君の膵臓を食べたい
クラスメイトであった山内桜良の葬儀は、生前の彼女にはまるで似つかわしくない曇天の日にとり行われた。
彼女の命の価値の証として、たくさんの人の涙に包まれているのであろうお葬式にも、昨日の夜の通夜にも僕は行かなかった。僕はずっと家にいた。
幸い、僕に出席を強いるような唯一のクラスメイトはもうこの世からいなくなっていたし、教師やあちらの親御さんに僕を呼ぶ権利も義務もあるはずなく、僕は自分自身の選択を尊重出来た。
もちろん本来なら誰に呼ばれずとも高校生である僕は学校に行かなくてはならないのだけど、彼女が休日中に死んでくれたおかげで、天気の悪い日に外に出なくてもすんだ。
共働きの両親を見送って適当な昼食をとってから、僕はずっと自室に籠った。それがクラスメイトを失った寂しさや空しさからきた行動かと言えば、違う。僕はクラスメイトであった彼女に連れ出されない限りは、以前から休日を自分の部屋で過ごす性分だった。
部屋で僕は大抵の時間、本を読んでいる。指南書や自己啓発本は好まず、小説をすすんで読む。ベッドの上に転がって、白い枕に頭や顎を預けて、文庫本を読む。ハードカバーは重いから、文庫本の方がいい。
現在読んでいる本は、彼女から以前借りたものだ。本を読まない彼女が人生で唯一出会った至高の一冊。借りてからずっと本棚に積んであって、彼女が死ぬ前には読んで返そうと思っていたのに、それも間に合わなかった。間に合わなかったものは仕方がないので、読み終わったら彼女の家に返しに行くことにする。彼女の遺影に挨拶をするのはその時でいい。
転寝をしながら、残り半分ほどだったページ数を読み終わる頃には夕方になっていた。カーテンを閉め切って蛍光灯の力で視力を得ていた僕は、時間の経過を携帯にかかってきた一本の電話によって知った。
電話は、なんてことはない母親からのもので、最初の二回は無視していたのだけど、流石にこれ以上は夕飯に関わりそうだと思って携帯電話を耳にあてた。電話の内容は、米を炊いておけという指令だった。僕は母に了承の意を伝え、電話を切った。
携帯電話を机の上に置く前に、ふと気がつく。その機器に触るのは、二日ぶりだった。意識的に避けていたわけではないと思う。なんとなく、というにはあまりにも意味深かもしれないけど、僕は携帯電話に触ることを忘れていた。
未だ開閉式の僕の携帯電話。開いて、メールの項目を呼び出し、受信トレイを見る。未開封のメールは一通もなかった。当然と言えば当然のことだ。続いて送信済みメールを確認する。そこに、通話以外の機能では最新の利用が見てとれる。
僕が、クラスメイトだった彼女に送ったメールだ。
たった一言のメール。
これを、彼女が見たのかどうかは知らない。
一度は部屋を出て台所に行こうとしたのだけど、僕はもう一度ベッドに突っ伏した。彼女に贈った言葉を心の中で反芻した。
僕は、彼女がそれを見たのか知らない。
『君の膵臓を食べたい』
見ていたとして、彼女はそれをどう受け取っただろうか。
考えていると、眠ってしまっていた。
結局、米は母親が帰ってきてから炊いた。
僕は夢の中で彼女と会っていた、かもしれない。
「君の膵臓を食べたい」
学校の図書室の書庫、ほこりっぽい空間で本棚に並べられた書籍達の順番が正しいものか確認するという、図書委員としての任務を忠実にこなしている最中に、山内桜良がおかしな告白をしてきた。
無視しようかと思ったけど、この空間にいるのは僕と彼女だけで、ひとり言というにはあまりに猟奇的なそれは、やっぱり僕に向けられているんだろう。
仕方なく、背中合わせに本棚を見ているはずの彼女に反応してあげる。
「いきなりカニバリズムに目覚めたの?」
彼女は、大きく息を吸って、ほこりに少しむせてから、意気揚々と説明を始めた。僕は彼女の方を見ない。
「昨日テレビで見たんだぁ、昔の人はどこか悪いところがあると、他の動物のその部分を食べたんだって」
「それが?」
「肝臓が悪かったら肝臓を食べて、胃が悪かったら胃を食べてって、そうしたら病気が治るって信じられてたらしいよ。だから私は、君の膵臓を食べたい」
「もしかして、その君っていうのは僕のこと?」
「他に?」
くすくすと笑う彼女もこちらを見ず仕事に従事しているようだった。ハードカバーの本を並び替える音が聞こえる。
「僕の小さな内臓に君を救うなんていう重荷は背負わせられないな」
「プレッシャーで胃まで痛くなっちゃいそうだね」
「だから他をあたってよ」
「他に誰をあたれって? 流石の私も家族は食べられる気しないなぁ」
また彼女はくすくすと笑う。僕と言えば、真面目にも無表情で仕事をこなしているのだから、見習ってほしいものだ。
「だから、結局【秘密を知ってるクラスメイト】くんにしか頼めないよ」
「君の算段の中には僕が膵臓を必要としてるって可能性はないの?」
「どうせ膵臓の役割も知らないんでしょうにー」
「知ってるよ」
知っている。その聞き慣れない臓器のことを、僕は以前調べたことがある。無論、彼女がきっかけで。
後ろで、彼女が嬉しそうに振り返ったのが息遣いとステップの音で伝わってきた。僕は本棚の方に体を向けたまま、ちらりと一瞬だけ彼女を見やる。そこには汗だくで、もうすぐ死ぬとは思えない笑顔を浮かべる女の子がいた。この温暖化のご時世、もう七月だというのに書庫はエアコンが効いていない。僕も汗だくだ。
「もしかして、調べたりしたの?」
彼女の声があまりに弾んでいたので、仕方なく僕は質問に答えてあげる。
「膵臓は、消化と、エネルギー生産の調整役だ。例えば糖をエネルギーに変える為にインスリンを作ってる。もし膵臓がないと、人はエネルギーを得られなくて死ぬ。だから君に膵臓をご馳走することは出来ないんだ。ごめんね」
一気に言ってしまって仕事に戻ると、彼女はうわははっと声を出して笑った。僕のジョークがそんなにうけたのかと少し得意になっていると、どうやら少し違うらしかった。
「なんだあ、【秘密を知ってるクラスメイト】くんも私にちゃんと興味持ってくれてるんだねえ」
「……そりゃあ、重病に罹ってるクラスメイトなんて興味がつきない」
「そういうんじゃなくて、私っていう人間には?」
「……さあ」
「なんだよそれー」
言いながら彼女はまたうわははっと笑う。きっと暑さでアドレナリンが出て頭がおかしくなっているのだろう。僕はクラスメイトの容体を憂う。
黙って作業を続けていると、図書室の先生が僕達を呼びにきた。どうやら図書室を閉める時間になっていたようだ。僕達は確認が終わったところまでの目印として一冊の本を少し前に出しておき、忘れ物がないか見回ってから書庫を出た。暑い部屋から出ると、図書室内に行き渡ったクーラーの冷えた風が汗ばんだ体にあたり、身震いした。
「すっずしー」
彼女は嬉しそうにくるりと回って図書室利用受付カウンター内に入り、自分の鞄からタオルを取り出して顔を拭いた。僕もだらりと彼女に続き、カウンターに入って濡れた体を処理する。
「お疲れ様、もう閉めたからゆっくりしていって。ほら、お茶とお菓子」
「わー、ありがとうございます!」
「ありがとうございます」
先生が出してくれた冷たい麦茶を一口飲んでから、図書室内を見渡す。確かに、生徒は一人もいなかった。
「おまんじゅう美味しい」
全てのポジティブなことにいちいち反応する彼女は、カウンター内の椅子に座り早くもくつろいでいる。僕もお菓子を一つ手に取り、彼女とは少し離れた位置に椅子を移動させ座る。
「二人共ごめんね、来週からテストだっていうのに」
「いえいえー、大丈夫ですよ。私達いつもそこそこの点数取れる組ですから。ね、【秘密を知ってるクラスメイト】くん」
「まあ、授業聞いてればね」
適当に答えてまんじゅうをかじる。美味しい。
「二人共大学とかはもう考えてるの? 山内さんは?」
「私はまだ考えてないですねー、まだっていうかもうっていうか」
「【大人しい生徒】くんは?」
「僕もまだ、です」
「駄目だよ、【秘密を知ってるクラスメイト】くんはちゃんと考えないとー」
二つ目のまんじゅうに手を伸ばしながら彼女がお節介を焼いてくる。僕は無視して麦茶を一口飲んだ。市販の麦茶の味、慣れ親しんだその味が美味しい。
「二人共未来のことはきちんと考えないとね。気を抜いてると、私と同い年になってるかもしれないわよ」
「うわははっ、それはないですよー」
「…………」
彼女の言う通りだ。それはない。
彼女と先生は楽しそうに笑いあったけど、僕は笑わずにまんじゅうを一口食べてそれを麦茶で流した。
彼女が四十代の先生と同じ年齢に辿り着くことはない。それはこの場では僕と彼女だけが知っていることで、だから彼女は僕に目配せをしてから笑った。まるでアメリカの映画に出てくる俳優が、ジョークを言う時ウインクをするみたいに。
ただ、言っておくけど僕が笑わなかったのは、彼女のジョークが不謹慎で笑えなかったからじゃない。彼女の「私面白いこといってるでしょ」という得意げな表情が癇に障ったからだ。
僕がむすっとしていると彼女は悔しそうに厳しい目つきを僕に向けた。僕はそれを見てやっと控え目に唇の端を上げてあげた。
閉館後の図書室に三十分程居座り、僕らは家に帰ることにした。先生に別れの挨拶をして、下駄箱へと向かった。下駄箱に着くと、六時を回るというのにまだまだ張り切っている太陽の下で頑張る運動部員達の声が聞こえてきた。
「書庫暑かったねー」
「そうだね」
「明日もあれやんのかー、まあ明日学校くれば休みだしねー」
「そうだね」
「……聞いてるの?」
「聞いてるよ」
上靴をローファーに履き替えて、下駄箱の並んだ昇降口を出る。校門は昇降口を挟んで運動場とは反対の位置にあるので野球部やラグビー部の声が少しずつ遠ざかる。彼女はとんとんとつま先を鳴らしながらわざわざ早足で僕に並んだ。
「人の話はちゃんと聞きなさいって教わらなかったの?」
「教わったよ、だからちゃんと聞いてたって」
「じゃあ私どういう話してた?」
「……まんじゅ」
「はい聞いてなーい! 嘘はダメでしょ!」
まるで幼稚園の先生みたいに、彼女は僕を高圧的に叱りつける。男子としては低い僕の身長と、女子としては高い彼女の身長はほぼ同じ。むしろほんの少し低い視線から叱られるというのはなかなか新鮮だ。
「ごめんごめん、考えごとをしてた」
「ん、考えごと?」
彼女はしかめていた顔を嘘みたいに晴れさせて興味津津といった様子でこちらを覗き込んできた。僕は彼女と少し距離をとってから、控え目に頷く。
「そうだよ、ずっと考えてたんだ、僕にしては真剣に」
「お! 一体どうしたの?」
「君のことだよ」
僕は立ち止まらず、彼女の方も見ず、ごく普通の会話になるように、劇的な雰囲気になんてならないように気を付けた。あまりに真剣に取られると面倒臭そうだから。
そういう僕の画策も全て飛び越えて、彼女は予想通りの面倒臭いリアクションをとった。
「私? えー、なんだよー、愛の告白ー? きゃー! 緊張しちゃう!」
「…………違うよ。あのさ」
「うん」
「残り少ない命を、図書室の片づけなんかに使っていいの?」
僕の極めて何気ない質問に、彼女は首をかしげた。
「いいに決まってるじゃん?」
「決まってはないと思うよ」
「そう? じゃあ他に何をしろって言うの?」
「そりゃあ、初恋の人に会いにいくとか、外国でヒッチハイクをして最期の場所を決めるとか、やりたいことがあるんじゃないの?」
彼女は、今度は反対方向に首を傾げた。
「んー、言いたいことは分かんなくもないけどさ。例えば、【秘密を知ってるクラスメイト】くんにも、死ぬまでにやりたいことはあるでしょう?」
「…………なくはない、かな」
「でも今それをやってないじゃん。私も君も、もしかしたら明日死ぬかもしれないのにさ。そういう意味では私も君も変わんないよ。きっと。一日の価値は全部一緒なんだから、何をしたかの差なんかで私の今日の価値は変わらない。私は今日、楽しかったよ」
「…………なるほどね」
確かにそうかもしれない。彼女の断言に、僕は悔しくも納得しかけてしまった。
僕だって、近い将来彼女が死ぬみたいに、いつか絶対死ぬ。それはいつくるか分からないけど、確実な未来。もしかしたら彼女が死ぬ前に僕が死ぬことだってあるかもしれない。
流石、死を自覚している人間の言うことにはそれなりの深みがある。隣を歩く彼女の評価が僕の中で少し上がった。
もちろん彼女にとって僕の評価なんてどうでもいいことだ。彼女には、彼女を好きな人間がとても多いから僕なんかに構っている暇はない。その証拠に、校門の方からサッカー部のユニフォームを着て走ってくる男子が、歩く彼女の姿を見つけて表情を咲かせた。
駆け寄ってくる彼に、彼女も気づいたようで軽く手をあげる。
「頑張ってー」
「おつかれ、桜良ー」
すれ違うサッカー少年は爽やかな笑顔で颯爽と走り去っていった。確か彼は僕のクラスメイトでもあったはずだが、僕には目もくれなかった。
「あいつー、【秘密を知ってるクラスメイト】くんを無視しやがってー。明日注意しとくね!」
「いいよ、いやむしろやめて。気にしてないから」
本当に気にしていない。僕と彼女は、まるで正反対の種類の人間で、結果クラスメイトからの扱いが僕と彼女でまるで違うとしても、仕方のないことだ。
「もー、そんなんだから友達が出来ないんだよー」
「事実だけど、余計な御世話だよ」
「もー、そんなんだからー」
言っている間に、僕らは校門についた。僕の家と彼女の家は学校を挟んで反対側にあるので、彼女とはここでお別れだ。本当に残念ながら。
「じゃあ」
「さっきの話だけどさー」
躊躇なく背を向けようとした僕を、彼女の言葉が止めた。彼女の顔を見ると、何かいたずらを思いついたような嬉しそうな顔をしていた。僕は決して嬉しそうな顔をしていなかったと思う。
「どうしてもっていうなら【秘密を知ってるクラスメイト】くんに残り少ない私の人生の手助けをさせてあげてもいいよ」
「どういう意味?」
「日曜日空いてる?」
「あー、ごめん、可愛い彼女とデートの約束があるんだ。あの子、ほっとくとすぐヒステリックになるから大変で」
「嘘だよね?」
「嘘だったら?」
「じゃあ、日曜日のお昼十一時に駅前集合ね! 『共病文庫』にもちゃんとつけとくから!」
言いきって、僕の了承なんて最初から必要ないという調子で、彼女は手を振りながら僕の帰路とは反対側に歩いていった。
彼女の姿の向こう、夏の空はまだオレンジとピンクとほんの少しの群青の間で僕らを照らしている。
手はふり返さず、僕も今度こそ彼女に背を向けて家に帰る。
騒がしい笑い声がしなくなって、空を群青が占める割合が少しずつ増えてきて、僕はいつもの道を歩く。
きっと、僕が見ているいつもの帰り道と彼女が見るいつもの帰り道ではその一歩一歩の見え方がまるで違うのだろうなと思いつく。
僕はきっとこの道を卒業するまで歩き続けるだろう。
彼女は、あと何度同じ道を歩けるのだろうか。
でもそうだ、彼女の言った通り、僕だってあと何度この道を歩けるのかは分からない。彼女の見る道の色と、僕の見る道の色は本当なら違ってはいけないんだ。
首筋に指をあてて生きているか確認する。鼓動に合わせて足を出すと、儚い命を無理矢理揺さぶっている感覚がして、気分が悪くなった。
夕風が吹き、生きている僕の気分を紛らわしてくれる。
少しだけ、日曜日に出かけるかどうかを、前向きに考える気になった。
医学は、知らない間に進歩していた。それは僕だって詳しいことは何も知らないし、知る気にもならない。ただ言えるのは、医学は少なくとも、命に関わる大病を患って余命が一年未満という少女が、誰にも異常をばれずに日常生活をおくれるくらいには進歩していた。つまり人はまた人として生きる時間を延ばす能力を得た。僕は、病気なのに動き続けるなんて機械のようだと思っていたけれど、僕の感想なんて大病を患った全ての人にとってどうでもいい。
彼女もまた、余計な思想に邪魔されたりせず、医学の恩恵を存分に享受した。
だから、彼女が僕というただのクラスメイトに病気を知られてしまったのは、彼女の運の悪さと詰めの甘さの所為に他ならない。
その日、僕は学校を休んだ。盲腸の手術、自体ではなく術後の抜糸の為に。体調もよく病院での施術もすぐに終わった。学校にも遅刻して行くはずだったのだけれど、大きな病院ゆえの待ち時間の長さと、ついでだから学校を休もうという僕の意地の悪さが、僕を病院のロビーに留まらせた。
些細な気持ちだった。ロビーの隅、端っこにぽつんと置かれたソファーの上に、一冊の本が置き去りにされていた。自分で持って来ていた小説も読み終わり、フロア内をぼうっと見ていて気がついた。誰かの忘れものだろう、という考えと同時に、一体どんな本なのだろうという、本好き特有の期待めいた興味が頭をもたげ、僕を動かした。
患者達の間を縫って、ソファーに近づき、座る。本は外側を見たところでは三百ページ強の文庫本だった。病院の近くにある書店のカバーがかけられている。
カバーを外して題を確認しようとしたところで、少々驚いた。書店のカバーの下には本来文庫本そのものに付いているはずのカバーはなく、本体の題名のところが黒いマジックで塗りつぶされていた。代わりに、塗りつぶされた題名の上部に同じく黒いマジックで『共病文庫』と書かれていた。もちろんそんな出版元は聞いたことがない。
一体、これは何なのか、考えても答えが見つからないので、ぺらりと一枚ページをめくってみる。
最初のページ、目に入ったのは、慣れ親しんだインクの文字ではなく、ボールペンで丁寧に手書きされた、つまりは人が書いた文章だった。
こうあった。
『20××年 11月 23日
本日から、共病文庫と名付けたこれに日々の想いや行動を書いていこうと思う。家族以外の誰にも言わないけれど、私は、あと数年で死んじゃう。それを受け止めて、病気と一緒に生きる為に書く。まず私が罹った膵臓の病気っていうのはちょっと前まで判明した時にはほとんどの人がすぐ死んじゃう病気の王様だった。今は症状もほとんど出なくできて……』
「膵臓……死ぬ……」
僕の口から思わず、日常では発音するはずのない音の並びがこぼれ落ちた。
なるほど、どうやらこれは、余命を宣告された誰かの闘病日記、いや、共病日記らしい。あまり、見ていいものではないな。
それを僕が理解した時、座った僕の頭上から声が降ってきた。
「あの……」
声をかけられ顔をあげて、驚いたが表情には出さなかった。驚いたのは声を発した相手の顔を知っていたから。感情を隠したのは、彼女は僕に本とは関係なく声をかけたのかもしれないと思ったからだ。というか、恐らくこんな僕でも、同級生が余命幾許もないという運命を背負っている可能性を、否定したかったのだろう。
クラスメイトが声をかけてきたことにだけ関心を持ったという顔を作って、彼女の言葉を待つと、僕の薄っぺらい期待を嘲笑うみたいに彼女は手を差し出した。
「それ、私のなんだ。【地味なクラスメイト】くん、どうして病院に?」
当時、彼女とほとんど会話をしたことのなかった僕は、彼女について自分とは正反対の明るく溌剌としたクラスメイトという情報しか持っていなかった。だから彼女が、重大な病気のことを関係の薄い僕に知られたというこの状況で、気丈に笑顔を浮かべられていることに面食らった。
それでも僕は出来る限り知らんぷりをしようと決めこんだ。僕にとっても彼女にとっても最善の選択だと考えた。
「前に盲腸の手術をしたんだけどね、それの事後治療に」
「ああそうなんだ。私は膵臓の検査にね。診てもらわないと死んじゃうから」
なんていうことだろう。彼女はすぐさま僕の配慮とか気づかいを粉々に砕いた。真意が読みとれず彼女の表情を観察していると、彼女は笑みを深めて僕の隣に深く腰かけた。
「びっくりした? それ、『共病文庫』、読んでたでしょ?」
あっけらかんと、おすすめの小説を紹介するみたいに彼女は言った。だから、なるほど彼女はいたずらを仕掛けているんだ、疑似餌にひっかかったのがたまたま面識だけはある僕だったという話なんだ、とすら思った。
「本当言うとさ」
ほら、種明かしだ。
「私がびっくりしちゃった。無くしたと思って大慌てで探しに来たら、【地味なクラスメイト】くんが持ってるんだもん」
「…………どういうこと? これ」
「どういうことって? 私の『共病文庫』だよ。読んだんでしょ? 膵臓の病気って分かってから日記みたいにつけてるの」
「……冗談でしょ?」
彼女は病院内だというのに、はばからずうわははっと笑った。
「どんだけ悪趣味な奴だって思われてんの、私。そんなのブラックジョークにもなんないよ? 書いてあるのは本当、私は膵臓が使えなくなって、あとちょっとで死にます、うん」
「……………………ああ、そう」
「え! それだけ? なんかこう、ないの?」
彼女は心外だというように、声を荒げた。
「……いや、クラスメイトにもうすぐ死ぬって言われて、なんて言えばいいの?」
「うーん、私なら言葉失うなぁ」
「そうだよ。僕が沈黙しなかったのだけでも評価してほしい」
彼女は「そうだねぇ」と言いながらくすくすと笑った。彼女が何を面白がっているのかは分からなかった。
それからすぐに彼女は本を受け取って立ちあがり、こちらに手を振り病院の奥に行ってしまった。「皆には内緒にしてるからクラスで言わないでね」と言い置いたから、僕はてっきり今後彼女と交流を持つことはないだろうと、どこかでほっとしていた。
だというのに、彼女は次の日の朝、廊下ですれ違った僕に声をかけてきた。あまつさえ、人数の設定がクラス毎に自由で、結果僕一人だけが担当をしていた図書委員会の空席に名乗りをあげた。彼女の行動の理由が分からなかったけど、元来物事の流れに流される性質の僕は、大人しく新人の図書委員に仕事を教えた。
考えてみればあの一冊の文庫本が原因で、日曜日の午前十一時、僕は駅前に立っているのだから、世の中何が引き金となるものか分からない。
草舟のごとく強い力には逆らわず流されることにしている僕は、結局彼女の誘いを断らず、正確には断るタイミングをもらえず、待ち合わせ場所に来てしまっていた。
すっぽかせばよかったのかもしれないけれど、完全にこちらに非があるような行動はとりたくなかった。彼女に弱みを見せれば何を要求されるか分からない。僕とは違い、砕氷艦のように流れを自ら切り開く彼女に、逆らう草舟は利口じゃない。
約束の時間五分前に目印のモニュメントの前に着き、ぼうっと待っていると彼女は時間ちょうどに現れた。
あの病院での偶然以来久しぶりに見た彼女の私服はTシャツにジーンズというシンプルなものだった。
笑顔で歩いてくる彼女に軽く手をあげて答える。
「おっはよー、すっぽかされたらどうしようかと思ったよー」
「可能性がなかったと言えば嘘になるよ」
「結果オーライだね」
「言葉の使い方があってるのか少し微妙な気がするけど。それで、今日は何をするの」
「お、乗り気じゃないか」
強い日差しの中で、彼女は相変わらず全てが嘘みたいな笑顔を見せる。ちなみに僕は乗り気なわけではない。
「とりあえず都会に出ようよ」
「人混みは好きじゃないな」
「【秘密を知ってるクラスメイト】くん、電車代持ってる? 出してあげようか?」
「持ってるよ」
結局僕は簡単に折れて、彼女の提案通りひとまず最寄りの駅から数駅の、都会と呼んで差し支えのない場所に移動することにした。僕が懸念した通り、電車の乗降だけに留まらない機能を有した巨大な駅には、人見知りを辟易させるに充分な数の人間がいた。横の彼女はと言えば、人間の量にまいっている様子もなく元気そのものだった。この人本当にもうすぐ死ぬのか? という疑念が湧いてくるけれど、以前に色々と正式な紙を見せてもらったので疑いの余地はない。
改札を出て、ますます増えていく人の波の中、彼女は迷いなく進んでいく。僕はどうにかはぐれないようについていき、地下に入って人混みが少し減ったところでやっと彼女から今日の目的を聞くことが出来た。
「まずは焼き肉!」
「焼き肉? まだ午前中だよ?」
「昼と夜で肉の味が変わるの?」
「残念ながら時間帯の差が分かるほど肉に固執したことがない」
「じゃあ問題なーし。焼き肉食べたいの、私」
「僕、十時頃朝ごはん食べたんだけど」
「大丈夫、焼き肉が嫌いな人はいないから」
「君は僕と会話しようっていう気があるの?」
ないらしかった。
抵抗も空しく、気がつけば僕は本格的な七輪を挟んで彼女と向かいあい座っていた。本当に草舟っぷりがいたについている。店内はあまり賑わってなく、薄暗い店内で、各テーブルを照らす個々の明かりが不必要に互いの顔を見やすくする。
間もなく若い店員がテーブルの横にひざまずいて注文の確認をしにきた。僕が恐縮していると、彼女は予習してきた数学の証明みたいにすらすらと店員に答えた。
「この一番高いので」
「ちょっと、そんなにお金持ってないよ」
「大丈夫だよ、私が払うから。この一番高い食べ放題コース二人で。飲み物は烏龍茶でいいよね?」
僕が勢いにつられて頷くと彼女の気が変わらぬうちにというわけか、若い店員は迅速に注文を繰り返し、去っていった。
「うはー、楽しみー」
「……あの、今度ちゃんと返すから」
「いいんだって、気にしないで。私が払うの。私、前までバイトもしてたし、お金が溜まってるから使い切らなきゃいけないの」
死ぬまでに、とは彼女は言わなかったけどそういう意味だろう。
「ますます駄目だよ。もっと意味があることに使いなよ」
「意味あるよー、一人で焼き肉食べても楽しくないでしょ? 私の楽しみの為にお金使うんだから」
「でもなー」
「お待たせいたしました。最初にお飲み物になります」
僕が渋っていると絶妙なタイミングで店員が烏龍茶を持って現れた。まるでお金についての会話を立ち切りたかった彼女が店員を呼び寄せたみたいだと思った。彼女はニヤニヤと笑っていた。
烏龍茶に順じて、次に肉の盛り合わせが運ばれてきた。綺麗に並べられた肉達は、率直に言って高そうで美味しそうだった。いわゆる、サシ、というんだろうか油の模様が鮮やかに浮き出ていて、焼かなくても食べられそうだという、時事的にも季節的にもまずいことを僕に思わせた。
七輪の上に乗せられた網は十二分に熱せられているようで、彼女がはしゃぎながら肉を一枚乗せると気持ちのいい音とそそる匂いが同時に胃を刺激した。育ち盛りの高校生は食欲には勝てず、僕も彼女と一緒に肉を網に乗せる。高温の網の上で、高級な肉はすぐに焼けた。
「いっただきまーす。んむう!」
「いただきます。うん、まあ、そりゃあ美味しいよね」
「え、その程度の感動? 滅茶苦茶美味しくない? 私がもうすぐ死ぬから感傷でそう思ってるのかな?」
違う、肉は凄まじく美味しい。ただテンションに差があるだけだ。
「んまーい。お金持ちはこんなんばっか食べてるのかなー」
「お金持ちは食べ放題に来ないよ多分」
「そうかー、こんな美味しい肉食べ放題なのにもったいない」
「お金持ちはなんでも食べ放題だよ」
お腹はそんなに減っていなかったはずなのに、二人分の肉の盛り合わせはあっという間になくなった。彼女はテーブルの端に置かれたメニューを手に取り、追加分を吟味する。
「なんでもいい?」
「まかせるよ」
まかせる、というのはなんて僕に似合う言葉だろう。
彼女が無言で手をあげると、どこで見ていたんだという速さで店員が即座に寄ってきた。献身に少したじろぐ僕を尻目に、彼女はメニュー表から流暢に注文を口にする。
「ギアラ、コブクロ、テッポウ、ハチノス、ミノ、ハツ、ネクタイ、コリコリ、フワ、センマイ、シビレ」
「待って待って待って、何を頼んでるの?」
店員さんの仕事を邪魔するのは気が引けたが、彼女があまりに聞き慣れない単語を並べるもので、僕は口を挟んだ。
「コブクロ? え、CD?」
「何言ってるの? あ、とりあえず今言ったの一人前ずつで」
彼女の言葉を聞くと、店員は笑顔でそそくさと引き上げていってしまった。
「ハチとか言ってなかった? 虫を食べるの?」
「あー、もしかして知らないの? コブクロもハチノスも牛の部位の名前だよ。私、ホルモン好きなんだよねー」
「内臓ってこと? 牛ってそんな面白い名前のパーツ持ってるの?」
「人間も大概じゃない? ファニーボーンって」
「それもどこか分かんないよ」
「ちなみに膵臓はシビレね」
「もしかして牛の内臓を食べるのも治療の一環としてなのかな」
「ホルモンは好きなだけ。私、好物を訊かれたらホルモンって答えるよ。好きなもの、内臓!」
「胸を張られて僕はどう言えばいいのさ」
「白ご飯頼むの忘れてた。いる?」
「いらない」
しばらくして大きなお皿いっぱいに彼女が注文した内臓一式が並べられてきた。思ったよりもだいぶグロテスクなそれに、僕はかなり食欲を見失う。
彼女は店員に白ご飯を注文してから、嬉々としてホルモンを網の上に並べ始めた。仕方なく、手伝う。
「ほらこれ焼けたよー」
なかなか変わった形のホルモンに手が伸びない僕を見かねて、彼女がおせっかいにもぶつぶつと穴の開いた白いものをこちらの小皿の上に乗せた。食べ物を粗末にはしない主義なので、恐る恐る口に運ぶ。
「美味しいでしょ?」
正直歯ごたえがよくて香ばしくて思ったよりかなり美味しかったけれど、何やらしてやられた気がして悔しいという心持ちが胃から上がってきたので、首を傾げるに留めておいた。彼女はいつものように理由の分からない笑いを浮かべる。
見ると彼女の烏龍茶がなくなっていたので店員を呼び、烏龍茶を一杯と普通の肉を少し頼んだ。
僕は主に肉を、彼女は主にホルモンをもくもくと食べる。たまに僕がホルモンを食べると、彼女はにやにやといらつく顔でこちらを見てきた。そんな時は彼女が大事に育てていたホルモンを食らってやると「あー!」と悔しそうにするので、それで溜飲を下げる。
「私、火葬は嫌なんだよね」
それなりに楽しく焼き肉を食べていると、彼女が明らかに場所を間違えた話題を振ってきた。
「なんだって?」
聞き間違いの可能性もあったので、一応確認してみると、彼女は真面目な顔で繰り返した。
「だから、火葬は嫌なの。死んだ後に焼かれるのはなぁ」
「それ、焼き肉食べながらする話?」
「この世界から本当にいなくなっちゃうみたいじゃん。皆に食べてもらうとか無理なのかな」
「肉を食べながら死体処理の話はやめにしよう」
「膵臓は君が食べてもいいよ」
「聞いてる?」
「人に食べてもらうと魂がその人の中で生き続けるっていう信仰も外国にあるらしいよ」
どうやら、というか案の定聞いていない様子だった。もしくは聞いているけれど無視されているのか。後者のような気がする。
「無理かな?」
「……無理だろうね。倫理的にも、法律的にどうかは調べてみないと分からないけれど」
「そっかー残念。君に膵臓はあげれないね」
「いらないよ」
「食べたくないの?」
「君は膵臓の所為で死んでいくんじゃないか。きっと君の魂の欠片が一番残ってる。君の魂はとても騒がしそうだ」
「確かに」
うわははっと彼女は楽しそうに笑った。やっぱり生きていてもこの騒がしさなのだから、死んで魂専門になった彼女の膵臓が騒がしくないわけがない。そんなのを食べるのはごめんだった。
比べてみると、彼女は僕よりもたくさん食べた。肉もご飯もホルモンも「うー苦しい」と言うまでたらふく。僕は適度にお腹が膨れて満足だというところで止めておいた。当然最初から自分の食べられる分だけしか注文しないので、彼女のようにサイドメニューでテーブルを埋めるという愚行は犯さない。
食事後大量の空き皿と用済みの七輪が店員によって下げられ、最後にデザートのシャーベットが運ばれてきた。「気持ち悪い」と「苦しい」を連呼していた彼女もこの氷菓子の出現に息を吹き返し、爽やかな息吹を口内に招き入れてからは嘘のように騒ぎ始めた。
「食事制限とかはないの?」
「基本的にはね。でも、それもここ十年くらいで医学が進化したおかげらしいよ。人間の力って凄いよね。病気には罹ったけど、生活は全然脅かされてないもん。その進化を治す方向に使えって思うよね」
「本当だね」
医学のことなんてよく分からないけれど、彼女の意見に珍しく同意してあげてもいい。世の中には大病を治すのではなく寄り添うという闘病法があるというのはどこかで聞いたことがあった。でも、進化させるべき技術は、どう考えても治す技術であって、病気と仲良くする方法ではない。なんて、僕達が言っても医学が進歩するわけではないのも分かっている。進化させたければ、医学部に入って特別な勉強をするしかない。もちろんその時間は、彼女にはない。僕には、意思がない。
「これからどうするの?」
「未来って意味? 私には持ち合わせがないよ」
「そうじゃないよ。あのね、前から思ってたけどそういう冗談を言ってさ、僕が困ると思わないわけ」
彼女はきょとんとしてから、くすくすと控え目に笑った。表情の変化の激しい人だ。とても僕と同じ生き物とは思えない。違う生き物だから、天命が違うのかもしれないけれど。
「いや、私も君以外の前では言わないよ。普通はひくでしょ? でも君は凄いよ。もうすぐ死ぬっていうクラスメイトと普通に話せるんだもん。私だったら無理かもしれない。君が凄いから私は言いたいこと言ってるの」
「買いかぶり過ぎだ」
まったくもって。
