« 【事故検証は】東電資料より10年も早かった1983年の福島沖津波シミュレーション(前編)【やり直せ】 | トップページ | 日本原子力技術協会が2007年に提起した想定外津波対策-社外からの予見可能性は具体的でなくても良い- »

2015年3月 3日 (火)

【文献は】東電資料より10年も早かった1983年の福島沖津波シミュレーション(後編)【公開せよ】

前編はこちら

【1983年に発行されたIAEAの津波安全指針】

さて、ここからはブログ記事の後半戦。前回のシミュレーションを踏まえて同時期に起こっていたポイントになる出来事(あまり注目されていないが技術・経営面では重要なこと)を踏まえて考察していく。長文となるが、津波想定問題に興味のある方は、最後までお付き合いいただきたい。

冒頭に紹介したIAEAはその後、安全指針をシリーズ化して発行するようになった。津波防災に関わるものとしては1983年に発行された『No50 SG-10B 海岸敷地における原子力プラントに対する設計ベース 洪水』(50-SG-S10B Design basis flood for nuclear power plants on coastal sites 1983)である。1985年に原子力安全研究協会が和訳を発行し、必要なら英語が読めなくても読むことが可能となった。

2.2.2.2 津波
海岸敷地に対しては、予備調査に津波の潜在性があるか否かを決定するた めに過去の記録に関する解析を含まなければならない。世界の海洋の大部分及び津波を受ける海のいくつかに対しては津波に関する情報が数多くの情報源から利 用可能である。全津波の80%は太平洋で発生していると推定されているが、この種の破壊的事象は大西洋、インド洋、地中海及びそれら近辺の海域でも経験されている。津波に関しては多くの資料が収集されている。

(中略)海洋地震または火山活動の潜在性の有無と、近地津波、遠地津波による敷地の被災性が調査されなければならない。これは、これらの領域からの波が歴史上に記録されていなくても調査されなければならない。

もし、津波の潜在性が存在するならば、予備解析は本指針の5章で概説される簡潔な手法により履行されなければならない。

確率論的手法及び簡潔化された決定論的手法の適用がこの段階での津波評価に適している。(中略)国際津波情報センタ(ホノルル)により編集された既知の津波と津波と考えられるもののリストから得られた情報を用いて、津波活動の形跡が存在するか否かを調べるために敷地地域の特定の水位観測所に対して全てのハイドログラフを検討することを本手法は要求している。

(中略)水位観測所と敷地での津波応答の相関は、海岸形状を調査することにより明らかにされる。ハイドログラフ上の最大津波波高は近傍の海岸で観測された遡上高とは大きく異なるであろうから、既知の洪水高さに関する相互比較は敷地と水位観測所において可能な場合に限って行われる(参考文献[8]を参照)。

『No50 SG-10B 海岸敷地における原子力プラントに対する設計ベース 洪水』P8-9(リンク)原子力安全研究協会訳

参考文献[8]とは下記を指す。

WORLD METEOROLOGICAL ORGANIZATION,Manual for Estimation of Probale Maximam Precipitation,Operational Hydrology Report No.1,WMO-No.332,WMO,Genova(1973)

IAEAによれば、小名浜のチリ津波を根拠にし続ける東電の姿勢は「問題外」ということになる。添田氏やコロラド氏をはじめあんなものを根拠にして良いのかという疑問は事故後、誰もが感じたが、IAEAは30年も前に指摘し、その根拠は1973年のWMOのマニュアルだったのだ。

No50 SG-10Bは中盤以降で更に詳細な津波解析方法を推奨している。

5.2 海底地盤変動
(中略)モデルでは、地震のマグニチュード、震源の深さ、震央位置、断層の形態等の関数として海底地盤変動が与えられる。

最大地震の潜在性は、安全シリーズNo50-SG-S1のタイプS2地震に対して記述されたと同一のもしくは類似の手法で評価されるべきである。この地震は敷地で最も危険な津波を発生する潜在津波性地殻構造沿いまたは地震地殻領域で発生するものと仮定されなければならない。

