無要の葉

ここにはあなたの探している正義はありません。

誠実でありたいけれど誠実な表明はしたくない

 久しぶりに承認欲求お化けの話をちょっとだけ。特に意味はありません。

 

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 何かを表明するにあたって「誠実」であることはとても大切なことだと思う。嘘を付いたりはぐらかしたり「お前のような小物と議論をしても無駄」とかそういう態度は誠実ではない。この辺は承認欲求と言うより自意識との戦いなんだと思う。自分自身の弱い心を見つめる勇気もないのに他人の見栄えよさそうなケーキを「ママ―あの人だけずるーいもらってきて―」という図々しさだけがクローズアップされているような、そんな感覚。

 

 だけど、この文を書いている人は百パーセント誠実になりたいかと言えば半分くらいは「誠実でない」ことを望んでいる。「誠実」という言葉の定義がどうのこうのになると厄介なんだけれど、多くの人は「素性をある程度明らかにしていること」に誠実さを感じていると思う。どこそこの会社の社長ですとか、何歳の子供を育てているママですとか、クズな引きこもりニートですとか。顔写真や私生活の様子なども出ているとより印象がよくなる。文章って言うのは考えをさらけ出すのが目的だからある程度書き手の素性が知れないと完全に誠実になることはできないっていう暗黙の了解みたいなのもあるし、生活の基盤が自分とかけ離れているとわかると「だから違う考えなのだな」とある程度線引きすることも可能だからだ。

 

 そんなふうに誠実であろうとすると、この文章を書いている人は困ってしまう。もちろん書いている人は人間なので今までの社会生活の蓄積とか社会的地位から見た歪んだ社会構造とかそういうのを論じることは可能だけれど、それをしてしまうとこの文章の書き手のイメージがガツンと固まってしまう。人によってはそれがありがたいことなんだろうけど、この文章を書いている人はそれを望まない。常にどこの誰だかわからない人が怪文書をとばして、「本当に君はそれでいいと思っているのかい?」と揺さぶりをかけるのが好きな下劣な性格をしているからだ。

 

 文章を書くときに「誰に向かって書いているか」を明確にするのが大事っていうのは基本なんだけれど、この文章の書き手はこの手の話題の時は主語をぼかしたり対象をあやふやにして「読み手の中から読み手に向かって飛ばしている文章」というのを頑張って書いているつもりだ。普段から「文章は外部に存在する」と線引きが出来ている人は惑わずこの文章の書き手の意図を読み取るけれど、文章に「共感」を求める人にとってこれは劇薬のようなものでヒットすれば満塁ホームランなんだけど、当たらなかった場合は無視することの出来ない汚らしい腐臭漂う化け物にしかならない。そんな時、この文章の書き手は唯一の神にもなれば同時に卑しい怪物にもなる。

 

 そんな文章が書きたいんだ。ツルツルの無味無臭な当たり障りのない文章が生き残る全てだったら、名誉ある死を遂げたい。死んでも死にきれずゾンビになって哲学するゾンビになりたい。それで無味無臭な塊に噛みついてバイオハザードを起こしたい。そうやって最後はゾンビの楽園を作りたい。みんなで腐って溶けて土に還りたい。

 

 そんなお化けに憑りつかれて随分経つ。そんなお化けは殺してしまえって言う人もいるけれど、長くお化けと同化していることでお化けを殺せば自分も死ぬと言うところまで来てしまっている。お化けと共存する道を探すしかない。

 

 ところでこのお化け、本当はほとんどの人に等しく憑りついているはずなんだけれどお化けの存在を認識しないで置き去りにしている人も結構いるんだなってことに気が付いたのがこのブログでごだごだ書き始めるきっかけにもなっている。そんなお化けは存在を認めてもらいたくて泣いている。いたずらに心を動かしてみたり余計なちょっかいをかけてみるけど、お化けの存在は認めたくない人が多いからなかなか認めてもらえない。

 

 地獄の刑期がもうすぐやってくる。その時どのステージに転生できるのか、それはそのときにならないとわからない。