「そんなことないと思うけどな。【秘密を知ってるクラスメイト】くんは私の前で悲しそうな顔しないし。もしかしたら家では泣いてくれてる?」
「泣いてないよ」
「泣いてよ」
泣くわけがない。僕はそんなお門違いなことはしない。悲しまないし、ましてや彼女の前でそういう感情を見せたりはしない。彼女が、人前で悲しむ表情を見せないのに、他の誰かが代行するのはお門違いだ。
「話を戻すけど、これからは?」
「あー、話題を変えたー。さては泣いてるな? これから私はロープを買いにいくよ」
「泣いてねーよ。ロープって」
「お、君も男の子っぽい言葉使いするんだね。私をキュンとさせようとしてるのかい? うん、ロープ。自殺用の」
「誰がもうすぐ死ぬ子に言い寄るんだろう。自殺するの?」
「自殺もいいかなと思ってたんだけどね、病気に殺される前に自分でって。でも今のところは自殺はしないと思う。ロープはね、いたずらの為に買うの。っていうか、【秘密を知ってるクラスメイト】くんひどい! 私が傷ついて自殺してもしらないよ」
「いたずら? 自殺するとかしないとか話がごちゃごちゃしてきたね。とりあえず話をまとめよう」
「そうだね、君は彼女っていたことは?」
「何をどういう風にまとめたのか詳しく聞きたくないから話さなくていいよ」
彼女が何かを話しだそうとしたので、先手を打って立ちあがった。テーブル周りに伝票が見つからなかったので、店員を呼んで伝票を持って来てほしいと頼むと、レジに行くようにと指示された。彼女も「行くかー」とニコニコしながら立ち上がる。どうやら会話に未練を残さないタイプの人間らしい。これは好都合な彼女の特徴が見つかった。今度からこの手でいこうと思う。
焼き肉屋を出て、膨らんだお腹を抱えて地上に出ると、夏らしい燦々とした日差しが僕らを叩いた。僕は思わず目を細める。「いい天気ー。こんな日に死のうかなー」というどういう風に反応してほしいのか全く分からない呟きが聞こえてきたので、ひとまず彼女に対する最も有効的な手段としての無視を決め込んだ。猛獣と目を合わせてはいけないっていう、あんな感じで。
軽い話しあいの末、話し合いと言ってもお察しの通りほとんど彼女が喋っていただけだったけど、僕らは駅と直結している大型のショッピングセンターに向かうことにした。そこには有名なホームセンターも組み込まれていて彼女の所望する自殺用のロープとやらもありそうだった。いや、本当はそんなもの存在しないんだけど。
少しだけ歩いて辿り着いたショッピングセンターの中は人であふれかえっていたけど、ホームセンターの特にロープコーナーには誰もいなかった。きっとこんな天気のいい日にロープを選ぶ奴なんていうのは業者かカウボーイか死にかけの女の子くらいなんだろう。
遠くからはしゃぐ子ども達の声が聞こえてくる中、僕が少し離れたところで釘の大きさを比べていると、彼女は若い店員に声をかけていた。
「すみません、自殺する為のロープを探しているんですけど、やっぱり外傷とか負いたくないんで、その場合どのタイプが無難ですかね?」
はっきりと聞こえた彼女の頭のおかしな質問。振り返ると、店員が明確な困惑の顔を浮かべていたので少しだけ笑ってしまう。笑ってから彼女なりのジョークなんだと気づき悔しくなった。自殺するのに無難、という彼女なりのジョーク。店員も僕も不意をつかれてまんまと困惑し、僕に至っては笑ってしまった。軽くやつあたりで大きさの違う釘を一本ずつ入れ替えて入れ物に戻し、困っている店員と背中が笑っている彼女に近づく。
「ごめんなさい、彼女ちょっと余命が残りわずかで頭がおかしくなっちゃってて」
僕の助け船に店員は納得したのか、それとも呆れかえっただけか判じかねたけど彼は僕らを残して自らの仕事に戻っていった。
「もう、せっかく店員さんに商品を紹介してもらおうと思ったのに。邪魔しないで。もしかして私と店員さんの仲睦まじさに嫉妬しちゃったの?」
「あれを仲睦まじいっていうなら誰もオレンジを天ぷらにしようとは思わないだろうね」
「どういう意味?」
「意味ないこと言ったんだから追究しないでくれる?」
彼女をイラつかせようと思って言ったのに、一拍置いて彼女はうわはははははっといつもより余計に笑った。
何故だか妙に上機嫌になった彼女は手早くロープを一本買い、それを入れておく可愛らしい猫の絵の付いたトートバッグも買った。鼻歌交じりにロープ入りのバッグを振りまわす彼女と一緒にホームセンターを出る。一体どんな愉快なホームセンターから出てきたのかと周りの人々の誤解と注目を集めていた。
「【秘密を知ってるクラスメイト】くーん、これからどうする?」
「僕は君についてきてるだけだから、特に目的はないけど」
「あれ、そうなんだ? どこか寄りたいところとかは?」
「強いて言えば、本屋かな」
「本買うの?」
「いいや、用事もなく本屋に行くの好きなんだ」
「へぇ、なんだかスウェーデンのことわざみたいだね」
「どういう意味?」
「意味ないこと言ったんだから追究しないでくれるかな、うふふ」
やっぱり彼女は上機嫌みたいだった。僕はただただいらっとした。相反する表情を浮かべながら僕らは同ショッピングモール内の大きな書店に行くことにした。着いてから僕は彼女に構わずに小説の新刊コーナーに向かった。彼女はついてこなかった。久しぶりに手に入れた一人の時間を、僕は文庫本を眺めながら満喫する。
何冊もの文庫本の表紙を眺めたり冒頭を読んだりしていると、知らないうちに時間が過ぎていた。本が好きな人間なら理解出来るはずの感覚だけれど、全ての人間が本好きなわけではない。だから僕は腕時計を見て少しだけ罪悪感を持ちながら店内で彼女を探した。彼女はファッション雑誌を笑顔で立ち読みしていた。立ち読み中ですら笑顔を浮かべられるのは凄いと思う。僕には出来ない。
近づくと、彼女が気がついてこちらに目を向けた。僕は素直に謝る。
「ごめん、君のことを忘れてた」
「ひどっ! でもまあ大丈夫。私もずっと本読んでたから。【秘密を知ってるクラスメイト】くんはファッションとか興味ある?」
「ない。着るものは、目立たなくて普通なら何でもいいかな」
「そうだろうなぁって思った。私は興味あるんだよ。大学生になったらいっぱいお洒落するんだぁ、なんつってもうすぐ死ぬんだけどさ。人間やっぱ外見より中身の方が大事だね」
「完璧に言葉の使い方を間違ってるね」
僕は、周りを見るとはなしに見る。彼女の発言が注目を集めているかもしれないと思ったからだ。でも一人の女子高生が発したとんでもない言葉に、ほんの少しでも興味を持った人間は周りにいないようだった。
本屋ではどちらも何も買わなかった。実はその後も僕らは何も買わなかった。本屋を出た後も、彼女の気まぐれで目に入ったアクセサリー屋や、眼鏡屋に入ったりはしたけれど、商品の一切を購入することなく僕らは店を出た。結局、彼女が購入したのはロープとトートバッグだけだった。
歩き疲れてきて、彼女の提案で僕らは全国チェーン系のカフェに入ることにした。店内は混みあっていたけれど運よく席を見つけた。彼女が待っている間に僕が二人分を買いに行くことにする。彼女は冷たいカフェオレを所望した。レジで自分のアイスコーヒーと共にカフェオレを購入し、トレイに載せてテーブルに戻る。彼女は何をして待っているかと思えば、『共病文庫』にペンを走らせていた。
「あ、ありがとう。いくらだった?」
「いいよ、焼き肉代もあるし」
「あれは本当に私が好きで払ったんだからいいよ。まあコーヒーくらいは奢られてあげよう」
嬉しそうに彼女はストローをグラスに挿してカフェオレを吸い上げる。嬉しそうに、といちいち表現するのも彼女にとっては余計かもしれない。彼女はいつも何かしらポジティブな様子を体にたたえている。
「うふっ、私達周りからはカップルに見えるかな?」
「見えたとして、本当のこととは違うんだから関係ないよ」
「うわぁ、ドライだねぇ」
「見ようと思えば性別の違う二人組は全部カップルに見えるし、外見だけなら君もとても、もうすぐ死ぬようには見えない。大切なのは、人からの評価じゃなくて中身。君も言ってたろ」
「【秘密を知ってるクラスメイト】くんらしいね」
笑いながらカフェオレを飲もうとするので、彼女のグラスから逃げ出した空気の音がする。
「それで、【秘密を知ってるクラスメイト】くんには彼女はいたの?」
「よし、休んだしそろそろ」
「まだ一口もコーヒー飲んでないでしょうが」
どうやら同じ手は食わないつもりらしい。立ちあがろうとすると彼女に腕を掴まれた。爪をたてるのはやめてほしい。もしかして焼き肉屋で僕が話題を切ったことに対する腹いせだろうか。怒りを買うのは嫌なので大人しく座り直す。
「どうなの? 彼女は?」
「さあね」
「というか私、君のことなんにも知らない気がする」
「かもしれないね。僕は自分のことを話すのは好きじゃない」
「どうして?」
「誰も興味がないだろうことを、へらへらと自意識過剰に喋りたくないんだ」
「なんで誰も興味がないって決めつけるの?」
「僕が人に興味がないからだよ。皆、基本的に人は自分以外に興味がない、つまるところね。もちろん例外はあるよ。君みたいに、特殊な事情を抱えてる人間には僕も少し興味はある。でも僕自身は、他の誰かに興味を持たれるような人間じゃない。だから、誰の得にもならないことを喋る気にはならない」
テーブルの木目を見ながら、普段考えていることを机に並べる感覚で彼女に曝す。こういう自論も、いつもは心の奥底でほこりをかぶって眠っている。もちろん、話す相手がいないからだ。
「私は、興味あるよ」
自論にかかっていたほこりを払いのけて、それを手に入れた経緯や思い出を眺めていたので、彼女の言葉を理解し損ねた。顔をあげて、驚く。彼女の豊かな表情が、一つの想いを表出させていた。人に疎い僕でも、彼女が多少の怒りを抱えているのが一目でわかった。
「どうしたの?」
「私は、君のことに興味があるって言ってるの。私は興味がない人を遊びに誘ったりしない。馬鹿にしないで」
彼女の言うことは本当のところはよく分からなかった。僕に興味を持ってくれている理由も、怒っている理由も分からない。ましてや、彼女を馬鹿になんてしていない。
「馬鹿なのかもしれないとはたまに思うけど、馬鹿にはしてないよ」
「君はそのつもりなのかもしれないけどね、私は機嫌を損ねました!」
「ああ、そう……ごめんなさい」
意味は分からずともとにかく謝る。怒っている人に唯一にして最大の効力を発揮する行動をとることを僕は厭わない。案の定彼女も他の怒った人々と同じように、頬を膨らませながらも徐々に表情を和らげていった。
「君がちゃんと答えてくれるなら、許すよ」
「……聞いても楽しくないよ」
「教えて、興味があるから」
彼女はいつのまにか口角をあげてにんまりとしていた。逆らえる気がせず、仕方ない、と懐柔されてしまう自分を情けないとは思わない。僕は草舟。
「君の期待に答えられるとは思えないな」
「いいのいいの、さあ、答えて?」
「小学生くらいからかな、僕には友達っていうのがいた記憶がない」
「…………記憶喪失?」
「……やっぱり君は馬鹿なのかもしれない」
本気で疑ってから、もしかすると彼女の年齢で不治の病に罹ることの方が記憶喪失よりも確率が低かったら、彼女の発言にも正当性があるのかもしれないと思った。僕は前言を撤回するつもりで、顔を分かりやすくしかめる彼女に説明してやる。
「友達がいなかったってこと。だから、君の言う彼女っていうのも、もちろんいたことなんてない」
「ずーっと、友達いなかったの? 今だけじゃなくて?」
「うん、人に興味を持たないから、人からも興味を持たれないんだろうね。誰も損してないから、僕はそれでよかった」
「友達欲しくなかったの?」
「どうだろう。いれば楽しかったのかもしれないけど、僕は現実の世界よりも小説の中の方が楽しいって信じてるから」
「それでいっつも本読んでるんだ」
「そうだね。これで僕の面白くない話は終わり。社交辞令で聞いてあげるけど、君こそ彼氏は? いるんなら今すぐ僕なんかじゃなくて彼氏と過ごした方がいい」
「いたけどね、ついこの前別れちゃった」
彼女はなんの憂いもなさそうに言った。
「君がもうすぐ死ぬから?」
「違うよ。彼氏にそんなこと言うわけないでしょー。友達にも言ってないし」
じゃあ何故僕にはあの時正直に告げたのか。気にならなかったので訊かなかった。自然に。
「彼ねー、あ、君も知ってるよ。うちのクラスにいるから。名前言っても君は覚えてないかも、うわはは。彼はね、友達としては凄くいい人なんだけど、恋人になったら駄目だったな」
「そういうこともあるんだ」
まずもって友人のいない僕には分からない。
「あるんだねー。だから私から別れちゃった。神様が最初からタグ付けしといてくれればいいのにね。この人は友達専用、この人は恋人でもいいよって」
「そうしてくれたら僕は楽だな。だけど君みたいな人は、人間関係は複雑だから面白いとか言いそうなものだけど」
僕の意見に、彼女はうわははっと豪快に笑う。
「言いそうだね。うん、確かにそう思ってるかも、じゃあ、さっきのタグ付けは撤回だな。君は私を分かってるね」
「…………」
否定しようとして、やめた。そうかもしれない、と思った。理由に、思い当たる節があるからだった。僕は彼女を分かっている。
「…………きっと、反対だから」
「反対?」
「君は僕とは反対の人だから、僕が思いそうにないことを、君が思っているのだろうなと。それを口にしたら、当たってた」
「小難しいこと言うね、小説の影響?」
「かもね」
本当は関わる必要も予定もなかったまるで反対の場所に立つ人。数か月前まで、僕と彼女の接点は同じクラスにいることと、僕の耳に飛び込んでくる騒がしい彼女の笑い声だけだった。あまりに騒がしいから、人に興味のない僕でも彼女を病院で見た時、すぐに名前が浮かんだくらいだ。それもきっと、反対の人だから、頭のどこかに引っかかっていたのだろう。
彼女はカフェオレを飲みながら、嬉しそうに「美味しー」といちいち感想を言う。僕は黙ってブラックのままのコーヒーを飲む。
「あ、確かに反対かもねー、君、焼き肉カルビとかロースばっかり食べてたじゃん。焼き肉なんてホルモン食べにいくみたいなもんなのに」
「思ったより美味しかったけど、やっぱり普通の肉の方が美味しいよ。生き物の内臓を好んで食べるなんて、悪魔のやることだね。コーヒーに砂糖やミルクをやたらめったら入れるってのも、悪魔のやることだ。コーヒーはそのままで完成してるのに」
「どうやら君とは食の方向性が合わないみたいだね」
「食だけとは思えないけどね」
カフェには、その後一時間ほど居座った。その間にした話は全て至極どうでもよいものだった。生や、死や、病気や、余生についての話はしなかった。ではどのような話題があったかと言うと、主に彼女がクラスメイトについての話をした。僕に、クラスメイトに興味を持たせようとしたようだったけど、彼女の試みは失敗に終わったと言える。僕は、クラスメイトの他愛無い失敗や、単純な恋模様に興味を持てるほど、退屈な物語しか知らない人間ではなかった。そんな僕の感情を彼女はきっと知っていただろう、僕は退屈を隠せる人間でもなかったからだ。それでも一生懸命に話してくれる彼女の様子の方は、少しばかり興味深かった。僕なら糠に釘は打たないし、暖簾を押したりもしない。
そろそろ帰ろうか、どちらからともなくそういう雰囲気になった時に、僕は気になっていたことを彼女に訊いた。
「そういえば、ロープどうするの? 自殺はしないんでしょ? いたずらとか言ってたけど」
「いたずらするよ、と言っても私は結果は見れないんだけどね、だから【秘密を知ってるクラスメイト】くんが確認しといてよ。共病文庫でね、私がロープのことほのめかしとくからさ、そしたらロープ見つけた人は、私が自殺しようかと思うほど追いつめられてたのかぁって勘違いするでしょ? そういういたずら」
「悪趣味だね」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと本当は嘘でしたってのも書いとくから。落として上げた方がいいでしょ」
「それでよかったとはならないだろうけど、ないよりいいかな」
僕は呆れた、そしてやはり自分とは方向性のまるで違う彼女の思考が面白いと思った。僕ならば、死んだ後の周りの人間の反応になんて気を配ったりしない。
カフェを出てから、駅に向かい、人混みにもまれながらどうにか電車に乗り込んで、立ったまま短い会話をしているうちに、僕らは住んでいる町に帰ってきていた。
二人共に、駅までは自転車で来ていたので、無料の駐輪場で自転車を回収し、学校の近くまで走らせてから、手を振って別れた。彼女は「また明日」と言っていた。明日は図書委員会もなく、彼女と話すことはないだろうと思ったけど、一応「うん」と返しておいた。
自転車で帰った道は、やっぱり今後何度でも見るのだろう、いつもの道だった。あれ? と不思議になる。昨日は心の表面に浮かびあがっていた死とか消失への逃れ得ぬ恐怖が、少しだけ沈んでしまっていた。大方、今日会った彼女の印象があまりに死と遠く、僕から死への現実感を奪ってしまったのだろう。
この日、僕は彼女が死ぬことを少しだけ信じられなくなった。
家に帰って、本を読み、母の作った夕飯を食べて、お風呂に入り、台所で麦茶を飲んで、父に「おかえり」と言い、また本を読もうと思って部屋に帰ると、携帯電話にメールが来ていた。僕は基本的に、携帯電話のメール機能を使わないので、メール着信の合図を不思議に思った。携帯電話を開いてみると、メールは彼女からのものだった。そういえば、図書委員の連絡網とやらで彼女とメールアドレスの交換をしたのを思い出す。
ベッドに寝転がり、メールを開いてみる。こんな内容だった。
『おつかれー! メールしてみたよ、届いてるかな? 今日は付き合ってくれてありがとね[ピース]。凄い楽しかったよ![笑顔] また私がやりたいことに付き合ってくれたらとても嬉しいよ[笑顔]。死ぬまで仲良くしてね! じゃあおやすみー[笑顔]。また明日ー』
まず思い当ったのは、焼き肉のお金を返し忘れたということだった。明日は無理にしても忘れないように携帯電話のメモ帳機能に記録しておく。
簡単に返信しておこうと思って、もう一度文章を読み返す。
仲良く、か。
普通なら、彼女なりのジョークであろう「死ぬまで」に目が行くのだろうけれど、僕はむしろ後ろの部分が気になった。
そうか、僕らは仲良くしてるのか。
今日一日を思い返してみて、確かに仲良くしているのかもしれないと考えた。
ふいに心に浮かんだことをそのままメールにしようかとして、やめた。それを彼女に言うのは、悔しい気がした。
僕も今日、少しだけ楽しかった。
心の奥の方に閉じ込めたそれは、メールの上では「また明日」という言葉にして彼女に贈った。
ベッドの上で、僕は文庫本を開いた。反対側の彼女は、何をしているんだろうか。
昨日の夜中、僕が眠った後、外国で大きな地震が起きた。当然、朝からテレビはその話題で持ちきりだった。だから今日から試験期間とはいえ、学校も地震の話題で持ちきりだろうと思ったら少なくとも僕のクラスではそういうこともなくて、では試験についての話題があるのかと言えばそうでもなくて、どうやら僕にとってあまりよくない話題でクラスメイト達はひそひそと盛り上がっているみたいだった。
彼らはつまり、あの明朗快活で元気溌剌、クラスの人気者の彼女が、クラス随一の地味で根暗な少年と休みの日にお茶をしていた謎を解き明かしたいらしかった。そんなのに答えがあるなら僕が知りたいと思ったけど、今日もいつものようにクラスメイトとの接触は出来るだけ避けたので訊く機会には恵まれなかった。
事態は、ひとまず図書委員会の打ち合わせか何かだろうという方向性でまとまったかに見えた。話しに関与していなかった僕もそのまま収束してくれるのを願ったけれど、余計なことに勇気があり遠慮のない女子が彼女に大声で直接質問し、また余計なことに彼女が余計に余計なことを言った。
「仲良しなの」
一応、クラスメイト達の興味の矛先は僕だというのは認識していたので、いつもよりは彼らの会話に注意を向けていた、だから彼女の余計極まりない言葉も聞こえた。その後のクラスメイト達からの視線にも気づいた。当然、僕はそれらに気がつかないふりをした。
試験が一つ終わるごとに、ほとんど会話もしたことがないクラスメイト達から視線を投げつけられ、何故どうしてといういわれのない疑惑を影でかけられたけど僕は相変わらず無視を続けた。
関与の拒否を許されなくなったことが一度だけ、三時間目の終わりにあったけれど、それもすぐに解決した。
先程、遠慮も配慮もなしに彼女に質問した女子が、とことこと僕のところに歩いてきて話しかけてきた。
「ねーねー、【地味なクラスメイト】くん、桜良と仲いいの?」
訊かれて、きっとこの人はいい人なんだろうなと思った。理由は、他のクラスメイト達が遠巻きにこちらを観察していたから。この人はさっきも今回もあけっぴろげな性格を利用され、前線に立たされたんだろう。
僕は、正確な名前も覚えていないクラスメイトに同情し、答えてあげる。
「別に。昨日はたまたま会っただけ」
「ふーん」
善良で素直な女の子は、僕の言葉を聞いたままに受け取ってくれたようで、「分かったー」と言いながらクラスメイト達の輪の中に入っていった。
こういう時、僕は嘘をつくことをためらわない。自分の保身と、彼女の秘密の保護という名目があるのだからなおさらだ。余計なことしか言わない彼女でも、僕と会った理由が、不治の病という最大級の秘密とリンクしているのだから口裏は合わせてくれるだろう。
ひとまずの難はこれで去った。四時間目までの試験を終えて、今回もクラス平均より少し上くらいの点数を上手く取れているだろうという予感を得てから、僕は特に誰とのコミュニケーションをとることもなく掃除をし、帰りの準備をした。することもないしさっさと帰ろう。そうやって教室から出ようとした僕を、大きな声が止めた。
「待って待って! 【仲のいいクラスメイト】くん!」
振り返ると、満面の笑みの彼女と、僕ら二人を訝しがるクラスメイト達の顔が見えた。本当はどちらも無視したかったけれど、仕方なく後者だけを無視して、歩み寄ってくる彼女を待った。
「ちょっと図書室に来てほしいんだって、仕事あるらしいよ」
彼女の声を聞いて、何故だかクラス内にほっとした空気が散らばった。
「僕は聞いてないよ」
「さっき先生に会って言われたの。他に用事ある?」
「ないけど」
「じゃあ行こうよ。どうせ勉強もしないんでしょ?」
失礼だと思ったけれど事実だったので、彼女に並んで図書室に行くことにした。
この後図書室についてからのことを詳細に説明するのは嫌なので、簡潔に説明すると、彼女は嘘をついていた。それも、必要ないだろうに図書室の先生と結託して。図書室の仕事なんてなくて、僕が真面目に先生に仕事内容を尋ねると、呼び出されてあげた僕を彼女と先生は高らかに笑った。即時帰宅を試みたものの、先生が謝りながらお茶菓子を出してくれたのでそれに免じて許してやった。
しばらくお茶をしてから、今日は早めに図書室を閉めるということで追い出された。その段になり僕は初めて彼女に何故意味のないいたずらに踏み切ったのかを訊いた。さぞかし大層な理由があるんだろうな、と思って。
「別に。いたずらが好きなだけだよ?」
こいつ……、と思ったけれどそれを表に出しては、いたずらをしかけた者の思うつぼなのだろうと、靴箱に向かう途中で一回彼女の足を引っかけるに留めておいた。彼女は軽やかに僕の足を飛び越え、片眉を吊り上げた心底むかつく顔をした。
「いつか狼少年みたいになって罰を受けるといいよ」
「だから膵臓やっちゃったのか、神様ちゃんと見てるねー。君は嘘ついちゃ駄目だよ」
「膵臓やっちゃったら嘘ついていいっていうルールはないからね」
「え、そうなの? 知らなかった。ところで【仲のいいクラスメイト】くんお昼ご飯食べた?」
「食べてるわけないよ。いきなり君に連れて行かれたんだから」
出来るだけ厭味ったらしく聞こえるように言ったところで、靴箱に着いた。
「どうするの?」
「スーパーに寄ってお惣菜でも買って帰るよ」
「まだ用意してないんだったら一緒に食べに行こうよ。私んちお父さんもお母さんも今日はいなくてさ、お金だけ渡されてるんだよねー」
「…………」
靴をはきかえながら、彼女がした提案をすぐに唾棄してやろうかと考えたけど、実際、僕は答えあぐねた。断る理由を明確に創り出すことが出来なかったからだ。昨日感じた、「少し楽しかった」という本心も邪魔をした。
外靴をはいてつま先を鳴らしてから、彼女は一度大きく伸びをした。今日は少し雲が出ているので太陽も昨日よりは弱気だ。
「どう? 私、ちょっと死ぬ前に行きたいところあるんだよー」
「……またクラスメイトに見られたら面倒だな」
「あ! それ! 思いだした!」
突然大声をあげた彼女、頭がおかしくなったのかと思って見ると、眉をひそめて不機嫌を演出していた。
「【仲のいいクラスメイト】くんさー、私と別に仲良くないって言ったでしょ? 週末に遊ぶ仲なのに!」
「うん、言ったけど」
「昨日メールで言ったじゃん。死ぬまで仲良くって」
「本当のことがどうかは、別にどうでもいいんだよ。ただ僕はクラスメイト達から観察されるだけならまだしも、話しかけられたり詮索されたりするのが嫌だったんだ」
「誤魔化さなくてもいいでしょー。大事なのは中身の本当のことって昨日言ってたくせに」
「大事なのは中身だから、誤魔化してもいいんだよ」
「堂々巡りだなー」
「それに君の病気がばれないようにっていう配慮もあったんだから、褒められこそすれ怒られる筋合いはないよ」
「むむむむむ」
彼女は難しいことを考えすぎた子どもみたいな顔をする。
「やっぱり君とは方向性が合わないなー」
「そうかもね」
「こりゃ食だけじゃないね、この問題はもっと根深そうだ」
「政治問題みたいだね」
うわははっと笑う彼女の機嫌はどうやらいつの間にか元通りのようだ。単純さと切り替えの早さは彼女に友人が多い理由の二つなのだろう。
「で、どうするご飯」
「……行ってもいいけど、いいの? 他に友達とかと遊ばなくて」
「予定のダブルブッキングなんてするわけないでしょー。明日友達と遊ぶ約束あるよ。だけど膵臓のこと隠さなくていいのって君だけだから、楽なんだよね」
「息抜きか」
「そ、息抜き」
「じゃあ、人助けの為に付き合ってもいいよ」
「ホント? やった」
息抜きの為ならば、仕方がない。もしクラスメイトに発見されて面倒臭いことになっても、人助けの為なら多少は仕方がない。彼女にだって、秘密を吐きだす場所が必要だろう。だから、仕方がない。
そう、僕は草舟。
「どこに行くの?」
僕が訊くと、目を細めて空を仰いでいた彼女は躍るように言った。
「パラダイスだよ」
楽園、そんな場所が高校生の女の子から命を奪うこんな世界にあるのだろうかと、僕は不思議に思った。
店内に入ってからやっと、僕は彼女についてきたことを後悔した。しかしそれについて彼女を恨むというのが筋違いだというのも分かっている。悪いのは僕だ。これまであまりに人との接触を避けてきたために、人から誘われるという経験が欠如していた為に、嫌な予感というものを感じ取れなかった。人との用事には、相手の用意したプランがまるで自分の意向にそぐわず、またその発見が遅れることもあるということを知らなかった。こういうのを、危機管理能力が足りないというんだろう。
「どうしたの? 浮かない顔して」
彼女の顔から、こちらが困っているのを理解して、面白がっているのがまるわかりだった。
彼女の質問への答えは明確に持ち合わせていた。だけれど答えてどうにかなるものでもないので、言わないことにした。僕にできることと言えば、今回の失敗を次回に生かすこと以外にない。
つまりそう、僕は、女の子しかいないファンシーでメロウな空間に紛れこんで喜べるような男子じゃあないということが分かった。
「ここねー、ショートケーキが美味しいの」
入る前から、少しだけおかしいとは思った。だけれどそんなには気にしなかった。こんな場所に来たことがないのだから、警戒心の持ちようもないだろう。しかしまさか、こんなにもどちらかの性別に客層が偏った飲食店があるとは思いもよらない。店員が置いていった伝票を見ると、「男性」と書かれた欄にチェックがしてある。余程、男性の来店が珍しいのか、値段設定が男女で違うのか、僕には分からないけれど、どちらでも納得できる。
僕らが今いるお店は、系統で言うなら、スイーツバイキングというものらしい。名前は、「スイーツパラダイス」。今の僕にとってはファーストフードのお店の方が楽園に見える。
僕はにやつく彼女に嫌々話しかける。
「ねえ」
「どうしたの?」
「ニヤニヤすんな。あのさ、君は太りたいの、それとも僕を太らせたいの? 二日連続で食べ放題だなんて」
「どっちでもないよ。ただ食べたいものが食べたいの」
「真理だね。なるほど、それで今日は甘い物が死ぬほど食べたかったと?」
「そうそう。君は甘い物大丈夫だよね?」
「生クリームが苦手」
「そんな人いるの? じゃあチョコレートケーキ食べなよ。美味しいよ。あとここ甘い物だけじゃなくて、パスタとかカレーとかピッツァもあるよ」
「それは凄く朗報だけど、ピザを発音よく言うのやめない? 鼻につく」
「チーズが?」
冗談をしたり顔で言う彼女の鼻には水でもみまってやろうかと思ったけど、僕は他人に迷惑をかけるのは嫌いなので、片づけをする店員さんを気遣ってやめておいた。道端ならやっていた、というわけでもないけれど。
彼女の思い通りにおろおろするのも癪なので、僕は来てしまったからには覚悟を決めたというふりをして立ちあがり彼女と共に食べ物を取りにいくことにした。平日の昼間とは言え、うちの学校と同様試験期間に入った高校の女子高生達で店内は溢れている。適当に炭水化物とサラダ、ハンバーグやから揚げを取って席に戻ると、彼女は既に嬉しそうな顔をして座っていた。彼女の皿の上には、大量の甘いもの達。洋菓子の甘さがあまり好きではない僕は、少し気分が悪くなる。
「そういえば、外国で地震があったね」
食べ始めて数十秒後、彼女がそう切り出した。
僕は安堵する。
「よかった、今日全然地震について話してる人いないから僕の夢かと思ってたところだよ」
「皆興味ないんじゃない? 家族とか親戚が住んでるような国でもないし」
「君にしては薄情なものの言いかただね」
意外に思った。言うほど彼女を知ってるでもないけど、僕の想像の中の彼女はそんな風には言わないはずだった。
「私は興味あるよ。ちゃんとニュースも見たし、ああこの人達も私より先に死ぬとは思わなかっただろうなーって思ったもん、だけど」
「一応万が一ってあるから訊いておくけど、会ったことでもあるの?」
「あると思うの?」
「思ってると思うの? まあいいや、で?」
「うん、私は興味あるよ、だけど普通に生きてる皆はさ、生きるとか死ぬとかにあんまり興味ないでしょってこと」
「なるほどね」
正しい意見かもしれない。普通に生きていて、生きるとか死ぬとか、そういうことを意識して生きている人なんて少ない。事実だろう。日々死生観を見つめながら生きているのは、きっと哲学者か宗教家か芸術家だけだ。あと、大病に侵されてる女の子とか、彼女の秘密を知ってしまった奴とか。
「死に直面してよかったことと言えば、それだね。毎日、生きてるって思って生きるようになった」
「どんな偉い人の言葉よりも心に響く」
「でしょ? あーあ、皆ももうすぐ死ねばいいのに」
舌を出す彼女、冗談めかして言ったつもりなんだろうけど、僕は本気だろうなと受け止めた。言葉は往々にして、発信した方ではなく、受信した方の感受性に意味の全てがゆだねられている。
ハート形のお皿に控え目に盛ったトマトパスタを食べる。少し固まっているけどなかなかいける。思えば、食事も、帰り道と同じだ。僕の一口と彼女の一口は、本人の感じている価値が全く違うかもしれない。もちろん、本来ならば違ってはいけないのだけれど。地震や何かで明日死んでしまうかもしれない僕と、もうすぐ膵臓をやられて死んでしまう彼女の食事に価値の差なんてあってはならないのだけれど。それをきちんと理解出来るのは、きっと死んだ後だ。
「【仲のいいクラスメイト】くんは、女の子に興味あるの?」
生クリームを鼻につけた彼女は死生観なんて視界に入れたこともないみたいな間の抜けた顔で言った。滑稽だから、黙っておく。
「突然、何を言い出すの? 君は」
「女の子ばっかりのお店に連れて来られておろおろしてるみたいだし、可愛い女の子とかが近く通っても目もくれないしさ。私なんかすぐ見ちゃうよ。ゲイなの?」
どうやらおろおろは見抜かれていたらしい。僕は演技力を鍛える決意をする。上達が先か彼女の死が先か見ものだ。
「場違いな場所にいるっていうのが好きじゃないんだ。そして人のことをじろじろ見たりするっていう失礼なことはしない」
「私が失礼な奴みたい」
彼女は頬を膨らます、鼻の上は相変わらずなので、ますます愉快な表情になる。まるで人に見せることを前提にした表情みたいだ。
