表記文字、漢字カタカナひらがなローマ字
表記文字、漢字カタカナひらがなローマ字
日本の国語が日本語であることは日本人には当たり前のことであろう。国語とは国の語(ことば)日本の国の言葉は日本語に決まってるでしょ、あなたバカじゃない、と言う向きもいよう。しかし、多くの国では国語は法律で定まられている。仏はフランス語と法定されているそうだ。ここフィリピンはFilipinas:タガログ語をベースにした標準語と英語である。日本は国語を法律で日本語と定めなくても良いということが如何に幸せか考えていただきたい。しかし、すをsと生活をせーかつと発音するような標準語を強制すべきではない。耳障り、感覚を疑う。アイヌ語、琉球語、全国の方言は伝承していってほしい。言語はあるがままが一番。
近所の子供が通信簿を見せてくれた。学力は100満点、資質は5段階評価。ところが表記は英語である。理由は数学、英語などの語彙がFilipinasにないからであろう。したがって外来語をそのまま使用するしかない。悲しいことでねと言った日本人がいるが、日本語とて大和言葉で全てを表現することはできない。半分以上は漢語呉語が使われている。概念がなければ外来語をそのまま使うことになる。この点明治政府は、明治の日本人は偉い。哲学、自由、権利などの多数の日本語を発案創設した。これらを大和言葉に置き換えることができようか。和漢混交はいい線いっているのではないだろうか。
漢字熟語を憶えるのは大変だから日本語の表記をローマ字に統一しようと主張がある。これは一面の真理であり見識ではあるが、私は賛成できない。むしろ反対である。その理由は次のとおりである。
①同音意義対処できるか。来い、濃い、恋、乞い、請い、鯉、漕い、故意など。
②文節、単語の区切りをどうするか。kaneokuretanomu は金送れ頼むか、金をくれた飲むか。
③表意文字の利点を犠牲にするのか。
漢字は意味を表しているから読めなくても見ただけ意味がわかる。請走緩はゆっくり歩いて?日が生
まれると星になる。日と月では明るいでしょう。龜は書けないが読める、略し過ぎの中国は問題であ る。八達嶺を中国式に略すと想像もつかなくなる。程々に。本字は読めれば書けなくてもいい。漱石 鴎外を読めば旧かなづかいも分かってくる。たけくらべも読めたが源氏物語はギブアップ。
Huyusoubiでは感じが出ない。冬薔薇は冬装備じゃないの?では谷村新司が泣こう。
④日本文化遺産を粗末にできるか。
大和民族は文字を持っていなかったから、漢字が伝わるとこれは便利と普及する。しかし万葉仮名で は木で鼻を括ったようだ。伊はイだけで十分。いいけどさ柔らかいのない。以はいでどうです。いい ね、木に竹を継いだぐらいにはなった。こうした鋭意工夫は日本文化の礎となっているのだ。
国際化進むと日本語が世界に普及するのか、衰退するのか、今日的問題である。日本政府は外国人看護師介護士を必要としているのに試験問題は日本語でとはアホや。運転免許証は英語中国語でも出されている。政府の無策無能のとばっちりで日本文化が損なわれるのは御免だ。
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