以下のデータは海底地盤運動及びその結果として生じる水位上昇を十分明確にするために必要とされるものである。

・地震のマグニチュード
・最大鉛直地盤変位
・震源の長さと幅
・震源の方向と形状
・断層決裂長と震央位置
・断層からの距離による変位の減衰

これらのデータのいくつかは、安全シリーズNo.50-SG-S1で論じられているS2,S1地震を評価するための調査によって得られるであろう。 これらのデータの保守的な決定は、既往の記録の解析と共に地形学的、地質構造的、地震学的調査の結果を用いて行われるべきである。

『No50 SG-10B 海岸敷地における原子力プラントに対する設計ベース 洪水』P8-9

要するに「波源モデルは基準地震動のモデルと揃えなさい」ということである。サイト間での想定不整合に関し、添田氏がもっかい事故調オープンセミナー で、女川3号機が貞観の地震動に備えていることを例示していたことを想起させる。また、国会事故調によれば、津波堆積物調査に東電が非協力的であったため、文部科学省が浜通りで調査を開始したのは、東北電力が仙台平野で実施したのに20年近く遅れた2000年代末のことだったという。IAEAの安全指針を無視し 「地形学的、地質構造的、地震学的調査」を地震向けのものに限定したからである。

IAEAの一連の安全基準を軽んじることが出来たのは、国内に取り入れる努力を日本の監督官庁や電力業界がサボったからである。

IAEAでは1974年以来,「国際安全基準(NUSS)」の策定作業を行い,その骨組みとなる5つの"Codeof Practice"が1978年 に出来たが,(中略)当初作業を始めた際は,安全規制の目的に使用する場合の推奨基準として策定されたものである

内田秀雄「原子力安全の新時代」『日本原子力学会誌』1992年4月 P7

1986年にチェルノブイリ事故が起きても、事態は変わらなかった。

チェルノブイリ原子力発電所事故に端を発する原子力に対する不安と反対の高まりに対応するため(中略)国際安全基準に対する期待が大きくなった。(中略)IAEAは NUSSAG(Nuclear Safety Standard Advisory Group)を設置し,シビアアクシデントの取扱いを明示的に盛り込んだ原子力安全基準文書の改訂版を策定することとした。ところが,原子力利用各国はそれぞれ異なる法律・基準を採用しているため,IAEAの安全基準文書の国内基準への取入れは当初,必ずしも順調には進まなかっ た。 しかし,最終的に「異なる方法および解決法であっても,同等の保証を与えるものであれば容認される」との一文を序文に挿入することにより,各国とも本安全 基準文書に同調していくこととなった。

IAEAの国際安全基準に関する活動」『日本原子力学会誌』2000年10月 P32

規制側の担当者による原稿のため、官僚的作文となっているが、要するに抜け穴を設けてから取り込みを図ったのである。

【経営面からも1980年代の再検討が必要】

首藤信夫東北大教授は土木学会の津波評価委員会で主査を務めた際、持論に反し安全率を1倍に削ったことで汚名を残したが、その証言は中々興味深い。 例えば、政府事故調の聴取録によると1988年に『電力土木』誌にて津波の脅威を述べたところ、業界から猛反発を受け、北海道南西沖地震後まで数年間原発に対する津波の研究が停止状態にあったとしている。『原発と大津波』のインタビューでは、津波対策の提案を3回蹴られたと述べている。蹴られた時期は、今後確定が必要になる。

対策をしなかったのは一言で言えば「金にならないから」だろうが、時代的な影響も無視は出来ない。バブル期、東電の経営は極めて好調だったからだ。そこで今回、私は次のような文献を元に理屈付けを試みた。