「もー失礼しちゃう、【仲のいいクラスメイト】くんが昨日友達も恋人もいたことがないって言ってたからさ、好きな人くらいはいたことないのかなって思って」
「僕は別に誰のことも嫌いじゃない、つまり皆好きってことだよ」
「はいはい、分かった分かった。好きな子は? いたの?」
溜息をついて、彼女はから揚げを頬張る。段々僕の戯言のあしらい方に慣れてきているようだ。
「いくらなんでも片想いくらいはしてるでしょ?」
「……片想い」
「両想いじゃない方ね」
「分かるよそれくらい」
「分かってるなら、その話をしてよ。片想いくらいはしたことあるの?」
僕は、もったいぶった方が面倒臭いことになると判断した。昨日みたいにへそを曲げられてはかなわない。
「んー、そうだなぁ、一回だけ、ある気がする」
「それそれ、どんな子だったの?」
「どうしてそんなの知りたいのさ」
「気になるからだよ、君は私と反対側なんだって昨日言ってたから、どんな人を好きになるんだろうって」
そんなのは自分を鏡にすればいいだけだと思うけど、他人に価値観の量り方を押し付けるようなまねはしたくないので、言わなかった。
「どんな人、か。そうだね、『さん』、をつける人だった」
「…………さん?」
彼女は眉間に皺を寄せて、鼻を動かす。クリームも一緒に動く。
「そう。中学生の時、クラスにいたんだ。きちんと、何にでも『さん』をつける女の子。本屋さん、店員さん、魚屋さん。教科書で出てくる小説家なんかにもね。芥川さん、太宰さん、三島さん。果ては食べ物にもつけてた。大根さん、なんて具合に。今思えばただの癖だったのかもしれないし、人間性とはまるで関係がないのかもしれないけど。当時、僕はそれが色んなものに敬意を忘れないってことだと思った。言いかえれば、優しさとか奥ゆかしさみたいなものだと思った。それで、他の誰かよりもその子に少しだけ、特別な感情を持ってた」
一気に言いきってから、僕は水を一口飲んだ。
「これが片想いっていうのか分からないけどね」
彼女を見る。彼女は、うんともすんとも言わずに笑顔を浮かべて皿の上に乗ったフルーツの乗ったケーキを食べた。咀嚼するごとに彼女の笑顔が深まっていくので、どうしたのかと思っていると、彼女は頬をかきながら僕を上目遣いに見た。
「どうしたの?」
「いやぁ」
彼女はくねくねと身をよじる。
「いやさ、思ったより素敵だったからこっちが照れちゃったよ」
「……ああ、うん、素敵な子だったのかもしれない」
「違うよ、好きな理由が、だよ」
どう答えていいか分からなかったので、彼女を真似て皿の上にあったハンバーグを口に運ぶ。これも美味しかった。彼女はニヤニヤというよりはニコニコしながら嬉しそうにこちらを見ている。
「その恋はどうなったの? でもそうか、彼女いたことないんだもんね」
「そうだよ。その子はね、どうやら一般的に見て外見も可愛かったみたいで、クラスにいた明るくてかっこいい人気者な男の子が持っていっちゃった」
「へえ、人を見る目がないね」
「どういう意味?」
「ううん、なんでもないよ。そっかぁ君でも淡い恋心を持った純粋な少年だったことがあるんだねー」
「うん、おあいそで訊いてあげるけど君は?」
「今までいた彼氏は三人かな。言っとくけど全部本気だったよ。よく中学生の頃の恋愛は遊びだなんて言う人がいるけど、そんなのは自分の恋心に責任も持てない馬鹿野郎だよ」
熱に満ちた語り口と表情で彼女の気が迫ってくる。僕は少し身を引く。熱いのは苦手だ。
ちなみに、彼女の外見は過去に三人の恋人がいたと言われて、十分に納得できるものだ。化粧っ気は少なく、誰もが振り返る美人というわけではないけれど、目鼻立ちに華やかさがある。
「ちょっと、ひかないでよね」
「ひいてはないよ、でもちょっと鼻につくかな? クリームが」
「え?」と理解していない彼女は全く間抜けな顔をしていた。その顔なら、恋人は出来ていないかもしれない。しばらくしてやっと気がついた彼女はおしぼりを急いで鼻に当てた。彼女の鼻の上のクリームがなくなる前に僕は席を立った。皿の上が空になっていたからだ。
新しい皿を手にとって、少しは甘いものを食べようかと店内を散策していると、僥倖なことに大好物のわらびもちを見つけたので、皿にとって横にあった黒蜜をかける。芸術的に流れゆく黒蜜にうっとりとしてから、ついでにホットコーヒーをカップに入れる。
彼女が不機嫌だった時の対処方を考えながら、女子高生達の間をすり抜けて席に向かうと、僕の憂慮に反して彼女は上機嫌だった。
ただし、僕は先程までと同様に席につくことは出来なかった。
テーブルに近づくと、僕を見とめた彼女が笑顔を深めた。
彼女の表情で気がついたのだろう、元々僕が座っていたはずの席に座る人物もこちらを向いた。そして、その少女は驚いた顔をした。僕は、見たことのある人だ、と思った。
「さ、桜良、連れって、【根暗そうなクラスメイト】くん?」
彼女よりも幾分か勝気そうな少女が誰なのか、僕はやっと思い出す。確かこの人は、彼女とよく行動を共にしている女の子だ。確か、何かの運動部に入っていた。
「そうだよ、キョウコ、どうしてそんなに驚くの? あ、【仲のいいクラスメイト】くん、この子は親友のキョウコね」
笑う彼女、戸惑う彼女の親友、皿とカップを持って成り行きを見守る僕。これはまた面倒臭いことになるんだろうなと、心の中で嘆息しながら、ひとまずカップとわらびもちをテーブルに置いて空いていた席に座った。幸か不幸か、僕と彼女は四人がけの丸テーブルに通されていた。向かいあう女子二人の間に座って、見るともなく二人を見る。
「え、だって、桜良、【根暗そうなクラスメイト】くんと仲いいの?」
「うん、リカに訊かれて言ったじゃん、仲良しって」
彼女は僕に向けて少し笑いかける。親友の女の子の戸惑いは彼女の笑みで更に促進したみたいだった。
「でも、リカから、あれは桜良の冗談だって聞いたよ?」
「もー、それは【仲のいいクラスメイト】くんが変に騒がれたくないから、誤魔化したの。リカ、私よりも彼のこと信じるんだもん、私達の友情はどこに行ったのって思ったよ」
冗談めかした彼女の言葉に、親友さんは笑わない。その代わり、こちらを窺うように視線を向けてきた。はからずも目が合ってしまったので、僕は軽く会釈をしておく。つられて、相手も会釈をした。それで終わるかと思いきや、流石は彼女の親友と言うべきか、会釈だけでは許してくれなかった。
「ね、ねえ、あたし【根暗そうなクラスメイト】くんと話したことある?」
考えれば、失礼な質問だと思ったけれど、悪気はなさそうだったし、仮にあっても嫌な気にはならなかった。
「前に話したよ。前に図書室で僕がカウンターやってた時に来なかったっけ」
聞いていた彼女はうわははっと笑って「それは話したって言わないよ」と口を挟んだ。それは君だけの価値観だよ、と思っていたら当事者のはずの親友さんまで「私も言わないと思う」と呟いた。まあ、僕にとっても親友さんにとっても、どちらでも構わない問題だ。
「キョウコいいの? 友達が席で待ってるんじゃないの?」
「あ、うん、そろそろ行くけどさ。あのね、桜良、別に文句があるとかじゃないよ、訊いてるだけだよ」
親友さんは、彼女の顔をじっと見て、一度だけ僕の顔も見た。
「二日も連続で、しかもこんな、女の子かカップルしかいないようなところに二人っきりで。仲良しって、そういう意味なの?」
「違うよ」
彼女が胸を張って否定したので、僕は口から出かけていた否定の言葉を飲み込んだ。二人でむきになるというのはこの状況であまりよろしくないと思われた。
親友さんは、安心したみたいに表情を緩ませてから、すぐに怪訝そうに顔を歪めて彼女と僕を交互に見た。
「じゃあ、なんなの? 友達?」
「だから、仲良しって言ってるじゃん」
「桜良はもういいよ、あんたたまに要領を得ないから。【根暗そうなクラスメイト】くん、桜良とはただの友達ってことで、いいの?」
やっぱり親友だけあって、彼女のことをよく分かってる。僕は飛んできた流れ弾をどう処理しようか考えてから、一番適切な言葉を選んで答えた。
「仲良し、かな」
同時に二つの顔が見えた。脱力した呆れる顔と、破顔した嬉しそうな顔。
親友さんは人に聞かせる為の溜息をついてから、彼女を力強い眼光で射抜き「明日白状させるからね」と捨て台詞を吐いて、彼女にだけ手を振って去っていった。明日の友達との約束とはあの人との約束なのか、と、僕は自分ではなく彼女に火の粉が降りかかるのだろうことを嬉しく思う。明日からもクラスメイト達から注がれるであろう視線に関しては、もう諦めることにした。実害がなければ多少は目を瞑ろう。
「いや、まさかキョウコに会うとはねぇ」
驚きと喜びを半分ずつ言葉に含ませながら、彼女は僕のお皿の上のわらびもちを一つ勝手に取って食べた。
「キョウコとはね、中学生の頃からなの。あの子あの通り気が強いから最初は怖い子かなと思ったんだけどね、話したらすぐ仲良くなっちゃった。いい子だから、【仲良し】くんも仲良くしてあげて」
「……親友に、病気のことは言わなくていいの?」
雰囲気に水を差すことを、分かっていて僕は言った。ポジティブな感情に彩られている彼女の心を一瞬にして白けさせてしまうだろう、と。彼女を意図的に傷つけようという趣味で言ったわけじゃない。ただやっぱり、素直な気持ちで自分なんかと残り少ない時間を過ごしてしまっていいのか、という意味で彼女に訊いた。彼女のことを、僕なんかよりずっと大切に思っている親友と一緒に最後の時間を分かち合いながら過ごすという方が、価値があるのではないかと思った。僕にしては珍しい、配慮と思いやりの言葉だった。
「いいのいいの! あの子感傷的だからさ、言ったらきっと私と会う度に泣いちゃうもん。そんな時間楽しくないでしょ? 私は私の為に、ギリギリまで周りには隠す、もう決めたの」
僕の差した冷水を、意思の力で弾き飛ばすような、彼女の言葉と表情。僕に、もう何も言うまいと思わせるに充分だった。
ただ一つだけ、昨日から心にひそんでいた疑問が、彼女の意思に触発されて表出してきたので、それだけは訊いておかなければならないと思った。
「ねえ、君はさ」
「うん? どうしたの?」
「本当に死ぬの?」
彼女の表情が、一瞬消えた。それを見ただけで、やめておけばよかったのにと思った。けれど、僕が後悔の余韻を持つ間もなく、彼女は表情を取り戻し、いつもみたいにくるくると様変わりさせた。
最初は、笑顔、それから困った顔、苦笑、怒った顔、悲しそうな顔、また困った顔に戻ってきて、最後に僕の目を正面から見据えて、笑って言った。
「死ぬよ」
「……そうか」
彼女は、いつもより瞬きを多くしながら笑みを深めた。
「死ぬんだよ、もう何年も前から知ってた。今は医学の進歩? みたいなので症状もほとんど表には出ないし、余命も延長出来た。でも、死ぬよ。あと、一年、持つかどうか分からないって、言われてる」
特に知りたくも聞きたくもなかったのに、彼女の声はきちんと僕の鼓膜に届いてしまった。
「【仲良し】くんにしか話さないよ。君は、きっとただ一人、私に真実と日常を与えてくれる人なんじゃないかな。お医者さんは、真実だけしか与えてくれない。家族は、私の発言一つ一つに過剰反応して日常を取り繕うのに必死になってる。友達もきっと、知ったらそうなると思う。君だけは真実を知りながら、私と日常をやってくれてるから、私は君と遊ぶのが楽しいよ」
心の奥から針で刺された痛みが伝わってきた。僕は彼女に与えてなんかいないと分かっているからだ。もしも、僕がもしも彼女に何かを与えていると言うならば、それは恐らくただの逃避だ。
「昨日も言ったけど、買いかぶり過ぎだよ」
「そんなことよりさ、やっぱりカップルに見えるんだってよ?」
「……どういうつもりで言ってるの?」
「別にぃ」
美味しそうに、フォークに刺さったチョコレートケーキを頬張る彼女は、やはりもうすぐ死ぬ人間になんて見えなかった。
気づく。
全ての人間が、いつか死ぬようになんて見えないってことに。僕も、地震で死んだ人も、彼女も、昨日生きていた。死ぬ素振りなんて見せずに生きていた。そうか、それが、誰の今日の価値も同じということなのかもしれない。
僕が考えていると、彼女は諭すように言った。
「そんな難しい顔しないで、どうせ君も死ぬんだよ。天国で会おうよ」
「……確かにね」
そうだ、彼女が生きることに対して感傷的になるのはただの想い上がりだ。彼女より僕が先に死ぬなんて絶対にないと確信している傲慢だ。
「だから私みたいに徳を積んでおくんだよ」
「そうだね、君が死んだら仏教徒にでもなろう」
「私が死んだからって、私以外の女に手を出したら許さないわよ!」
「ごめんね、君とは遊びなんだ」
うわははっと、彼女はいつもの豪快な笑い方をした。
僕らは食べ物をたらふく胃に詰め込んだ。お金を各々で払い、店を出て、今日は家に帰ることにした。スイーツパラダイスから学校まで歩くには少々距離があったから、本来なら自転車を使いたいところだったけど、家まで自転車を取りに行く時間と苦労を惜しむ彼女の提案で僕らは制服のまま歩いて食事に来ていた。
帰り道、とことこと二人国道沿いの歩道を歩きながらもう真上にはない太陽の光を浴びた。
「暑いのもいいよねー、最後の夏かもしれないから満喫しなきゃ。次は何をしようかなぁ。夏と言われて真っ先に何を想像する?」
「スイカバーかな」
彼女は笑う。彼女はいつも笑っている気がする。
「スイカじゃなくて?」と、「他には?」と。
「かき氷」
「どっちも氷じゃん!」
「君は夏と言えばなんだと思うの?」
「私はやっぱり海とか花火とかお祭りかなぁ、あとひと夏のアバンチュール!」
「黄金でも探しに行くの?」
「黄金? どうして?」
「アバンチュールって冒険って意味でしょ?」
彼女はわざとらしく溜息をつき、両手の平を上に向けて首を振った。呆れているジェスチャーだろうけど、なんとむかつく仕草なのだろう。
「冒険違いだよ、ほら、夏、冒険、分かるでしょ?」
「早起きしてカブトムシを探しに行くとか」
「分かった、【仲良し】くんは馬鹿な人なんだ」
「ある特定の季節になると頭が恋愛で支配される方が馬鹿だよ」
「分かってるんじゃん! もう!」
顔に汗を浮かべながら睨まれたので、ふいっと視線を逸らす。
「暑いのに手間取らせないでよね」
「暑いのもいいとか言ってなかった?」
「ひと夏の淡い恋、ひと夏の過ち、せっかく女子高生なんだからそういうのの一つや二つ経験してもいいかなって」
淡いのはともかく過ちは駄目なんじゃないかな。
「生きてるんだから恋をしないとね」
「人生で三人も恋人がいるんだったらもう十分じゃないの?」
「ほら、心は数で語れるものじゃないから」
「一見深そうだけどよく考えたら意味が分からない言葉だね。簡単に言うと君はまだ恋人を作る気があるってことだね」
何気なく使った言葉だったから、彼女がまた冗談で返してくるのだと思ったら、違った。
彼女は突然何を思ったのか立ち止まった。予告されなかった僕は推進力のまま彼女より五歩多く前に進み、やっと彼女の行動の意味を探ろうと振り返る。大方百円玉でも見つけたのだろうと思っていると、立ち止った彼女はこちらをじっと見ていた。腕を後ろで組み、長い髪を風になびかせて。
「どうしたの?」
「……恋人を作る気があるって言ったら、どうにかしてくれるの?」
こちらを試すみたいな表情、まるで無理矢理意味深な顔を創り出したような。
表情の意味も、彼女の言葉の意味も、人間関係の乏しい僕にはよく分からなかった。
「どうにかしてくれるって、何を?」
「……ううん、いいの」
首を振って彼女はまた歩きだした。横に並んだ時に顔色を窺うと、さっきの複雑さがすっきりとリセットされた笑顔に戻っていて、僕にとってはますます意味が分からない。
「もしかして、僕に友達とか紹介してくれっていう冗談だったの?」
「違うよ」
思いつく節がそれしかなかったのだけれど、あっさり否定されてしまった。
「じゃあ、一体どういう」
「いいじゃん、小説じゃないんだから、私の発言に全て意味があると思ったら大間違いだよ。別に意味ないの。【仲良し】くんはもうちょっと人間と接しなさい」
「……ああそう」
無理矢理納得させられたような形になったけど、意味がないならはっきりと否定したのはおかしいとは言わなかった。どうして言わなかったかは、僕の草舟精神に由来する。彼女が、その話題について会話を続けることを許さない雰囲気を出した、気がした。所詮は人間に疎い僕の感受性によるものなので、真偽は定かでない。
学校近くの分かれ道で彼女は手を振りながら大きな声で言った。
「じゃあまた次の予定決めたら教えるねー」
いつのまにか彼女の予定への参加を勝手に決められていたことを特に追及はせず、僕は手を振って彼女に背を向けた。この時にはもう、毒を食らわば皿までという気が湧いていたのかもしれない。
帰宅してからも考えたけれど、結局あの時の彼女の言葉と表情の意味は分からなかった。
多分、死ぬまで分かることはないだろう。
『共病文庫』とは、つまるところ彼女の遺書なのだと、僕は解釈している。どこで買ってきたのか、彼女はまっさらなその文庫本に日々起こった出来事や感じたことを書き込み、残している。記録の仕方にはどうやら彼女なりのルールがあるらしい。
どのようなルールがあるかというと、まず、僕が知る限りでは、記録は毎日行われるわけではない。特別なことがあった日、特別なことを感じた日、自分が死んだ後に軌跡として残す価値のあることだけを彼女は『共病文庫』にまとめている。
次に、彼女は文字以外の情報を『共病文庫』に残さないことにしている。例えば絵であるとか、グラフであるとか、そういったものは文庫本には似合わないと考えているらしく、『共病文庫』にはひたすらに黒いボールペンの文字が走っている。
そして、彼女は死ぬまで『共病文庫』を誰にも公開しないと決めている。僕が彼女のドジにより不可抗力で見てしまった最初の一ページを例外とし、その生の記録は誰にも見られていない。どうやら死んだ後には全ての親しい人に公開するようにと両親に言っているらしく、現在の使われ方がどうあれ、周囲が受け取るのは死後のメッセージであるということはやはり、彼女の遺書だということになる。
なので、彼女が死ぬまでは誰もその記録に影響を与えることも受けることも出来ないはずなのだけれど、僕は一度だけ『共病文庫』について意見をしたことがある。
それは僕の名前について、『共病文庫』に登場させないでほしいということだ。理由は単純に、彼女の死後、彼女の両親や友人達から余計な詮索や非難を受けたくなかったからだ。図書委員としての仕事中、彼女が『共病文庫』について「色んな人を登場させる」と言っていたので、その時に彼女に正式に頼んだ。彼女の答えは、「私が書いてるんだから勝手にさせろ」だった。もっともな話で、僕は食い下がるのをやめた。彼女は「嫌と言われたらやりたくなる」とも付け加えた。僕はクラスメイトの死後に起こる面倒について諦めることにした。
ということで焼き肉やスイーツの件については多少なりとも『共病文庫』に勝手に名前を書かれているのかもしれないけれど、スイーツパラダイスに行った次の日からの二日間、僕のことは彼女の『共病文庫』には登場しなかったはずだ。理由は、その二日間は彼女と一言も学校で会話を交わさなかったから。別に変なことでもなんでもなく、僕と彼女はそもそも教室での行動様式がまるで違うので、むしろ焼肉とスイーツに彩られたあの日々がイレギュラーと言えた。僕は登校し、試験を受け、黙って家路についた。彼女の親友や、そこらへんのグループからの視線を度々感じたけれど、わざわざこちらから気にしてあげる必要はないと割り切った。
この二日間、本当に特別なことはなかった。もし、強いて二つだけ起こった小さなことをあげるとするなら、まず一つ、僕が廊下をもくもくと掃除している時、普段なら僕になんて目もくれないクラスメイトの男子が話しかけてきた。
「よう【地味なクラスメイト】ぁ、お前、山内と付き合ってんの?」
あまりに無粋な物言いに僕はある種のすがすがしさすら感じた。もしかすると彼が彼女に好意を抱いていて、僕に対して筋違いな怒りを抱いていたりするのではないかと勘繰ったけれど、彼の様子からそれは違うようだと推測した。彼の顔は一点の曇りもなく晴れていた。きっと好奇心の塊のようなお調子者なんだろう。
「違うよ、断じて」
「そうなの? でもデートしてたんだろ?」
「成り行きでご飯を食べに行っただけ」
「なあんだ」
「どうしてそんなこと気になるの?」
「ん? あ、まさか俺が山内を好きだからとか思ってんのか? ちげーよ! 俺は、ほら、もっとおしとやかな子が好きだから」
別に訊いていないのに、彼は屈託なくぺらぺらと喋った。彼女がおしとやかでないという点だけ、彼とは気が合いそうだ。
「そっか、ちげーのか、クラスの奴ら騒いでるぜ」
「間違ってることなんだから、気にしてないよ」
「おっとなー、ガムいる?」
「いらない。ちりとり持ってくれる?」
「まかせろ」
いつも掃除をサボってふらふらしているから断られるかと思ったら、彼は案外素直にちりとりを持ってくれた。もしかすると彼は掃除の時間という概念を理解していないだけで、教えてあげればきちんとやってくれるのかもしれない。
彼はそれきり何も追究して来なかった。この二日間で起こった僕にとってのイレギュラーの一つ目がこれ。
クラスメイトとの会話はよくも悪くもなかったのだけれど、もう一つのイレギュラーは些細なこととはいえ僕を少しだけ憂鬱な気分にさせた。文庫本に挟んでいたはずのしおりがなくなったのだ。
幸い僕は読んでいた場面を覚えていたけれど、なくしたしおりは書店等で無料に配られているものではなく、以前博物館に行った時に買った薄いプラスチックで作られたものだった。いつなくなったのか分からず、いずれにしろ自分の不注意が原因なので何を恨みようもなかったのだけれど、僕は久しぶりに落ち込んだ。
そういう風に多少どうでもいいことや落ち込んだことはあったのだけれど、二日間は僕にとって平常なものだった。僕の平常は静けさと共にあるものなので、つまり死にかけた女の子につきまとわれたりしなかったということだ。
平常の崩壊の序章がやってきたのは、水曜日の夜。最後の「いつも」を満喫していた僕の元に一通のメールが届いた。その時、異常が始まろうとしていたことに気がついていなかったのは、僕が望むと望まずに関わらず、登場人物だったからだろう。小説でも、第一章がどこの場面かと知ることが出来るのは読者だけだ。登場人物は何も知らない。
メールの内容はこう。
『テストお疲れ! 明日からテスト休みだねぇ[笑顔] 単刀直入に言うけど、空いてる? どうせ空いてるよね? 電車で遠出しようと思います![ピース] どこか行きたいところある?』
人に都合を断定されるのは幾分か気分が悪かったけれど、空いているのは図星で、断る理由もなかったので僕は『君が死ぬ前に行きたいところに行けばいい』と返した。もちろん、これが後に僕自身の首を絞める。彼女に物事の決定権を渡すということがどういうことか、推して知るべきだった。
続けて彼女から場所と時間を指定するメールが来た。場所は県内では有数に大きな駅で、時間は妙に早かったのだけれど、彼女の気まぐれだろうと気にすることをしなかった。
僕がたった二文字のメールを返すと、すぐに彼女からその日最後のメールが届いた。
『絶対約束やぶっちゃ駄目だよ?』
いくら彼女が相手とはいえ、僕は基本的には約束をすっぽかしたりはしないので、最後に『大丈夫』というメールを返してから、携帯電話を机の上に放った。
ネタばれをしておくと、この『約束』という言葉が彼女のトリックの全てだった。いや、僕がトリックと解釈しているだけだけど。僕は、彼女の言う『約束』とは、明日出かけることを指していると思っていた。違った。彼女の言う『約束』とは、『君が死ぬ前に行きたいところに行けばいい』という僕の失言を指していた。
次の日、早朝に約束の場所に着くと、彼女は既に来ていた。いつもは持っていない空色のリュックを背負い、いつもはかぶっていない麦わら帽子をかぶり、まるで旅行に行くみたいだな、と思った。
挨拶も交わす前に、彼女は僕の姿を見て驚いた。
「軽装すぎだよ! 荷物それだけなの? 着替えは?」
「…………着替え?」
「んー、まあ、あっちで買えばいいか。ユニクロはあるだろうし」
「……あっち? ユニクロ?」
初めて、僕の心に不穏がさした。
僕の疑念も質問もどこ吹く風で、彼女は腕時計を見ながら「朝ごはん食べた?」と質問を返してきた。
「一応、パンだけ」
「私、食べてないんだ。買いに行っていい?」
特に問題はないと思ったので頷く。彼女はにこりと笑って大股で目的地に向かって歩き出した。コンビニにでも行くのかと、そう考えていると、着いたところはお弁当屋だった。
「え、駅弁を買うの?」
「うん、新幹線の中で食べるんだよ。君も買う?」
「ちょっとちょっとちょっとちょっとちょっと」
僕はディスプレイに並ぶお弁当を楽しそうに眺める彼女の二の腕を掴んでレジ前からひきはがす。レジのおばちゃんから微笑ましいものを見る視線を浴びせられながら、改めて彼女と向き合うと、なんと驚いた顔をしていたのだから驚かされる。
「それはこっちの表情だよ」
「どうしたの?」
「新幹線? 駅弁? ちゃんと説明して、今日何をする気なの?」
「だから、電車で遠出だよ」
「電車って新幹線のことなの? 遠出って、どこまで行く気?」
彼女はやっと思い出したといった顔をしてからポケットに手を突っ込み、二枚の四角いものを出した。チケットだとはすぐに分かった。
彼女から一枚を渡されて、見て、僕は目を見開いた。
「えっと、冗談?」
うわははっと彼女が笑う。本気、らしい。
「日帰りで行くところじゃないって、今からでも考え直そう」
「…………いやいや、【仲良し】くん、違うって」
「よかった、やっぱり冗談か」
「そうじゃないよ、日帰りじゃ、ないよ」
「…………え?」
ここからの僕らの会話は、あまりに不毛だった上に、最後には僕が押し切られてしまうという流れなので割愛する。
彼女が主張し、僕が説得し、昨日のメールという札を切られ、約束は基本的に破らないという僕の意思につけこまれ。
気がつくと僕は、新幹線に乗っていた。
「あーあ」
流れゆく景色を窓際の席で眺めながら、ここに来てなお現状を受け入れるべきなのか迷っている僕。横では、彼女が美味しそうに炊き込みご飯を食べている。
「初めて行くんだー、【仲良し】くん行ったことは?」
「ないよ」
「安心していいよ、今日の為に情報誌ちゃんと買ってあるから」
「ああ、そう」
草舟にも、ほどというものがあるのではないか。僕は自分を叱責する。
ちなみに新幹線のチケット代は焼き肉と同様彼女の財布から出ている。気にするなと言われたけど、僕という人間の威信にかけても返済しなくてはならない。
アルバイトでもしようか、そう考えていると目の前にみかんが差し出された。
「食べる?」
「……ありがと」
みかんを受け取って、無言で皮をむく。
「元気ないねー。まさかと思うけど乗り気じゃないとか?」
「いや、乗ってるよ。君の計画にも新幹線にも。そんな自分を見つめてたところだよ」
「辛気臭いなぁ、旅行はもっとうきうきしてなきゃ!」
「旅行っていうより拉致だと思うんだよね」
「自分自身を見つめるくらいなら、私を見つめてよ」
「だから、本当に、どういうつもりで言ってんの、それ」
どこ吹く風といった様子で彼女は食べ終えた駅弁にふたをして輪ゴムで止める。テキパキとした手さばきには生きている人間の生活感があった。
彼女の醸し出す現実感と実際の現実の差異に文句を言う気もそがれ、僕は黙ってみかんをひとふさずつ食べる。彼女が売店で買ったものだけど、意外と甘くて美味しかった。外を見ると、普段は見ることの出来ない一面の田園風景が広がっている。畑に佇むかかしを見て、何故か僕はもはや抵抗しても仕方がないと、覚悟を決めていた。
「そういえば【仲良し】くんって、下の名前なんだっけ?」
横で情報雑誌を開いて名産品を見比べていた彼女からの突然の質問。僕は山の緑を見て穏やかな気持ちになっていたので素直に質問に答えてやる。そんなに珍しい名前でもないだろうに、彼女は興味深げに何度か頷いた。そして僕のフルネームを控え目に口ずさむ。
「君みたいな名前の小説家いるよね?」
「そうだね、どっちが思い浮かんでるのか知らないけど」
僕は自分の名字と名前それぞれから連想できる二人の作家を思い出す。
「もしかしてそれで小説が好きなの?」
「当たらずも遠からずかな。読み始めたきっかけはそうだけれどね、好きなのは面白いと思うからだよ」
「ふーん、一番好きな小説家は名前と一緒?」
「違う。一番は、太宰治」
文豪の名前を聞いて、彼女は幾分か意外そうに目を見開いた。
「太宰治って人間失格とかの?」
「そうだよ」
「そんな暗そうなのが好きなんだぁ」
「確かに小説の雰囲気は思いつめたような太宰治の精神が文面を通して伝わってくるようだけどね、暗いという言葉では片づけられないよ」
僕が珍しく乗り気になって喋ってあげると、彼女は興味なさげに唇を尖らせた。
「んー、ま、私は読む気にはならないかな」
「君は文学にはあまり興味がないみたいだね」
「そうだねー、あんまり、漫画は読むけどね」
だろうな、と思った。善し悪しの問題ではなく、彼女がじっとして小説を読んでいる姿が想像できなかった。漫画を読む時だってきっと家にいれば部屋の中をうろうろしたりいちいち声をあげたりしながら読んでいるのだろう。
相手が興味のない話をしても仕方がないので、僕は彼女に気になっていたことを訊くことにする。
「君の旅行を両親はよく許したね。どんな手を使ったの?」
「キョウコと旅行してくるって行ったの。私の両親、私が最後にしたいことがあるって言ったら大抵涙ぐんで許してくれるんだけど、流石に男の子との旅行はねー、分かんないからさ」
「君は本当にひどいね、両親の気持ちをふみにじって」
「そう言う君は? ご両親になんて言い訳する気?」
「僕は両親に心配をかけないように、友達がいるって嘘ついてるからさ。友達の家に泊まるって言うよ」
「ひどいし、寂しいね」
「誰も傷つかないって言ってくれない?」
彼女は呆れたように首を振って足元に置いたリュックから雑誌を取り出した。僕が愛する両親に嘘をつかなければならない理由を作った張本人のくせになんという態度だろうか。彼女が雑誌を開いたのでこれは好機と僕も鞄の中から文庫本を取り出してそちらに集中する。朝から騒がしい非日常を相手にして疲れていたので物語の中に身をやつして心を癒したかった。
というようなことを僕が考えている時点で、彼女に平穏を邪魔されるという事態への伏線になっているのではないかと、誰かの所為ですっかり疑心暗鬼になってしまった僕自身は考えた。ところが僕の大切な時間はしばらくの間、誰に邪魔されることもなく過ぎていった。一時間ほど集中して小説を読み、きりがいいところでふと予想だにしなかった平穏を手に入れていたことに気がついた。隣を見ると、彼女は雑誌をお腹の上に置いて気持ちよさそうに眠っていた。
彼女の寝顔を見て、大病が巣食っているとは思えない健康的な肌に落書きでもしてやろうかと思ったけれど、やめておいてあげた。
その後、新幹線が目的の駅に着くまで彼女が目覚めることはなかった。着いてからも。
なんて言い方をするとまるで彼女が新幹線の中で短い生涯を終えたようだけれど単純になかなか目覚めなかっただけのことだ、縁起でもない勘違いはよくない。僕が優しくほっぺをつねり鼻をつまんでも彼女はふがふがというだけでなかなか起きなかった。最終手段、持っていた輪ゴムで無防備だった手の甲に攻撃をくわえてやると、彼女はオーバーリアクションで飛び起きて「もっと呼びかけるとかあるでしょう!」と言いながら僕の肩をグーで殴った。せっかく起こしてあげたって言うのに信じられない。
幸い新幹線はここが終点だったので、僕らは荷物を持ち悠々と下車することが許された。
「初上陸! うわぁ! ラーメンの匂いがする!」
「それは流石に気の所為じゃない?」
「絶対するよ! 鼻腐ってんじゃないの?」
「君みたいに脳じゃなくてよかったよ」
「腐ってるのは膵臓ですぅ」
「その必殺技卑怯だからこれから禁止にしよう。不公平だ」
彼女が笑いながら「【仲良し】くんも必殺技作れば?」と言ったけれど、僕には大病に罹る近日中の予定はないので丁重にお断りしておいた。
ホームから長いエスカレーターを下りると、お土産屋や休憩どころが立ち並ぶフロアに出た。改装されたばかりなのか清潔感満点の空間はとても好感が持てた。
地上に下りる為のエスカレーターに乗り、僕らはやっと改札を出た。出た瞬間、まさか、と衝撃を受けた。自分の感覚を疑った。さっき彼女が言った通り、ラーメンの匂いがした。なんてことだ、これが事実だとすると、彼の府ではソースの匂いがして、彼の県ではうどんの匂いがするとでも言うのだろうか。まだ行ったことがないので、可能性は否定できないけれど、一つの料理がこんなにも人間の日常に浸食してきているなんてあり得るのか?
