オリエント歴史回廊(遷都):(ウバイド・シュメル)
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和上・和尚

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 ≪和上・和尚
 ≪和上・和尚

 用明天皇から孝徳天皇までの系譜は全て男王にされているが、

 これも「倭=女性仏教徒」を意味する国名に合わないから、

 男王・天武天皇による虚偽が混じっていると見抜けるが、

 『日本書紀』は一応、

 真実の支配者だった

 推古天皇から斉明天皇までの女王も挟んでいるので、

 真相は、倭国は卑弥呼の伝統に忠実な仏教国だった、

 と結論できる。

 また推古天皇と聖徳太子との関係が、

 卑弥呼と男弟の関係に完全に一致していることや、

 聖徳太子が法隆寺や四天王寺の創建者として記録に残っていること、

 彼が少年時代に仏教擁護戦争を戦った

 対物部(モノノベ)戦争が大きく

 『日本書紀』に掲載されていること等は周知の事実だが、

 さらに、それらが全て卑弥呼時代からの

 不変の国家宗教だったことを立証する名詞がある。

 大神(オオカン)=大和(オオカン)=倭神(オオカン)=倭上(オオカン)
 と並べてみると、

 最後の当て字は「ワジョウ」という発音もある。

 この発音に合う称号は、

 754年に来朝して唐招掟寺を創建した

 唐僧・鑑真(ガンジン)和上のワジョウで、

 これはオショウと発音する和尚と同じものである。

 それは本来はインドの梵語の

 Upadhyaya =ウパードヤーヤに当たるもので、

 和上・和尚という漢字は発音に対する

 当て字ではないことがわかると思う。

 ところが上記の我が国の倭上は、

 和上・和尚と発音・意味ともに完全に一致するから、

 その称号は倭国で生まれたものだと、

 容易に確認できるのである。

 ※出典:加治木義博「大学講義録15:14頁」
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魚(ウオ)

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 ≪魚(ウオ)
 ≪魚(ウオ)