また、もう一つが利益で見た変化です。九社合計の経常利益の推移を棒グラフにして示しています。これは九社合計の売上高です。まず思い起こしてほしいのは、 トリプルメリットでめちゃくちゃ儲かった時です。トリプルとは何かと言うと、円高、原油安、金利低下です。これにより燃料費等が大きく低下したことで、利 益が急増しました。ところが、出てきた利益は還元値下げを繰り返したことで、意図的に抑えたというか、世論の圧力で抑えさせられたのでした。その後、ほぼ 一定の水準を保つような推移が続いてきたのです。

円尾雅則「証券アナリストから見た電力各社の経営分析」『資本市場と電力』2001年2月 P26

上記は電力会社を相手にアナリストが行った講演だが、「トリプルメリット」これがバブル期の電力経営を語るキーである。ただし、技術史・社会史的観点からはアナリストが言う「世論の圧力」という単語には注意がいる。確かに消費者は公共料金への値下げ願望が強いが、それだけだろうか。次に、東電と独RWEの経営状態を比較した論文を見てみよう。

86年は東電にとって円高,原油安,金利安のトリプルメリットが重なって大幅な利益が計上され,これが,レバレッジの原理により増幅されたものである。しかし,東電は借入れ依存度が70%以上という高い比率であるため,このトリプルメリットがなくなったときには逆にひどい利益の落込みとなり,経営の安定上,問題がある。また,今期のように,公益事業としては極端に高い利益率は,常に料金値下げの潜在的圧力となる。

RWE社の設備投資は,原子力発電設備よりむしろ石炭火力の公害防除投資に向けられているためそれほど巨額を要していないこと,また,厚い内部留保があることなどにより,きわめて借入れ依存度が低く,財務体質が優れているといえよう。

富田輝博「電気事業の経営多角化戦略一東京電力と西独RWE社との比較を中心にして一」『情報研究』第9号 文教大学 1988年(ネット上で検索すると全文公開されている)

「レバレッジの原理」は財務分析の教科書か当該論文を参照して貰うとして、ポイントは、東電は原発に多額の設備投資が必要でその分借入金に依存しており、長期的には経営に不安があったと言うことである。そのような観点からは、新規建設と違って電源を生み出さない(利益に繋がらない)上、更に借入金依存を増す改造投資は、小口であっても極力避けたい動機があったとも解せる。

一方で、バブル後に結果として津波対策が強化されたのも事実だ。

1993年春、使用済み燃料プールの容量不足に端を発して共用プールの建屋を建設するための設置変更許可申請が出された。この時、非常用ディーゼル発電機も建屋内にスペースが設けられて設置されることとなり、原子炉を冷却することを前提に容量が決められた。この時増設された空冷発電機が無ければ 5,6号機もメルトダウンしていただろう。極めて重要な出来事だったと言える。空冷式とされたのは海岸からの距離があるために海岸から冷却水の取水路を設 けるより空冷式にすることが望ましいとされたという。従来の研究ではここで話が止まっていた。北海道南西沖地震は1993年7月12日の出来事なので、同 地震によって津波対策を触発された訳ではないことは分かるのだが、そういった時系列関係から意図を探る作業も熱心だったとはいいがたい。そもそも、建設時には地震動を抑えるため地下配置に変更となっていたのに空冷式の時は地上1階に配置とされた理由も分からないままだ。

しかし、申請前の10年間にあった出来事を見直すと、この動きには別の意味を探っていくことも出来るのではないかと思う。

【現時点での仮説】

現在、私は次のように推測している。

北海道南西沖地震以前、東電は敷地高10m以上の津波は無いと考えていたものの、敷地高4m以上の津波は予見可能性を認識し、仮に、IAEA安全指針に準拠した場合どうなるかは気になっていた。そのため、算定会の予測をもとに密かに社内で検証(算定会の計算結果を否定するため)のシミュレーションを実施、技報あるいは計算書として残した。その過程で、FKモデルのような前提を認めると 算定会のシミュレーションより悪い結果が出る可能性は認識したので、算定会の『津波危険度の研究』からはFKモデルを除外するように工作を行った。 1980年代の社内検討は①不都合の度合いが大き過ぎたか、②事故調が発見出来なかったか、③文書管理の杜撰さで原本が失われたかのいずれかの理由により、事故調には供されず、1994年のシミュレーションが最も初期のものとされた(故に94年の時は既往地震に対象を絞って貞観の再現に留め、しかも波源を三陸沖にずらした)。

