NHK高校講座 日本史「琉球と北海道」 2015.04.09


日本政府は受け入れたが…歴史に対する憧れと深い知識を持ったアイドルの養成所。
それが日本史研究の殿堂高橋歴史女学館である。

(土保)館長。
(込山)お茶にしましょう。
え?あっ。
これはまたおいしそうですね。
どうしたんですか?今日は沖縄と北海道がテーマだと聞きました。
(向井地)だから私たち沖縄と北海道の名産品を用意したんです。
(込山)沖縄の代表的なお菓子のちんすこうと北海道のチーズです。
おいしそうでしょ?う〜んおいしそうですね。
皆さんは沖縄と北海道これどんなイメージを持ってますか?う〜ん暑い所と寒い所。
うん。
北海道はみそラーメンとかソフトクリームのおいしいイメージ。
うん。
沖縄はきれいな海とシーサー。
なるほどね。
みんないろんなイメージ持ってますね。
今日は沖縄と北海道の歴史です。
では早速今回学ぶべき重要ポイントを見てみよう。
今回の時代は…雄大な大地が広がる北海道。
ここにはアイヌ民族が暮らし明治以前には蝦夷地と呼ばれていました。
澄み切った海に浮かぶ島沖縄。
ここに独自の文化を育んできた海洋国家琉球王国がありました。
しかし江戸から明治にかけて清やロシアなどの影響を受けた琉球と蝦夷地には苦難の歴史がありました。
琉球から沖縄へ蝦夷地から北海道へどのようにして変わっていったのでしょうか。
今回押さえるべき「三つの要」は…日本の北と南。
その激動の歴史を見つめます。
はいこれを見て下さい。
沖縄がここ。
北海道がここ。
さあこれを見てどう思いますか?沖縄は結構本州から遠く離れていますね。
中国とも近いんですね。
北海道も東京より大陸の方に近いですよね。
そうなんですよね。
歴史というのは地理的な影響を大きく受けます。
北海道と沖縄も例外ではありません。
それではまずはこちらの北の大地今の北海道の歴史から見ていこう。
「三つの要」その一。
蝦夷地と呼ばれた今の北海道。
樺太千島列島にはアイヌ民族が住んでいました。
彼らは雄大な自然の中で魚や獣鳥などを糧として大自然と共に暮らしていました。
そしてコタンという集落を作り独自の言葉を使い独自の文化を育んでいました。
江戸時代には北海道は蝦夷地と呼ばれていました。
和人つまり本州系の日本人たちとアイヌ民族との間で交易が行われていました。
現在の北海道の南端に拠点を置いていた松前藩はアイヌの人たちとの交易を主な収入源としていました。
アイヌ民族からはサケや昆布毛皮など。
松前藩からは米などを交換する交易でした。
しかし僅かな米と大量の海産物を交換する松前藩の不当な交易にアイヌの人たちの不満が高まります。
そして1669年漁業権を巡るアイヌ内部の争いを契機に静内の首長シャクシャインを中心にした勢力が一斉に蜂起。
松前藩に戦いを挑みました。
シャクシャインの戦いです。
これに対し松前藩は津軽藩などの協力を得てこれを鎮圧。
戦いに敗れたアイヌ民族は以後全面的に松前藩の支配下に置かれていく事になったのです。
アイヌの人たちの生活は江戸時代に松前藩によって支配されてしまったんですね。
そうなんです。
そして江戸時代の終わりごろになりますと蝦夷地を巡ってロシアとの今度紛争が起きてくる訳ですよ。
じゃあアイヌの人たちは日本とロシアの紛争に巻き込まれてしまったんですか?そうですね。
2つの国に挟まれたアイヌの人々は大きな影響を受ける事になります。
ではその蝦夷地がどうなっていったのかその様子を見てみよう。
「三つの要」その二。
18世紀末から蝦夷地を巡って日本とロシアとの間に紛争が起きるようになりました。
危機感を覚えた幕府は1807年蝦夷地の全てを幕府の直轄地とします。
そして1855年開国した日本はロシアと日露和親条約を結びました。
この条約で日本とロシアは国境について取り決めました。
千島列島における日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とし樺太においては国境を確定せずこれまでの慣習どおり日本とロシアの雑居の地としました。
その後明治になると国境が確定していなかった樺太を巡ってロシアと紛争が続きました。
そこで1874年榎本武揚を特命全権公使としてロシアに派遣。
樺太・千島交換条約を結び樺太をロシア領千島全島を日本領とする事で国境が確定しました。
しかしそのように国境が確定する中で北海道樺太千島などに暮らしていた先住民族の意見が取り入れられる事はありませんでした。
こうした中日本政府は蝦夷地の開拓を本格化させていきます。
1869年蝦夷地は「北海道」と名前が改められました。