 姓と同じ魚名をつけた人たちが、

 「大きさ」に関心ががあったことがわかるといったが、

 それは<魚>を<個体の大きさ>順に配列してみると、

 最大の個体をもつ<クジラ>が<百済>の名と共通点がいちばん多く、

 大魚のひとつ<シーラ>と<新羅>も共進しているなどの事実から、

 この二つは<百済>が超大国だった時代に、

 国名をもとにして魚の名がつけられたものとみると、

 <国の大小>が<魚の大小>に反映していて、

 <魚の命名>に一定のシステムがあったことがみえてくる。

 しかし、<百済>・<新羅>があるのに、

 もう一つの大国「高句麗」がないじゃないか…

 と疑問が残る。

 実はそれもちゃんとあるのだが、

 これは国名が当時の正しい発音では

 「コークリ」ではなかったし、

 当時の魚名の命名原則を

 前もってお話ししないと理解できない。

 これらの名はみな日本人がつけた名だから、

 <高句麗>を「高麗」と呼んでいた。

 『日本書紀』にはすべて

 『高麗』と書いてあって

 一度も<高句麗>とは書いてないのである。

 では<高麗>と書いて、なんと発音していたのか?。
 
 『日本書紀』には発音符号も説明も書いてないので、

 漢字だけでは発音は不明で、

 これまでは<コマ>とか<コウライ>とか、

 人によってまちまちだった。

 ところがこの魚名でその謎が解けた。

 日本の魚名の特徴は頭に

 「マ」をつけて呼ぶものが多いことだ。

 「マダイ=タイ」

 「マアジ=アジ」

 「マダラ=タラ」

 「マゴチ=コチ」

 「マハゼ=ハゼ」

 「マボラ=ボラ」

 「マイワシ=イワシ」

 「マギス=キス」

 「マダコ=タコ」など。

 だとすると、

 この<高句麗>と同じ名の魚は

 「マグロ」だったのである。

 この「マダイ=タイ」

 「マダラ=タラ」

 「マゴチ=コチ」

 「マギス=キス」

 「マダコ=タコ」を

 みると、

 <マ>がついたものは全て<マ>に続く発音が濁る。
 
 <タ>は<ダ>になり、

 <コ>は<ゴ>になり、

 <キ>は<ギ>になっている。

 「マグロ」も本来は「クロ」だったことがわかる。

 それが<高句麗>と同じ名だという理由は、

 <マグロ>は本当に<マックロな黒い肌>をしている

 「黒魚」であり、

 「高麗」は沖縄語では

 「クライ=暗い、クル=黒」という発音への当て字、

 鹿児島語でも「クレ=暗い、黒い」と読める

 「黒の国」への当て字だったからである。

 <卑弥呼時代>の前後には、

 九州と朝鮮半島とをいっしょにした連邦があって、

 その<東西南北>の位置にある国を

 「青白赤黒」の『四神(しじん)』の色の名で呼んでいた。

 中心は<黄色>だったから、

 この<五色の連邦>を私は<五彩圏連邦>と名づけている。

 <新羅>の古い時代の名は

 「斯盧」と記録されているから「シロ」だったし、

 東の大隈にあった「倭」は、

 南中国語で「ウォー」で、

 <青>の方言「オオ」に当たり、

 鹿児島県本土の<南>は海で、

 水に覆われていたから、

 当時の言葉で「水」を意味する「アカ」と呼ばれていた。

 残る北端の国・<高麗>が「クロ」と

 呼ばれていたことがこれで確実に証明される。

 も少しつけ足すと北の<四神>は「玄武」だが、

 この<玄>も<クロ>と発音するし、意味も黒なのだ。

 <高句麗>の<高>の字は、

 南九州方言では「タケ」と発音するから、

 「武」の字もこの「タケ」に当てた当て字だったのである。

 以前は<四神>は中国から日本に入ったものとされていたが、

 こうした発音を考えると、

 この<四神=五彩圏>は日本の文化で、

 中国へはこちらから輸出したものだとはっきりわかる。

 <高句麗>はどこからみても「クロ国」だったのである。

 だがこれでもまだ疑問が残る。

 それは朝鮮半島の国々の魚名は揃ったが、

 かんじんの<倭国>はどうなったのか?…

 ということである。

 実はこれもまた<マグロ>が解いてくれる。

 <マグロ>は<出世魚>と呼ばれて、

 成長につれて<呼び名>が変わる。

 その<呼び名>も地方で変わるから東京の名を例にとると、

 体長40cm重さ4kgていどのものは「コメジ」、

 80cm、8kgぐらいのものは「メジ」、

 120cm、20kgほどなら「マグロ」、

 280cm、200kg以上のものは「オオマグロ」と、

 区別して呼ぶ。

 最大のものに「オオ」をつけるのは、

 <マグロ>に限らないが、

 この「オオ」が、

 四神の「青」に当たるのだから、

 <マグロ>の場合はこれは奇妙なことになる。

 <黒は北の国>の意味で、

 <高句麗>を指していたのに、

 それに<東>を指す<青>が加わると、

 「東の国・高句麗」ということになるから、

 この場合の「オオ」は青ではなくて

 「大きい」という意味に限定された使い方とみるしかない。 

 このことで「オオ」は

 「青」と「大」の二つを意味する

 言葉であることが確認できたから、

 <マグロ>の名は、

 <クロ>が<高句麗>を意味していた時代には「クロ」で、

 後に別種が現われたので<マ>を加えて「マグロ」とし、

 <オオ>が<青の国>を意味せず、

 <大きい>という意味しかなくなった時代に、

 さらに「オオマグロ」という名がつけられたもめだったと、

 名の歴史が詳細にわかる。

 またこの結論から、「青の国」が大国だったからこそ、

 「オオ」が「大」を意味する

 日本語として定着したこともわかる。

 その東の青の国は「倭国」だったのだから、

 <倭国>は<新羅>や<高麗>よりも大きく、

 <クジラ>で表現される<百済>よりも大きかった。

 そのため<倭国>を意味する「オオ」は

 「大」の意味だけに使われて、

 <魚>の名前には転用されなかったのだとみると、

 「倭」の南中国音「ゥオー」も、

 またその日本訛りの「オオ」も、

 北中国音の「ウワイ」にも、

 その国名と共通する<魚>の名は、

 なくて当然だったこともわかる。

 そして<魚>そのものが「ウオ」と呼ばれているから、

 語源は、

 ほとんど同じ発音の南中国語=「倭=ゥオー」だったとみると、

 <魚>の「ウオ」という発音こそ「倭」だったのだと理解できる。

 厳密に考えれば、

 <ゥオー>と<ウオ>は発音が違うが、

 発音は地域によってかなり変わる。

 外国語の発音やイントネーションを、

 そっくりに使えたと考えるほうがおかしい。

 鹿児島語なら長い発音や強いアクセントも、

 すべて短い発音に変えてしまうから、

 「ショウチュウ」は「ソツ」、

 「石灯籠=イシドウロウ」も「イヅロ」と

 大きく変わってしまう。

 <卑弥呼>のいた倭の首都大隅では、

 「ゥオー」は必然的に短く明瞭な

 「ウオ」に変化したはずである。


 <倭>は『魏志倭人章』に七万戸の大屋に

 老若男女が同居していたとある<邪馬壹国>の前身だから、

 三千戸の<高句麗>とは比較にならない大国だった。

 卑弥呼当時は南九州の東を占め、

 <青の国>であると同時に連邦そのものを支配し

 代表する大国だったし、

 政変による移動後も<倭国>という国名が

 当時の日本を代表する政権だったことは、

 『魏書倭人章』から『新唐書』に至る

 中国の記録でも明らかである。

 間違いなく<倭人五彩圏連邦>の<宗主国>だったから、

 その国名は個々の魚の名としてではなく、

 当時水棲動物全体を意味した「魚」の総括名として、

 「ウオ=倭」が使われたのは、

 ごく当然で自然なことだったのである。

 ※出典:加治木義博「大学講義録9:4~8頁」
祭(マツリ)

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 ≪祭(マツリ)
 ≪祭(マツリ)
 
 ウィキペディア百科事典によれば

 「祭(まつり、祭り)とは、

  神霊などを祀る(奉納参照)儀式。

  祭礼、祭祀(さいし)とも呼ばれる。

  あるいは、本来の祭から派生した、

  催事(催し、イベント)、フェスティバルのこと。」

 と書かれている。

 出典:Wikipedia: 
    
 日本の古代政治が「祭政一致」だったことは、

 間違いのない事実である。

 その最古の記録が

 『魏書東夷傳倭人章』に残された、

 卑弥呼の「鬼道による政治」の記事なのだ。

 ではその「祭=サイ」という漢字を、

 日本ではなぜ?