また、津波に強い非常用電源が必要となり、ディーゼル海水ポンプが剥き出しとなっている福島第一で特に対策が必要になった。そのため増設分の非常用電源は空冷とされた。所内からの意見(例:『"福島原発"ある技術者の証言』)やメーカーからのコメントを反映すると地下は望ましくなかったので、地上階に据付することとしたが、建設時には無かった国の耐震設計指針が策定されていたため、M6.5の直下型地震で370Galの地震動を要求されたことで不安があった。その間、ディーゼル機関の製造元新潟鉄工は福島第一建設時に多数採用していた40Xシリーズから、SEMT社のPCシリーズのライセンスを元に開発・製造する方針に転換、原子力用途でも福島第二以降は18PC2-3Vが採用され、18V40Xとほぼ同じ大きさ、同等出力だった。同じBWR-5でも柏崎では小型軽量化をさらに進めた18PA6Vが採用されていた。機関が小型軽量であれば同じ地震加速でのモーメントも小さくなるので、地上階への変更は工認上の根拠も得やすい。従って既納のPCシリーズをベースに耐震仕様を満たした大容量ラジェータを開発し空冷型を採用したと推測される。

Niigata_100nenshi_p225

参考:非常用ディーゼル機関の耐震性と小型軽量化を強調する『新潟鉄工100年史』(1996年)

最終ヒートシンク確保の面からは残留熱除去系海水ポンプや補機冷却系海水ポンプも何らかの対策が必要だったが、これは予備の電動機を倉庫に保管しておくことで対応することと、少なくとも口頭では意思確認したものの、その後の電力自由化対応による定期検査合理化等の流れの中で「無駄な備品」の削減が図られ、標準化が不十分なBWR-3,4用の予備電動機が準備されることは無くなった。予備品の管理は工認等既存の法制度の枠外だったので電力会社単独での決定自由度が高く、他社(原電など)も持ってはいなかった。

繰り返しておくが、仮説なので、「このような資料が存在するのでは?」と言う意味で社内シミュレーションがあるものと仮定した。補足すると、監督官庁を納得させるためには、算定会のシミュレーションに対抗出来る自前のシミュレーションが必要だろう。1994年まで何もしないとは思えない。その傍証として、原発の構造解析に特化したコンサルタント、大崎総合研究所は 1985年に津波シミュレーションの報告を発行している(場所は中部沖だが)。同業他社も手を染めていたと考えるのは、不自然ではないだろう。なお、原電が東電のBWR-5と異なり残留熱除去系海水ポンプの予備品を持っていなかったのは問い合わせで確認済みである。福島第二が電動機交換で難を逃れたのは東電がBWR-5を標準化して多数保有していたことが影響している。また、共用建屋ではディーゼル発電機の下に地下階を設け、電気品室、蓄電池室を配置しており、ディーゼル発電機架台の下には地下室を設けなかった初期の設計思想と差がみられる。

【まとめ】東電は非公開文献を開示せよ

この記事では日本海中部地震から北海道南西沖地震の10年余りの間に起きていた出来事を新資料に基づいて分析した。もちろん今後も眠っている新資料が出てくることは十分にあり得る。しかし、現時点でも

  • 算定会がシミュレーションを公表してから空冷ディーゼルの設置を計画するまで最低10年間に渡って不作為を続けた
  • 最終ヒートシンク(残留熱除去系海水ポンプ)は空冷ディーゼルの計画以降も放置した