隣に立つ彼女の顔を見なくても、きっとニヤニヤと笑っていることは想像がつくので絶対に見ない。
「んで、どこに行くの?」
「ぬふふふふふふふ、え?」
鬱陶しい。
「ああ、どこに行くか? 学問の神様に会いに行くよ。だけどその前にお昼ご飯だねぇ」
そういえばお腹が空いてきた気もする。
「やっぱりラーメンだと思うんだけど、どう?」
「異論はない」
人が行き交う駅の中を、大股で歩く彼女について行く。どうやら新幹線の中で読んでいた雑誌掲載のお店に行くようで、その歩みには迷いがない。地下に潜ったり外に出たりしながら行くと、意外とすぐに建物の中に組み込まれたラーメン屋さんの前に辿り着いた。店に近づいた段階で独特の匂いが濃くなってきて、僕は少し恐れをなしたけれど、お店の外壁には有名なグルメ漫画でこのお店が取り上げられたらしきページのコピーが貼られていて、どうやらおかしな店ではないらしいと僕を安心させた。
ラーメンは美味しかった。注文してから出てくるスピードも早く、僕らはむさぼるように食べた。二人共、替え玉というシステムを利用したのだが、麺の固さを尋ねられた時に彼女が「はりがね」と言ったのを聞いて僕は丁寧につっこんであげた。まさかそういう種類の固さ分類がこの県では常識的にあって、僕が赤っ恥をかいたのは誰も知らなくていい事実だ。ちなみに「はりがね」は、ただの小麦粉を細くしたものにお湯をかけた程度にしか思えない茹であがりだった。
腹ごしらえを終えて、僕らはすぐに電車に乗った。彼女が会いたがっている学問の神様の住む神社は電車で三十分ほどとのことだったので急ぐ必要はなかったけれど、この旅行のホストが急ぎたいと言ったので僕はそれに従った。
電車の中で僕はどこかで読んだ情報を思い出し、結んでいた口を開いた。
「ここは日本一物騒な県らしいから気を付けた方がいいよ。少年犯罪とか色々一位らしい」
「そうなの? でもそんなのどこの県も一緒だよ。ほら、こないだうちの隣の県でも通り魔あったしさ」
「あったねそんなこと」
「ニュースで言ってたけど通り魔って一番捕まりにくいらしいよ。憎まれっ子世にはばかるっていうからねー」
「そんな次元の話じゃないよね」
「だから君が生き残って私が死ぬんだろうね」
「今知ったんだけど、格言はあてにならない。覚えといて」
電車は本当に三十分ほどで僕らを目的地に運んできてくれた。空は嫌になるほどの快晴で、立っているだけでじんわりと汗がにじんできた。着替えがなくても大丈夫かと思っていたけれど、後でユニクロに寄った方がよさそうだ。
「いーい天気ぃー」
太陽にはりあっているみたいな笑みを浮かべて、彼女は軽いステップを踏みながら神社までの坂道を登っていった。平日の昼間だというのに込み合っている境内までの参道は左右を土産屋や雑貨屋、食事処や怪しいTシャツを売っている店などに挟まれていて、見ていて飽きなかった。特に目をひいたのはいくつもある名物のお餅の店で、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
時折彼女はふらふらと店に引っ張られていった。結果何も買わないのだけれど、それは客も店側も分かっているから、安心して見ているだけで楽しめる。
汗だくになりながらようやく参道を登りきるや、ひとまず僕らは自動販売機で飲み物を買った。購買意欲をあおる絶妙な場所に設置された自動販売機に負けるのは悔しかったけれど、喉の渇きという生命に直結したうずきが理性を飛ばした。
彼女が汗の伝う髪の毛を振りみだしながら、やっぱり笑う。
「青春みたいだね!」
「空は青いけど、春じゃない……あっつい」
「運動部にいたことは?」
「ないよ。ほら、高貴な生まれだから体動かさなくてもいいんだ」
「高貴な人達なめんな。運動しなよー病人の私と同じくらい汗かいてんじゃん」
「運動不足とか多分関係ないでしょ」
周りでも限界を迎えたのか木陰で恥ずかしげもなく腰をおろしている人達がたくさんいる。今日はまた特別暑い日のようだ。
どうにか若さと水分で脱水症状を免れてから僕らはまた歩きだす。手を洗って、熱く焼けた牛の偶像に触って、水に浮かぶ亀を眺めながら橋を渡って、やっとこ神様の御前に辿り着いた。どうして途中で牛に出会ったのかは、説明を読んだのだけれど暑さの所為で忘れてしまった。彼女は最初から読むつもりもなさそうだった。
神様の財布になっている箱の前に立ち、控え目なお賽銭を入れて、きちんと二礼二拍手一礼をする。
参拝というのは、神様にお願いをする場ではないと僕は何かで読んで知っていた。参拝の本来の意味は、神様の前で決意を表明することだ。だけれど僕には今のところどんな決意もなかった。仕方がないので、隣の彼女の手伝いをしようと思う。知らないふりをして、神様にお願いする。
彼女の膵臓が治りますように。
気がつけば彼女よりも長く僕は祈っていた。叶わないと分かっている願いの方が、きっと祈りやすいのだろう。もしかしたら彼女は違うことを祈ったかもしれない。僕にそれを聞く気はなかった。祈りは、一人で静かに捧げるものだ。
「死ぬまで元気でいられるようにってお願いしたよ。【仲良し】くんは?」
「……君はいつも僕の想いを踏みにじるね」
「え、まさか私がどんどん弱っていくようにお願いしたの? 最低! 見損なったよ!」
「どうして人の不幸を願うんだよ」
実際には彼女の予測と全く反対のことを祈っていたけれど、言わなかった。そういえばここは学問の神様じゃなかったっけ? まあ神様なんだから細かいことは気にしないでくれるだろう。
「ねえ、おみくじ引こうよ!」
彼女の提案に、僕は眉をひそめる。彼女の運命とおみくじは相関性がなく思われた。おみくじには未来のことが書かれているのに、彼女には未来がない。
彼女はおみくじが販売されている場所に駆け寄り、迷いなく百円を箱に入れておみくじを引く。仕方がないので僕も付き合う。
「いいこと書いてある方が勝ちだからね」
「おみくじをなんだと思ってるの?」
「あ、大吉だ」
嬉しそうな顔をする彼女。心中唖然とした。神様は彼女をなんだと思っているのだろう。これでおみくじにはなんの力もないことが証明されてしまった。それとも、既にとびっきりの大凶を引いてしまった彼女へ、神様からの優しさだとでも。
彼女は大声をあげた。
「あははははははははははは! 見て見て! 病、やがて治る、だってぇ! 治んねえっつうの!」
「……君が楽しそうでなによりだよ」
「君は?」
「吉」
「小吉の、下?」
「大吉の下って話もあるよね」
「どっちにしろ私の勝ちだね、えっへん」
「君が楽しそうでなによりだよ」
「良縁来たるって書いてあるじゃん、よかったね」
「本当によかったって思うならどうして吐き捨てるように言うの」
彼女は小首を傾げてからこちらに顔を近づけてきて、至近距離でにへらっと笑う。口を開かなければ可愛げがあるのに、と思ってしまった自分に最大限の不覚を感じる。
僕が目を逸らすと、くくくくっと笑い声が聞こえてきた。笑ったきり彼女は何も言わなかった。
本殿から出て僕らは来た道を戻る。来る時に渡った橋を渡らずに左に折れていくと宝物殿や、菖蒲池と名前のついた水たまりがあった。池には亀が大量に浮いていて、僕らは売店で亀の餌を買って池にまいた。亀ののんびりとした動きを見ていると暑さも少しは紛れる気がした。僕が夢中で餌やりをしていると、彼女は小さな女の子に話しかけられたりしていた。にこやかに対応する様子を見て、流石は僕と反対の人間だと思う。女の子に「お姉さん達、恋人ぉ?」と訊かれた彼女は「違うよー仲良しだよー」と言って幼女を困らせていた。
亀に餌をやり終えてから、池の脇の道を歩いていくと一件の食事処の前に出た。彼女の提案で立ちよることにした。店内はクーラーが効いていて二人して思わず溜息をついた。広い店内に客は僕らの他に三組。家族連れと、上品な老夫婦と、少し騒がしいおばさん四人。僕らは窓際の座敷に上がった。
ほどなく気の良さそうなおばあさんがコップに入った水を二人分持って寄ってきて注文を訊いた。
「梅ヶ枝餅二つと、私はお茶かな。君もお茶でいい?」
頷くと、おばあさんはにこにことしながら店の奥へと歩いていった。
冷たい水を飲むと、体の温度がどんどんと下がっていくのを感じた。指の先まで、涼が行きわたって心地がいい。
「あのお菓子、梅ヶ枝餅っていうんだね」
「名物なんだよ。雑誌に載ってた」
お待たせしましたーっと、全く待っていないと断言出来る早さで赤いお皿に乗った梅ヶ枝餅と緑茶が二つ運ばれてきた。料金は前払いのようで、二人で半分ずつ店員さんに小銭を渡した。
店内で常に焼いているらしい丸くて白いお餅は持ってみるとぱりぱりでかじってみると中からたっぷりの甘みとほのかな塩味を持ったあんこが出てきて、それは美味だった。緑茶ともよく合う。
「美味しいね! 私についてきて正解だったでしょ」
「少しだけね」
「素直じゃないなー。そんなんじゃあ私がいなくなったらまたひとりになっちゃうよ?」
「…………」
別に構わない。そう思っている。僕にとっては、今の状況が異常だ。
彼女がいなくなれば、また元の生活に戻るだけだ。誰とも関わらず、小説の世界に身を潜める。そんな毎日に、戻る。決して悪いものじゃない。けれど。彼女に理解してもらえるとは思わない。
梅ヶ枝餅を食べ終えて、お茶を飲みながら彼女は雑誌をテーブルの上に広げた。
「これからの予定は?」
「お、乗り気だね」
「どうせなら皿も一緒に食べてやろうって新幹線からかかしを見て決めたんだ」
「ああそう、意味分かんない。私ね、死ぬまでにしたいことをリストアップしたの」
それはいいことだ。僕と過ごす時間の無駄に気がつくことだろう。
「男の子と旅行したいとか、本場でとんこつラーメン食べたいとか、それで今回の旅行に踏み切ったんだけど、とりあえず今日の私の最終的な目的は夜ご飯にモツ鍋を食べるってことなんだよね。それさえ叶えば万々歳。【仲良し】くん他に行きたいところとかある?」
「いいや、僕は他の地については基本的に無頓着だから、何があるのかもあんまり知らないな。昨日メールでも言ったけど、君の行きたいところに行けばいいんじゃない」
「んー、そっか、どうしよっかな…………んあっ!」
彼女が間抜けな声をあげた。理由は店内に何かの割れる音と下品な悲鳴が響き渡ったから。音の方を見ると、ずっと騒いでいたおばさん達のうちの太った一人がヒステリックな声をあげていた。隣には、頭を下げるおばあさん。どうやら、おばあさんが躓いたか何かで湯のみをひっくり返してしまったらしい。床に落ちた陶器の湯飲みが割れた音が、次なる行き先に悩む彼女を驚かせた。
状況を見守り、観察する。おばあさんは平謝りを続けているけれど、自分の服にお茶がかかってしまったらしいおばさんはヒステリーにだんだんと拍車がかかってきて、発狂と言って相違ない様子になってきている。正面を見ると、彼女も、お茶を飲みながら静観していた。
どうにか事態が穏便に治まるのを期待していたのに、そういった期待はよく裏切られるもので、怒りが頂点に達したらしいおばさんは乱暴におばあさんを突きとばした。おばあさんは押されたまま後ろによろめきテーブルにぶつかって、テーブルごと床に倒れた。醤油の瓶や割りばしの束が床に散らばる。
事態を受け、まだ傍観を決め込もうとしていたのは、僕だけだった。
「ちょっと!」
今まで聞いたことがないくらいの大きな声を張り上げて、僕と同席していたはずの彼女は立ちあがりおばあさんに駆け寄った。やっぱり、と僕は思った。傍観者でありたいと願う僕、当事者になろうとする彼女、つまりはそういうことだ。僕は自分を鏡にして、彼女なら立ち上がるはずだと、確信的に思っていた。
彼女はおばあさんを立ちあがらせながら、敵とみなした女性を怒鳴りつけた。当然相手も対抗してきたけれど、ここが彼女の真価だろう。店内にいた他のお客、家族連れのお父さんや老夫婦の二人が、重い腰をあげ、彼女の味方をし始めたのだ。他方から責められたおばさん達は奇声をあげていた当人以外も顔を真っ赤にして文句をぐちぐちと喚き散らしながら店から逃げるように出て行った。彼女はおばあさんに礼を言われ、褒め称えられていた。僕は、まだお茶を飲んでいた。
倒れたテーブルを片づけてから彼女が帰ってきて、「おかえり」と声をかけると彼女は少し怒った様子だったので僕の不参加をしかられるのかと思ったら、そうではなかった。
「あのおばさんが突然出した足にひっかかっておばあさんこけたんだって。まったくひどいよね!」
「そうだね」
世の中には、加害者と傍観者の罪は同列であるという考え方がある。それならば僕の罪は彼のおばさんと同等なので、僕は強く非難することをしなかった。
正義の為の怒りを掲げる余命幾許もない彼女を見ながら、憎まれっ子は世にはばかるのだなと考えた。
「君より先に死んだ方がいい人間はたくさんいるもんだね」
「本当だよ!」
彼女の同意に、僕は苦笑した。やっぱり僕は、彼女がいなくなったら一人になろうと思った。
店を出る時、彼女はおばあさんからのお礼と共にお土産の梅ヶ枝餅を六つ持たされた。彼女は最初は断ろうとしていたがおばあさんの押しに負けて快く受け取っていた。焼いてから少し時間の経った梅ヶ枝餅を僕も貰って食べると、しっとりとした違う食感が楽しめてこれもまた美味しかった。
「とりあえず都会の方に行ってみようよ、ユニクロも探さなきゃいけないし」
「そうだね、思ったより汗かいた。申し訳ないんだけどさ、君が死ぬまでに必ず返すからお金を貸してくれない?」
「え、やだ」
「…………君は鬼畜生だね。地獄で仲良くするといい」
「うわははっ、嘘だよ、冗談冗談。別に返さなくてもいいよ」
「いいや、今まで君が払ってるのも全部返す」
「意固地だなぁ」
電車に乗って僕らは元来た駅を目指した。電車内は静かだった。ご老人達が居眠りをしたり、小さい子ども達が集まってひそひそと作戦会議をしたりしていた。彼女が隣で雑誌を読んでいたので、僕はぼんやりと外を眺めた。時刻は既に夕方にさしかかっているが夏の空はまだまだ明るい。ずっと明るいままならいい。この頃になると僕は、そんなことを気まぐれに思い始めていた。
神様へのお願いはそれにすればよかったなと、一人ごちていると、隣で彼女が雑誌を畳んで目をつぶった。彼女はそのまま、僕らが目指す駅につくまで、ぐっすりと眠っていた。
駅につくとお昼よりもだいぶ人が増えていた。せかせかと下校途中の学生やサラリーマン達が行き交う中を僕らは呑気に歩く。ここの県民達は他の場所の人達よりも足が速いように思う。物騒な県内でトラブルを回避する為だろうか。
彼女と相談して僕らは県内随一の繁華街に赴くことに決めた。携帯電話で調べたところ、そこにユニクロもあるみたいだった。あとから調べたら、どうやら神社のあった場所から一番の都会にある駅までは改札を出ずとも行けたらしいけれど、何しろ拉致られてきた僕にそんな下調べは不可能だし、彼女はそんなことに気を回すほど細やかな人間ではない。
僕らは、地下鉄に乗って街へと向かった。
時刻は、とっぷりと夜八時。僕らは掘りごたつに座って、湯気立つ鍋をつついていた。モツとキャベツとニラくらいしか具が入っていないその名物鍋料理は、内臓よりは肉がいいと断言する僕を黙らせるほどの味だった。もちろん彼女はずっと騒いでいた。
「生きててよかったぁ!」
「真実の一言だね」
僕は自分の器から出汁を飲む。しみじみと美味い。
あれから僕らは街に向かい、ユニクロに寄って、それからただぶらぶらとした。彼女がサングラスを買いたいと言って眼鏡屋に入ってみたり、僕が本屋を見つけて入ってみたり。未見の地の町並みは見ているだけでそこそこ楽しく、突然現れた公園で鳩を追いかけたり、県を代表する銘菓を作るお店で試食をしたりしていたら時間はすぐに過ぎた。暗くなり始めると他県民には珍しい屋台が軒を連ね、僕らはそれを眺めながら彼女が目星をつけていたモツ鍋屋へと向かった。平日だからか、運がよかっただけか、賑わった店内で僕らはすぐに席に通された。彼女が「私のおかげだね」と嘯いていたけれど、予約も何もしていなかったのだから断じて彼女のおかげではない。
食事中はほぼ中身のある会話は交わさなかった。彼女は終始鍋を讃えていて、僕は静かに舌鼓を打っていた。くだらない会話もなく存分に食事を楽しむことが出来た。美味しいものと向き合う時はこうでなくてはならない。
彼女がまたそのくだらない口を開いたのは、旨みが凝縮されたスープにお店の人が中華麺を投入してくれた時だった。
「これで私達も一緒に鍋つく仲だねえ」
「もしかして同じ釜の飯感覚で言ってるの?」
「それ以上だよ、私彼氏ともモツ鍋つついたことないもん」
うきゃきゃきゃっと彼女は笑った。笑い方がいつもと違うのは体内にアルコールを入れているからだ、彼女は高校生の分際で堂々とワインを注文した。お店の人はあまりに悪びれない注文を訝しがることもなく聞き入れ、白いグラスワインを運んできた。警察に連絡してくれてもよかったのに。
酔ってはいないみたいだけれど、いつもより上機嫌になった彼女は普段より自分自身のことを話したがった。僕は人の話を聞いている方が、喋ることよりも好きなので都合がよかった。
どんな話の流れだったか、彼女は僕のクラスメイトでもあるらしい前の彼氏について話し始めた。
「彼ね、すっごくいい人なの。うん、本当に、あっちから告白されて、いい人だし友達だから付き合っても大丈夫かなぁって思ったら、そうじゃないのが難しいところだよねぇ。ほら、私結構あけすけにものを言うじゃない? そしたらすぐ不機嫌になっちゃって、喧嘩になったら凄い粘着質な怒り方してくるの。友達だったらよかったんだけど、もっと長い時間一緒にいると嫌になってくるわけよ」
彼女はワインに口をつける。僕は黙って共感出来ない彼女の話を聞く。
「キョウコからも私の元彼は好評だよ。表面上は爽やかボーイだから」
「僕とは縁がなさそうだ」
「だろうね、君、キョウコにも敬遠されてるし」
「君は僕がそういうこと言われて傷つくとか思わないの?」
「傷つくの?」
「傷つかないよ。こっちも敬遠してるんだからおあいこだ」
「私が死んだらキョウコと仲良くしてあげてほしいのになぁ」
それまでとは違う様子で、彼女の目が真っ直ぐにこちらを見据えた。どうやら本気の言葉らしかった。仕方なく僕は「考えておく」と答えた。彼女は「お願い」と一言だけ添えた。意味のある一言だった。どうせ仲良くなることはないと決めてかかっていた僕の心が揺れた、少しだけ。
たっぷりモツ鍋を堪能し終えてから店を出ると、気持ちのいい夜風が顔を撫でた。店内はクーラーがかかっていたけれどいくつもの鍋がぐつぐつと煮込まれていたのでほとんど効力をなしていなかった。僕の後から、会計を済ませた彼女が出てくる。僕は今回の旅行中の支払いを絶対返済の条件付きで彼女に任せるという協定を結んでいた。
「わー気持ちいー」
「まだ夜は涼しいね」
「だねー、さーてじゃあホテル行くかぁ」
今日泊まる場所は昼のうちに彼女から聞いていた。そこは僕らが新幹線でやってきた駅から直結のそこそこグレードの高いホテルで、県内でも有名な場所らしい。本当なら彼女は簡単なビジネスホテルにでも泊まるつもりだったのに、予定を両親に話したところどうせだったらいいところに泊まるようにと助成金をもらった。せっかくなのでご好意に甘えちゃおうということだ。もちろん彼女の両親が出したお金の半分は親友さんの為のお金なのだけれど、それは責任が彼女にあるので僕は知らない。
駅に着くと本当にホテルまではすぐだった。いや、公式な発表に本当も嘘もないのだろうけれど、思ったよりも更にすぐだったという意味だ。
ホテルの内装の豪華さと清廉さに僕が圧倒されなかったのは彼女の持つ雑誌で事前に確認をしていたからだ。もし心の準備がなされていなかったら度肝を抜かれたことだろう。そして彼女にひれ伏したはずだ。そんなことは僕にもあるひとつまみの自尊心が許さないので、紙面で先に驚いておいて本当によかった。
五体投地を免れるも、やはり身の丈に合わない雰囲気に落ち着かない僕は、受付を彼女に任せて瀟洒なロビーのソファーに座り大人しく待つことにした。ソファーは座り心地に奥行きと優しさがあった。
彼女は慣れた様子で堂々と受付カウンターに向かい、従業員の皆様方に頭を下げられていた。ろくな大人にならないだろうな、となんの疑いもなく思ったけれど、そういえば大人にならないんだったと思いだした。
明らかに場違いなペットボトルのお茶を飲みながら、僕は彼女が受付をすます様子を横方向から見守った。
受付で彼女の相手をしてくれているのは細身で髪をオールバックにしたいかにもホテルマンという調子の若い男性だった。僕がホテル従業員の気苦労に思いを馳せていると、彼女が手元の紙か何かに記入を始めた。こちらからでは会話の内容は聞こえないけれど、彼女が紙を返すと、ホテルマンの彼はにこやかに手元のコンピューターに姿勢よく向かい、入力を始めた。予約内容の確認が出来たのか、彼が彼女に向き直り丁寧に口を動かす。と、彼女は驚いた顔をして首を横に振った。その反応にホテルマンの彼も表情を強張らせ、再度コンピューターを操り、彼女に対して口を動かす。彼女は再び首を横に振ると一緒に、リュックを肩から下ろし中から紙を一枚取り出して彼に渡した。ホテルマンの彼はその紙とコンピューターの画面を見比べて顔を歪めながら奥へと一度引っ込んでいった。彼女と同様僕も手持無沙汰に待っていると、彼は年配の男性を引き連れて戻ってきた、戻ってくるなり二人は彼女に対して何度も何度も頭を下げた。その後、若い彼ではなく年配の男性の方が全身で謝罪を表現しながら彼女に語りかけ始めた。彼女は困ったように笑っていた。
何事が起こっているのだろう、一部始終を観察しながら僕なりに考えていた。普通に考えれば、予約がきちんと行われていないというホテル側のミスがあったというのが妥当だろうけれど、それじゃあ彼女の困った笑顔が説明できない気がする。何にせよこういった場合はホテル側がきちんと対処をしてくれるのだろうから僕は悠然と構えておこうと思った。いざとなれば、そこらのネットカフェなんかで夜を明かすのでもいい。
困った笑顔のままこちらをちらちらと窺っていた彼女に、僕はなんとはなしに頷いてみせた。特に意味のない行動だったけれど、彼女は僕の動きを見てカウンターで眉尻を下げる二人に何かを言った。瞬間、二人のホテルマンの顔が晴れ、相変わらず頭を下げつつではあったけれど今度は彼女にお礼を言っているようだった。話がまとまったようで何よりだ、と思った僕を数分後の僕は殴りたい。何度も言っているように、僕には危機管理能力が足りないのだ。
鍵やら何やらを受けとった彼女は、また頭を下げられながら僕のところへと戻ってきた。僕は彼女の顔を見上げて、「大変だったみたいだね」と声をかけてあげる。僕なりの労いに彼女は、表情で答えた。まず唇を尖らして顔に照れと困惑を浮かべ、それから僕の顔色を窺うように目をしぱたかせて、最後に全てを振りきるように相好を崩した。
「あのさ、ちょっと手違いがあったみたいでさ」
「うん」
「元々予約してた部屋がいっぱいになってて」
「そうだったんだ」
「そうなの、で、あっちの責任だからって予約してたとこより大分いい部屋を用意してくれるみたいなんだけど」
「それは結構だね」
「あのさ…………」
彼女は、手に持っていた鍵を一つ、顔の横にぶら下げた。
「一緒の部屋なんだけど、いいよね?」
「…………は?」
彼女の笑顔に対して、僕は気の効いた返事一つ出来なかった。
もうこの手のやりとりは僕自身飽き飽きしているし、もし僕の心中を読む人がいるとするなら、この先の展開は見え見えだと思うけれど、僕は彼女と同じ部屋に泊まることになる。ただ僕を意思の脆弱な、異性と部屋を共にすることを簡単に許すような軟派な人間だと思わないでほしい。僕と彼女の間にはいわゆる多少の金銭的問題があった。そこにつけ込まれただけで、僕は彼女に自分だけ違うところに泊まってもいいと主張さえした。
って。僕は誰に言い訳をしているのだろうか。
そう言い訳。強硬姿勢をとって彼女とは別行動をとる、それが僕には出来たはずだ。彼女も無理には止めなかったろう。僕は、僕の意思でそれをしなかった。理由は? さあ、分からない。
ともあれ、僕は結局彼女と部屋を共にすることになった。かといってなんら僕にやましいところはない。それは、生涯を通して断言出来る。僕らは、潔白だった。
「一緒のベッドに寝るなんてドキドキするね」
うん、僕だけは、潔白だった。
「馬鹿じゃないの?」
広い部屋の中、柔らかい光を放つシャンデリアの下で踊るように回った後、おかしなことを言った彼女を、僕はねめつけた。大きなベッドが置かれた洋風空間の奥にある品のいいソファに座って彼女に当然のことを教えてあげる。
「僕はこっち」
「えー、せっかくいい部屋なんだからちゃんとベッドまで味わっとこうよー」
「じゃあ後で一度寝ころんでみるよ」
「女の子と一緒に寝れるって嬉しくないの?」
「そういう僕の品位を落とすような発言はやめて。ほら、僕ってどこまでも紳士だから。そういうのは恋人とやってよ」
「恋人じゃないから、いけないことみたいで楽しいんじゃない」
言ってから彼女は何かを思いついたみたいで、リュックから『共病文庫』を取り出しメモをした。この行動は彼女を観察していると頻繁に見かける。
「すごーい! ジャグジーだぁ!」
お風呂場に行った彼女がはしゃいでいるのを聞きながら僕は窓を開け、ベランダに出た。僕らの通された部屋は高層十五階に位置し、スイートとまではいかないまでも高校生が宿泊するには贅沢すぎた。トイレと風呂は別だし、ベランダからの夜景は壮観だ。
「うわぁ、素敵」
いつのまにか彼女もベランダに出て夜景を見ていた。囁く風に彼女の長い髪が揺れる。
「二人で夜景なんてロマンチックだと思わない?」
僕は答えずに部屋の中に戻った。ソファに座り、目の前の丸テーブルの上にあったリモコンで部屋同様に大きなテレビの電源をつけて、チャンネルをザッピングする。普段は見かけないローカル番組が多く流れていて、方言を全面に押し出してくる芸能人達の番組は、彼女の戯言よりも余程興味深かった。
ベランダから戻ってきた彼女は窓を閉めて僕の前を横切りベッドに座った。「うおわっ」と声をあげた彼女の様子から察するに余程弾力のあるベッドだったのか。よし、後で一度だけ弾力を味わってみても損はない。
彼女も僕と同様に大きなテレビを眺める。
「方言って面白いよねー。食べたかろう、ってなんか昔の武士みたい。周辺で最先端の街なのに方言は古いって不思議」
彼女にしてはなかなか面白いことを言う。
「小説好きなら方言とかも興味あるんじゃないの」
「あるよ。大学に行ったらそういう勉強をしてもいいかなと思ってるくらい」
「いいなぁ、私も大学とか行きたかったなぁ」
「……なんて言えばいいの」
冗談めかしてではなく、感傷をまとってそういうことを言うのはやめてほしい。どんな気持ちになればいいのかも分からない。
「方言豆知識とかないの?」
「そうだなぁ、じゃあ、僕らは関西弁を聞いても全部同じに聞こえちゃうけど、本当はいくつかの種類に分かれてるんだ。何種類くらいあると思う?」
「一万!」
「……あるわけないでしょ。そういう空気読まない回答は嫌われるよ? 諸説あるけど、実は三十弱もあるって言われてるんだ」
「あ、そんなもんなんだ」
「……これまで何人が君に傷つけられてきたんだろうね」
交友関係の広い彼女のことだからその数は計り知れないだろう。まったく、罪深い人間だ。その点交友関係がない僕は人を傷つけるようなことはしない。どちらが人として正しいのかは、判断が分かれると思う。
しばらく黙ってテレビを見ていた彼女だったけれど、やがてじっとしているのに耐えられなくなったのか広いベッドの上をごろごろと転がって散々に荒らしてから、「お風呂に入る!」と高らかに宣言をして風呂場に行き浴槽にお湯を張り始めた。壁を挟んで聞こえる勢いのよいお湯の音をBGMに彼女はリュックから小物を色々と取り出して風呂場と別個になった洗面所に消えた。化粧でも落としているのだろう。興味はないけど。
お風呂に湯が溜まると彼女は喜び勇んで風呂場へと消えていった。「覗いたら駄目だよ」と馬鹿げた忠告をもらったけれど、僕は彼女が風呂場に歩いていくのすら見ていなかった。ほら、紳士だから。
どこかで聞いた恐らくは何かのCMソングが鼻歌となって風呂場から届いてくる。僕は、クラスメイトが近くで湯浴みをしている現状に一体どうして辿りついたのか、己の意思と行動の反省も含め思い返す。天井を仰ぐと、目の端にシャンデリアがちらついた。