同時に富国強兵を目指す明治政府は開拓使を設置し本格的な開拓に乗り出したのです。
当初北海道開拓の中心となったのは各地から移住してきた農業兼業の兵士である屯田兵でした。
彼らはロシアに対する警備も兼ねていました。
更に農業などに西洋の技術を取り入れながら開拓事業は進んでいきました。
…で有名なクラーク博士が開拓使の招きで来日。
札幌農学校でアメリカの近代農法などを教えました。
チーズもこのころ本格的に日本で作られたといわれています。
開拓が進むと北海道の人口は急激に増え1870年に6万ほどだった人口が1912年には170万を超えます。
しかしこの間にアイヌ民族の人口はほとんど変わっていませんでした。
明治政府はアイヌ民族に農業に従事するよう促しました。
その結果それまでの生活基盤であった狩猟や漁業などの権利を失っていったのです。
日本が近代化していく中でアイヌの人たちの生活も大きく変わっていったんですね。
そうですね。
日本にとってロシアに近いという地理的な条件もありまして北海道を開拓していく事これが重要だったんですね。
じゃあこのチーズもこのころに作り始められたんですね。
そのとおりなんです。
明治時代からチーズやバターが作られる。
製造が始まったんですね。
館長。
じゃあちんすこうは?ちんすこうというのはですね琉球王国の時代にはもう既に作られていたお菓子です。
それでは次に南の地琉球の歴史を見てみましょう。
「三つの要」その三。
琉球は14世紀からおよそ500年にわたり中国皇帝から琉球国中山王という号を与えられ中国を頂点とする華夷秩序の中にありました。
琉球と中国はお互いに使節団を派遣し朝貢貿易という形で交易を盛んに行っていました。
1609年薩摩の島津氏は江戸幕府に許可を得て琉球に侵攻。
撃て〜!敗北した琉球は実質的に薩摩藩の支配下に置かれる事になります。
しかし琉球の人たちにとって中国との貿易は欠かせないものでした。
そのため琉球は独立した王国の形を取り中国とも関係を続けました。
これは琉球王国の中心だった…正殿に向かって左側にあるのが中国の使者を迎えるのに使われていた…朱塗りで丸い柱を用いて中国風の造りになっています。
一方右側の南殿は薩摩藩との行事に使われました。
四角い柱で白木造りの和風の造りになっています。
琉球王国は中国と日本とバランスを取りながら2つの国との関係を保ち続けていたのです。
時代は変わり江戸から明治。
1871年明治政府は清と日清修好条規を結びます。
日本と清が初めて結んだこの条約はお互いの領事裁判権を認め合うなど対等の条約でした。
翌年日本は琉球藩を設置し琉球は日本に帰属するとしました。
しかし清はこれを認めませんでした。
1871年…大久保利通らが北京に渡り出兵は日本に属する人々を守るためだったと主張。
清は事件の責任を取って日本に賠償金を支払う事になりました。
これにより琉球は日本に属すると見なした明治政府は琉球藩を廃止。
沖縄県とする事を進めました。
しかし清は琉球の宗主権を主張し続けました。
これに対し琉球の人たちは清日本両国とこれまでどおりの関係の維持を望みました。
1879年明治政府は武力を背景に琉球藩を廃して沖縄県とする琉球処分を行います。
琉球国王を東京に移し沖縄に軍隊や警察を置き日本の法律を適用していきます。
しかしその一方で明治政府は旧慣温存という琉球王国の古い慣習や制度も認める政策をとりました。
急激な改革によって琉球の旧支配層が反発する事を防ぐためでした。
例えばカタカシラと呼ばれた男性の髪の結い方や女性が手などに入れ墨をする風習もそのまま残っていました。
しかし1893年に宮古島で旧慣の一つに対する反対運動が起こります。
琉球時代からの税制度人頭税に苦しめられていた宮古島の住人が沖縄県知事に人頭税の廃止を訴えたのです。
一方1894年に起きた日清戦争で日本が勝利した事により清の宗主権は否定されました。
そして明治政府は清国寄りだった琉球の旧支配層の動向を気にする必要がなくなったのです。
旧慣温存の政策は改められ沖縄の人々は完全に明治政府に統治されるようになっていきます。
沖縄にそんな歴史があったなんて私知りませんでした。
1879年に沖縄県になったっていう事は今から100年以上も前の事だったんですね。
そうなんですね。
日本が近代化を進める中で国境を決めるという事は大変重要な事だったんですね。
でも館長…そうですね〜。
じゃそれはですね特別講師に聞いてみましょうか。
(3人)はい!ここで更に歴史を深く掘り下げてみたいと思います。
我が女学館の特別講師小風先生です。
(一同)よろしくお願いします。
