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合同会社琉球の未来
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てぃーだブログ › 合同会社琉球の未来 › 中国古典を活用 › 昨日の続き(五十八回目)

2015年04月11日

昨日の続き(五十八回目)

昨日の続きで「道を学ぶ」の解説を紹介しよう。
今日の話は女偊(じょう・道の体得者)が
南伯子葵(なんぱくしき)に対して、
卜梁倚(ぼくりょうき)を道の体得・・・
絶対世界への参入へと
導いたプロセスを語っている。
卜梁倚は聖人の素質はそなえているが、
聖人の道を聞いたことがない。
その彼に対して慎重に聖人の道を
告げてやるところから始まる。

道を体得するまでのプロセス

一、三日目には天下の存在を忘れるようになった。

二、七日目には物の存在を忘れるようになった。

三、九日目には自分の存在を忘れるようになった。

四、自分の存在を忘れてから、
朝徹(ちょうてつ)の境地・・・朝の大気のように
澄み切った境地(悟りが開けた)に
入るようになった。

五、さらに見独の境地・・・おのれだけがあって
対立者のない境地に入るようになった。

六、さらにまた古今の時間を超越する境地
・・・古も今もない境地に立つことができた。

七、最後に生も死もない境地
入ることができるようになった。

生命の死滅をつかさどるものには死がなく、
生命の生成をつかさどるものには生がない。
それが道というもので、
その境地は一切を見送り、一切を迎い入れ、
一切を滅ぼし、一切を生み出すという。

それを攖寧(不生不死の道と自己とが
一つに抱擁しあって実現する境地)だという


そこで南伯子葵は、「あなたは誰から
道のことを聞いたのかね」とたずねた。

すると女偊は、私が初めにそれを学んだのは、
副墨(ふくぼく)の子」文献であるが、
文献はそれを「洛誦(らくしょう)」
すなわち洛(くりか)し読誦しているうちに
瞻明(せんめい)」すなわち明らかな理解に達し、
明らかな理解に達すると、「聶許(じょうきょ)」
すなわち、なるほどと聶(つぶや)き
合点する境地に達し、その合点が

「需役(じゅえき)」すなわち実践的試みによって
裏づけられると、そこに「於謳(おおう)」
歓喜の歎声が発せられ、その詠歎はさらに
玄冥(げんめい)」真理そのものとの
玄(おく)ふかい冥合となり、

その冥合はさらにまた「参寥(さんりょう)」
寥たり寂(せき)たる実在そのものへの参入となり、
その参入はついに「疑始(ぎし)」
宇宙の根源に疑(なぞら)えられる道と
自己との抱擁すなわち「攖 寧」となるのだと
福永氏は説明している。

以上が今日の話の内容であるが、
要するに道を体得する為には、
これだけの段階を経なければ
到達出来ないのである。

道は誰でも学べるわけではなく、
卜梁倚のような聖人の素質をそなえていて、
道を体得した女偊のような人がいて始めて
可能になるようだ。

そして最終的には、「攖寧」に至るのである。
私は「攖寧」・・・不生不死の道と自己とが
一つに抱擁しあって実現する境地
だというが、
それがどういうものか、理解出来ていない。
やはり「荘子」を理解するのには、
時間がかかるかもしれない。


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Posted by 合同会社琉球の未来 at 07:25 │中国古典を活用

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