記憶の読みなおしが新幹線で彼女に殴られたあたりまで来た時に、僕は名を呼ばれた。
「【仲良し】くーん、私のリュックから洗顔クリーム取ってくれなーい」
風呂場の構造上反響する彼女の声に、僕は特に何の気なく従い、ベッドの上に乗せられた空色のリュックを手に取り、中身を覗いた。
何の気もなかった。
だから目に映ったものに、僕の心は、外国の地震みたいに揺れた。
彼女みたいに明るい色の、リュック。
中身を見て、動揺する必要も理由もないはずなのに、心臓が脈打った。
知っていたはずで理解していたはずだ。彼女という存在の前提ですらあったはずなのに、それを見てしまった僕は、息を飲んだ。
落ち着け……。
僕は自分に言い聞かす。
リュックの中には、数本の注射器と、見たこともない量の錠剤、使用法の分からない検査機器のようなものが、入っていた。
思考が、止まろうとするのをなんとか踏みとどまる。
知っていた、これが現実。彼女が医学の力で存在を保っているという事実。目の当たりにすると、心に言いようのない恐怖が降ってくるのを感じた。押し込めていた怯懦が、とたんに顔を出した。
「どしたのー?」
風呂場の方に振り返ると、僕の心境など露も知らない彼女の濡れた腕がひょこひょこと動いていた。僕は、自分の中に生まれたお門違いな感情を悟られない為に急いでチューブの洗顔クリームを探し出して、彼女の手に渡した。
「ありがとー。あ、今全裸だから!」
僕が返せずにいると、彼女の方から先に「なんか言ってよ! 恥ずかしい!」と勝手なツッコミがきてそれから風呂場の扉が閉まった。
僕は、彼女が占有するベッドに近づき、身を投げた。予想通り弾力のあるベッドに僕の体は吸い込まれていった。白い天井に意識まで吸いこまれそうになる。
混乱していた。
どうしたことだ。
知っていたはず、分かっていたはず、理解していたはず。
なのに、まだ目を背けていた。
彼女という、現実。
実際に、物質として見せられただけで、僕はお門違いな感情に支配されようとしている。怪物に心を食われようとしている。
どうして。
答えの出ない考えをぐるぐると回している間に、目まで回ってしまったのか、僕はベッドの上で眠ってしまった。
目を覚ますと、髪を濡らした彼女が僕の肩を揺らしていた。怪物は、既にどこかに行ってしまっていた。
「やっぱりベッドに寝たかったんじゃん」
「……言ったでしょ、一回だけ味わうって。もう十分」
立ちあがって、僕はソファに腰掛ける。彼女に怪物の存在を気取られないよう、出来る限りの無表情でテレビに目を向ける。それを出来る程度には、平静を取り戻している自分に安心した。
彼女は部屋備え付けのドライヤーを使って長い髪を乾かしている。
「【仲良し】くんもお風呂入りなよ、ジャグジーよかったよー」
「そうしよっかな。覗かないでね、僕お風呂に入る時は人間の皮を脱ぐようにしてるから」
「日焼けしたの?」
「うん、そういうことでいいよ」
彼女に貸してもらったお金で買った服をユニクロの袋に入れたまま持って僕はお風呂場に行く。湿気がこもったそこには甘い匂いが充満していて、懸命な僕は気の所為だと思い込むことにした。
念の為きちんとドアの鍵をかけ、服を脱いでシャワーを浴びた。頭を洗って体を洗い、湯船に溜まっていた湯に浸かった。彼女の言う通りジャグジー機能を発動させると、得も言われぬ幸福感に包まれた。とろけた精神の奥に残っていた怪物の足跡が塗りつぶされていくのを感じる。風呂は偉大だ。僕は今後十年以上味わうことのないと思われる高級ホテルの風呂をかなり長めに満喫した。
風呂から出ると、シャンデリアの明かりが消されていて部屋は薄暗くなっていた。彼女は僕の寝床であるはずのソファーに座っていて丸テーブルの上にはさっきまではなかったコンビニの袋が置かれている。
「下のコンビニでお菓子とか買ってきたよー。そこの棚からコップ取ってくれない、二つ」
僕は彼女の所望する通りにコップを二つ持ちテーブルの上に置いた。ソファは埋まっていたので、テーブルを挟んで向かいあう趣味のいい椅子に座る。こちらもソファと同様人の心を落ち着かせる弾力を持っていた。
ほっこりとした気持ちで座っていると、彼女はコンビニの袋を床に下ろし、袋の中から瓶を取り出して中身を二つのコップに注いだ、コップが半分まで琥珀色の液体で満たされると、次に別の瓶から透明な炭酸系の飲み物をこぼれるギリギリまで注いだ。二つの液体が混ざり合い、コップの中で謎の飲み物が出来あがる。
「これは?」
「梅酒のソーダ割り、これくらいの比率でいいのかなぁ」
「モツ鍋屋から思ってたけど、君は高校生の分際で」
「かっこつけてるわけじゃないよ、お酒好きなの。飲まない?」
「しょうがない、付き合おう」
並々注がれた梅酒をこぼさないようにコップを口元に持っていく。久しぶりのアルコールは爽やかな香りと裏腹に甘ったるかった。
彼女は宣言通り至極美味しそうに梅酒を飲みながらお菓子をいくつかテーブルの上に広げた。
「ポテトチップスは何味派? 私、コンソメ」
「うすしお以外は軟派だね」
「ほんっとに方向性合わないね! コンソメしか買ってこなかったもんねー、ざまあみろ」
随分楽しそうな彼女を見ながら飲む酒は、やっぱり甘ったるい。モツ鍋でそこそこお腹がいっぱいになっていたのに、スナック菓子というのは不思議と食欲を誘発する。僕は邪道のコンソメ味のポテトチップスをパリパリと食べながらコップを傾けた。
二人共が一杯目を飲み終わり、彼女が二杯目をついでくれてから、こんな提案をした。
「ゲームでもしようよ」
「ゲーム? 将棋でもやるの?」
「私、将棋はルール知ってる程度なんだよね、君は強そうだね」
「詰将棋は好きだけどね、一人で出来るから」
「さーびし。トランプなら持ってるよ」
彼女はベッドの方に歩き、自分のリュックの中から箱に入ったトランプを一セット持ってきた。
「二人でトランプこそ寂しいと思うよ。例えば何をやるつもりなの?」
「大富豪?」
「革命に次ぐ革命で国民がいなくなるよ」
うきゃきゃきゃっと機嫌よさそうに彼女は笑った。
「んー」
プラスチックの箱からトランプを出し、シャッフルしながら体を揺らして彼女は考えているようだった。僕は特に口を出さず彼女が買ってきたポッキーを口にくわえていた。
トランプが手の中で五周くらいした時、彼女は動きを止めた。どうやら妙案が浮かんだらしい、自分の考えを自賛するように勝手に何度も頷いて、輝く目を僕に向けた。
「せっかくお酒飲んでるし、いきおいで『真実か挑戦』ゲームでもやろうよ」
聞き慣れないゲームの名前に僕は眉をひそめる。
「何、その哲学的な名前のゲーム」
「知らないの? じゃあルールはやりながら説明するね。最初に一つだけ、一番大事なルール。絶対に、ゲームを下りちゃ駄目。いい?」
「つまり、将棋盤を引っくり返すようなのは駄目ってことでしょ? いいよ、そんな無粋なことしない」
「言ったね?」
いたずらっぽく邪悪に笑いながら彼女はテーブルの上に乗っていたお菓子を床にどけて、裏を向いたトランプを手際よく円形に拡げた。彼女の表情から経験の差で僕を打ちのめそうとしているのは見え見えだったので、鼻っ柱を折ってやろうと僕は気合を入れる。大丈夫、トランプを使ったゲームは大体の場合、思考と運の勝負になる。ルールさえ理解すれば、経験はものを言わないはずだ。
「ちなみに、たまたまトランプがあったから利用するけど、これはじゃんけんでもいいと思う」
「……僕の気合を返してよ」
「もう食べちゃった。それじゃあね、この中から一枚選んでこの輪っかの中央で裏返して。数字の大きな方が勝ち。勝った方が権利を得るからね」
「何の権利?」
「真実か挑戦か、訊く権利。そういえば回数どうしよ、十回でいっか。とりあえずトランプ選んで」
指示通り、僕は一枚を選んで裏返す。スペードの八。
「マークが違って数字が同じ場合は?」
「めんどくさいからやり直しで。さっきも言ったけど、これは適当に作ったルールだからあんまり本質には関係ないよ」
今度は彼女が梅酒を飲みながらトランプをめくる。ハートの十一。何かは分からないけど、きっと不利な状況になるのだろうと、僕は身構える。
「やったぁ、じゃあ私に権利があるのね。今から私が『真実か挑戦か?』って言うから、君はまずは『真実』って言って。はい、じゃあ、真実か挑戦か?」
「真実……で?」
「じゃあ手始めに、うちのクラスで誰が一番可愛いと思う?」
「…………突然何を言っているの、君は」
「これが『真実か挑戦』ゲームだよ? もし君が答えたくなかったら『挑戦』を選ぶの。君が挑戦を選んだら、私が君に何か指示するからそれに挑戦する。真実か挑戦か、どちらかを絶対に選ばなきゃいけない」
「なんなのその悪魔の遊びは」
「で、さっきも言ったけど、途中で下りちゃ駄目なの。これはさっき君も了承したよね? 無粋なことはしないんだよね?」
いやらしい笑みを浮かべながら酒をあおる彼女を前に、僕は、嫌がる素振りを見せては彼女の思うつぼだと、無表情を貫いた。
いや、諦めるのは早い。まだ突破口はあるはずだ。
「そんなゲーム本当にあるの? 君が今考えついただけじゃないの? もしそうなら、僕はゲームからは下りないって言ったんだから無効だと主張する」
「残念だったね。私がそんな詰めの甘い人間だと思う?」
「思う」
「ふふん、このゲームはたくさんの映画にも登場するれっきとしたゲームなの。前に映画で観た時にきちんと調べたんだから確かだよ。わざわざゲームからは下りないって二回も言ってくれてありがとう」
くくくくくっと魔界のものとしか思えない笑い方をする彼女の目には明らかに邪気が宿っていた。
どうやらまた僕は、はめられたわけだけれど。一体これで何度目だ。
「公序良俗にあまりに反する真実も挑戦もやめようね、あ、君はエロいのとかもなしだからね、いいかげんにしてよねまったく」
「うるさい馬鹿」
「ひどっ!」
彼女はコップに残った酒を飲み干し、三杯目を作りだした。常に顔が半笑いなのを見ると多少は酒が回っているのかもしれない。ちなみに僕はさっきから顔が熱い。
「で、まず私の質問が、君がうちのクラスで一番可愛いと思っているのは誰かってこと」
「僕、人を見た目で判断しないんだよ」
「別に人格は関係ないよ、誰の顔を可愛いと思ってるのかなって」
「…………」
「ちなみに、挑戦にした場合私、容赦しないから」
それは、嫌な予感しかしない。
一番ダメージ少なくこの場を回避する方法を考えて、仕方なく、僕は真実を選択する。
「あの子は、綺麗なんだと思う。あの、数学が得意な子」
「あー! ヒナね! あの子八分の一ドイツ人なんだよ。へぇ、あんな感じが好きなんだ。ヒナは綺麗なのに男っ気もほとんどないし、私も男の子だったらヒナを選ぶかも。見る目あるね!」
「君と同じ意見だったら見る目があるってのは大層なエゴだね」
酒を飲む。あまり味がしなくなってきた。
また彼女の号令でカードを選ぶ。あと九回。途中抜けは出来そうにないので残り全ての質問が僕に回ってくることを願う。が、僕はこういう時、あまり運の方がよくないみたい。
僕はハートの二、彼女はダイヤの六だった。
「やりぃ、天はやっぱり心やさしい女の子に味方するね」
「一気に神様が信じられなくなったよ」
「真実か挑戦か?」
「……真実」
「クラス内でヒナが一番だとして、見た目で私は何番目?」
「…………あくまで僕が顔を思い出せる人間に限りだけど、三番」
アルコールの力を注入しようと思って僕が酒を飲むと、彼女も同時にコップに口を付け、僕よりも激しくあおった。
「いやー、自分で訊いておいてなんだけど、滅茶苦茶恥ずかしい! てか【仲良し】くんが素直に答えるとは思わなかったから、余計に」
「早く終わらせたいんだよ。だから、諦めた」
酒の所為だろう、彼女の顔が赤い。
「【仲良し】くん、ゆっくりやろうよ、夜は長いんだから」
「そうだね、嫌な時間は長く感じるっていうし」
「私はすっごい楽しいよ」
言いながら、彼女は梅酒を二つのコップに注いだ。ソーダはもうなく、そのままの濃い梅酒がコップを満たす。味どころではなく、漂う匂いまで甘ったるくなってきた。
「そっかー、私は三番目に可愛いかぁ。えへへへへ」
「いいから、引くよ。はい、ダイヤの十二」
「ゲームを盛り上げる気はないの? はい、うわあ、ハートの二」
残念そうな顔をする彼女を見て、僕は心底安心した。このゲームで僕が出来る最大の抵抗は、十回のうち一つでも多くの彼女の手番を潰すことだ。十回が終わったらもう二度と彼女がゲームと称する得体の知れないものには参加しないという誓いは既にたてた。
「ほら、【仲良し】くん、言って」
「ああ、真実か挑戦か」
「真実!」
「えーっとそうだね、じゃあ」
彼女の何が知りたいだろうか、考えてすぐに思いついた。彼女について知りたいことなんて、これ以外にない。
「よし、決めた」
「結構どきどきするね!」
「君は、どんな子どもだったの?」
「…………え、そんなのでいいの? 私、スリーサイズくらいなら答える覚悟だったのに」
「黙れ馬鹿」
「ひどいっ!」
彼女は楽しそうにのけ反る。もちろん、僕の質問の目的は、彼女のほのぼのとした思い出話を聞くことではない。僕が知りたいのは、彼女という人間がどうやって出来あがったのかということだ。周囲の人間に影響を与え、影響を与えられる、僕とは正反対の彼女が、出来あがる過程を僕は知りたかった。理由は、単純に不思議だと思ったから。僕と彼女の二つの人間性の成立、二つの間に一体どんな人生の隔たりがあったのだろうか。一歩間違えば、僕も彼女のようになっていただろうか、それが気になった。
「子どもの頃かぁ、私とにかく落ち着きがないって言われてた」
「だろうね、容易に想像できるよ」
「でしょ? 小学生の時って女子の方が身長大きいじゃん、私クラスで一番大きくて男の子と喧嘩もしてたなぁ。物壊したりもしてたし問題児だったよ」
なるほど体の大きさというのは本人の性質に関係があるかもしれない。僕は昔から体が小さく、弱かった。だから内向的な人間になったのかも。
「これでいい?」
「そうだね、じゃあ次に行こう」
それから、どうやら神様は本当によい子の味方だったらしく僕が五連勝した。ゲームを開始した時の得意気な彼女はどこに行ってしまったのか、神様に膵臓と共に見放された彼女は負けるごとに酒をあおり、不機嫌になっていった。いや正確には僕の質問を聞く度に不機嫌になっていった。残り二セットを残す時点、彼女は顔を真っ赤にして唇を尖らし、ソファからずり落ちそうになっている。すねた子供みたいだった。
ちなみに、以下が彼女に「これ面接?」と言わしめた五回の質問と答えである。
「一番長く続けている趣味は?」
「強いて言うなら映画はずっと好きかなぁ」
「有名人で一番尊敬している人とその理由は?」
「杉原千畝! ユダヤ人にビザ出した人ね。自分が正しいって思ったことを貫くって凄くかっこいいと思う」
「自分で思う長所と短所は?」
「長所は皆と仲良くなれるところで、短所はありすぎて分かんないけど注意力散漫なところかな」
「今までで一番嬉しかったことは?」
「うふっ、君に出会えたことかな! てへっ」
「膵臓のことは抜きで今までで一番つらかったことは?」
「ずっと一緒にいた犬が中学生の時に死んじゃった時かな…………あのさ、これ面接?」
僕は我ながら見事な何食わぬ顔で「いや、ゲームだよ」と返してあげた。彼女は潤んだ目で「もっと楽しいこと訊いてよお!」と吠えた。そしてまた一杯、酒を余計に飲んだ。
「飲めよぅ」
柄の悪い目つきを向けてくる酔っ払いの神経を逆なでしないよう、僕も酒を飲む。これで僕も結構酒が回っていたのだけれど、僕の方が彼女よりポーカーが得意だった。
「残り二回、僕が引くよ、クラブの十一」
「えー! なんでそんな強いのー、もー」
心底悲しそうに悔しそうに腹立たしそうに、嘆きながら彼女もトランプをめくった。彼女の出した数字を見て、勝ちを確信していた僕の背中に汗が流れる。
スペードの十三、キングだった。
「ややや、やったぁ! ……はれ?」
歓声と同時に立ちあがった彼女はアルコールが足にまで回っている様子でよろけてソファの上にこけた。先程までの様子とは一辺、彼女は自分の体の異常にケタケタと笑う。
「ねえ、【仲良し】くん、申し訳ないんだけどね、今回は質問と命令をどっちも言うから、どっちか選んでもらってもいい?」
「ついに本性を現したね、質問はともかく、言うにことかいて命令って」
「ああ、そうそう、真実と挑戦ね」
「まあ、ルール上問題ないかな」
「よーし、真実か挑戦か。真実なら、私の可愛いと思うところを三つあげて。挑戦なら、私をベッドまで運んで」
彼女が言い終わるが早いか、僕は考えずに体を動かした。この場合、真実を選んだところでどうせいつかは彼女を移動させなければならないので、ここで仕事をすませておく方を選択するのに逡巡の余地はなかった。それに真実の方の質問が極悪すぎる。
立ちあがると体重がいつもより軽くなった錯覚に襲われた。彼女が座るソファに近づく。彼女は楽しそうにうきゃきゃきゃっと笑った。酒が脳にまで回っているらしい。彼女に手を貸そうと僕は彼女の眼前に掌を差し出す。すると、彼女の高らかな笑いが止まった。
「何? この手?」
「手を貸してあげるから、ほら立って」
「んーん、立てないよ。私、足に全く力入んないもん」
彼女は、唇の端をゆっくりと持ち上げた。
「言ったでしょ? は、こ、ん、でって」
「…………」
「ほらほら、おんぶがいいかな、それともお姫さ、きゃあっ!」
恥ずかしいその名称を言わせる前に、彼女の背とひざ裏に腕を回し持ちあげた。貧弱な僕にでも彼女を数メートル持ち運ぶくらいの力はある。迷っては駄目だと思った。大丈夫、僕らは今酔っ払いなのだから、多少の羞恥は、寝れば消し飛ぶ。
彼女がいかなる反応も見せる前に、腕の中の彼女をベッドに放り出した。熱が、腕の中からすり抜けて行く。彼女は驚いた表情のまま固まっている。酒と運動の所為で息を切らしながら見ていると、ややあって彼女は表情を静かに綻ばせ、けけけけけっと蝙蝠みたいに笑った。
「びっくりしちゃったー、ありがとー」
言いながら、彼女はのそのそと緩慢な動きで大きなベッドの向かって左側に寄って仰向きに寝た。そのまま眠ってしまえばいいのにっと思ったけれど、彼女は両腕でベッドの表面を叩きながらうふふふふっと笑っている。残念なことに、最終ゲームを放棄しそうにはなかった。
僕は腹を決める。
「じゃあ、最後だね。特別に君の分は僕がめくってあげる。どの辺がいいか言って」
「そだなー、私のコップが置いてあるとこらへん」
彼女は大人しくなり、忙しなく動いていた腕は無造作にベッドの上に投げ出されている。
立ったまま僕は、梅酒の少し残ったコップに端が触れていたトランプを、めくる。
クラブの七だ。
「七」
「うわー、びみょん」
「微妙って意味でいいの?」
「うん、びみょんびみょん」
フレーズが気に入ったのか「びみょーん」と言い続ける彼女を無視して、僕は最後の一枚を選ぶ為にトランプの輪っかを見た。こういう時、じっくりと考えて大切に札を引く人もいるのだろうけれど、間違っている。条件がまるで同じ中から選ぶのだから、運以外の要素はまるでない。こういう場合はすぱっと決めてしまった方がかえって裏目に出ないものだ。
僕は無造作に、輪っかの中から一枚を取り、出来る限り雑念を取り払って、表に向けた。
ようは運なのだ。
潔く決めようが決めまいが、数字が変化したりはしない。
僕が引いたカードは、
「何番だったー?」
「…………六」
こういう時、嘘がつけない程度に僕は誠実で、不器用だ。将棋盤を引っくり返せる人間になれれば楽なのだろうが、なりたくないし、なれない。
「やりぃ、どうしよっかなぁ」
言ったきり、彼女は黙った。僕は刑の執行を待つ死刑囚の気になって立ったまま彼女の問いを待つ。
薄暗い室内に、久しぶりの静寂が下りた。高層階ゆえに外からの音もほとんど聞こえず、宿泊料ゆえに両隣の部屋からの音漏れもない。自分の呼吸と心臓の音が、酔いのため嫌にはっきりと聞こえた。彼女の息使いも規則正しく大きく聞こえた。もしかすると寝息なのではないかと思ったけれど、見ると目はしっかり開いて暗い天井を見ていた。
僕は時間を持て余し、カーテンの隙間から外を見た。繁華街はまだ人工的な光に彩られ、眠るつもりなんて毛ほどもなさそうだった。
「真実か挑戦か」
突然の背後からの言葉、やっと彼女の中で結論が出たらしい、それが出来る限り自分の心を脅かすものではないことを祈りつつ、彼女に背を向けたまま答える。
「真実」
一呼吸、大きな空気の流動が聞こえて、彼女が今夜最後の問いを言った。
「私が」
「……」
「私が、本当は死ぬのが滅茶苦茶怖いって言ったら、どうする?」
僕は言葉を発さずに、振り向いた。
彼女の声が、あまりに静かだったから、僕は心臓が凍ってしまうかと思った。冷気から逃げる為に、彼女が生きているかどうかを確認する必要があって、振り向いた。
僕の視線は感じているだろう、なのに彼女は相変わらず天井を見上げたまま、これ以上何も言う気はないと、口を結んでいた。
本音、なのか、彼女の真意を僕は捉えきれなかった。本音でも、おかしくはない。冗談でも、おかしくはない。本音であったとして、どう答えればいいのか。冗談だったとして、どう答えればいいのか。
分からない。
僕の想像力の貧弱さを呪って、また、僕の心の奥で怪物が呼吸を始めた。
臆した僕は、自分の意思とおよそ関係なく口を開いていた。
「挑戦……」
「…………」
僕の選択を、彼女はいいとも悪いとも言わなかった。ただ、天井を見たまま、僕にこう命令した。
「君もベッドで寝なさい、反論も反抗も認めません」
彼女はまた「びみょーん」と今度はメロディをつけて歌い始めた。
自分の取るべき行動を悩んだけれど、やっぱり僕は、将棋盤を引っくり返すことを出来なかった。
電気を消して、彼女に背を向けて横になり、ただ睡魔が連れ去ってくれるのを待った。自分一人のものではない寝床が、時々彼女の寝がえりに合わせ揺れた。共有できない心みたいだった。
大きなサイズのベッドは、二人が仰向けに寝ても十分な隙間を持つことが出来た。
僕らは潔白だった。
潔白で、純粋だった
誰も、僕を許してくれなかった。
僕と彼女は同時に同じ理由で目覚めた。朝の八時、携帯電話の電子音がけたたましく鳴った。ベッドから起きあがって自分の電話を鞄から取り出し見るも、なんの着信もしていない。ということは彼女のだということなので、ソファの上に置かれていた電話を取ってベッドに座る彼女に手渡す。寝ぼけ眼の彼女は開閉式の電話を開いて、耳に当てた。
途端、離れた場所にいた僕にまで届く咆哮が電話口の向こうから聞こえてきた。
『桜良ああああ! あんた今どこにいんの!』
彼女は顔をしかめて電話を耳から離した。相手側が落ち着いてから再び耳に当てる。
「おはよー、どしたの?」
『どうしたじゃない! どこにいるのって訊いてるの!』
少し迷った様子で、彼女は僕らが現在足を踏み入れている県の名前を電話の相手に告げた。相手が、慄いたのが分かった。
『ちょっ、なんであんたそんなとこ、あんた私と旅行してるって両親に嘘ついたでしょ!』
それで、電話の相手が親友さんだと知った。騒ぎ立てる親友に反して彼女は呑気に欠伸をする。
「どうして知ってるの?」
『朝にPTAのことで連絡網が回ってきたの! あんたんちの次、うちでしょうが! あんたのお母さんから電話あって、私が電話取っちゃって誤魔化すの大変だったんだよ』
「誤魔化してくれたんだぁ、さっすがキョウコ。ありがとね。どうやったの?」
『お姉ちゃんのふりしたんだけど、そんなことどうでもいいの! どうして親を騙してまでそんなところ行ってるわけ?』
「……んー」
『それに、本当に行きたかったんなら嘘ついたりしないでちゃんと旅行すればよかったじゃん、私ついていくのに』
「あー、いいねそれ、夏休みどっか行こうよ。キョウコいつ部活休みなの?」
『あとでカレンダー確認してみてまた連絡するねー、っじゃねえ!』
鮮やかなノリツッコミが僕の耳にも余裕を持って届いてきた。静かな室内では通常の声で通話されてもある程度の内容は聞こえてくる。僕は顔を洗い、歯を磨きながら電話の様子を見守る。歯磨き粉は普段使っているものよりもからかった。
『大体一人で黙って遠くまで行くって死ぬ前の猫じゃないんだからさ』
笑えない冗談だ、そう思って聞いていると、彼女の返答はもっと笑えない、ただし事実だった。
「一人じゃないよ」
彼女は昨晩の酒の所為で充血した目で面白そうに僕に視線を送る。頭を抱えようかと思ったけれど、あいにく両手は歯ブラシとコップで塞がっていた。
『一人じゃ、ない? え、誰と……彼氏?』
「違うって、この前別れたの知ってるでしょー」
「それなら誰」
「【仲良し】くん」
電話口の向こうの、絶句が聞こえた。僕はもうどうにでもなればいいという気持ちで歯を磨く。
『あんた、え』
「話を聞いて、キョウコ」
『…………』
「不思議に思うだろうし、意味分かんないかもしれないけど、でもこのことに関してはいつかきっとキョウコに説明する、だから納得とまではいかなくても、許して。それで、今はキョウコの胸の中にだけしまっておいてほしいの」
『…………』
いつになく真面目な彼女の声色に、親友さんは困惑している様子だった。そりゃそうだろうと思う。親友を差し置いて彼女は、得体の知れないクラスメイトと旅行しているのだから。
しばらく黙りこくっていた電話口向こうの親友さん。彼女は辛抱強く耳に電話を当てがっていた。やがて、その電子機器から声が聞こえてきた。
『…………分かった』
「ありがとう、キョウコ」
『条件がある』
「なんなりと」
『無事に帰ってくることと、お土産を買ってくること。それと夏休みには私と旅行に行くこと。それと、【親友と不可解な関係のクラスメイト】に言っといて、桜良になんかしたらぶっ殺すって』
「うわははっ、分かった」
数語挨拶を交わして、彼女は電話を切った。僕は口をゆすいで昨日は彼女に盗られていたソファに座る。テーブルの上にトランプが散らかっていたので片づけながら彼女を見ると、寝癖のついた長い髪を撫でつけていた。
「友達思いの親友を持ってよかったね」
「本当だよねー、あ、聞こえてたかもしれないけど、君、キョウコに殺されるらしいよ」
「変なことしたら、でしょ。僕は潔白だっていうのも加えてちゃんと説明しておいてね」
「お姫様だっこは?」
「へー、あれそういう名前なんだ、僕はさしずめ引っ越し業者の気分だったよ」
「どれか分かってる時点でキョウコに殺されるね」
寝癖を直す為にシャワーを浴びる彼女を待ってから、僕らは朝食を取る為にホテルの一階に赴いた。朝食は豪華なビュッフェ形式になっていて、やはりホテルのクラスを思わせた。僕は主に魚や湯豆腐などをお皿についで和定食風の朝ごはんにした。窓際の席に先に座って待っていると、彼女が馬鹿みたいな量の食べ物をトレイ一杯に持ってきた。「朝はいっぱい食べなきゃ」と言っていたけれど、結局彼女は三分の一ほどを残して僕がそれを食べた。食べている間、僕は計画性について滾々と彼女に説いた。
部屋に戻ってから僕はお湯を沸かしてコーヒーを淹れ、彼女は紅茶を淹れた。昨日と同じ配置で座って朝の番組を見ながら一息ついた。眩しい太陽の光も差し込む穏やかな空間で、二人共昨日の最後の質問のことは忘れてしまったようだった。
「今日の予定は?」
訊くと、彼女は元気よく立ちあがり自分の空色のリュックに歩み寄って中から手帳を出した。新幹線のチケットをそこに挟んであったらしい。
「二時半の新幹線に乗るから、お昼ごはん食べてお土産買う時間は余裕であるね。午前中どこに行こうか?」
「僕は分からないから任せるよ」
のんびりホテルをチェックアウトして従業員達に頭を下げられた後、彼女の判断で僕らはバスを利用して有名だというショッピングモールに向かった。川を取り囲むように作られたそこは日用品売り場から劇場までなんでもが揃っている複合商業施設で、観光地として外国の人達も多く訪れる場所らしい。ついてみると赤く巨大なそれはインパクト抜群で、ランドマークとしての存在感を漲らせていた。
壮大で複雑な作りになっている空間内のどこに行くべきなのか僕らは迷ったけれど、ふらふらと歩いているとタイミングよくピエロの格好をした大道芸人が水辺の広いスペースでパフォーマンスをしていて、僕らは彼を見る観客の中に雑ざった。
二十分くらいのステージは面白いものだった、終演後ピエロがユーモラスにお金をせびるので僕は高校生らしく百円を彼の帽子に入れた。彼女は楽しそうに五百円を帽子に入れていた。
