでは立ち入らずに敷地の外からの見学になるようです。見学する際には神社の許可が必要です。
当日は、神社に方に色々説明までしていただき、楽しい時間でした。ありがとうございました。。。
<参考文献>
西岡秀雄『『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
下山照夫『史料に見る江戸時代の世田谷』
世田谷区教育委員会『2001年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
世田谷区教育委員会『八幡塚古墳』
宇佐神社社務所『宇佐神社御由緒』
- 2015/04/11(土) 22:42:20|
- 野毛古墳群
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「天慶塚古墳」は、世田谷区尾山台1丁目に所在する古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号139番の古墳として登録されています。
この古墳は多摩川下流域左岸の武蔵野台地上に分布する「野毛古墳群」の中で、最も東側に位置しています。支谷を挟んだ西側の舌状台地上には「八幡塚古墳」や「狐塚古墳」、「御岳山古墳」といった首長墓が続いており、また東側には「田園調布古墳群」が続いています。
明治35年(1902)には石棺が掘り出されており、勾玉、直刀、鉄鏃等、多くの遺物とともに人骨が出土しています。この出土品のうち、直刀は現在の宇佐神社へ奉納され、6点の石製模造品は京都大学文学部の博物館所蔵となっていますが、その他の出土品は散逸して所在不明となっているそうです。
その後、1930年代には当時大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されており、「西岡15号墳」の名称で次のように紹介されています。
第十五號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡玉川村大字尾山
新地名 東京市世田谷區玉川尾山町三五藤沼氏邸宅裏
(型式)圓型墳
(現況其の他)封土の周囲は多少崩壊してゐるが、圓型墳としての外観を留めてゐる。今より約三十年前に村民がこれを發掘したところ石棺があり、内部に人骨•直刀•勾玉等を發見したが祟りを恐れてまた其の儘棺に納め元の如くなし、墳上に石祠を建て生垣を設けた(現存す)といふ。高さ約二米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』313ページ)
1930年代の調査当時まだ残存していたというこの古墳は玉川全円耕地整理により削平され、その後この周辺は住宅地となり、古墳は存否すら確認できないままとなっていましたが、平成13年(2001)に行われた発掘調査により周溝が確認されています。
古墳の墳丘径は約46m、高さは3.3m以上の規模をもち、幅8.5m以上の周溝が巡っています。墳丘規模から考えると、御岳山古墳を凌ぎ、野毛大塚古墳に次ぐ第2の規模を有しているそうです。墳丘には円筒埴輪列が廻らされているものの、葺石は存在しないようです。墳形はこれまでは円墳とされていましたが、現在は帆立貝形前方後円墳か造出付円墳ではないかと推定されており、5世紀第1四半期項半から第2四半期の築造と考えられているようです。
この古墳の調査結果により、野毛古墳群における首長墓は野毛大塚古墳→天慶塚古墳→八幡塚古墳→御岳山古墳→狐塚古墳の順に築造されたと考えられています。
画像の道路の一番高くなった地点の左側あたりが古墳の所在地になるのですが、周辺は既に宅地化されており、古墳を見ることはできません。個人邸宅内の庭となって墳丘の一部が残されているそうですので、いつの日か埋葬施設が再発見される日がくるかもしれませんね。。。

