文春文庫に小林秀雄の「考えるヒント」というものがある。
これは簡単に言えばエッセー集のようなもので新聞や雑誌に掲載された小林のコラムを寄せ集めたようなものである。そのエッセー集の冒頭に出てくるのが「常識」という題のついたコラムである。
小林は学生時代にエドガー・アラン・ポーの「メルツェルの将棋差し」という短篇を翻訳したらしい。
この話に出てくる「将棋」とは「チェス」のことである。「メルツェルの将棋差し」というのはハンガリー人の発明家ヴォルフガング・フォン・ケンペレンが1770年に発明したチェスを打つ自働人形のことである。
この人形はターバンを巻いたトルコ人の格好をしており「The Turk」つまり「トルコ人」と呼ばれていた。
この自働人形はそもそもハプスブルク帝国の女帝マリア・テレジアの喜ばせる目的でケンペレンが発明したものだが、人間相手に上手にチェスを差して、しかも決して負けることがなかった。
ケンペレンの死んだ後はバイエルンの音楽家ヨハン・ネポムク・メルツェルの手に渡り、メルツェルは「トルコ人」をさらに改良して欧州各地や米国で興行を行った。そして、その興行の中で行われたほとんどのチェスの試合に勝ち、その相手にはナポレオン・ボナパルトやベンジャミン・フランクリンといった著名人も含まれていた。
そして1830年頃、メルツェルは米国バージニア州の興行の時にエドガー・アラン・ポーと面会をする。
ポーはこの自働人形が何故人間相手に連戦戦勝するのか不思議に思ったが、これが「人形」である以上自分で考えてチェスを差しているのではないことは明らかであり、一見種も仕掛けもないように見えて、実際は機械の中にチェスの得意な人間が入っていることを解き明かす目的で「メルツェルの将棋差し」という作品を発表したのである。
ポーの推理によると、この機械の目的は将棋を差すことではなく、人間をいかに上手に機械の中に隠すことにあると着目し、「中の人」がその姿勢と位置とを適当に変えれば、外部の観客の視点からは決して見られることはないと結論づけたのである。
小林に言わせると、ポーは自動人形が自分で考えてチェスを差すことは絶対にできないという「常識」に立ち返ったことにより、巷間の人々の噂によって「神がかりな人形」とまで持ち上げられたこの人形の本質を突くことができたと評価しているのである。
そして同時に小林はある途方もない想像をすることになる。
すなわち、将棋のすべての手を知っている二人の将棋の神様が将棋を差したとしたら、一体どのような展開になるのであろうかという疑問である。
これについて、小林自身では結論が出なかったので、ある日銀座で偶然会った理学博士の中谷宇吉郎に助言を請うことにした。中谷宇吉郎といえば、雪の結晶の研究で名高い北海道大学教授である。
中谷ははじめに将棋の構造を単純化して考えるように話す。つまり、普通の将棋盤はタテ9×ヨコ9の81マスあり、様々な種類の駒を動かすから展開を予想するのが難しいけれど、条件を簡単にして仕切りがタテに三つしかない一番小さな盤でお互いに歩兵1枚ずつで勝負をしたら、先手が必ず負けることは明らかである。それにマスをもう一つ加えたら今度は先手が必ず勝つことになる。
つまり将棋の世界とは人間同士の約束事に過ぎないというわけである。
一般の将棋盤での対戦にように約束事を無闇に増やせば、次第に人間の知能では筋が読みきれなくなるので、複雑怪奇の様相を呈することになるわけである。将棋はとどのつまり人間の無智を条件とした遊戯であるわけだ。
では、将棋の神様二人が対戦したらどうなるか?
神様はすべての筋を知っているわけであるから、将棋の結論が先手必勝になるか、先手必敗になるか、それとも千日手になるか結論を知っているわけだから、そもそも答えが自明の遊戯などしないだろうし、相手に先手や後手を譲ってそれでお仕舞いになるのがオチであると結論づけるのである。
話の結論も面白かったが、典型的な文系人間である小林と理系人間である中谷の掛け合いもなかなか面白かった。
その上で、小林は常識を守るということは難しいことであると言っている。常識の処し方に困る一般の人々は矢鱈と専門家の意見を聞きたがり、専門知識に驚かされどおしで気が弱くなってしまっている。一方で彼らは生半可な知識を引っ提げるだけでその状態に安住し、素朴な疑問すら想起することを怠っている。
小林の時代には既に「人工頭脳=コンピュータ」が世の中に登場していたが、世の人々はこの新しい科学技術を前に早くも自らを客体化させようとしていた。
つまり最新技術に対しては無条件に盲従するようなどうにもならぬ科学軽信家に陥っているのである。
それでは時代はさらに進んで現代の人工頭脳の状況はどうだろうか?
当世のコンピュータの技術革新はさらに進展し、現代版の将棋マシーンはプロの棋士相手でも互角以上に戦うことができる。
しかし、この最性能のコンピュータは決して自分で考えているだろうか?
そこで、コンピュータは考えているのではなく、計算しているに過ぎないという常識に我々は立ち返る必要がある。
この常識に立ち返るプロセスは結局のところ、ポーの時代も、小林の時代も、そして現代にあっても必要なことなのである。
常識を守ることとは、どんな最新の技術であっても、高邁な思想であっても、権威を振りかざす権力者を前にしても、常識が揺らがない信念を保つということである。
スマホが急速に普及するようになってから、スマホの機能の範囲内でしか我々は頭を動かさなくなってしまったように思える。そしてそれはスマホの常識に対して我々が自分の常識をそれに適合するように調整しているという態度からも推測できる。
そして頭を働かせる機能が鈍化し、ついにはただ流行の下僕に成り下がるだけにような状態になるのではないか。
これに関して小林は「私事」の範囲が徐々に狭まってきていると語っている。そういうと私は政治や文化についても堂々と語れるという反論が出てきそうだがそこにも見るべき部分があるように思える。
例えば先日衆議院が解散されたが、これについて新聞や政治評論家が「大義がない解散」と言い出すと、オウム返しのようにテレビで芸能人が同じことを言ったり、職場や酒席でまったく同じことをいう人がたくさん出てきた。
しかも皆口々に「大義がない」という言葉を使い回してただそれを繰り返している。
たしかに、その解散の実態に即して「大義がない」と表現しているのだろうが、それにしてももっと他の表現があるのではないか。
おそらくそれはマスコミによって我々がプログラミングされているのだろう。自分の意見を作るためにネットを検索して最もらしい考えや表現を切り貼りし、自分の頭をコピペで埋め尽くそうとする。
コピペで糾弾されるのは理研の女性研究員だけではないように思える。
それは私自身にも当てはまることであり今まさに反省を促しているところだ。
結論としてデジタルではなくアナログで行けというつもりはない。デジタルでもアナログでも自分で考えて自分の常識に立ち返って判断することが大切であると思う。
そうすれば、まるで自働人形みたいだねと呼ばれることもなくなるだろうし、とひとりひとりの個性がもっと花開いて、もっと面白く楽観できそうな世の中になるのではないか。