「楽しかったねー、【仲良し】くん大道芸人になりなよ」
「誰に言ってるのさ。あーいう他人を巻き込む系統の仕事は僕には無理。だからあの人凄いと思うよ」
「そっか残念。私がやろうかなぁ。あ、忘れてたもうすぐ死ぬんだった」
「それを言う為に話をふってきたの? 一年間あるんでしょ、練習したらあそこまではいけなくても、上手くなるんじゃないかな」
助言に、彼女は大層嬉しそうな顔をした。人を喜ばせる為にあるような笑顔だ。
「そうだね! 確かに! やってみようかな!」
未来への展望に興奮した彼女は施設内にある手品グッズの専門店でいくつか練習用の品々を買った。購入時、僕は店内には入れてもらえなかった。いつか僕にも披露するので一緒に選らんじゃ意味がないという理由だった。仕方なく、僕は店頭で流れる手品グッズのCMを小学生くらいの子ども達と一緒に見ていた。
「あー、これで私も彗星のように現れて、突如いなくなった伝説の手品師として語り継がれるのかぁ」
「君がとんでもない天才だったらあるいは」
「私の一年は皆の五年くらいの価値があるからきっと大丈夫。期待しといて」
彼女は本当にやる気になっているみたいで、いつも以上に表情には力が漲っていた。短い期間のものとは言え、目標が出来るというのは人間を輝かせる。僕と並べば彼女の輝きはより際立って見えるだろう。
輝ける彼女と施設内を回っていると、時間はすぐに過ぎた。彼女はいくつかの衣料品を買った。可愛らしいTシャツやスカートを手にとって逐一僕に評価を求めてきたけれど、僕に女の子のファッションの善し悪しは分からないので、似合っているという褒めてもけなしてもいない言葉を選んだ。不思議と彼女は上機嫌になってくれたのでよかった。似合っているというのは嘘ではなかったから僕の心も痛まなかった。途中でウルトラマンのグッズを売っているお店に寄って、彼女が僕に骨で出来た恐竜のような怪獣のソフビ人形を買ってプレゼントしてくれたけれど、何故それなのか意味が分からなかった。彼女に訊くと、似合っていると言われた。僕は上機嫌にはならなかった。お返しに彼女にはウルトラマンのソフビ人形をあげた。似合っていると言うと、彼女は相変わらず上機嫌だった。
百円のソフビ人形を指にはめて、ソフトクリームを食べてから、僕らは駅に帰ることにした。
駅に着くとちょうど時間は正午で、ソフトクリームを食べたばかりだった僕らはお昼を食べる前にお土産を見ることにした。駅の構内にはお土産だけに特化した大きなスペースがあり、主に彼女を目移りさせた。
試食を繰り返しながら、彼女は家族用のお菓子と名物の魚の卵、親友さんへのお菓子を買った。僕も一応モンドセレクション数年連続金賞とかいうお菓子を自分用に買った。家族には友達の家に泊まるとしか言っていないのでお土産を買って帰るわけにはいかなかった。非常に残念至極だけれど今回は仕方がない。
昨日とは違うラーメン屋でラーメンを食べて、余裕を持ってカフェでお茶をしてから僕らは新幹線に乗った。僕なりに旅の終わりを感傷的に思った。
彼女は過去にとらわれる僕よりも幾分か前向きだった。
「また旅行しようよ、次は冬かな」
窓側の席で景色を眺めながら彼女が言った。僕はどう反応するべきか迷って、最後くらいは素直に答えることにした。
「そうだね、それもいいかも」
「あれぇ、いやに素直じゃん。さては楽しかったな?」
「うん、楽しかったよ」
楽しかった。本心だ。両親が忙しく放任主義な家庭に育ち、もちろん一緒に旅行をするような友人もいない僕にとって久しぶりの遠出は、思ったより随分と楽しかった。
彼女は何故か驚いた顔をして僕を見た後、すぐにいつもの笑顔に戻ってがっしと力強く僕の腕を掴んだ。僕は何をされるのかと、怯えてしまう。僕の心情に気がついたのか、彼女は恥ずかしそうに手を引っ込めて「ごめん」と呟いた。
「何、僕の膵臓を力づくで奪おうとでも?」
「違うよ、ただ君が珍しく素直なもんだから舞い上がっちゃった。うん、私も滅茶苦茶楽しかったよ。ありがとう、一緒に来てくれて。次はどこに行こうか。私は、次は北がいいなぁ。寒さを存分に味わいたい」
「どうして自分を虐めなきゃいけないの。僕は寒いのは嫌いだから今回より更に南に逃避行したいな」
「もー、ほんっとに方向性が合わない!」
楽しそうに頬を膨らます彼女を見ながら、僕は自分用に買ったお土産の封を破いた。彼女に一つおすそ分けをして、まんじゅうタイプのお菓子をかじる。バターの味が、とても甘ったるかった。
僕らの住む町に着く頃には夏の空も少しずつ群青色を受け入れ始めていた。共通の最寄りの駅まで電車で一緒に帰り、そこからは二人とも自転車で学校の近くまで走って、いつもの場所で道を分かれた。僕も彼女も、どうせ月曜日には会うのだからと別れの言葉もそこそこにそれぞれの帰路についた。
家に帰ると母親も父親もまだ帰宅していなかった。僕は手洗いうがいをきちんとして、自室にこもった。ベッドの上に寝転がると、急なまどろみが僕に覆いかぶさってきた。疲れか、睡眠不足か、そのどちらもだろうと思いながら、眠りに落ちた。
夕飯時に母親に起こされ、焼きそばを食べながらテレビを見た。よく、帰るまでが遠足というけれど、家でいつもの食事をとるまでが遠足なのだということを知った。僕は、日常に戻った。
週末の二日間、彼女からはなんの連絡もなかった。僕はいつものように自室にこもって本を読んだり、お昼に一人で歩いてスーパーにでかけアイスを買ったりした。なんの変哲もない二日間を過ごしてみて、日曜日の夜に、僕は気がついた。
彼女からの連絡を、僕は待っていた。
月曜日、学校に通うと、僕が彼女と遠出をしていた事実がクラス内に広まっていた。
それと関係があるのかは分からないけれど、僕の上靴が、ゴミ箱の中で発見された。
どうも、僕がうっかり落としたというわけではなさそうだった。
朝から、常ならぬことの連続だった。
まず上靴がなくなったのは知っての通りだけれど、それに留まらなかった。
いつもどおりに登校し、靴箱で上靴を取ろうとして、「あれ、どこに行ったんだ」と心の中で呟いたと同時だった。
「おはよ……」
声をかけられた。うちのクラスで僕に挨拶をする人間なんて彼女くらいしかいないのだけれど、彼女にしてはテンションが低かったから膵臓でも壊したかと思い、振り返って、驚いた。
彼女の親友さんが、僕に敵意むき出しの視線を向けて立っていた。
慄いたけれど、返事をしなければ失礼なことはいくら人付き合いに疎い僕でも知っていたので、控え目に「おはよう」と返す。親友さんはじっと僕の目を見てから、ふんっと鼻を鳴らして靴を履き替え出した。僕は上靴もないし、どうしてよいか分からずに立ちつくす。
上靴を履いた親友さんはそのまま行ってくれるかと思いきや、もう一度僕の目を見て、また同じように鼻を鳴らした。嫌な気にはならなかった。僕に被虐趣味があるわけでは断じてない。彼女の目が迷っているように見えたからだ。きっと、どう接するべきか決めかねているのだろう。そんな中、僕に挨拶をくれた彼女に敬意を表したい。僕なら、きっと彼女が靴箱を出るまで身を潜める。
靴箱の周りを見てみたけれど上靴は見つからなかった。もし誰かが間違えて履いていったとしたら、僕が知らない間に返ってくるだろうと期待し、靴下のまま教室へと向かった。
教室に入った時点で複数の方向から不躾な視線を感じたけれど、無視した。観察されることに関しては、彼女と行動を共にし始めてから諦めていた。彼女は、まだ来ていない。
一番後ろの自分の席に座り、学校指定鞄から机の中に必要なものを移動させる。今日は試験の返却日なので必要なのは試験問題だけだ。加えて筆箱と文庫本を机の中に入れる。
先日のテストの問題を見返しながら上靴の行方を考えていると、教室内がざわついた。何事かと視線をあげると彼女が機嫌よさそうに教室前方から入ってきていた。クラスメイトの数人が騒ぎたてながら彼女を迎え、輪の中に取り込む。その輪の中に、親友さんは入っていなかった。親友さんは難しい顔をして輪に雑ざった彼女を見ていた。と、親友さんがこちらにちらりと目を向ける。僕も親友さんを見ていたので目が合ってしまい、すぐさま目を逸らした。
彼女を取り巻くクラスメイト達がひそひそざわざわとしている中、僕は早々に彼らに注意を向けるのをやめた。僕と関係のないことだったらどうでもいいことだし、関係があることならろくなことではないと思ったからだ。
文庫本を拡げて、文学の世界に飛び込む。本好きの集中力は雑音なんかに負けはしない。
と思っていたのだけれど、いくら本が好きでも、話しかけられれば流石に本の世界から引きずりだされてしまうということが分かった。
普段、朝から二人に声をかけられることなんてないので、驚いた。顔をあげると、この前共同掃除活動の可能性を見た男子が立っていた。彼は相変わらず、悪く言えば何も考えてなさそうに笑う。
「よう、【噂されてるクラスメイト】ぁ。あのさ、お前、なんで上靴捨ててんの?」
「……え?」
「トイレのごみ箱に捨ててあんじゃん。まだ使えそうなのに、なんで? 犬のふんでも踏んだのか?」
「校内に犬のふんがあったらそっちが問題だと思うよ。でも、そうか、ありがとう。なくして、困ってた」
「おお、そうなのか、気をつけろよ。ガムいる?」
「いらない。ちょっと取ってくるよ」
「ああ、あとお前、山内とどっか行ってたの? また噂なってるぜ」
彼の素朴な疑問は、教室内がざわついていたおかげと、周囲の席から人がいなくなっていたおかげで僕にしか届かなかった。
「やっぱお前ら付き合ってんの?」
「いいや。駅でたまたま会ったんだ。それを誰かに見られたのかな」
「ふーん、そっか。なんか面白いことあったら教えろよ」
彼はガムを噛みながら自分の席に戻っていった。彼を単純だと断ずることは出来るだろうけれど、僕には彼のその性質が極めて善良なものに思えた。
席を立ち、教室から一番近いトイレに行くと確かにゴミ箱の中に上靴が入っていた。運良くゴミ箱には上靴を汚すようなゴミは入っていなかったので、僕は取り出した上靴を大人しく履いて教室に戻った。教室に僕が入ると一瞬静まった空気は、またすぐにさわさわと振動し始めた。
授業は滞りなく済んだ。返却されたテストはまあまあの出来だった。前の方で親友さんと結果についてはしゃいでいた彼女と一瞬目が合った。彼女はなんの気兼ねも見せず僕にテストの表面を見せびらかした。遠くてはっきりとは分からなかったが、どうやら丸がたくさんついていた。彼女の行動に気がついた親友さんが困惑の表情を浮かべていたので僕は彼女から目を逸らした。この日はこれ以上のコンタクトを彼女ととらなかった。
次の日も、僕は彼女と会話もしなかった。僕とクラスメイトの間であったことと言えば、また親友さんに睨まれたことと、例の彼にガムをすすめられたことくらい。あとは、個人的な問題なのだけれど、百円ショップで買った筆箱がなくなった。
数日ぶりに彼女と会話する機会が訪れたのは、夏休み前最後の登校日。夏休み前と言っても、僕らは明日から二週間補習期間があるのであまり意味のない区切りの日だ。終業式と事務連絡だけで帰宅するはずだったその日、僕は図書室の先生に放課後の仕事を頼まれた。もちろん、図書委員である彼女も一緒にとのことだった。
雨が降る水曜日、僕はおよそ初めて、教室内で自分から彼女に話しかけた。彼女が日直の仕事で黒板を消していた時に、僕は彼女にことの次第を伝えた。教室の前に立つ僕らにそれなりの数の視線が向いていると分かったけど、やっぱり無視した。彼女は、最初から気にしていない様子だった。
放課後、彼女は教室の戸締りをするということで、僕一人先に食堂で昼食をとって、図書室に向かった。一応は終業式の日なので図書室にいる生徒は少なかった。
仕事というのは図書室の先生が会議に出ている間、カウンターで受け付けをするというものだった。先生が図書室を出て行った後、僕が本を読みながらカウンターに座っていると、クラスメイトが二人本を借りに来た。一人は大人しい女子で、「桜良は?」とまるで僕には興味がなさそうに訊いてきた。もう一人はうちのクラスの学級委員を務める男子で、「山内さんは?」といつも教室で見る温厚な表情と声色で訊いてきた。二人共に、教室にいるのではないかと答えてあげた。
その彼女は程なくしてやってきた。相変わらず今日の天気にそぐわない笑顔をたずさえていた。
「やっほー、私がいなくて寂しかった?」
「山以外でやっほーっていう人いるんだね。やまびこが返ってくるとでも? そういえば君を探しにきたクラスメイトがいたよ」
「誰?」
「名前は曖昧だな。大人しい女の子と、学級委員の彼」
「ああ、なるほど、おっけーおっけー」
言いながら彼女は勢いよくカウンター内の回転椅子に腰を下ろした。静かな図書室内にぎしぎしという椅子の悲鳴が響く。
「椅子が可哀想だよ」
「乙女にそういうこと言っていいと思ってんの?」
「君は乙女じゃないと思ってるよ」
「うふふふふ、そんなこと言っていいのかな? 昨日男の子から愛の告白を受けた私に」
「…………は? なにそれ」
思いもよらぬことに、僕は素直に驚いてしまった。
そんな僕を見て満足したのか、彼女は両口角を限界まで上げて眉間に皺を寄せた。なんていうむかつく表情だろう。
「昨日放課後に呼び出されてさ、告白されたんだぁ」
「それが本当だとして僕に言っていいものなの?」
「誰にされたかってのは残念ながらシークレットで、ミッフィーちゃん」
彼女は唇の前で両手の人差し指を交差させる。
「もしかしてミッフィーちゃんのバッテンが口だと思ってる人? あれは真ん中で上と下に分かれるんだよ、上が鼻で下が口なんだ」
「嘘ぉ!」
図に描きながら説明してあげると彼女は図書室内で迷惑極まりない大声をあげた。まぶたと口を大きく開いた彼女を見て、僕は満足する。方言豆知識の弔い合戦が済んだ。
「なんとまあ、いやぁ、マジでびっくり。私の十七年を否定された気分だよ。ってそれはいいんだけど、告白されたんだぁ」
「あ、話を戻すんだ。それで?」
「うん、ごめんなさいしたよ。どうしてだと思う?」
「さあ」
「おっしえなーい」
「じゃあ僕が教えてあげるよ、『さあ』とか『ふーん』、とか言われたらその人は君の質問にさほど興味を持ってないんだ。どこかで『さあ』とか言われたことない?」
彼女は何か言い返そうとしたみたいだったけど、本を借りに人が来たのでその言葉が外に出てくることはなかった。
真面目にカウンター業務をこなした後、彼女は話題を変えた。
「そういえばこんな雨の日は外で遊べないから、今日は君が私の家に来ることになってるんだけど大丈夫だよね?」
「君の家、僕の家とは方向が反対だからやだよ」
「普通の理由で普通に断んないでよ! それじゃあ本当に誘われて嫌みたいじゃない!」
「心外だなぁ、まるで僕が嫌じゃないと思ってるみたいだ」
「なんだとぅ、まあいいよ、そんなことを言いながら君は結局私と遊ぶのに付き合ってくれるもんね」
まあ、多分そうだろうなと思う。きちんとした理由をつけられたり、脅されたり、大義名分を与えられたら、僕は彼女の誘いに傾いてしまう。道を与えられたら逆らわないのは、僕が草舟だからで、それ以外のどういった理由もないのだけれど。
「とりあえず話を聞きなさいよ。これを聞いたら君も素直に私の家に来たくなるかもよ」
「君に僕の、フルーチェよりも固い意志が打ち砕けるのかな」
「どっろどろじゃん。フルーチェとか懐かしいね、しばらく食べてないから今度買おうっと。小学生の時お母さんがよく作ってくれたんだ。苺が好き」
「へぇ、君の話の道筋もヨーグルトみたいだね。僕の意思とよく混ざりそうだ」
「うふん、混ぜてみる?」
夏制服のリボンを緩め、シャツのボタンを外す彼女はきっと暑がりなんだと思う。それかただの馬鹿か。うーん、後者かな。
「そんな呆れた目で見ないでよ。はいはい、じゃあ話を戻すけどね、私この前本は全然読まないって言ったじゃん」
「言ってたね、漫画は読むけどって」
「うん、だけどあれから思い出したことがあってさ。私基本的に本は読まないんだけど、小さい時から一冊だけ好きな本があるの。お父さんから貰ったんだけどね。興味ない?」
「なるほど、それは僕にしては珍しく興味があるよ。好きな本っていうのは、人となりを表わすと思ってるから。君みたいな人間がどんな本を好きなのか気になる。で、なんなのその本は」
彼女はもったいぶったように間を開けてから言った。
「『星の王子さま』、知ってる?」
「サン・テグジュペリ?」
「ええ! 知ってるの? ちょっとぉ、私外国の本だから流石の【仲良し】くんも知らないと思って張り切ってたのに、損した」
唇を尖らせ、彼女は背もたれに体重をかけて脱力する。またぎしぎしという音が響く。
「『星の王子さま』が有名じゃないと思ってる時点で君がいかに本に興味がないかって感じだね」
「そっかぁ、その様子じゃ読んだこともあるんでしょう? もー」
「いや、それが恥ずかしながら未読なんだ」
「そうなんだ!」
彼女は突然力を取り戻したように身を起こして椅子ごと体を寄せてきた。僕は椅子ごと後ずさる。彼女の顔にはもちろん弾ける笑顔が張り付いている。どうやら彼女を喜ばせてしまったようだ。
「いやぁ、そうなんじゃないかと思ってたんだよぅ」
「嘘をついたら地獄に落ちるって知らないの?」
「読んでないなら、私が『星の王子さま』を貸してあげるから読んでみて! それを取りに、今日うちに来て!」
「持ってきてくれればいいんじゃないの?」
「女の子に重い物運ばせる気?」
「読んだことはないけど文庫本だよね」
「君の家に持っていってあげてもいいよ」
「重さはどうなったの。まあいいや、君と不毛なやり合いをするのも疲れるし、うちに来られるくらいならこっちから行くよ」
今回はそれを大義名分にする。
本当を言えば、『星の王子さま』なんて有名な本、この図書室にでもあるのだろうけど、本に詳しくない図書委員である彼女の機嫌を変に損ねない為に黙っておいてあげよう。
「お、物分かりいいね。何かあったの?」
「君から学んだんだ。草舟は大型船に逆らっても意味ないって」
「相変わらず時々意味分かんないこと言うね君は」
比喩表現について彼女に滾々と説明してあげていると、図書室の先生が帰ってきた。僕らはいつものように先生と世間話をして、お茶とお菓子をいただきながら明日から二週間は学校に来なければならない不遇を嘆いて、下校することにした。
外に出ると今日中にはとても晴れそうにない厚い雲が空を満たしていた。雨の日は嫌いではない。雨の持つ閉塞感が、僕の気持ちにそぐっている日が多くて、雨に対して否定的な気持ちにはなれない。
「雨って嫌いだなぁ」
「……本当に君とは気持ちの方向性が合わないよね」
「雨好きな人とかいるの?」
いるんだな、それが。僕は答えずに彼女の前を歩いた。彼女の家の場所を正確には知らないけれど、僕の家とは反対方向だというのは知っているので、校門を出て普段とは逆の方向に足を進める。
「女の子の部屋とか入ったことあるの?」
僕の横に並んで彼女が言った。
「ないけど、同じ高校生の部屋なんだから別に大して面白いものでもないと僕は仮説をたててる」
「まあ当たりだね。私の部屋はシンプルなもんだよ。キョウコの部屋はバンドのポスターとかで男の子より男の子っぽい。君のお気に入りのヒナの部屋はぬいぐるみとか可愛いものでいっぱいだよ、そうだ、今度ヒナと三人でどっか行く?」
「遠慮しとくよ、僕綺麗な子の前だと緊張して喋れなくなるから」
「そうやって私は可愛くないっていうボケなんだろうけど無駄だよ、君が私は三番目に可愛いって言ったあの夜を忘れないから」
「僕が三人しかクラスメイトの顔を覚えてないとも知らずにね」
まあそれは言い過ぎだけれど、僕はクラスメイトの顔を全ては覚えていない。人と関わることのない僕に、人の顔を覚える能力は必要ないので退化してしまったんだろう。選択肢の出そろっていないレースは、無効のはずだ。
彼女の家までは、学校からちょうど僕の家までくらいの距離だった。大きな一軒家が立ち並ぶ住宅街の中に紛れ込むクリーム色の壁と赤い屋根を持ったそこが、彼女の住む家だった。
彼女がいるのでもちろん堂々と正面入り口から踏み入る。入口から玄関までは距離があったので、敷地内に入ってから傘を閉じるまでは少し時間差があった。
彼女に招き入れられて、僕は湿気を嫌がる猫みたいに屋内に逃げ込む。
「ただいまー!」
「お邪魔します」
元気のいい帰宅の挨拶に合わせ、僕も控え目に言葉を発する。同級生の親というものに会った記憶が小学校の学級参観以来で何気に緊張していた。
「家族誰もいないよ」
「……誰もいない空間に元気に挨拶する人は頭のおかしい人だよ」
「今のは家に挨拶したの。私を育ててくれた大切な場所だよ」
たまにまともなことを彼女が言うと、僕は返事に窮する。僕はもう一度今度は家に「お邪魔します」と挨拶をし、彼女に続いて靴を脱いだ。
家の中は彼女が電気を順番につけて行くにつれ、命がともっていくようだった。洗面所に連れていかれて手洗いうがいを済ませ、二階にある彼女の部屋に向かった。
迎え入れられた初めての女の子の部屋は、大きかった。何が? 全てが。部屋自体、テレビ、ベッド、本棚、パソコン。羨ましい、かと一瞬は思ったけれど、これが彼女の両親の悲しみに比例しているのだろうと思うと、憧れは一瞬で霧散した。むしろ空しさが室内に満ちているような。
「適当に座ってー、眠かったらベッドインしてもいいよ。キョウコに告げ口するけど」
言ってから自分は机の前の赤い回転椅子に座ってくるくると回った。迷って、僕はベッドの上に座る。バネの反発で体が弾んだ。
改めて部屋の中を見回す。彼女の言った通り室内はシンプルなもので、僕の部屋との違いは大きさと小物の可愛さと本棚の中身くらい。彼女の本棚の中身は、全部漫画だった。人気の少年漫画や、僕の知らない漫画もたくさん本棚に並んでいる。
くるくると回るのをやめてから彼女は気持ちが悪そうに「おえっ」とうなだれた。我ながら白けた目でそれを観察していると彼女は突然顔をあげた。
「何して遊ぶ? 真実か挑戦?」
「本を貸してくれるんでしょ? その為に来たんだよ」
「落ちつきなよ、寿命縮んで私より先に死んじゃうよ」
呪いの言葉をかけてくる彼女をねめつけると、彼女は唇を歪めて変な顔をした。むかついたら負けというゲームだと思う。すぐ負けそうだ。
ふらっと立ちあがった彼女は本棚に近づき、『星の王子さま』を取ってくれる気になったのかと思いきや、一番下の引き棚から折りたたみ式の将棋盤を取り出してきた。
「やってみようよ、友達が忘れていったんだけど取りに来ないんだ」
別に断る理由もなかったので彼女の誘いに乗ってみた。
結果、将棋の試合はぐっだぐだの泥仕合の末に僕が勝った。実は圧勝出来るかと思っていた。しかしながら詰将棋と対人の試合は調子が違い上手くリズムを掴めなかった。王手がかかると、彼女は悔しそうに将棋盤を引っくり返した。おい。
ベッドの上に散らばった将棋の駒を拾いながら外を見ると、まだ激しい雨が降っていた。
「雨もうちょっと弱まってから帰ったらいいよ。それまで遊ぼ」
彼女はまるでこちらの心を見透かしたのように言いながら将棋の盤を片づけ、今度はテレビゲームを出してきた。
テレビゲームというのをやるのも実に久しぶりのことだった。
最初は、格闘ゲームをやった。コントローラーのボタンを押すだけで画面の中の人間が簡単に相手を傷つけ、傷つけられる様を楽しむという、極悪非道なあれだ。
僕が普段ほとんどゲームをしないということで少しの間練習の時間を貰った。画面を見ながら操作していると彼女は色々とアドバイスをくれた。親切な側面もあるではないかと思いきや、大間違いで、いざ対戦になると彼女はさっきの将棋の腹いせとばかりに、画面の色が変わったり人間から変な波動が出たりする技で僕のキャラをずたぼろにした。しかし僕もただやられはしない。やっていくうちに、コツを覚え、相手の攻撃をいなしたり、ガード中の相手を投げたり出来るようになり、猪突猛進に攻撃を繰り出してくる彼女のキャラクターをこけにしてやった。ちょうど僕の勝ち星の数が彼女の勝ち星の数に並んだくらいだろうか、彼女は僕がもう少しで勝ちそうだというところで電源を切った。だから、おい。
彼女は非難の視線なんてなんのその、仕切り直しとばかりにゲームソフトを入れ替えてゲーム機を再起動させた。
彼女は色々なゲームソフトを持っていて、僕らはいくつかのゲームで対戦をしたのだけれど、僕と彼女が最もいい勝負をしたのはレースゲームだった。人との対戦ではあるものの、結局はタイムとの戦いであり、自己との戦いであるレースゲームは僕の性分に合っているのかもしれない。
大きなテレビでレースゲームをしながら、抜いたり抜かれたりを繰り返す。普段から無口な僕は集中すると更に言葉を発しなくなった。代わりに、彼女が「ああ!」だの「もう!」だのとうるさかったので世界に存在する音量の差し引きはゼロだ。
集中していた僕に彼女が妨害以外の目的で話しかけてきたのは、レースが最終ラップに突入した時だった。
彼女は僕に訊いた。それはもう、何気ない感じで。
「【仲良し】くんはさ、彼女作る気はないの?」
僕は画面の中でバナナを避けながら反応してあげる。
「作る気も作れる気もないよ。友達もいないんだから」
「彼女はともかく友達は作りなよ」
「気が向いたらね」
「気が向いたら、か。ふーん、あのさ」
「うん」
「私を彼女にする気は何があってもないよね?」
あまりに突拍子もない、ある意味彼女お得意の正攻法とも言える戦法に、思わず隣を見てしまった僕は、画面の中で見事に事故った。
「うわははっ、事故ってやんのー」
「……何を言ってんの、君は」
「あ、彼女の話? ただの確認だよ。君は私を別に好きじゃないでしょ? 何があってもさ、私を彼女にする気はきっとないよね」
「…………ないよ」
「よかった、安心した」
「…………」
何を、安心したのだろうか。不思議に思った。
文脈から、察してみる。
まさか、彼女は、僕が彼女と恋人関係になりたいと思っていると勘繰っていたのだろうか。彼女と宿を共にし、部屋に上がり込んだ僕が勘違いをして彼女に恋すると、彼女はそれを危惧していたのだろうか。
まるで、いわれのない。事実無根の容疑。
僕は、本当に珍しく、真に不愉快な気分になった。明確に、胃の底に悪いものが溜まるのを感じた。
レースを終えて、僕らはコントローラを放した。
「じゃあ、本を貸して。もう帰るよ」
内臓の中に沈んだ感情は、なかなか消えてくれることはなかった。僕はそれを彼女に悟られないよう、この場から逃げることにした。
立ちあがり本棚に歩み寄る。雨は、全く弱まってなかった。
「ゆっくりしていけばいいのに。じゃあ、ちょっと待って」
彼女も椅子から立ち上がり、本棚に寄ってきた。僕の背後に彼女が立った。彼女の呼吸が聞こえる。心なしか、いつもよりも呼吸が荒い気がした。
僕は彼女に構わず本棚を上から順番に見ていく。彼女もそうやって探しているのかもしれない。最初から所定の位置に置いておけばいいのに、と僕は少しいらだった。
ややあって、彼女が息を大きく吐いたのが聞こえた。同時に視界の端から腕が伸びてくる。どうやら先に見つけられたようだと思った。そうではない、というのはこの段階で分かってしかるべきだった。彼女の腕は、僕の視界の両端に見えたのだから。
途端、僕は自分の体の位置を見失った。
誰かから積極的な接触を受けたことがないからだろう、自身に起こる事態をすぐに把握できなかった。
気がついた時、僕は本棚の横の壁に背中から押し付けられていた。左手は自由だけれど、右手は掴まれて肩の上くらいの高さで壁に押し付けられている。さっきよりも間近に、自分以外の吐息、加えて、鼓動。熱、甘ったるい匂い。彼女の右腕が僕の首に回されている。顔は見えない、彼女の口が僕の耳元にある。頬と頬が、触れそうな距離にある。時々、触れる。
何を、しているんだ。口を動かしたのに、声を発することは、出来なかった。
「……私、死ぬまでにしたいことをメモしてるって、覚えてる?」
耳元で、囁き。声と吐息が耳たぶにかかる。僕の反応を、彼女は期待しなかった。
「それを実行する為に、私を彼女にする気があるかって訊いたの」
黒い髪が、鼻先で揺れる。
「家に呼んだのもそれでだよ」
くすり、彼女が笑った気がする。
「ないって言ってくれてありがとう、安心しちゃった。あるって言われたら、私の目的は達成されないから」
言葉も状況も理解し兼ねた。
「私のしたいことはね」
甘ったるい。
「恋人でも、好きな人でもない男の子といけないことをする」
いけないこと、いけないこと?