 「マツリ」と読むのか?…

 おわかりだろうか?……。

 それを調べる最初のヒントは、

 お祭りというと必ず「付き物」の「屋台店=露店」である。

 その露天を出す露店商の人々を彼等は仲間言葉で

 「タカマチ屋」と呼び、

 祭りそのものを「タカマチ」と呼ぶ。

 こうした祭りの原型は、全国に3万以上ある「八幡社」にある。

 その最初のものが鹿児島県隼人町にある

 鹿児島神宮=正八幡=大隈一の宮だから、

 このタカマチは鹿児島語である。

 すると「タカ」は高で

 「タカラ=宝・高良・高麗」などの地名・国名を残した

 「高族」のことであり、

 「マチ」は鹿児島語の「マチ=祭り」であることが理解できる。

 ではなぜ鹿児島ではマチと言って、

 「マツリ」と言わないか?…。

 それは鹿児島語では

 「ラ行」のL・Rを発音せず、母音だけを発音する。

 だからマツリは「マッイ」「マチ」に変わったようにみえる。

 だが本当はマチが語源で「マツリ」が方言なのである。
 
 卑弥呼らも祭りを「タカマチ」といったか?…。

 卑弥呼の国は「倭=ウワイ国」であって、

 「タカ=高国」は「コマ」であり、

 その発生地の沖縄語では「クマ」である。

 これに当て字すると高麗であり熊で今の熊毛郡に当たる。

 そこは卑弥呼時代には「狗奴国」だから、

 卑弥呼と戦った敵だ。

 卑弥呼らは自分らの祭りを

 「タカ」とは絶対に呼ばない。

 では何と呼んでいたか?…。

 ここでマレー語の知識が必要になる。

 マレー語にも「マチ」という言葉がある。

 それは「ある」だけでなく、

 もっと重大なことを私たちに教えてくれる。

 何を教えてくれるのか?…。

 マレー語辞典をお引きになればすぐおわかりになるが、

 そのマチという語は

 「死・死者・昇天・消滅…」などを意味する言葉なのである。

 『魏書東夷傳倭人章』の記事原文を書いた魏の帯方郡使は、

 卑弥呼の仕事が「鬼道」だと書いていた。

 中国語では「鬼」とは「死者」のことであって、

 桃太郎のおとぎ本に描かれているような怪物ではない。

 だから「鬼道」とは

 「死者を祭る道=方法」という意味であって、

 「人の死」を主題にした宗教兼政治が、

 卑弥呼の職能だという報告なのである。

 それを倭の人々は「マチ」と呼んでいた。

 「祭」も「政治」もどららも「祭事」だったのである。

 今も政治を「マツリゴト」という語源は、

 卑弥呼にあったということになる。

 ※出典:加治木義博「大学講義録4:2・3・4頁」
 
丹(ニ)

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 ≪丹(ニ)
 ≪丹(ニ)

 日本の古語では「赤」のことを「ニ」ともいった。

 「アオニ(青丹)よし、奈良の都は…」の歌は、

 「青く赤く彩られた都」という意味だとされてきたが、

 私が『虚構の大化改新』で説明したように、

 正確には

 「青=倭、丹=天武天皇系のヤマトの都」という意味である。

 この中国で「タン」と発音する「丹」を

 「ニ」と発音するのはなぜであろうか?…。

 「丹=タン」は種子ガ島の「タネ」に対する当て字にもなるが、

 その「タネ」は、

 その王が「狭穂彦・狭穂姫」という名乗りをもっていることと、

 その島の形の特徴が「狭くて細長い」ことで、

 アイヌ語の「タンネ=狭い・細長い」とよく一致している。

 ところが視点を変えてみると、

 丹の字は中国で「赤土」を意味しているから、

 「南=赤の国」の意味で「丹ガ島」と命名したものとみると、

 兵庫県相生市の南にある「男鹿島=タンガ島」と

 まったく同じ発音、同じ意味になる。

 このことは種子ガ島の名の形から

 「南の島=赤の島=丹ガ島」であって、

 アイヌ語のほうが後で、

 種子ガ島の名と形から「タンネ=狭い・細長い」という

 形容詞が生まれたものということになる。

 いま山陰地方に丹波、丹後、但馬という

 種子ガ島人の移住地名があるが、

 丹波氏から分かれた人々が波を羽に変え、

 聞き分けられるように発音を変えたものが「丹羽氏」である。

 ※出典:加治木義博「大学講義録4:13頁」 
阿蘇山

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 ≪阿蘇山
 ≪阿蘇山

 アスカの語源がアショカ王の名から来ていることは、

 飛鳥寺がアショカ王寺を意味していることですぐわかる。

 ではなぜ「アショカ」が「アスカ」になっているのであろうか?

