お寺の使命 [日記、時候]
昨日は岡崎の聖洞寺(しょうとうじ)へと出講。
聖徳太子をお敬いする「太子会」でのお説教を仕りました。

山あいに佇む聖洞寺。
お非時(昼食)があり、お供えのお餅が配られたり、丁寧なお勤めがあり、そしてお説教という盛沢山な法会です。
みんなでわいわいやっているのが感じられ、村祭りに参加しているような楽しさがあります。
最近、気付いたことなのですが、お説教の時に隣の人とおしゃべりを始めてしまう人がいたりすることが、どこのお寺でもあることなのですが。以前はお説教を聞くことこそが肝心要なことと考え、口には出さなくとも「けしからん」と思いながら、やり過ごしておりました。
それが最近はお寺は何のためにあるのか?と考えると、これは仏様のためというのが正解で、決してお説教使のためではないということにようやく気付いたのです。
お寺にお参りされる方々がいらっしゃるということがまず何よりですし、そこで出あっていただくことが一番大切なことに違いありません。
それはお念仏に出あっていただくことです。
「南無阿弥陀仏」に出あっていただくことのために、様々な支度がされ、人が集い、鐘が鳴る、お経が聞こえる、お味噌汁の上手そうな香りが漂ってくる、子ども達が走り回る、お説教にうつらうつらとする・・・・。
これら全てが何らかのきっかけとなってお念仏に出あっていただくことが、お寺の使命であると思うようになったのです。
何とも現状肯定の保守的な考え方かもしれませんが、仏さまの願いがはたらいていると感じるのです。

聖徳太子をお敬いする「太子会」でのお説教を仕りました。
山あいに佇む聖洞寺。
お非時(昼食)があり、お供えのお餅が配られたり、丁寧なお勤めがあり、そしてお説教という盛沢山な法会です。
みんなでわいわいやっているのが感じられ、村祭りに参加しているような楽しさがあります。
最近、気付いたことなのですが、お説教の時に隣の人とおしゃべりを始めてしまう人がいたりすることが、どこのお寺でもあることなのですが。以前はお説教を聞くことこそが肝心要なことと考え、口には出さなくとも「けしからん」と思いながら、やり過ごしておりました。
それが最近はお寺は何のためにあるのか?と考えると、これは仏様のためというのが正解で、決してお説教使のためではないということにようやく気付いたのです。
お寺にお参りされる方々がいらっしゃるということがまず何よりですし、そこで出あっていただくことが一番大切なことに違いありません。
それはお念仏に出あっていただくことです。
「南無阿弥陀仏」に出あっていただくことのために、様々な支度がされ、人が集い、鐘が鳴る、お経が聞こえる、お味噌汁の上手そうな香りが漂ってくる、子ども達が走り回る、お説教にうつらうつらとする・・・・。
これら全てが何らかのきっかけとなってお念仏に出あっていただくことが、お寺の使命であると思うようになったのです。
何とも現状肯定の保守的な考え方かもしれませんが、仏さまの願いがはたらいていると感じるのです。
聖洞寺鐘楼堂の下に咲いていました。
2015-04-13 09:00
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