僕は彼女の言葉を頭の中で反芻した。いけないこと、とはどういうことなのか。今の状況のことを言っているのか、それともこれからのことを言っているのか、もしくは今までのことを言っているのか。どれも正解だと思った。どれも、いけないことだ。僕が彼女の病気を知ってしまったことも、死ぬ前の時間を好きでもない僕と過ごしていることも、一緒に泊まったことも、部屋に入ったことも、いけないことと言ってしまえば、全部そうだ。
「これは、ハグだよ。だから、いけないことは、これから」
やはり彼女は僕の心を見透かしたかのように言う。きっと鼓動の共有が僕の心を読ませやすくした。彼女の心は、まるで読めないけれど。
僕は、どうすればよかったんだろう。
「【?????】くんならいいんだ」
「…………」
「いけないこと」
どういった対応をするのが正解なのか、まるで分からなかったけれど、僕は空いた左手で僕の首にかかっていた腕を解いた。彼女の体を前に押しやると、呼吸も鼓動も消えた。代わりに、酒も飲んでいないのに真っ赤な彼女の顔が目の前に現れた。彼女は、僕の顔を見て驚いた顔をした。僕は、彼女のように人に見せる顔を作れないので、どんな顔をしていたか自分でも分からない。ただ弱く首を横に振った。何を否定したのかも分からない。
お互いの目を見る。沈黙が、張りつく。
彼女の表情を観察する。彼女は、両目をきょろきょろと動かして、明後日の方向を見て停止した後、口角をゆっくり遠慮がちにあげて、僕を見た。
そうして彼女は、いきなり噴き出した。
「んふっ」
「…………」
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふ、なーんちゃって」
そう言って彼女は、今度は満面の笑みを浮かべた。僕の右腕は拘束を解かれ、彼女は僕の手を振り払って、そのままうわははっと笑う。
「あーーーーー、はっずかしい。冗談だよ冗談! いつものいたずら! 恥ずかしい雰囲気にしないでよ、もー」
彼女の豹変に、僕は、唖然とした。
「いやぁ勇気がいりましたよぉ。なんせ君に抱きつくんだもん。でも、やっぱりいたずらにはリアリティがいるからねー。頑張ったよ私、うん。それに君が黙っちゃうから本気っぽい雰囲気になっちゃったじゃーん。ドキドキした? 君が私を好きじゃないって訊いといてよかったよ、じゃないとマジの感じになっちゃうもん、今の! でもいたずらは大成功だね! 君相手だから出来たんだよ、スリルあったぁ」
理由は、分からない。何故だろう。
だけれど、ああ、彼女と出会って、初めてだった。
初めて僕は、彼女の悪ふざけに真剣な怒りを感じた。
自分で仕掛けたことの恥ずかしさを振りきるように喋り続ける彼女を標的とした怒りが、僕の内臓の中で少しずつ形を決めていって、もはや消化が出来なくなっていった。
僕を、なんだと思っているのか。侮辱された、そう感じたし、事実そうだったろう。
これが人付き合いだと彼女が言うならば、僕はやはり誰とも関わらずに生きていきたい。皆、膵臓を病んで死んでしまえばいい。いや、僕が食べてやろう。唯一正しい僕が皆の膵臓を食べてやろう。
感情と体は、案外簡単に結びついていた。
彼女の悲鳴を聞いた僕の耳には、肥大した怒りが詰まって何も聞こえなかったかもしれない。
僕は、目の前の彼女の肩を掴んでそのままベッドに押し倒した。
彼女の上半身をベッドに押し付け、倒れた彼女の肩から手を放し、両腕を掴んで動けなくする。僕は、何も考えていなかった。
彼女は我が身の状況に気がついてから少しだけじたばたと動いたけど、やがて諦めてから自分の顔に影を作っている僕の顔を見た。相変わらず僕は、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
「【仲良し】くん?」
彼女の戸惑い。
「どうしたの、放してよ、痛いよ」
黙って僕は彼女の目だけを見た。
「さっきのは冗談だよ? ねえ、いつもの遊びだよ」
どうなれば、満足だったのだろうか。自分で自分が分からない。あるいは、僕はもう。
僕が何も喋らないでいると、表情豊かな彼女の顔が、人と付き合う人生で身につけた顔が、いつかみたいにくるくると変わった。
彼女は笑った。
「えへへっ、私のジョークに乗ってくれてるの? 君にしてはサービスいいね! さ、そろそろ放して」
彼女は困った。
「ね、ねえ、どうしたの? 【仲良し】くんらしくないよ。君は、こういう悪ふざけはしない人でしょ? ね、放して」
彼女は怒った。
「いい加減にしてよ! 女の子にこんなことしていいと思ってるの? 早く放して!」
僕は、自分が出来る一番の無感動をたたえた目で、彼女を真っ直ぐ見据え続けた。彼女も、僕の視線から逃げようとしない。僕らのベッドの上での見つめ合いは、この上なく、ロマンチックだった。
やがて彼女も、何も言わなくなった。激しい雨の音だけが、窓を隔てて僕を責めるみたいだった。彼女の吐息や瞬きの音は僕を、どうしているのか分からなかった。
じっと彼女を見ていた。彼女もじっと僕を見ていた。
だから分かった。
無言で、表情も動かなくなった彼女の目に、涙が浮かんだ。
それを見た途端、そもそも出所の分からなかった僕の怒りが最初からなかったみたいに溶けていった。
溜飲が下がると一緒に、内臓の底から、後悔がせり上がってきた。
僕は彼女の両腕を今更に優しく解放して、立ちあがった。彼女は、呆けた顔で僕を見ていた。僕は、それを確認してきり、彼女の顔を見れなかった。
「ごめん…………」
答えは帰ってこなかった。彼女はまだベッドの上にいる。抑えつけられた体勢のままで。
僕は床に置いていた荷物を持つ。そして逃げるようにドアノブに手をかけた。
「……【ひどいクラスメイト】くん」
背後からの声に、僕は一瞬だけ躊躇し、振り向かずに答えた。
「ごめん、もう帰るよ」
それだけ行って、もう二度と来ることはないだろう部屋のドアを開けて、足早に、逃げた。誰も追ってこなかった。
鍵を閉めずに雨の中に踏み出して何歩か歩いてから雨が髪を濡らしていることに気がついた。慌てずに傘を差して公道に出る。アスファルトから夏の雨の匂いが立ち昇っていた。
後ろを振り返りたい自分を叱咤し、僕は学校までの道を思い出しながら歩き続けた。雨脚は強まっている。
考える。やっと取り戻した冷静な自分で考える。
考えれば考えるほど、心の中には後悔しか見つけられなかった。
なんてことをしたのだろうかと自分に失望するのでいっぱいだった。
知らなかった、誰かに怒りを向けることが、こんなに誰かを傷つけるなんて。こんなに自分を傷つけるなんて。
彼女の顔を見たか。涙を見たか。感情が溢れだしていた。心外だという想いが、溢れだしていた。
歯を食いしばる自分に気がつく。意識すると歯茎が痛くなってきた。人間関係で自分の体を痛めつける日が来るなんて、僕がおかしくなっている。でもこの痛みを自分への罰だと思えるほど、正気を失ってはいない。そんなことじゃ、僕の罪は拭われない。
彼女の言ういたずらが発端だ。あれが、僕の感情を逆なでた。事実だけれど、事実だったとして僕が彼女に働いた暴力の言い訳になるわけがない。例え、僕が彼女の意思とは無関係に傷ついたとしても。傷ついた、傷ついただって? 何に傷ついたんだろう。彼女の匂いや鼓動を思い出しても、意味は分からない。ただ、なんとなく、許せなかった。理屈の通らない感情で、僕が彼女を傷つけた。
大きな家の間を縫って歩く。平日の午後、人影はなかった。
きっと、僕が突然消えても誰も気がつかないだろう。
そんなことを思うくらい静かだったから、背後から突然かけられた声に、僕は驚いた。
「【目立たないクラスメイト】くん」
落ち着いた男性の声。咄嗟に振り向くと、そこに傘を差したクラスメイトがいた。声をかけられるまで、存在にまるで気がつかなかった。僕は不思議に思う。一つに、彼が僕に声をかけたこと。二つに、いつも温厚な笑顔を浮かべているイメージの、彼の顔に張り付いているのが、怒りのような感情に見えること。
彼と話すのは、今日二度目になる。珍しいことだ、僕が一日に二度も同じ人間と言葉を交わすなんて。
温和で清潔感のある男の子。うちのクラスの学級委員。そんな彼が僕と関わろうとしたその心中を知ろうと、僕は彼とは関係のない動揺を抑えつけて「やあ」と彼の呼び掛けに答えた。
反応を期待したのに、彼は僕を見てじっと黙っていた。仕方なく僕が再度口を開く。
「ここらへんに住んでるんだね」
「…………違うよ」
彼はやはり、不機嫌そうだった。彼も、雨が嫌いなのかもしれない。雨だと、手荷物が増えて邪魔だし。今の彼は私服で、傘以外には何も持っていなかったけれど。
僕は彼の顔を見た。最近の僕は、人の感情を目から読みとることをやっと覚えた。彼が何故、不機嫌を背負ってまで僕に話しかけてきたのかを探る為、彼の視線をどうにか受け止めた。
僕にはもう喋ることがなかったので、自分の気持ちをなだめながら彼の顔を黙って見ていると、先に彼がしびれを切らした。苦虫を噛み潰す顔で、僕の名を呼んだ。
「【目立たないクラスメイト】こそ、どうしてこんなところに?」
普段とは違って彼から呼び捨てにされたことは特に気にならなかった。それよりも、彼が僕を【目立たないクラスメイト】とは違うものとして呼んだように聞こえたのが、気にかかった。例えば、【許せない相手】とか。ひとまず理由は分からないけど、そういうことにしておく。
僕が答えないでいると、彼は舌打ちをした。
「【許せない相手】はどうしてこんなところにいるんだって訊いてるんだよ」
「……用事があったんだ」
「桜良だろ」
聞き覚えのある名前に、心臓が収縮した気がした。息苦しくなって、すぐには答えられなかった。彼は、それも許してくれなかった。
「桜良だろって」
「…………」
「答えろよ!」
「…………君の言う、サクラって人と、僕の知ってるクラスメイトのあの子が同じ人なら、そうだね」
もしかしたら彼の勘違いかもしれないという僕の淡い期待は、彼が歯噛みした表情で打ち砕かれた。それで彼が僕に対してあまりよろしくない感情を向けていることが決定的に分かった。ただ、まだ彼の感情の理由が分からない。
どうしようか。
そんな僕の思考はすぐに意味のないものになった。理由は間もなく、誰でもない彼の言葉で知れた。
「桜良は」
「…………」
「桜良はどうしてお前なんかと」
ああ、なるほど。
言葉に出しそうになった納得を、僕は意識的に押し込める。なるほど。彼の僕に向けた感情の正体が分かった。僕は思わず頭をかく。面倒臭そうだな、とそういう風に思った。もし彼の目がちゃんと見えていれば、いくらでもはぐらかしや弁明が効くのだろうけれど、彼は的外れな怒りを僕に向けるほどには盲目になっている。もしかすると、今日この場ではち合わせたのも偶然ではないのかもしれない、例えば、二人で歩く僕らをつけてきたとか、いくらでも想像することが出来た。
彼は、恋をしているのだろう。故に、僕に向けて、見当違いの嫉妬を向けている。盲目的、だから正確な観察眼を失い、普段の自分への俯瞰を失っている。他に、何か失っているものはあるのだろうか。
僕はひとまず、最良の手段と思われる真実の説明を試みる。
「僕と彼女は、君の想像しているような間柄ではないよ」
言うと、彼の目が血走った。まずいかなと思った時には遅く、彼はより攻撃的な声量と口調で僕を責めた。雨の音は、掻き消される。
「じゃあ、一体なんだって言うんだ! 二人っきりで食事に行って、旅行に行って、今日はあの子の家に一人で遊びに来て、クラス中で噂になってる! お前が突然、桜良に付きまといだしたって」
旅行のことはどこから漏れたのだろうか、と少しだけ気になった。
「付きまといだしたっていう表現は、正確じゃないと思う。かと言って付き合ってあげてるって言うのは尊大だし、付き合ってもらってるって言うのも謙遜のしすぎだし。付き合うっていうのは、別に恋人としてという意味ではないよ」
付き合う、という言葉に彼の表情が動いたのを確認したので、付け加えておく。
「とにかく、君や、クラスメイトが思っているような関係じゃないんだ」
「それでも、桜良は、お前と時間を過ごしてる」
「……そうだね」
「お前みたいな協調性のない暗いだけの奴と!」
彼が憎々しげに言い放った僕の人間性については特に異論はない。そう見えているだろうし、事実そうだろう。
どうして彼女が僕と一緒に時間を過ごすのか、そんなのは僕こそが知りたい。彼女は、僕が彼女に日常と真実を同時に与える唯一の存在だと言っていて、もっともらしいけれど、それを答えとするのも何やら的が外れている気がする。
なので僕は沈黙を貫いた。彼も、視線こそ熱く、けれど表情を固まらせたまま雨の中に立っていた。
沈黙は長く続いた。あまりに続くもので、僕は会話が終わったものなのだと考えた。彼も正当性のない自分の怒りに気がついて、さっきまでの僕みたいに後悔に襲われているのかもしれない。もしくはそうではないかもしれない。盲目な彼はやはり自分自身の感情を見つめられてはいないのかも。つまりはどちらでもよかった。どちらにしろ、お互いにとってこれ以上向き合うのは得策ではないだろうと、僕は彼に背を向けた。彼がそのまま見送ってくれると思ったからそうした。あるいはただ早く一人になりたかっただけか。これもどちらでもいい。僕の行動は、変わらない。
よくよく考えてみれば、恋する人間が盲目であることを僕が知っているのは物語上だけでの話で、本当の人間の心に触れてこなかった僕に、生身の人間の行動を読むなんておこがましいことだった。物語の登場人物と、本当の人間とは違う。物語と現実は違う。現実は、物語ほど美しくもいさぎよくもない。
人間のいない方向へと歩きだした僕の背中は、ひしひしと刺さる視線を浴びていた。振り向きはしない。振り向いても、誰も得をしないからだ。そんな風に人間関係を数式みたいに考えてしまう僕を彼女が好むわけがないと背後の彼に理解してもらいたかったけれど、無駄だろう。
人を盲目にするのは恋だけではない、思考も人を盲目にすると知らなかった僕は、肩を掴まれるまで後ろの彼が追いついてきていることに気がつかなかった。
「待て!」
僕は、仕方なく首だけで振り返る。勘違いとは言え、彼の態度に少し辟易としていた。表情には、出さない。
「まだ話は終わってない!」
思えば、僕も気が立っていたのかもしれない。人生でおよそ初めての経験となる、いわゆるいざこざという問題。感情のぶつかり合いに、理性で考える部分を失っていたのだと思う。
明らかに彼を傷つけようとする言葉が、口から出てきた。
「あのさ、一つ教えておいてあげる。きっと役にたつんじゃないかな」
僕は、彼の目をしっかりと見て、内臓をえぐるつもりで言った。
「あの子は、しつこい人間は嫌いだそうだよ。前の彼氏がそうだったらしい」
最後に間近で見た彼の顔は、この数分でも見たことがないくらいに歪んでいた。それがどういう意味の表情かは分からなかったけれど、どうでもよかった。理解したところで、結果は変わらなかった。
左目あたりに強い衝撃を受けて、僕は後ろによろめく勢いそのまま雨に濡れたアスファルトに尻もちをついた。雨が制服にすばやく滲んでくる。手放してしまった傘が開いたまま間抜けな音をたてて転がった。同じく放りだされた鞄も、地面に横たわっている。自分の置かれた状況に驚いて、僕は咄嗟に彼の方を向いた。左目がぼやけてよく見えなかった。
細かくは分からないけれど、暴力を受けたことだけは分かった。人は勝手に倒れたりはしないから。
「しつこいってなんだよ! 俺は、俺は」
彼が言った。僕の方を向いていたけど、明らかにその言葉は僕に向けられたものではなかった。僕は、彼の逆鱗に触れたのだと知った。人を傷つけようとして傷つけられているのだからざまあない。僕は、深く反省する。
人に殴られるのは確か初めてだ。なかなかに、痛い。殴られた部分は分かるのだけれど、何故か心の芯の部分が痛い。これが続くと、人の心は折れるのかもしれない。
地面に座ったまま僕は彼を見上げる。左目の視力は、まだ戻らない。
明言はしてくれなかったからこの時点では結論づけられないけれど、恐らくは彼女の以前の恋人だったのであろう彼は、鼻息荒く僕を見下ろしていた。
「お前みたいな奴が、桜良に近づくんじゃない!」
言いながら、彼はポケットから取り出したものを僕に対して投げつけた。くしゃくしゃになったそれを拡げてみると、いつかなくした本のしおりだった。なるほど、話の筋道が見えた。
「君だったんだ」
彼は答えてはくれなかった。
端正な顔立ちの中にあるのは穏やかな人間性だと思っていた。彼がクラスの前に立って話し合いを先導する時も、たまに図書館に来て本を借りる時も、彼は整った笑顔を振りまいた。彼の内面を知らなかった僕が見ていたのは、彼が外界に出す準備をきちんとしたものだったんだ。やはり、大切なのは外ではなく中身だ。
僕はどうしようかと考えた。先に彼を傷つけたのは僕なのだから、彼の攻撃は正当防衛と言えなくもない。多少過剰気味だけれど、彼がどれだけ傷ついたのかは、僕には分かりはしない。だから立ちあがって彼に反撃するのはおかしい気がした。
立っている彼の血の気はまだ引いていないみたいだ。どうにか彼を落ち着かせるという手段がいいのだろうけれど、言葉を間違えれば、いや間違えなくても火に油を注いでしまいかねない。彼に、感情のどこかにある一線を超えさせたのは間違いなく僕なのだから。
彼を見る。ともすれば、彼の方が僕よりも余程正しいのだとも思えてきた。彼は、きっと本当に彼女のことが好きなんだ。少し手段を間違えているだけで、いやその手段が問題なのだけれど、直線的な想いを彼女に向け、共に時間を過ごしたいと願っている。だから、彼女の時間を奪う僕を憎んでいる。ところで僕はどうだ、もし彼女が一年後に死ぬと知らなかったら、僕は彼女と食事をすることも、旅行をすることも、家に言って気まずくなることもなかった。彼女の死が僕らを結び付けている。でも、死なんて誰にでも訪れる運命。だから、僕と彼女が出会ったのは偶然だ。僕らが時間を過ごすのは偶然だ。意思や、感情に伴う純粋さが、僕にはまるでない。
人と関わらない僕でも知ってる、間違っている方は正しい方に屈しなければならない。
そうかじゃあ、彼の気が済むまでやられてあげよう。人の気も知らずに誰かと関係を持とうとした僕が、悪い。
僕を睨みつける彼の目をしっかりと受け止め、意思を伝えようとした。君に屈するという意思を伝えようとした。でも、それは叶わなかった。
息を荒げる彼の奥、立つ人影を見つけた。
「何、してんの……?」
その声に、彼は雷を撃たれたように振り返った。傘が揺れて、落ちてきたしずくが彼の肩に積る。僕は、タイミングがいいのか悪いのか、とまるで人ごとみたいに、二人の様子を見ていた。
傘を差す彼女は、状況を理解しようとしているのか何度も僕と彼の顔を見比べた。
彼は何かを言おうとしていた。でもそれが外に出る前に、彼女は僕の方に駆け寄り転がっていた傘を拾って僕に差し出した。
「風邪ひいちゃうよ、【ひどいクラスメイト】くん……」
少々的外れな優しさを僕が受け取ると、彼女が息を飲むのが聞こえた。
「【ひどいクラスメイト】くん! 血、血が出てる!」
取り乱した様子で彼女はポケットからハンカチを出し僕の左目の上に当てた。出血していたとは知らなかった。では彼の暴力は、素手によるものではなかったかもしれない。今更凶器の正体なんて知りたくはなかったけれど。
それよりも、僕は、彼女が僕に駆け寄った後の立ちすくむ彼の表情を見ていた。その変化の著しさは、筆舌に尽くしがたい。感情がこぼれ落ちるとは、きっとこういうことなんだろうと思わせた。
「どうしたの?」「なんで血が」と続ける彼女。僕は彼の感情に目を奪われていたので彼女の心配を無視していたのだけれど、問題はなかった。説明は、彼がしてくれた。
「桜良……どうしてそんな奴と……」
彼女は僕の左眉のあたりにハンカチを添えたまま彼の方へ振り返った。彼の顔は、彼女の顔を見てだろう、また歪んだ。
「そんな奴って……何……【ひどいクラスメイト】くんのこと?」
「そうだよ、そいつが桜良に付きまとってるから、もうちょっかいを出さないように、俺がやっつけてやったんだ」
彼は弁解をするように言った。彼女に、見直してもらおうと思ったのだろうか。もう一度見てほしいと思ったのだろうか。盲目な彼にはもう、彼女の心なんて見えていない。
すっかり傍観者となってしまった僕は、ことのなりゆきを見守るしかなかった。彼女は固まってしまったように彼の方に顔をじっと向けていた。腕だけが、僕の顔に当てられたハンカチに伸びている。彼は、褒めてもらうつもりの子どものように半分笑っていた。半分恐れていた。
数秒後、彼の顔は後者に傾いた。
彼女が、硬直の時間に溜めたお腹の中の感情を全て吐きだすように一言だけ彼に贈った。
「…………最低」
言葉に、彼は呆気に取られた顔をした。
間もなく、彼女は僕に振り返った。その顔を見て、僕は少なからず驚いた。彼女の表情の豊かさは、明るい方向にだけ拡がっていると勘違いしていた。怒っていても、泣いていても、明るい。そう勘違いしていた。
彼女でも、こんな顔をするんだ。
こんな、誰かを傷つける為みたいな。
彼女はすぐに僕に向けた表情を変えた。戸惑いと笑顔が混在していた。彼女に促され、僕は立ちあがった。ズボンもシャツも既にずぶ濡れだったけれど、夏でよかった。寒くはない。気温と、彼女に握られた腕が原因だった。
僕の腕を強く引っ張り、彼女は彼の立つ方向へと歩きだした。彼の顔を見る。彼の呆けた顔を見て、僕は今後彼が僕のものを盗ったりすることはないだろうと確信した。
彼の横を通り過ぎ、そのまま彼女の推進力のまま行くものだと思っていた僕は、突然立ち止まった彼女の背中にぶつかりそうになった。二人の傘がぶつかって大粒のしずくが落ちる。
彼女は、振り返らずに、静かで大きな声でこう言った。
「私、もうタカヒロを嫌いになったから。二度と、私と私の周りの人達に何もしないで」
タカヒロと呼ばれた彼は、何も言わなかった。最後に彼の背中を見ると、彼は泣いているように見えた。
僕はそれから彼女の家に引っ張っていかれた。無言で家にあげられ、タオルと着替えを渡されてシャワーを浴びろと言われた。僕は遠慮なくそうさせてもらうことにした。男物のTシャツとパンツとジャージを借りて、初めて彼女に年の離れた兄がいることを知った。僕は彼女の家族構成すら知らなかった。
着替えてから二階にある彼女の部屋に呼ばれた。部屋にあがると、彼女が床に正座していた。
そこから僕は、彼女と人生で初めての経験をした。人との関わりの乏しい僕にはそれがなんなのか分からなかった。だから、彼女の言葉を借りる。
彼女はそれを仲直りと呼んだ。
それは、今まで体験したどんな人間との関わりよりも、痒くて恥ずかしいものだった。
彼女は僕に謝った。僕も彼女に謝った。彼女は僕に説明した。君が困った顔をして笑ってくれると思った、と。だから僕も説明した。何故だか分からないけれど馬鹿にされたような気がして腹がたった、と。雨の中彼女が追ってきたのは、このまま険悪になるのは絶対に嫌だと思ったから、僕に押し倒されて泣いたのは単純に男の子の力が怖かったから、そう聞いた。僕は、ひたすらに心の底から謝った。
途中、雨の中置き去りにしてきた彼のことが気になって話に出した。うちのクラスの学級委員はやはり、彼女の前の恋人だった。僕は雨の中で思ったことを正直に言った。僕といるよりは、例えば彼のように君を本気で想っている人といた方がいい。僕らは、あの日に病院で偶然に出会ったに過ぎないんだから。
言うと、僕は彼女に叱られた。
「違うよ。偶然じゃない。私達は、皆、自分で選んでここに来たの。君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。私達は、自分の意思で出会ったんだよ」
僕は、口を噤んだ。何も言えなかった。本当に、彼女からは多くを学ぶ。果たして、彼女の命が残り一年ではなかったとして、もっと長かったとして、僕が今まで教わった以上のことを、彼女に教えられるだろうか。いや、きっとどんなに時間があっても、足りない。
濡れた制服を入れる袋と服、そして約束の本を借りた。僕は手に入れた本は順番に読む、だから本棚に積み上げている本が先になるから時間がかかる、そう告げると、一年後に返してくれればいいと言われた。つまり、僕は彼女が死ぬまで仲良くすることを誓った。
次の日、補習の授業を受ける為に学校に行くと、上靴が返ってきていた。
久しぶりに上靴で教室に行くと彼女はいなかった。一時間目になっても彼女は学校に来なかった。次の時間も、次の時間も。放課の時間になっても、彼女の姿は見当たらなかった。
何故彼女が来なかったのか、知ったのはその日の夜のことだった。
彼女は、入院していた。
僕と彼女が再会したのは、その週の土曜日、病室でのことだ。午前中の天気は曇りで、過ごしやすい気温だった。僕は彼女からメールで面会可能な時間帯を聞いて、いわゆるお見舞いに来ていた。来ていた、というか呼びだされたわけだけれど。
彼女は一人用の病室にいた。僕が到着した時には他に見舞い客はなく、彼女はよくある病人服を着て腕から管をぶらさげ、窓に向かって変なダンスをしていた。背後から声をかけると彼女は飛び上がって驚き、ギャーギャーと騒ぎながら布団にもぐりこんだ。ベッドの脇に置いてあったパイプ椅子に座って騒ぎ終わるのを待っていると、彼女は急に静かになって何事もなかったみたいにベッドの上に座り直した。彼女の突発性は時と場所を選ばない。
「急に来ないでよね、恥ずかしさで先に死んじゃうかと思ったよ」
「そんな前代未聞の死に方を君がしたら僕が生涯の笑い話にしてあげるよ。はい、これ、お見舞い」
「えーいいのに! あ、苺だ! 食べようよ。そこの棚にお皿とか入ってるから取って」
僕は彼女の指示通りに近くの白い棚から皿とフォークを二セット、それとナイフを出して椅子に座り直した。ちなみに苺は、クラスメイトのお見舞いに行くと言ったら親がくれたお金で買った。
へたを取った苺を食べながら、僕は彼女に病状について訊いた。
「全然大丈夫だよ。ちょっと数値が変だったからお父さんとお母さんが心配して入院騒ぎになったけど、別に私は平気。二週間くらい入院して特別な薬を体に入れて、そしたらまた学校行くよ」
「その頃にはもう夏休みだよ」
「あ、そっか。じゃあ君とも夏休みの予定たてなきゃね」
僕は彼女の腕から伸びる管の先を見た。キャスター付きの鉄の棒にぶら下げられた袋の中に透明な液体が入っている。一つの疑問が浮かんだ。
「他の、例えば親友さん、キョウコさんとかにはなんて言ってるの?」
「キョウコ達には盲腸の手術だって言っといたよ。病院側も口裏合わせてくれてる。結構心配してくれてるみたいだからさぁ、ますます本当のこと言いにくくなってきたよぉ。数日前私をベッドに押し倒した【仲良し】くんはどう思う?」
「んー、せめて親友さん、キョウコさんにはいつかはちゃんと言うべきだと思うけどね。最後は、数日前に僕に抱きついてきた君の考えを尊重すべきかな」
「ていうか思い出させないでよ! 恥ずかしい! 死ぬ前に押し倒されたことキョウコにばらすから大人しく殺されてね」
「君は親友を犯罪者にしようとしてるんだよ、なんて罪深い」
「っていうか親友さんって何?」
「キョウコさんを僕は心の中で親友さんと呼んでいるんだ。親しみを込めて」
「他人行儀にしか聞こえないよ。課長さんみたいな意味でしょ?」
彼女は呆れたように肩をすくめた。いつもの彼女となんら変わらない様子で。
病状についてメールでは聞いていたけれど、実際に元気な彼女に会ってほっとした。実は急に死期が早まったのではないかと危惧していた。彼女を見る限り、そんな様子はなさそうだ。表情も明るく、動きもきびきびとしている。
安心した僕は鞄の中から新しく買ってきたまっさらなノートを取り出す。
「さて、おやつを食べ終わったところでお勉強の時間だ」
「えー、もうちょっとゆっくりしてからにしようよー」
「君にこれを頼まれて来たんだよ。それに、ずっとここでゆっくりしてるでしょ」
僕が今日病院に来たのは久しぶりに彼女に会う為以外にもきちんとした理由があった。彼女が学校に来れなかった数日分、補習で習ったことをまとめて教えに来るよう彼女に頼まれたのだった。即答で快諾すると、僕がいやに素直なことに彼女は驚いていた。まったく、失礼な話だ。
新しいノートを彼女に渡してペンを持たせ、僕は補習内容を要約して彼女に伝えた。僕の主観で、覚えなくてもいいと感じた部分はカットして、短縮授業にした。彼女は、一応は真面目に聞いてくれた。休憩を挟みながら、一時間半ほどで僕のなんちゃって授業は終わった。
「ありがとね、【仲良し】くん教えるの上手いなぁ、教師になりなよ」
「嫌だよ。どうして君はそう人間と関わる仕事ばっかり提案してくるわけ?」
「死ななかったら本当は私がやりたかったことを代わりにやってもらおうとしてるのかも」
「そういうこと言われると無碍に断ってる僕が悪いみたいだからやめてよ」
彼女はクスクス笑いながらノートをベッドの横の茶色い棚の上に置いた。その棚の上には雑誌や漫画本などが並べて置いてある。彼女みたいな行動的な人間には、この病室はさぞかし退屈なことだろうと思う。そりゃあ、変なダンスも踊る。
時刻は正午前だった。お昼頃に親友さんが見舞いに来ると知らされていた僕は十二時には帰るつもりだった。そのことを彼女に告げると「ガールズトークに加わればいいのに」と誘われたので丁重にお断りした。教師の真似事でそろそろお腹も空いてきていたし、何より彼女の無事を確認しただけで今日の僕は満足していた。
「じゃあ帰る前に、手品見てよ手品」
「へぇ、もう覚えたの?」
「簡単なのだけだよ。練習中なのは何個かあるけどね」
彼女が披露したのはトランプを使った手品だった。相手が選んだカードを見ずに当てるというもので、この短期間で身につけたとしては上出来だと思った。トリックは、手品について勉強したことのない僕には分からなかった。
「次はもっと難しいのをやるから期待しててね!」
「期待してるよ、最後は燃え盛る箱からの脱出マジックかな」
「火葬場でってこと? それは無理だよー」
「だからそういうジョークは」
「桜良ー、元気ぃ…………って、また?」
快活な声に僕は思わず振り返ってしまう。元気に病室に入ってきた親友さんは顔を歪めて僕を見ていた。最近親友さんの僕に対する態度があからさまになってきている気がする。このままでは、彼女の死後に親友さんと仲良くするという依頼を実現出来そうにはない。
椅子から立ちあがり、彼女に軽い別れの言葉を告げて、僕は帰ることにした。親友さんが明らかに僕を睨んできていたので、目を合わせないようにする。猛獣と目を合わせてはいけないと昨夜の動物番組で言っていた。
ところが、このままお互い別の生き物として干渉することなく別れられると思っていた僕の希望的観測をよそに、ベッドの上の彼女がとんでもないことを思い出して、言った。
「【仲良し】くん、そういえばこの前貸したお兄ちゃんのジャージとパンツは?」
「あ……」
これほど自分のうっかりを呪ったことはない。今日、僕の鞄の中には以前借りた彼女のお兄さんの服が入っていて、それを返すつもりだったのに忘れていた。
しかし、何も今言うことではない。
振り返ると、彼女のニヤニヤとした顔と、ベッドの側に移動した親友さんが驚愕の表情を浮かべているのが見えた。僕は出来るだけ動揺を悟られないように、鞄の中からビニール袋に入れた洋服一式を取り出し、彼女に渡した。
「どうもー」
彼女はまだニヤニヤとしていて、僕と親友さんを見比べた。僕も、ちらりとだけ親友さんに視線をやった。怖いもの見たさという愚かな欲求が僕にもあったのだろう。親友さんは、既に驚愕を引っ込めていて、代わりに人を殺せそうな目で僕を見ていた。心なしか、ライオンのように喉を鳴らしているような気もする。僕は即座に親友さんから目を逸らし、早足で病室を出た。退室する直前、親友さんが極めて低い声で「パンツって何?」と彼女に詰め寄る声が聞こえた。僕は、面倒なことに巻き込まれないようにとますます足を早く回転させた。
週が明けて月曜日、真面目に学校に行くと教室では僕にとって極めて心外な噂が蔓延していた。
どうも、僕が彼女のストーカーをやっているという噂らしい。聞いたのは、恒例行事的にガムをすすめてくる彼からだった。何を馬鹿な、と僕が顔をしかめると、彼は面白そうにガムをすすめてきたので丁重にお断りした。
噂が起こったのであろう経緯をなんとなく想像してみた。きっと、中途半端に僕と彼女を目撃した幾人かの証言が、彼女がいるところにいつも僕がいるという情報に書き換えられ、それを聞いた僕を快く思わない人々が悪意を持ってストーカーと評したのが、まるで事実のように噂になった、と僕の想像力ではこの辺が限界だけれど、事実に近いのではないだろうか。
そんな筋道が仮にあったとしても、あまりにも事実無根な噂に、僕は呆れる。何がって、クラス中のほとんどの人々が僕の方を見てひそひそストーカーだの気をつけた方がいいだのと、噂を信じ切っていることだった。
もう一度言う。僕は、心底呆れる。どうして彼らは多数派の考えが正しいと信じているのだろうか。きっと彼らは三十人も集まれば人も平気で殺してしまうのではないか。自分に正当性があると信じてさえいれば、どんなことでもしてしまうのではないか。それが人間性でなく機械的なシステムであることにも気づかずに。
だからもしかするとことがエスカレートし、僕に対するいじめが発生するのではないかと考えていたのだけれど、それは僕の自意識過剰だった。はっきり言って彼らが本当に興味があるのは彼女であって、付きまとっている僕ではない。いや、付きまとってはないけれども。だから彼らが僕に対するアクションというなんの利益もない面倒臭いことをする必要はない。毎日登校する度に睨んでくれる親友さんに関しては、興味というか敵意を持ってくれているだけなので、あれはただ怖い。
という話を、二回目彼女の見舞いに言った時にすると、彼女は膵臓を抱えてどぅわっはっはっはと笑った。
「キョウコも皆も【仲良し】君も面白いなー」
「君は陰口を面白いって思うタイプなの? ひどい人間だ」
「皆がさ今まで関わらなかった君と意味分かんない形で関わってんのが面白いの。それで、君はどうしてそういう状況に陥ってるのか分かってる?」
「君と一緒にいるからでしょ?」
「私の所為にする気? 違うよ、君がきちんと皆と話さないからだよ」
彼女はベッドの上でみかんの皮をむきながら断言した。
「皆は【仲良し】君の人間性を知らないから、そういう風に思っちゃうのさ。互いの勘違いをなくす為にも、君は皆と仲良くするべきだと思うな」