 お釋迦(しゃか)様の発音は、

 標準語だと「おシヤカさま」だが、

 天智天皇の出身地・鹿児島県では、

 「シャ・シュ・ショ」という発音は、

 今は学校で教わるから別だが、

 本来の言葉にはなかった。

 だから純粋な鹿児島語では「おサカさあ」と発音する。

 アショカ王の場合も「ショ」という発音はないから「ソ」になる。

 醤油は「ソユ」、

 焼酎は「ソツ」、

 アショカは「アソカ」になる。

 鹿児島県には非常に古い家系として知られる姓が

 今も残っているが、

 その一つに「阿蘇谷」がある「アソガヤ」と読む。

 これは一見、

 阿蘇山の谷を意味しているように見えるが、

 その山名のほうが後世のものなのである。

 語尾の「谷(たに)」は「ヤ」という国を意味する代名詞で、

 「アソカ国」に対する当て字なのだ。

 これと同じものには

 アショカ王の国・マガダ国への当て字「曲田」姓がある。

 この地域には他にも同じような

 超古代からの姓や地名が大量にあるので、

 その発生年代を緻密に分析してみると、

 古代鹿児島がアショカ仏教国だったことと、

 その史実が立体的に立証されるのである。

 それこそ卑弥呼が主役を演じたあの

 「鬼道」であり「邪馬臺(だい)」そのもので、

 これまで本シリーズでお話ししてきた

 史実復元の骨組になったのだから、

 「姓という言語文化財」が、

 どんなに大切なものだったか、

 よくおわかりいただけたと信じる。

 この阿蘇谷は、

 その時代には「アソカ国」と呼ばれていた国が

 実在したことを記録しているのである。

 当時、

 ヒミコは南九州から朝鮮半島までを支配した

 五彩圏連邦の女王だった。

 その首都圏であった

 九州(黄大州(キウシュウ))の中心にそびえる山が、

 仏教徒国民のシンボルとして、

 「アソカザン」と呼ばれたのは当然のことである。

 これには今も使われている

 「阿蘇火山」という当て字の発音は、

 一字一音の誤差もなく、

 完全にぴったりしている。

 だがその「火山」をわざわざ取り去ってしまって、

 阿蘇だけにしてしまった者がいる。

 そのために本当の意味は消されてしまって、

 なにがなんだかわからなくなってしまったのである。

 そのアソカ国は、当然、仏教国で、

 その先頭は東の国「倭国」だった。

 倭国はヒミコの死と邪馬壹国の誕生で、

 連邦の主導権は失ったが、

 その後も連邦全体の名として、

 海外では有名な国名として生き続けていた。

 連邦は『隋書』が書く

 「俀(だい)国」の時代には四国に中心があったが、

 その阿蘇のことは国家のシンボルとして忘れず、

 隋使の斐清(はいせい)にも「阿蘇火山」として語られた。

 しかし通訳がまずくて、真意が伝わらず、

 単なる「火山」としてしか記録に残らなかった。

 だがそれで十分、連邦国民にとって、

 阿蘇山が重大な存在だったことはわかる。

 アソカの名はその後間違いなく奈良に入った。

 それはいつだったかここでは不明だが、

 それが『日本書紀』の書く「蘇我」であることは疑いない。

 蘇我の本当の意味は

 「阿蘇谷(アソガヤ)」であり、

 それから国を意味する谷をとった

 「阿蘇我」だったのだが、

 勝者日本国政府の『日本書紀』編集者が、敬称でもある

 「阿」は敗者には不要だと、

 軽蔑をこめて「阿」を取り去ったので、

 「蘇我」になったとみるのが妥当である。

 ただしそのアソカは、

 さらに天武天皇の革命でもう一度発音が変わった。

 天武天皇は沖縄語人だったから、

 母音のオをもつ「ソ」の発音がないので、

 それは「ス」になる。

 こうしてアソカは「アスカ」を生みだした。

 これがアスカという発音の歴史なのである。

 「阿蘇=アショカ山」 

 『日本書紀』では単に「火のつく山」としか書かない。

 真実はヒミコ以来の信仰・仏教のシンボルだった。

 山の名が示すものは、

 後のアスカに至る倭人の根強い仏教信仰なのである。

 ※出典:加治木義博「TAIKA:196~199頁」 
ヤマト朝廷の語源は『八幡徒』

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 ≪ヤマト朝廷の語源は『八幡徒』
 ≪ヤマト朝廷の語源は『八幡徒』

 天武天皇は天智天皇が樹立した日本朝廷を倒して、

 もう一度、実質「倭=ウワイ」の

 ヤマト朝廷をつくったのだから、

 この問題こそ主題・『倭』の総括そのものだからなのである。

 「ヤマト」というのは「ハヤト」と対照になった固有名詞で

 「海幸・山幸」神話に語源があるから

 「ヤマト=山人・ハヤト=海人」であって、

 争いがあったのは古いことで、

 7世紀後半の天智・天武時代には

 それが一体化していたことが天武天皇の名でわかる。

 彼の初めの名は「大海人」だから

 「倭・隼人=上井・隼人」または

 「大隈隼人」の領主ということである。

 彼が間違いなく「隼人」の王だとわかると、

 彼が新たに開いた朝廷がなぜ?

 「ヤマト朝廷」と呼ばれたか、

 その理由が明らかになる。

 隼人町に現在もある鹿児島神宮は、

 江戸時代以前までは全国各地に

 「市=いち」「座=ざ」を設け、

 「歩き巫女」「座頭」「検校=けんぎょう」「神主」に

 その「位=くらい」を授け、全国に派遣して、

 支配、運営していた日本の

 「祭政一致」の大本山だったからである。


 言葉を変えると、

 ヤマト朝廷の権威の源が『八幡信仰』だったのである。

 全国に3万を超える八幡社があり、

 それが会社のような働きをもつ「社」の

 全国組織を形成し、朝廷の名が

 「八幡徒=ヤマト」と呼ばれてきたのだということが、

 はっきりわかる。

 では八幡とはなにか?…。

 それは「八幡大菩薩」の名が示すように

 実体は仏教、概観は神道の日本独特の宗教だが、

 その実体は次のような歴史が産み落した混血児である。

 ① シュメルでは「山」を崇拝する伝統からジグラット=

   巨塔を神体とした。

   この宗教をバビロンの滅亡後、

   日本列島へもちこんだのが「カリエン」人たちで、

   彼等が神と、

   その継承者を

   「シュメル=スメラ」「王=キ」=「スメラギ」と呼び、

   バビロンのアキツゥの祭り(正月)が「秋津島」の語源になって、

   神話の古代国名を生んだのである。

 ② シユメルがスメラになったのは、

   それが日本へくる前にインドに入って

   「ヒマラヤ」を「スメラ山」と呼んだからであるが、

   そこでスメラはさらに多くの方言によって、

   「スベラ」から

   「スバラ=素晴らしいの語源」

   「スバ・スワ・シバ・ジマ・ジャマ・ヤマ」

   などと訛り、

   その主神を「シバ・ヤマ」神とする

   シンドゥ教の一派「シバ派」になった。

 ③ それより前、
 
   バビロンに倒されたシュメル人たちは、

   中国に入って「周」と呼ばれ、

   殷人の帝国・商を倒して天下を取ったが、

   以後、「山」を崇拝する伝統が中国各地の

   名山崇拝となり、

   それを台湾を

   「ホーライ=ギリシャ神話の季節の女神」と呼ぶ

   ギリシャ系中国人・徐福らの

   「方士」が受け継いで「道教」の体系をととのえた。

 ④ これが秦の始皇帝のとき、

   徐福が日本に「ヤマ教」としてもちこんだもので、

   それは本来「オリンパス山」を

   神の住いとするギリシャ宗教につながる山岳宗教だから

   「ヤマ」で、

   種子ガ島・南種子町の「広田海岸遺跡」から発見された

   「貝製装身具」に

   漢字の「山」と、

   ギリシャ文字の「アイ・クマ」とが書かれているのは、

   このためなのである。

 ⑤ この地域には、

   さらに古くから

   インド語や、マレー語を話す人々が定住していたし、

   往来していた。

   それは土器などの共通性と貝製腕輪などの出土品、

   それに今も大量に日本語の中に

   残っているマレー語やパーリ語や

   ヒンドスタニーの単語が証拠であるし、

   『記・紀』の神名や人名もまた動かない

   証拠群をかたちづくっている。


 ⑥ こうしたものが相互に影響し合って次第に融合したものに、

   卑弥呼当時に最大勢力に

   発展し君臨したのがアショカ仏教で、

   その後をこの「八幡教」が継いだことが、

   『魏書倭人章』の卑弥呼・壹與と、

   『記・紀』の[神功皇后紀]から複元できる。

 ⑦ 「ヤマン」に対する当て字が「八幡」で、

   これを「ヤバーナ」と発音したものが、

   中国から西の広いアジア全域で

   「ギリシャ人」を指す固有名詞として使われてきたのである。

 ⑧ しかし「八幡」は『大隈正八幡の縁起』に登場する

   八幡=応神天皇と、

   天皇に位を譲った先代の八幡がいて、

   それが二つの「倭」を生んで、

   日本の建国史を非常に複雑にしているから、

   この『倭』を主役にした講義は、その締括りとして、

   この問題を解明せずに通過することはできない。

   なぜなら『古事記』の[神功皇后記]に

   応神天皇が「イザサ=伊奢狭・和気大神」と

   名前を取り替えたという話しが載っているからである。

  ※出典:加治木義博「大学講義録5:23~26頁」 
女性仏信仰「倭(ウワイ)=優婆夷」

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 ≪女性仏信仰「倭(ウワイ)=優婆夷」
 ≪女性仏信仰「倭(ウワイ)=優婆夷」