先生。
どうしてこのころ国境を決める事が重要だったんですか?え〜っとちょうどこのころっていうのは世界史的にですね近代国際法という新しい世界のルールというものが世界中にこう広まっていった時期なんですね。
そのルールの中では土地人間これは必ずどこかの国に属するという形で決まっていく。
それまでは曖昧だったんですか?かなり曖昧だったですね。
これをご覧頂きたいんですけども日本から見ればこの北海道…蝦夷地もですね沖縄…琉球も日本と非常に深い歴史的関係を持っている地域でした。
ところがこの北海道沖縄それぞれやはりロシア中国という国とも非常に深い関係を持っている訳ですね。
そうすると日本と深い関係にあるからといってそのまま近代国家としての日本に属するというふうには簡単にはいかない。
それは北海道の場合ですと樺太という島は日露雑居の地でした。
つまりどちらの国でもない。
日本でもない。
ロシアでもない。
逆に日本でもあるしロシアでもあるという非常に曖昧な訳ですね。
で沖縄…琉球は華夷秩序の下に清との間に関係を持っていましたけれども薩摩藩の支配下に置かれていると。
そういう意味では日清両属の地域だった訳ですね。
この両属というのも非常に曖昧な形だった訳。
やっぱりこの雑居とか両属とかいう関係が近代世界の中においては存続できなくなってくる。
要するに国の境を決めなさいっていう事ですか。
そういう事です。
例えば北海道に住んでる人あるいは沖縄に住んでる人たちの意見とかそういうのってその当時は聞く事ではないんですか。
それがなかなか難しいところなんですけどもちょっとこのパターンをご覧頂きたいと思います。
じゃあ持ちましょうか。
ありがとうございます。
基本的には日本という国の中に含まれてくる事になるんですけれども実はですねこの本土というのが日本です。
九州から青森まで。
そうですね。
その地域を指してますがこの地域では徴兵令は1873年。
これは国民の義務の一つですね。
国民の権利の代表的なものとして参政権。
北海道や沖縄ではそれがかなり遅れて実施される訳ですね。
相当遅れてるって事ですね。
(小風)そうですね。
それまでは治められてはいるけれども参政権もなければ徴兵制もなければ…。
(小風)権利もなければ義務もない。
そういう地域だった。
権利を与えられ義務も課せられる。
その事によって国民になる訳ですがそれにはかなりの時間が必要だったという事ですね。
こういう歴史があったって事なんですね。
はい。
(一同)どうもありがとうございました。
チーズやいろんなお菓子の背景にはいろんなものが詰まってるんですね。
うん。
もっと歴史を知るために修学旅行は沖縄と北海道に行きたいです。
賛成!沖縄と北海道両方?
(3人)はい。
どっちも?
(3人)どっちも!ちょっと予算厳しいかな。
歴史を詳しく知るためです。
歴史のためかあ。
う〜ん。
どうしましょうか。
17世紀…富国強兵を目指す明治政府は蝦夷地を北海道と改め開拓を進めた。
江戸時代琉球王国は島津氏の支配下に置かれていた。
19世紀後半明治政府は武力を背景に琉球藩を廃し沖縄県とした。
2015/04/09(木) 14:40〜15:00
NHKEテレ1大阪
NHK高校講座 日本史「琉球と北海道」[字]

日本の今は、誰が、どのように作り上げたのか? 日本史研究の殿堂、高橋歴史女学館がその謎に迫る。出演:高橋英樹・AKB48(向井地美音、土保瑞希、込山榛香)

詳細情報
番組内容
江戸時代以前に蝦夷地(えぞち)と呼ばれた北海道では、アイヌ民族が独自の言語と文化を育みながら暮らしていた。また、現在の沖縄県には琉球王国という海洋国家があった。そんな二つの地域は、近世から近代にかけてどのような歴史を歩んだのだろうか? 明治政府と清との関係や、ロシアをはじめとする欧米列強との関係に注意しながら学んでいく。
出演者
【講師】お茶の水女子大学大学院教授…小風秀雅,【出演】土保瑞希,向井地美音,込山榛香,【司会】高橋英樹,【語り】杉村理加

ジャンル :
趣味/教育 – 中学生・高校生
趣味/教育 – 大学生・受験
趣味/教育 – 生涯教育・資格

映像 : 480i(525i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

OriginalNetworkID:32721(0x7FD1)
TransportStreamID:32721(0x7FD1)
ServiceID:2056(0x0808)
EventID:7400(0x1CE8)

カテゴリー: 未分類 | 投稿日: | 投稿者: