欲望の媒介物としての広告
広告デザインと言うと生活者の欲望を喚起するための外観を作り出す事に注力しがちだったのだけど、欲望の媒介物としての役割も追求すべきだと感じている。「◯◯したい」という感覚をいかに素早く刈り取って「でも、面倒だからいいか」という状態を削減する方向性である。Amazon Dash Button はひとつの解であろう。
もっと言えば「◯◯したい」と心の中で明示化する前段階で刈り取りたい。コーヒーメーカーのコーヒー粉残量もそうだし、スマートウォッチによる移動距離や布デバイスによる発汗量を見てもよい。
これまでの広告デザインは「欲しいと思わせる」までに留まっている事が多かったのだけど、その段階では無慈悲な比較対象に晒されるだけだ。価格比較サイトで常時ソートされる状態から脱しないと適切な利益も確保できない。欲望をなめらかに伝えて適切なリアクションするための「媒介物」を整えるかというのが広告デザインに求められた責務なのだろうと思う。
「広告」という言葉への違和感
それらも広告といえば広告なのだけど、「広く告げる」というのは、どうにもイメージが異なる。インターネット広告では個体認識が当たり前で、同じ広告を何度も見せるリターゲティング広告や、これまでの嗜好にあったレコメンド広告を配信するための仕組みが整えられていることが知られている。
欲望の媒介物としての役割を追求していくと、生活者の生体情報やIoT家電の使用履歴の蓄積などから個別具体的なチューニングが行われる仕組みを作っていく必要があって、「広く浅く告げる」のではなく、「狭く深く告げる」ようにしていくものを「広告」と呼ぶことに少し違和感がある。