 強力な女性仏信仰のために、

 卑弥呼が永年にわたって君臨し、

 統治した倭国(ウワイ)連邦がパーリ語々源で

 『優婆夷』と呼ばれていたから、

 魏の政府もその発音に合わせて

 『倭国』と『倭人(ウワイ)』

 という文字を選ぶしかなかったのである。

 これがこの名詞の謎の動かない答えだ。

 これまでは省略してきたがここまで来たので、

 『優婆夷(ウワイ)』についてさらに詳しくご説明しておこう。

 中国では仏教徒を

 男性信者『優婆塞』と

 女性信者『優婆夷』と当て字しているが、

 これは実は正しくない。

 パーリ語では男性信者は upasaka 

 ウパーサカだから『優婆塞』でいいが、

 女性信者は upasika 

 ウパーシカーだから『優婆夷』ではないのである。

 なぜこんな間違った当て字が使われたのか?。

 それは ubbari 女性というパーリ語があり、

 これは「リ」を「イ」と発音する南九州語でピッタリ

 『優婆夷』に合う。

 古代中国では我が国を

 「黄海姫氏国(キシこく)」と呼んだが、

 それは女性上位の国という意味だから、

 卑弥呼から斉明天皇までの倭国政権と、

 持統天皇から孝謙天皇までの女帝優位時代は、

 まさに『優婆夷』国そのものだった。

 中国の『優婆夷』は観世音菩薩と同様に、

 南九州語が中国へ伝わったものに当て字したものなのだ。

 南九州語では「上に」をウワイと発音するが、

 「上に」はパーリ語で upari 、

 鹿児島でウワイを上井と書くのは、

 これらのパーリ語を使っていた証拠である。

 ※出典:加治木義博「大学講義録22:14頁」
下関=馬韓

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 《参考:年表・資料》

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 ≪下関=馬韓
 ≪下関=馬韓

 卑弥呼当時の朝鮮半島の国「馬韓」。

 この国を「外国だ」と従来のような見方をしていれば、

 何もわからないままで終わってしまうが、

 海をへだてて対岸にあたる九州北部の国は、

 対馬と一大を経由して着く「末盧」で、

 今は「松浦」と書く。

 その発音をよく見ると、

 「マ=馬、ツ=津、ラ=国」で「馬の国」。

 馬韓と共通の国名で、

 海はへだてているが敵視する他人の国ではなく、

 一つの国が二つに分かれたために、

 区別が必要なため、

 やむなく別の国名にしただけで、

 両岸の末盧と馬韓の人々は、同族だったとわかる。

 その中間にあって、

 朝鮮半島にいちばん近い島の「対馬」も、

 その漢字は決して「ツシマ」とは発音できない文字で、

 これは

 「馬に対している島」すなわち「タイマ」が本来の発音だ。

 後世に奈良県に生まれた「タイマ=当麻」は、

 その特殊な発音がよく一致しているので、

 この対馬の人たちが運んだ発音に、

 新たな字を当てた地名だとみていい。

 こうした幾重にも重なった

 複数のデータが残っていることから、

 九州からか半島からか、

 どちらからどちらへ広がったかはまだ不明だが、

 どちらか一方にいた人たちが、

 やがて対岸にも移住して、

 そこも自分たちの国したことだけは容易に見てとれる。

 だが念のため、

 他にもそれを証明するものがないかみてみると、

 下関が見つかる。

 そこは今はシモノセキと発音しているが

 「下」は「クダ」るの発音があり、

 クダはマレー語の馬で、

 下関に面した海は馬関海峡だから、

 その別名が馬関だったこともわかる。

 馬関=マカンで、馬韓と同音である。

 『魏書倭人章』の記事では

 帯方郡使らは海路、九州北部へ着くが、

 そこには末盧だけあって他の国名はないから、

 末盧と下関が対岸だった時代があったことは事実である。

 その時代に対岸へ移住した人たちが

 マカンと呼ばれたことがわかる。

 これは一見、

 朝鮮半島の馬韓から下関に入ったから

 マカンと呼ばれたので、

 末盧からなら「マツ○○」と命名されたように思えるが、

 しかし慎重に調べてみると下関の東に

 「下松(くだまつ)」がある。

 この名は馬をクダとマレー語読みしたものに、

 さらにダブって末盧のマツがついて

 「馬(クダ)・馬津(マツ)」という二重の名詞になっている。

 これは「タダラから来たマツ人の国」ということで、

 馬韓から下関に入った下関人とは

 別のグループだという表現である。

 下関人は必ずしも馬韓国から来たとは断定できない。

 以前にお話した朝鮮王の準は朝鮮から海を渡って韓へ逃げた。

 卑弥呼以前の韓国=カラクニは

 霧島の主峰・韓国見岳(からくにみだけ)から

 見下ろせる姶良(カラ)国で、

 それが北上して朝鮮半島の韓国になったのだった。

 ※出典:加治木義博「大学講義録22:15・16頁」
松の語源(松浦:末盧)