とは言い得るだろう。

『原発と大津波』をはじめとするこれまでの調査によって、事故前の10数年間に「警鐘を鳴らしても屁理屈と工作を弄して無視を決め込む」不作為のサイクルがあったことが判ってきている。そうしたサイクルが80年代にも存在していた可能性は極めて高い。むしろ「以前放置しても何も言われなかったから今回も大丈夫だ」と考えたのではないか。

各種原告団や弁護士の方によってこの件も裁判の中で解明されていくべきとは思うが、その際、東京電力は一連の事故調査で全く言及してこなかった次の未公開文献を開示するべきだろう。東電の原発資料は多数のリリース、官庁公開資料、専門誌記事で公開されているように見えるが、次に示す文献はそうではない。殆ど言及すらしていないところに、隠蔽する動機が強く疑われる。

  • 『東京電力技報』(1970年代にかけて発行されていた定期刊行物)
  • 『東電設計技術研究誌』(1980年代以降毎年発行されていた定期刊行物)
  • 『東京電力福島原子力発電所建設における工事の施工』東京電力 1972年、他建設工事誌一式

東電も原発黎明期から技報を発行しているが、90年代以降発行している『技術研究所報』を除き、大学への納本は現状無い。子会社の東電設計は本体と同じく一部の関係者が不作為を問われ、訴訟団から起訴を求められている。私が入手した一部の巻号には津波に関する研究もあり、全号の開示が望ましい。東電から調査を委託されたコンサルタントも技報は原則開示すべきである。金を貰って社会的に重要な研究をしていた以上、「やり逃げ」は許されない。

Todensekkei1995no10p115 出典:「平成6年度 社外発表論文リスト」『東電設計技術研究誌』No.10 1995 P115

上記に『東電設計技術研究誌』から確認出来る情報の一例を示す。『原発と大津波』で東電を追った第3章を読むと、1994年の津波シミュレーションで貞観津波の波源を不自然にずらしていることが示されている。一方論文リストを見ると、同時期にコンサルタントを使って既往の福島沖歴史地震を調べており、中村亮一という社員と、西村功という東電社員が関与していることが確認出来る。なお、これは社外論文であっても論文タイトルが学術データベースでピックアップできるとは限らない例で、現時点ではCiniiやJ-Stageで引っかからない。従って、社内で作成した論文リストは今でも重要である。

勿論、社内技報に掲載された論文自体も物によっては価値を持つ。

私自身、今回の記事で書いた資料を発見したのは『原発と大津波』をたたき台に因果関係を整理し、足りていない要素を考えてみた後だった。未公開資料 の公開により、さらに経緯の解明が進むこと、それが被害者の救済と業界が言う意味ではない技術の健全な発展に寄与することを祈念している。

2015/3/8:非常用ディーゼル周りに関して手直し。

« 【事故検証は】東電資料より10年も早かった1983年の福島沖津波シミュレーション(前編)【やり直せ】 | トップページ | 日本原子力技術協会が2007年に提起した想定外津波対策-社外からの予見可能性は具体的でなくても良い- »

東京電力福島第一原子力発電所事故」カテゴリの記事

コメント

福島原発事故では、各種の調査報告書が出されていますが、事故の経緯を調査検討しているものが殆どで、技術的な観点から、津波に対し、どのような対策をしていれば、あのような巨大津波に耐えられたのかを検討した研究や資料は殆ど見当たりません。
大変、ユニークな記事で参考にさせていただきたく存じますので、是非、一度メールを頂きたく、宜しくお願いします。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1666926/59123534

この記事へのトラックバック一覧です: 【文献は】東電資料より10年も早かった1983年の福島沖津波シミュレーション(後編)【公開せよ】:

« 【事故検証は】東電資料より10年も早かった1983年の福島沖津波シミュレーション(前編)【やり直せ】 | トップページ | 日本原子力技術協会が2007年に提起した想定外津波対策-社外からの予見可能性は具体的でなくても良い- »

無料ブログはココログ
2015年4月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30