画像は、現在の「八幡塚古墳」の墳丘上に天慶塚から移設されたという天慶の祠です。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
世田谷区教育委員会『2001年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』
- 2015/04/09(木) 01:02:32|
- 野毛古墳群
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「西岡16号墳」と「西岡17号墳」は、どちらも世田谷区尾山台1丁目に所在する古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号140番と141番の古墳として登録されています。
この2基の古墳は、1930年代に当時大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されており、次のように紹介されています。
第十六號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡玉川村大字尾山
新地名 東京市世田谷區玉川尾山町二九樋渡氏邸宅横
(型式)圓型墳
(現況其の他)封土の約半分を道路開墾開拓、昔多少の採掘があつたらしく、土地の人で刀身片を採集した者がある。高さ約三•五米。
第十七號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡玉川村大字尾山
新地名 東京市世田谷區玉川尾山町二九樋渡氏邸宅裏原田良蔵氏所有地
(型式)圓型墳
(現況其の他)墳上稍々平坦となり、昔多少の採掘があつたらしく、土地の人で刀身片を採集した者がある。高さ約三•五米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』313ページ)
1930年代の調査当時まだ残存していたというこの古墳は玉川全円耕地整理により削平され、その後周辺が住宅地となったことで、古墳は存否は不明となっていましたが、昭和58年に東京都教育委員会によリ行われた東京都心部遺跡分布調査により把握されています。
(1985)に発行された『都心部の遺跡』には次のように書かれています。
128 西岡16号墳
世田谷区 140 世田谷区尾山台1-11付近
①台地上
②宅地
③湮滅
④円墳(径4m)
⑥須恵器
129 西岡17号墳
世田谷区 141 世田谷区尾山台1-11
①台地上
②宅地
③湮滅
④円墳(径25m)
⑥直刀
(①占地状況 ②現況 ③遺存状況 ④墳形 ⑤主体部 ⑥副葬品 )
『都心部の遺跡』や『東京都遺跡地図』、その他の埋蔵文化財の調査報告書に掲載されている遺跡地図を参考にすると、画像の手前あたりに「17号墳」、その奥に「16号墳」が存在していたと思われます。個人の宅地にあたるため敷地内に入ることは出来ませんが、遠方から観察したところでは古墳はどちらも削平されて消滅しているように思います。
多摩川下流域左岸の武蔵野台地上に分布する「野毛古墳群」は、支谷を挟んだ舌状台地上に「八幡塚古墳」や「狐塚古墳」、「御岳山古墳」といった首長墓が続いています。この2基の古墳が所在する台地上にも、一番高い場所に比較的大型の帆立貝形前方後円墳である「天慶塚古墳」があり、これより低い位置に小形の円墳と思われる16号墳と17号墳があるようで、この分布の状況は多くの古墳群に見られるようです。野毛古墳群周辺は建物で埋め尽くされていて元の地形がわかりにくくなっていますが、実際に歩いてみるとこれが実感できてなかなか面白いですね。ただし、野毛大塚古墳から天慶塚古墳までを直線的に歩くと、それぞれに突き出た舌状台地を何度も登ったり降りたり繰り返さなければなりませんので、運動不足の私には心臓が止まりそうになります。。。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/04/08(水) 02:47:23|
- 野毛古墳群
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画像は、狛江市元和泉1丁目にある「亀塚古墳」を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には狛江市の41番の古墳として登録されています。
昭和35年(1960)、明治大学考古学研究室により初めて本格的に狛江市内の古墳についての分布調査が実施されています。当時、地元研究者が確認していた137基分の古墳リストに基づき調査を行った結果、昭和35年の段階で残存している古墳は、この亀塚古墳を除き16基、何らかの状態で墳丘の一部でも痕跡として残っている古墳は15基で、合計でも31基という状況でした。
その後、16年後の昭和51年には再度、詳細な分布調査が実施されたそうですが、この16年間で14基の墳丘が消滅してしまい、残存する古墳はわずか17基となっていたそうです。また、既に消滅してしまったものについても検証を行い、古墳だった可能性の高いものは13基。つまり、合計49基が現状で確認出来る古墳とされたそうです。
亀塚古墳は、昭和26年(1961)に宅地開発により破壊が始まったのを機に本格的な緊急発掘調査が実施されました。埋葬施設は後円部から木炭槨が2基、前方部から石棺が1基、発見されています。また、白銅製の尚方作神人歌舞画像鏡をはじめとする多くの遺物も発掘され、周溝覆土からは円筒埴輪、また前方部からは人物埴輪、馬形埴輪などが出土するなど、多大な成果を挙げたそうです。

画像は、昭和26年(1961)の往時の亀塚古墳です。この古墳が属する「狛江古墳群」は、狛江市南部を中心に分布する南武蔵でも屈指の古墳群として知られています。この狛江古墳群は、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』などに塚の存在が記載されるなど江戸時代からその存在が知られ、かつては「狛江百塚」と呼ばれていました。
この亀塚古墳について、次のような記述が見られます。
亀塚 村内小名田中というところの畠の中にあり。大さ凡そ一反歩程。塚上に雑木生茂せり。高さ二丈余。四足、頭尾とおぼしくて、山足あるゆえに、往昔より亀塚と号す。中古以来畠中ゆえ、耕作の時々切り崩して、いまはその山足なく、丸き大塚となれり。上古いかなる人の古墳なるか、更にその謂れも不知。定めて高貴の人の墳なるべし。(武蔵名勝図会)
[塚] 亀塚 小名田中ニアリ。其地一段許高サ二丈余、コノアタリノ大塚ナリ。塚上ニ雑木オヒ茂リ首尾手足ノサマモアリテ、亀ノ形ニ似タリシタハカク号セシヨ。サレトココハ畑中ニテ土民等トシドシニ掘崩シタレハ、今ハソノサマモ見エス。(新編武蔵風土記稿)
(『史料に見る江戸時代の世田谷』353〜354ページ)

この古墳は当時、保存運動の機運も高まっていたそうですが、残念ながら昭和34年には結局破壊され、現在残存する前方部とされる部分は、残土を盛って復元されたものなのだそうです。
この前方部には「狛江亀塚」の碑が立てられています。

「亀塚古墳」は最大長41m、後円部径34m、高さ7mの帆立貝形前方後円墳で、墳丘を取り囲んだ幅9mの周溝があり、北側に陸橋が存在します。狛江古墳群のなかでも唯一の前方後円墳です。
残念ながら墳丘は消滅しましたが、当時の後円部の周囲を取り巻くように道路が弧を描いており、古墳の痕跡を見ることができます。

残された古墳の前方部はいつでも見学することができますが、宅地に囲まれて非常にわかりにくい場所にあるので、気をつけていないと通り過ぎてしまいそうです。周辺には案内板が設置されています。矢印に沿って細い路地を進むと、突き当たりの石段のところが亀塚古墳です。

<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
下山照夫『史料に見る江戸時代の世田谷』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市教育委員会『猪方小川塚古墳と狛江古墳群』
現地説明版
- 2015/04/07(火) 01:51:19|
- 狛江古墳群-猪方支群
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