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 ≪松浦:末盧
 ≪松浦:末盧

 松浦は、単なる当て字に過ぎない。

 それなのにその代表的な地域は海岸に沿った「浦」で、

 名勝・虹の松原などが、

 まさに見事な「松浦」を形成している。

 ところがその地名は松の木とは無関係で、

 馬の方に語源があったとわかった。

 これはもう一つの真実を教えてくれる。

 それは松をマツと発音するのは、

 この地域が語源だということである。

 その浦が「末(マツ)=馬津(マツ)」と呼ばれていたから、

 そこへの移住者がもってきて植えたその美しい木が、

 やがて

 「馬津が持って来た木=馬津の木=マツの木」

 という名で呼ばれることになったのである。

 植物の「マツ」という和名が生まれたのは、

 卑弥呼時代の末盧国以後のことである。

 『倭名類聚鈔』には郡名の部分の肥前国

 巻十一に「松浦=萬豆良」があり、

 植物の名の部の第百二十九に松があり、

 和名「萬豆=マツ」とあるから、

 命名は10世紀より前である。

 松浦の名は、この地名のルーツをはっきり教えてくれる。

 それは観音信仰の真の大本山・

 ボダラッカ山のある Madura マヅラである。

 松浦や末盧国はその故郷を壌かしんで、

 九州に同じ地名をつけた発音への当て字であり、

 卑弥呼と観音信仰の史実を語る生き証人なのだ。

 ではそれらの当て字に多用されている「馬」、

 それは一体なにを意味しているのだろう?。

 実はそれこそ変化観世音菩薩の謎を解く、

 「強力なキー」だったのである。

 ※出典:加治木義博「大学講義録22:17頁」
秦韓(シンハラ)・慕韓(ボハラ)の語源

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 ≪秦韓(シンハラ)・慕韓(ボハラ)の語源
 ≪秦韓(シンハラ)・慕韓(ボハラ)の語源

 新羅独立以前の半島が、

 政治的には列島の一部分であったことが確認できたことは、

 さらに私たちの古代常識を正しく拡大する。

 それは何よりもまず倭の五王の名乗りの真相を、

 在来の曖昧(あいまい)なものから

 飛躍的に正しいものにしてくれる。

 「七国諸軍事」というのは、

 実際は一国の軍事権を

 掌っているということで当然のことであり、

 従来は、

 これを誇張だと説明する者がいたが、

 それは真相を知らない者のでたらめな想像にすぎないと、

 はっきり判定することができる。

 また七国中の任那(みまな)は、

 在来は架空説をとなえる者まであるほど、

 影の薄い存在だったが、事実がわかってみると、

 地方自治体の百済・新羅を統括する

 倭国政府の出先機関があるのは当然のことで、

 『日本書紀』は少しもウソは書いていない。

 これは「任那日本府」という名も

 新羅の立場からありうることで、

 これを疑う者は自分で無知を告白していることになる。

 では秦韓と辰韓とは何だったのだろう?。

 答えは『魏書・韓章』の「辰韓」の部分にある。

 「耆老(きろう)は、

  昔、秦の苦役を逃れて韓の地にやってきた我々を、

  馬韓は東部に住まわせてくれたのだと、

  その言い伝えを語った。

  だからその言葉は馬韓語ではなく、

  国を邦、人を徒、賊を冠(こう)などという。

  これは秦の言葉に似るから彼らを

  秦韓と呼ぶ者があるのだ」

 また『史記』や『後漢書』にも

 「秦の始皇が除福と童男女数千人を

  蓬莱(ホーライ)に派遣して神仙を捜させたがダメで、

  徐福は誅(ちう)を恐れて此の洲に止(とど)まった」

 とあるのが同じものなのである。

 秦韓とは辰韓の別名だったのである。

 倭の五王はそれを辰韓の代わりに使っていた。

 この韓はカンと発音していたのか?確かめておく必要がある。

 なぜなら姶良郡はカラグニ、

 霧島の最高峰もカラクニ見岳で、

 カン郡でもカンコク見岳でもなかった。

 それと同じものが突然カンになることはないから、

 辰韓はシンカンではなく

 シン韓(カラ)かタツ韓(カラ)だったのである。

 すると神功皇后が目標の国を宝の国(タカラの国)と呼び、

 それを占領して君臨した国がそれだったのだから、

 これは

 トカラ列島の宝島→種子島の辰韓(タツカラ)→開聞岳のある

 シラキッ新羅と姶良郡のカラグニ→

 福岡の白日の国=新羅(新=辰・羅=国=韓)→

 半島の辰韓、

 という拡大移動に伴って分布した地名の全てが、

 このタッカラ=宝の国という名をもっているのだ。

 壹與=神功皇后が君臨した宝の国=邪馬壹国は、

 このようにどこからみても畿内にはない。

 これも邪馬台国畿内説がでたらめだという重要な証拠である。

 もちろんそのことは他の山積する反証群によって、

 もう充分立証され尽くしてはいるが、

 学説というものは裁判ではない。

 研究結果の全ての真実を徹底的に表明して、

 「万全を期する」のが務めなのである。

 では「慕韓」は馬韓なのだろうか?。

 馬韓は、

 鹿児島半島南端の枕崎(マッラザキ)市のマッラから、

 九州北部の佐賀・長崎両県にまたがる

 松浦郡のマツラに移動拡大して、

 さらに朝鮮半島まで広がったものだった。

 これもマクラのマに馬の当て字をしたものだから、

 カラはクラと同じもの、

 その発音からみて、カンでなくカラだったのである。

 枕という当て字に意味がないとすると、

 そのもとの発音は「マカラ」で、

 これは海に棲む巨大な聖魚だとするインドの海の神である。

 枕崎は海港都市だから昔は海人の町で、

 その名がマカラだった可能性は非常に高い。

 するとそのはるか南にある臥蛇(ガジャ)島の名に結びっく。

 ガジャはインド語で象のことだが、

 マカラはガジャ・ミナ(水象・海象)とも呼ばれるからだ。

 この島が象と鯨の頭部に

 よく似ていることも本講でお話ししたが、

 インドの宗教画には

 長い鼻をかかげた象の頭をもった魚が、

 海を泳いでいる絵が多数みられる。

 それがマカラである。

 『三国史記』には

 「靺鞨(マッカツ)」という敵が記録されている。

 この字がマカラなのだから、

 半島側からみた海からの敵、

 それは『魏書倭人章』が

 末盧(まつろ)国の風俗として描く、

 あの

 「水が深くても気にせず、昔、沈み潜って魚蝮をとる」

 人たち=松浦海人以外には考えられない。

 この松浦が半島と分離したのも大化改新以後なのだから、

 『三国史記』の読み方がわかる。

 ※出典:加治木義博「大学講義録33:27~30頁」

 マカーラ、マトゥラ、マツウラ、マドラス、マドロスは、

 同じ語源と同じ意味をもつ同じ言葉なのである。

 それを日本語とパーリ語の共通語が教え、

 立証しているのだ。

 インド圏のネパールにはボカラという都市があり、

 これも慕韓の発音の一つに合う。

 また韓の字は中国・韓国ではハンと発音する。

 カンより弱く発音するとk音がh音になるからである。

 だからカラならハラになる。

 幕韓はボハラかブハラと発音した可能性がある。

 なぜなら韓(カラ)は姶良(カラ)で我が国ではカラ。

 そこは高天原が移動した政権所在地だから、

 原はハラかゲンと読まれていたはずだからである。

 韓もその発音への当て字の一つなのだ。

 仏跡のあるガンダーラ(アフガニスタン)の北隣、

 ウズベク共和国にブハラ州がある。

 そのスペルはBukharaプカラともフクハラとも読める。

 5世紀五胡十六国の一つだから

 倭人とも深い繋(つな)がりがある。

 全く無関係とはいいきれない大きな地名である。

 辰韓もシンハラと読むとインドのスリランカの古名である。

 アソカ王が派遣した仏教宣布団が

 最初に成果を収めた大国だ。

 半島側に拡大した

 厳格な戒律仏教・シーラ・バッガの国・新羅、

 その前身が辰韓と当て字されているのは

 「シンハラ」への当て字だった可能性が非常に大きい。

 その場合は五王の秦韓もやはりシンハラと読まねばならない。

 以上の例でよくおわかり戴いたと思うが、

 『魏書東夷傳倭人章』の検討は

 『魏書東夷傳倭人章』の

 文章だけを訳して済むようなものではない。

 例えば壹與とはどんな人物なのか、

 彼女が始祖王とされている新羅とはどんな国だったかは、

 こうしてシンハラの歴史や、

 8世紀の新羅景徳王の感情や行動まで知り尽くしていて、

 初めて全貌を知ることができるのである。

 よく「言語復原史学とは?」と尋ねられるが、

 それには、

 こうした実例まで挙げてお話ししなければ、

 本当におわかり戴けるものではない。

 だからこそ本講をご学習載いたのである。

 しかしその原則は難しいものではない。

 少しでも関連が見つかれげ、

 それをどこまでも、どこまでも追及していく、

 そして景徳王の人間としての内部まで観察すれば、

 何があったか、

 史実が浮かび上がって、

 新羅とはどんなものだったかが正しく見えてくるのである。

 「言語復原史学とは?」

 と質問をお受けになる機会が多くなると思うので、

 その時には、

 この景徳王の例をお話し戴くといいと思って、

 本講の締(し)め括(くく)りに活用してみた。

 これと同じものは卑弥呼や位宮たちをめぐっても、

 まだ大量にある。

 今度は貴方が次々に発掘し、

 それらを明かにしていって戴きたい。

 それは将棋や推理小説やサスペンス映画のような、

 簿っペらな知的遊戯には比べられない。

 高い知性をもつものにとって、

 永遠に興味が尽きることのない、

 人類だけがなし得る、

 価値ある最高の仕事の1つだと信じている。

 ※出典:加治木義博

  「大学講義録33:31~32頁」
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