「誰の得にもならないことはしないよ」
彼女がいなくなったら一人になる僕にも、彼女がいなくなれば僕のことを忘れるクラスメイト達にも、必要のないことだ。
「皆もね、ちゃんと君のことを知ったらさ、君が面白い人だってちゃんと分かってくれると思うし。それに今だって、本当は【仲良し】くんのこと悪い風には思ってないと思うよ」
馬鹿なことを言う、とみかんの皮をむきながら思った。
「君やキョウコさん以外は、僕のことを【地味なクラスメイト】か、それ以下にしか思ってないよ」
「それは本人達に訊いたの?」
彼女は、僕の人間性の核心を突くように首を傾げた。
「訊いてないよ。でも、そうだと思う」
「そんなの本人に訊いてもないのに分かんないじゃん。ただの【仲良し】くんの想像でしょ? 正しいとは限らないじゃない」
「正しくても正しくなくてもいいんだ、どうせ誰とも関わらないんだし、ただの僕の想像だから。僕がそう思ってるだけ。名前を呼ばれた時に、僕はその人が僕をどう思ってるか想像するのが趣味なんだよ」
「なあにその自己完結。自己完結系男子なの?」
「違うよ、自己完結の国から来た自己完結王子なんだ。敬ってよ」
彼女は白けた顔でみかんをむさぼった。彼女に僕の価値観を理解してもらおうとは思わなかった。彼女は僕とは反対の人間なのだから。彼女は人と関わることで生きてきた人間だ。表情や人間性が、それを物語っている。反して僕はというと、家族以外全ての人間関係を頭の中での想像で完結させてきた。好かれるのも嫌われるのも僕の想像で、自分に危害が及ばなければ好き嫌いすらどちらでもいいと思って生きてきた。人との関わりを最初から諦めて生きてきた。彼女とは、正反対の、周りから必要とされない人間。それでいいのかと訊かれたら、困るけれど。
みかんを食べ終わった彼女は丁寧にむいた皮を折り畳んでゴミ箱に投げた。皮ボールは見事にゴミ箱に入り、それしきのことで彼女は嬉しそうに拳を握る。
「ちなみに、私は君のことをどう思ってると思う?」
「さあ、【仲良し】とかじゃないの?」
僕の妥当な答えに、彼女は唇を尖らせた。
「ぶー、はーずれ。前はそうだと思ってたけどね」
独特な彼女の言い回しに僕は首を傾げる。そうだと思っていた、というのはつまり、他の考えに変わったのではなく、自分の考えが違う種類のものだと気がついたということだろうか。少しだけ、興味があった。
「じゃあ、どう思ってるの?」
「教えたら人間関係面白くないでしょ。人間は相手が自分にとって何者か分からないから、友情も恋愛も面白いんだよ」
「やっぱり君はその考え方なんだね」
「あれ? 前にもしたっけこの話」
本気で忘れているのか彼女は不思議そうに眉をひそめた。その様子がおかしく、僕は笑ってしまった。第三者的な僕が、人に対して素直に笑う自分を見ていた。いつの間にそんな人間になれたのだろうかと、訝しがり、反面、感心していた。僕をそうしたのは、間違いなく目の前の彼女だった。いいことなのか悪いことなのかは誰にも分からないだろうけれど。とにかく随分と、僕は変わってしまった。
笑う僕を見て、彼女は目を細めた。
「【?????】くんがすっごくいい人だって、皆に教えてあげたい」
穏やかな彼女の声。自分を押し倒した男によくもそんなことが言えるものだ。僕は一生あれを悔いるだろうというのに。
「皆にはともかく、キョウコさんには教えておいてよ。毎朝怖いんだよ」
「言ってるんだけどね、あの子親友想いだから。君が私をたぶらかしてると思ってるんだよ」
「君の情報伝達能力に問題があるんだろうね。キョウコさんは頭が良さそうだし」
「え、何、キョウコをべた褒めして。私が死んだ後はキョウコを弄ぼうとしてるの? 流石の私もひくわー」
彼女のオーバーリアクションを僕は白けた顔でみかんをむさぼりながら見てやった。彼女が面白くなさそうにベッドに座り直したので僕はまた笑ってしまう。まったく、いつものクールな僕はどこに行ってしまったのかと、第三者的な僕が呆れる。
「じゃあ今日の手品はね」
今回彼女が習得していたものはコインを手の平で操って消したり出現したりしているように見せるものだった。段取りに引っかかりはあったものの、これまた前回同様初心者にしては上等な出来だと思えた。何も知らない僕から見れば、彼女にはもしかしたらその筋の特別な才能があるのではと思わせるくらいに。
「だってずっと練習してるもん! 時間ないからさー」
時間があるから練習できるのではないか? と丁寧にツッコミを入れそうになったけど、僕がジョークに甘くないことを彼女に分からせる為にスル―した。
「これなら本当に一年後には凄いのが出来るようになってるかもね」
「うん、まー、ね!」
変な間の取り方をする彼女。ジョークを無視されたのが気に入らなかったのかもしれない。仕方がないので僕は素直に彼女の努力と成果を褒めてあげた。彼女は上機嫌に笑った。
それで、二回目の見舞いはなんの問題もなく終わった。これが週の中間、水曜日の午後のこと。
次に呼び出された土曜日の午前中、指定された時間の通りに僕が病室に入ると、彼女がすぐに僕の存在に気が付き、僕の名を呼んで笑った。ただその笑顔が少々ぎこちなく、僕に彼女の緊張が伝わってきたので、僕は遠慮なく嫌な予感を持った。後ずさりそうになる足をなだめ、いつものパイプ椅子に座ると、彼女は思いきった様子で僕の予感に違わぬことを言った。
「ねえ……【?????】くん」
「……うん、どうしたの」
「一回だけでいいからさ」
言いながら、彼女は棚の上に置いてあったトランプを手に取った。
「真実か挑戦、やってくれない?」
「…………どうして?」
悪魔のゲームの提案、即断で拒否してみてもよさそうなものだけれど、彼女がどうして突然そういうことを言いだしたのか、何より彼女の危機迫る様子が気にかかった。
彼女がすぐには答えなかったので、僕が言葉をつなぐ。
「どうしても訊きたいことか、どうしてもしてほしいことがあるってことだよね。それも、普通に頼んだら、僕が断りそうな」
「そう……じゃないの。もしかしたら君は普通に教えてくれるのかもしれないけど、訊くってことが私の中で整理出来てなくて、だから運に委ねようと思って」
いやにかしこまっていて歯切れの悪い彼女の言葉、一体なんだというのだろう。僕は、彼女を困らせるような秘密を持っている自覚はない。
彼女は、じっと僕の目を見ていた。強い意思を押し通そうとするように。彼女の眼は不思議と、逆らう気力をなくさせる。僕が草舟だからか。それとも、相手が彼女だからか。
考えた末、僕は結局こういう決断をする。
「……本も貸してもらったし。一回だけなら、付き合おう」
「ありがとう」
僕の答えなんて事前に知っていた、そういう風に彼女は一言だけ礼を言ってカードをシャッフルし始めた。やはり今日の彼女はどこかがおかしい。普段、余計なことを言うのを生業みたいにしている癖に、今日に限っては何も余分に言葉を添えずに、語りかけてくる。何かあったのかと、興味と心配が心の中でヨーグルトになった。
ルールは以前と同じ真実か挑戦。たった一回のゲームということで、交互にトランプを五回ずつシャッフルして山をベッドの上に置き、好きな場所から一枚を引くようにした。
彼女が散々悩んで真ん中より少し下を選んだ後、僕は一番上のトランプを手に取った。見えないし、何がどこに行ったか分からない以上、選ぶ場所に価値の違いなんてない。それに、このゲームに対する思い入れが、僕と彼女では違う。こんなことを言ってしまえば彼女は怒るかもしれないけれど、僕は今回、勝っても負けてもどっちでもよかった。もし気合いや意思の違いで勝負が決まる、そんな設定を神様がこの世界に作っていたら間違いなく彼女の勝ちだった。
彼女なら言うだろう、そうならないから面白いんだと。
同時にトランプをめくって、彼女は心底悔しそうな顔をした。
「うわぁ、これは、不覚だぁ」
彼女はベッドのかけぶとんを握りしめて、落胆が逃げ去るのを待つみたいにしていた。勝ってしまった僕は、見守ることしか出来ない。やがて彼女は僕の視線に気がついて、落胆をどこかに投げ飛ばし、顔を綻ばせた。
「しょうがないね! こういうもんだよ! だから面白いんだよ!」
「…………そうか、質問を考えないといけないんだね」
「いいよ、なんでも答えるよ? ファーストキスの話とか聞く?」
「せっかく得た権利をそんなエレベーターよりも下らない質問に使えないよ」
「……エレベーターって別に下るよね?」
「そうだよ? だから? 意味あること言ったとでも思った?」
彼女はうわははっと上機嫌に笑った。笑う様子を見る限り彼女がいつもと違うというのは僕の思いすごしだったかもしれない。彼女は少しの理由ですぐに表情が変わるから、今回も別に大したことではなかったのかも。酒とか、天気とか、そんなちょっとの原因で。
考えた。彼女に何を聞くべきだろうか。彼女への興味は以前このゲームをやった時から変わらない。いかにして、彼女みたいな人間が出来あがったのか。本当は、もっと気になることが一つ二つあったかもしれない。だけれど僕にはその一つか二つを彼女に訊く勇気がなかった。僕という人間は、臆病から出来あがっていると、彼女といることで気づかされる。勇気ある彼女を鏡としてしまう。
彼女に何を訊こうかと考えながら彼女を見ていた。彼女はじっと質問を待って僕の方を見ている。ベッドの上に座って黙っている彼女は、以前より少しだけ、死にそうに見えた。
その予感を振り払いたかった僕の質問は、決まったと同時に口から出た。
「君にとって、生きるっていうのは、どういうこと?」
彼女は、「うっわー、真面目かよ」と茶化した後、真剣な顔をして空を見つめて考えてくれた。「生きる、か」と彼女が呟く。それだけで、彼女が死ではなく生を見つめていると実感できるそれだけで、僕は心が微量ながら軽くなるのを感じた。僕は、臆病だ。知ってしまう、僕は、まだ彼女が死ぬのをどこかで認めきれていない。
旅行先のホテルで彼女の鞄の中を見て取り乱した自分と、あの日最後の質問で僕を脅かした彼女を思い出した。
「うん! そうだな! これだ!」
彼女は人差し指を上に立てて、考えの結論が出たことを教えた。僕は、彼女の言葉を逃すまいと耳をそばだてる。
「生きるってのはね」
「…………」
「きっと誰かと心を通わせること。そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ」
……ああ、そうか。
僕はそれに気づいて、鳥肌が立った。
彼女の存在そのものと言える言葉が、視線や声、彼女の意思の熱、命の振動となって、僕の魂を揺らした気がした。
「誰かを認める、誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、誰かと一緒にいて楽しい、誰かと一緒にいたら鬱陶しい、誰かと手を繋ぐ、誰かとハグをする、誰かとすれ違う。それが、生きる。自分たった一人じゃ、自分がいるって分からない。誰かを好きなのに誰かを嫌いな私、誰かと一緒にいて楽しいのに誰かと一緒にいて鬱陶しいと思う私、そういう人と私の関係が、他の人じゃない、私が生きてるってことだと思う。私の心があるのは、皆がいるから、私の体があるのは、皆が触ってくれるから。そうして形成された私は、今、生きてる。まだ、ここに生きてる。だから人が生きてることには意味があるんだよ。自分で選んで、君も私も、今ここで生きてるみたいに」
「…………」
「……っとぉ、かなり熱弁してしまいましたけどもぉ、ここ真剣十代喋り場だったっけ?」
「いや、病室だよ」
僕は、極めてそっけなく答えた。彼女は頬を膨らます。
許してほしい、それどころじゃなかったんだから。
「…………」
「【?????】くん……?」
この時彼女の言葉を聞きながら初めて、僕は僕の奥の奥、底に溜まった本当の想いを見つけ出した。それは気づけばすぐそこまで身を寄せていて、僕の心そのものになってしまいそうになっているのに、僕が今まで気がつかなかったもの。僕が、臆病だからだ。
そうだ、僕は君に……。
その言葉を抑えつけるので、精一杯だった。
「…………本当に」
「あ、やっと喋りだした、何? 【?????】くん」
「本当に君には、色んなことを教えてもらう」
「うっわ、どしたの突然恥ずかしい」
「本心だよ。ありがとう」
「熱あるの?」
彼女が掌を僕の額に当てる。当然平熱なので、彼女は首を傾げる。というか例えじゃなく本気で熱があると思っていたのだろうか。僕は面白くて笑ってしまう。そんな様子を見て彼女がまた掌をこちらに向けてくる。僕はまた笑う。その繰り返し。
あー、楽しい。彼女がいるからだ。
彼女が僕に熱がないことをやっと理解してから、僕は、ありがたくも僕がお土産に買ってきたカットパインを食べることを提案した。
以前の見舞いの時、次回はパインがいいと言っていた彼女は嬉しそうに顔を咲かせた。
二人で美味しくパインを頂いていると、彼女が溜息をついた。
「あーあ、私も運がないなー」
「真実と挑戦? そうだね、でもゲームじゃなくてももし僕が答えられるような質問だったら答えてあげるよ」
「いいの、ゲームの結果なんだから」
彼女はきっぱりと断じた。何を訊こうとしていたのか、相変わらず心当たりの欠片もない。
おやつを食べ終え、補習で進んだ分を彼女に教えた後は、恒例の手品観賞会となった。今回は前回からそんなに時間も経っていないということで、手品グッズを使った簡単なものだった。いつも通り、手品に造詣の深くない僕は素直に感心した。勉強の時間も、手品の時間も、昨日は知らなかった自分の心に気がついた僕は彼女ばかりを見ていた。
「じゃあ、そろそろ帰るよ。お腹も空いてきたし」
「えー! もう帰るのぉ」
彼女は子どもみたいに体を揺らして抗議した。彼女にとって一人きりの病室は僕が思うよりも余程退屈な忌むべきものなのかもしれない。
「もうすぐ君は昼食の時間でしょ? それに、キョウコさんが来たりして僕を昼食に食べられたくないし」
「膵臓を?」
「もしかしたらね」
肉食動物に捕食される自分を想像しながら立ち上がると、彼女から音声になった「待った!」がかかった。
「ちょっと待って、じゃあ最後にお願いがあるんだけど」
彼女はちょいちょいっと手招きをした。僕が警戒心も皆無に近づくと、彼女はなんの悪気も遠慮も他意も下心も反省も責任もない様子で、上半身を伸ばして僕に抱きついた。
僕は、予感も何も見せなかった彼女の行動に驚きを忘れた。自分でも意外なほど冷静に、僕は彼女の肩にあごを乗せた。甘ったるい。
「……あのさ」
「こないだのとは違うよ、これはいたずらじゃないの」
「…………じゃあ、何」
「最近妙に人の体温が好きなんだよねー」
彼女のその言い方に、僕はある種の確信を持った。
「ねえ、実はずっと気になってるんだけど」
「スリーサイズ? 胸が当たってるから」
「馬鹿じゃねえの」
「うわははっ」
「君の様子がおかしくないかってこと。何かあったの?」
抱き合ったまま、いや正しくは彼女に勝手に抱きつかれたまま、僕は彼女の答えをじっと待った。以前とは違って、馬鹿にされているとは思わず、むしろ僕の体温なんかでよければ使いたいだけ使えばいいと思っていた。
彼女は、ゆっくり首を横に二往復させた。
「……んーん、なーんにもないよー」
当然、僕はそれを信じなかった。けれど、言いたくないことを言わせる勇気も僕にはなかった。
「ただ君のくれる真実と日常を味わいたいだけ」
「…………そう」
まあ、的外れな勇気があったところで、なかったところで、この時僕が彼女の心中を知ることは叶わなかったわけだけれど。
本当に僕はタイミングというものに見放されている。
彼女が黙った間で、背後から猛獣の鳴き声が聞こえた。
「さっくらー、おは……あんた今日という今日は!」
彼女をベッドに押しのけて「ふぎゃ」という声を聞きながら扉の方に振り返ると、魔王のような顔をして僕を睨みつけるクラスメイトがいた。流石の僕の顔もひきつっていたように思う。にじりよってくる親友さんから逃げようと後ずさるもベッドが邪魔をした。
ついに親友さんが僕の胸倉を掴もうとして、万事休すかというところで助けが入った。彼女が素早くベッドから降りて親友さんを抱きすくめる。
「キョウコは落ちつけとくから!」
「あ、うん、じゃあ!」
僕は親友さんから逃げるように、というか逃げる為に病室を出た。彼女のところに来るといつも逃げてばかりいる。最後に、親友さんが僕の名字を高らかに呼ぶ声がしたのを鮮やかに無視して、三回目の見舞いが終わった。体にまだ甘ったるい匂いが残っている気がした。
やっぱり、というべきか、実際にはそんな風に割り切って考えられていないんだけれど、次の日、日曜日の夜に彼女からメールをもらって、僕はあの日彼女が隠そうとしたこと、なのかもしれない事実を知った。
彼女の入院期間が、予定より二週間延びた。
入院期間が延びたことについて、彼女は意外とあっけらかんとしていた。心配していたのだけれど、本人にとっては別に想定外のことではないという様子だったので、少し安心する。心の中だけで白状するけれど、僕は結構気が気ではなかった。
火曜日の午後、補習が終わってから僕は彼女の見舞いに来た。補習期間も、もうすぐ終わる。
「夏休み半分以上終わっちゃうじゃんねー」
彼女は、それだけが口惜しいという調子で言った。本当にそれだけが口惜しいと、僕に伝えるみたいに。
天気は、晴れ。クーラーが効いている病室はまるで日差しから僕らを守るシェルターみたいで、意味もなく僕を不安にさせる。
「キョウコは大丈夫だった?」
「ああ、うん。先週より心なしか眼光が強くなってる気がするけど、君が説得してくれたのが麻酔銃みたいに効いてるのかまだ飛びかかられてはないよ」
「私の親友を猛獣みたいに言うのやめてよ」
「君はきっとあんな目で見られたことがないんだよ。猫かぶってるんだろうね。猫科の猛獣、ライオンかな」
僕はお土産に買ってきた桃の缶詰の中身を器に出して彼女と一緒につついた。シロップの甘みがなんだか小学生の頃を思い起こさせる。
異常に黄色い桃をかじりながら、彼女は外を見た。
「こんな天気のいい日に、君はどうして病院に来てるの? 外でドッヂボールでもしなよ」
「まず第一に君に呼ばれたってこと、第二にドッヂボールなんて小学生以来やってないってこと、第三に僕には一緒にやる人がいないってこと、以上三点の注意点があるんだけど、どれがいいか選んで」
「全部」
「よくばりだね、じゃあ最後の桃をあげるよ」
子どもみたいな笑顔になった彼女は桃をフォークに刺して一口で頬張った。僕はお皿と缶を病室の端にある流しに持っていく。ここに置いておけば、看護婦さんが片づけてくれるシステムらしい。食事も出てくるし、彼女の中の病気さえなければここはビップルームかもしれない。
ビップルームのオプションとして僕が無償で勉強を教えてあげると、彼女は今日も面倒臭がりながら真面目にノートを取った。以前に僕は一度、彼女に勉強をする必要性について訊いた。彼女には受験もなんにもないのだから。すると彼女は成績が突然ボロボロになったりしたら周りに変に思われるからだと言っていた。なるほど、僕は自分がどんな状況になっても特別勉強する気が起きない理由が分かった。
今日は彼女の手品ショーはお預けだった。やはり早々新作を用意できるわけではないと言っていた。とっておきを練習してるから期待してて、とも。
「首を長くして待ってるよ」
「首を長くするってどうやるの? 誰かに引っ張ってもらうとか?」
「慣用句も分かんない程馬鹿になったの? 脳にも転移してるね大変だ」
「馬鹿って言った方が馬鹿なんだよ!」
「間違ってるね、僕は君を病気って言ってるけど病気じゃないもの」
「間違ってないよ、死ね! ほら、私の方が死ぬもん」
「どさくさに紛れて僕に呪いをかけるのやめてくれない?」
いつもと同じようなふざけた会話。こんななんでもない会話が出来ることを、僕は喜んでいた。彼女といつもと同じ調子で冗談を言い合える空気が、変わらぬ日常の証明になる気がしたからだ。
そんななんの意味もないことで安心してしまった僕は、やはり人間経験というものが足りなかったのだろう。
彼女が『共病文庫』に何かを書き始めたので、僕はなんとはなしに病室の角を見た。ここで過ごした人々の色んな病気の破片が付着して溜まっているから黒ずんでいるのかなと思った。
「【?????】くんは、夏休み予定は?」
角からゆっくり彼女に視線を戻そうとしたところで名を呼ばれたので、僕の視線は僕が思ったよりも少し早く彼女に到達した。
「ここに来るのと、家で本を読むくらいかな。宿題も」
「そんだけ? なんかしなよー、せっかくの夏休み。私の代わりにキョウコと旅行してくる?」
「ライオンの檻の中に入るような資格持ってないんだ。君は、キョウコさんと旅行には行かないの?」
「ちょっと無理かなぁ。入院延びちゃったし、あの子部活忙しいから」
彼女は寂しそうに僕に笑いかけながら、言った。
「もう一度、旅行したかったなぁ」
「……………………え?」
もの憂げな、彼女の言葉が、僕の呼吸を一瞬止めた。
突然部屋の空気の色までが黒ずんで見え、僕の心の奥で眠っていた何か嫌なものが、喉までせりあがってくるのを感じた。僕はそれを吐きだしてしまわないように、急いでペットボトルのお茶を飲む。なんだ、今の。
僕は頭の中で彼女の台詞を反芻する。小説の中で名探偵が、重要人物の台詞をそうするみたいに。
僕が難しい顔をしたからだろう。彼女は消え入りそうな笑顔を引っ込めて首を傾げた。
不思議なのは、こっちの方だった。
なんで、彼女は。
思った時には、口から飛び出していた。
「どうして、もう二度と旅行には行けないみたいな言い方をするの?」
彼女は、虚を突かれたようだった。鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
「…………そんな言い方、した?」
「したよ」
「そっかー、私もこう見えてもの思うところがあるのかもなー」
「ねえ……」
僕はどんな顔をしているのだろう。昨日から心の奥に忍ばせてきたうねりが、ついに口から出てしまいそうになる。僕は必死に手で口を抑えようとしたのだけれど、手が動くよりも先に口が動いてしまった。
「死なないよね?」
「え? 死ぬよぉ。そりゃ死ぬよ、私も君も」
「そうじゃなくて」
「膵臓がやられてってことだったら、それもまあ死ぬよ」
「そうじゃなくて!」
ベッドの端を叩きながら、僕は思わず立ちあがっていた。椅子が倒れてしまい、金属の嫌な音が病室に鳴る。僕の目はずっと彼女の目の中にあった。彼女は、今度こそ本当に驚いたという顔をしている。僕こそ自分に驚いている。どうしてしまったんだろう。
僕は、からからになった喉をふりしぼって最後の一滴みたいな声を出した。
「まだ、死なない、よね?」
驚いたままの彼女が、何も答えないものだから、病室には静寂が落ちる。僕はそれが怖くて、言葉を続けた。
「この前から、君は様子がおかしい」
「…………」
「何か隠してるんでしょ。ばればれなんだよ。真実か挑戦も、突然抱きついてきたりするのも。僕が何かあったのかって訊いた時の反応も変だった。あんな変な間を取って、僕が不思議に思わないと思ったの? これでも僕は大病を抱えた君を心配してるんだよ」
自分でも覚えのないくらいの早口で、僕はまくしたてた。言い終えると、息が切れていた。息継ぎをしなかったのだけが原因ではない。僕は戸惑っていた。何かを隠している彼女にも、彼女に踏み入ろうとする自分にも。
いまだひどく驚いた顔をしている彼女を見ながら僕は、誰かが自分より狼狽していると落ち着くという原理で少しだけ落ち着いて、椅子に座り直した。シーツを握りしめていた手もそっと緩める。
彼女の顔を見る。目を見開いて唇を結んでいる。また彼女は韜晦に走るだろうか。そうしたら、僕はどうしよう。更なる追究の勇気が、僕にはあるだろうか。あったとして、何か意味があるのだろうか。
僕は……どうしたいのだろうか。
考えているうちに、答えは出てしまった。
いつもはころころと変わる彼女の表情。だからぽかんとした今の顔から、彼女の表情はどういう形にせよ豊かに回転するものだと思っていた。
違った。今回、彼女の顔は本当にゆっくりとその色どりを変えた。結んでいた唇の口角が、カタツムリの早さで上がっていった。見開いていた目が幕引きの早さで細くなっていった。硬直していた頬が、氷が溶ける早さで伸びていった。
彼女は、僕なら一生かかっても足りないような顔で笑った。
「教えてあげようか? 何かあったのか」
「……うん」
僕は怒られる直前の子どもみたいに、緊張する。
彼女は、大きな口を開けてまるで幸せそうに答えた。
「なーんにもないよ。ただ、君のことを考えてたの」
「僕のこと?」
「そ、君のこと。真実か挑戦もね、本当になんでもないことを訊こうとしたんだよ。強いて言うなら君ともっと仲良くなれたらいいのにって思って」
「……本当?」
僕は懐疑的な声音で訊いた。
「本当だよ。君には嘘つかないもん、私」
リップサービスかもしれない、それでも僕は安堵を隠しきれなかった。一気に肩の力が抜ける。甘いとは分かっているけれど、僕は彼女を信じた。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
「……どうしたの?」
「いやぁ、私、今幸せだなぁって思って。死んじゃうかも」
「駄目だよ」
「私に生きててほしいの?」
「…………うん」
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
僕の顔を見たまま彼女は異常なほど嬉しそうに笑った。
「いやぁ、君がまさか私をそこまで必要としてるなんて思いもよらなかったよ。人間冥利に尽きるね、ひきこもりの君が初めて必要としてる人間なんじゃないの、私」
「誰がひきこもりだ」
ツッコミながら、僕は顔が爆発してしまうんじゃないかと思うくらい恥ずかしくなってきていた。彼女に対する心配とは、失いたくないということ、必要だということ。事実だけれど、言葉にされると、頭で思っているのとは比べられないくらいに恥ずかしく、僕の全身の血は沸騰して頭に上ってきそうだった。そんなことになっては僕が先に死んでしまう。どうにか僕は深呼吸をして熱を体外に逃がす。
休憩中の僕にインターバルを与える気はないという調子で彼女は嬉しそうな顔のまま続けた。
「様子がおかしいから、私がもうすぐ死ぬと思ったの? 君に黙ったまま」
「……そうだよ、急に入院期間が延びるし」
彼女は腕にくっついた点滴が取れてしまうんじゃないかと思うくらい、大声で笑い転げた。そこまで笑われると、流石の僕もむっとする。
「悪いのは、勘違いさせるようなことする君だろ」
「前から言ってたじゃん! 時間はまだあるって! じゃないと、手品の練習なんてしないってー。さっき君が言ってたことだけどどうして私の言うことの間とか気にするかなー。本当に小説の読み過ぎだと思うよぉ」
言い終わってから彼女はまた笑った。
「大丈夫、死ぬ時はちゃんと君に教えるから」
彼女はまたまた大笑いする。笑われ過ぎて、僕もなんだかおかしくなってきた。僕はどうやら大きなお門違いをしていたらしいのだと、突きつけられて。
「死んだらちゃんと膵臓を食べてね」
「もしかしたら悪いところがなかったら死なないんじゃない? 今すぐにでも食べてあげようか?」
「生きててほしいの?」
「とても」
僕の場合、素直であることが冗談みたいに見える人間でよかった。本当の本当の素直を受け取られたら、人との関わりを怠ってきた僕は照れてもう出てこれなくなる。
彼女がどう受け取ったかは分からないけれど、「きゃー嬉しい」と冗談めかして言ってから、僕に向かって両腕を広げた。楽しそうな彼女の顔はとても冗談っぽかった。
「君も最近、誰かの体温が好きになってきたんじゃないの?」
にししししっと笑う彼女の言葉はきっと冗談なんだ。だから、僕は、逆に素直に受け止めるという冗談で返してやろう。
立ちあがって彼女に近づき、初めてこちらから背中に手を回す冗談をしてあげると、彼女は「ひゃー」とこれまた冗談っぽく言いながら僕の背中に手を回した。どういう意味があるのかなんて無粋だ。冗談に理屈を求めちゃいけない。
しばらくの間、同じ体勢でいて、僕は不思議に思った。
「あれ、今日はこういうタイミングでキョウコさん来ないんだね」
「あの子部活だよ。ていうかキョウコをなんだと思ってるの?」
「僕らの仲を引き裂く悪魔かな」
二人で笑って、僕は頃合いと彼女の体を開放したのだけれど、彼女は一度強く僕の背骨を締めあげてから放してくれた。離れてみてあくまで冗談っぽくお互いの顔が赤いのを笑いあった。
「死ぬと言えばさ」
二人共に落ち着いてから、彼女が切り出した。
「そんな語り出しは前代未聞だろうね」
「最近遺書を書き始めようと思って」
「早くない? やっぱりまだ時間あるって嘘なの」
「違うよ、何回も推敲と添削を繰り返してさ、きちんとしたのを見せたいじゃん。だから下書きを始めるの」
「そういうことなら結構なことだね。小説も書くより添削の方が時間かかるっていうし」
「ほらぁ、やっぱり私は正しい。私が死んだ後は私の完成された遺書を読んで楽しんでね」
「楽しみにしてるよ」
「早く死ねってこと? ひどーい。とか言っちゃったりしてね、君は私が必要だから死んでほしくないんだもんねー」
彼女はニヤニヤとしているけれど、もうそろそろ僕も心情的に限界なので、素直に頷くのはやめる。白けた目で見てやったのに、彼女は懲りずにニヤニヤしていた。そういう症状なのかもしれない。
「そうだ、君には無用な心配をかけたからさ、お詫びに退院して一番に君と遊んであげましょう」
「お詫びの割には随分偉そうだね」
「嫌なの?」
「嫌ではないよ」
「【?????】くんって本当にそういうところあるよね」
どういうところかっていうのはなんとなく自分で分かるので特に訊かなかった。
「退院する日、一回家帰るけどそれから自由だから、午後ね」
「何をするの?」
「んー、何しよっか、退院するまで何回か来るでしょ? 考えようよ」
僕はそれで納得した。後に、彼女が「デートの約束」という不本意な名前をつけた予定は、彼女が退院するまでの二週間の間に彼女の希望で海に行くということになった。加えて、どこかのカフェに寄って練習中のとっておき手品を披露してくれるという風になった。
実は、僕は退院後の約束をするというこの時点で、何かの伏線になっており、もしかすると退院までの間にとても重大なことが起きるのではないかと憂慮していたのだけれど、まったくそんなことなく、彼女が退院するまでの日々は過ぎ去った。この時ばかりは、彼女の言う通り、僕は小説の読み過ぎなのかもしれないと思った。
延びた二週間の間に補習も終わり、僕らは夏休みを迎えた、僕が彼女の見舞いに赴いたのは四回。そのうち一回、親友さんとはち合わせた。二回、彼女はベッドが揺れるくらい大笑いした。三回、僕が帰る時に駄々をこねた。四回、僕は彼女の背中に両手を回した。一回も、慣れることはなかった。
たくさん冗談を言って、たくさん笑いあい、たくさん罵倒しあって、たくさん互いを尊重し合った。まるで小学生みたいな僕らの日常が、僕は好きになってしまって、一体どうしたことだと第三者的な僕が驚いた。
俯瞰の僕に、言ってやろう。僕は、人との関わりを喜んでいた。生まれて初めてだった。誰かと一緒にいて、一人になりたいと一度も思わなかったのは。
きっとこの世界で一番、人との関わりに感動していた僕の二週間は彼女の病室に集約される。たった四日、その四日が僕の二週間の全てだった。
たった四日だったから、彼女の退院の日は、すぐに来た。
彼女が退院する日、僕は朝早く起きた。基本的に朝は早く起きる。それが晴れの日でも雨の日でも、予定があっても予定がなくても。今日は快晴で、予定があった。窓を開けると、部屋の中の空気と外気が入れ換わるのが見えるようだった。気持ちのいい、朝だ。
下の階で顔を洗い、リビングに行くと父親が出かけるところだった。彼に労いの言葉をかけてやると、彼は嬉しそうに僕の背中を叩いて家を出ていった。彼は一年中元気だ。あんな父親からどうして僕のような子どもが生まれたのか、いつも不思議に思う。
食卓には既に僕の為の朝食が用意されていた。母親に「いただきます」と言って、食卓についてもう一度食材に「いただきます」と言ってから味噌汁を飲んだ。母の作る味噌汁が僕は結構好きだ。
僕が料理を堪能していると、洗いものを終えた母が僕の正面に座ってホットコーヒーを飲み始めた。
「ねえ、あんたさ」
僕をあんたと呼ぶのは、今のところ母と親友さんだけだ。
「何?」
「彼女出来たでしょ」
「…………は?」
朝一番で何を言いだすんだこの人は。
「違うの、じゃあ好きな子か。どっちにしろ今度連れてきなさいよ」
「どっちでもないし、連れてこないよ」
「ふーん、私はてっきり」
何を理由に、と思ったけれど親の勘というものが働いているのかもしれない。的外れだけれども。
「じゃあただの友達か」
それも違う。
「なんでもいいんだけどね。初めてあんたをちゃんと見てくれる人が現れて私は嬉しい」
「…………はい?」
「あんた、私があんたの嘘に気づいてないと思ってたの? 母親舐めんな」
僕は感謝しながらも完全に舐め切っていた母親の顔をまじまじと見る。僕とは違って目に強い光の宿った母は、本当に嬉しそうだった。まったく、恐れ入る。僕は唇の端だけで笑った。母はもうコーヒーを飲みながらテレビを見ていた。
彼女との約束は午後だったので、午前中は本を読んで過ごした。彼女から借りていた『星の王子さま』の順番はまだ来ていない。少し前に買ったミステリー小説をベッドに寝転がって読んだ。
時間はすぐに過ぎ去って、お昼前に僕は簡素な洋服に着替えて家を出た。本屋に行きたかったので、約束の時間よりだいぶ早めに駅に着き、近くの大きな本屋に入る。
しばらくうろうろとして一冊本を買い、待ち合わせ場所のカフェに行くことにした。駅から少しだけ歩いた場所にあるそこの店内は平日ということで比較的空いていた。アイスコーヒーを注文して窓際の席に陣取る。約束の時間までは、まだ一時間があった。
店内は冷房が効いていたけれど、体内は熱を持っていた。アイスコーヒーを飲むとコーヒーが体中に行き渡っていくような快感を味わえた。本当にそんなことになったら僕が先に死ぬのであくまで想像力の問題だ。
クーラーとコーヒーの力を借りて汗をひかせるとお腹がくうっと鳴った。健康的な生活のおかげでお昼の的確な時間に空腹を感じた。何か食べようかとも一瞬頭をよぎったが、彼女と昼食を共にする約束をしていたのでやめた。ここでお腹を落ち着かせたところにまた食べ放題にでも連れていかれては悔しい思いをする。彼女には、そういうところがある。
僕は、二日連続で不本意な昼食に付き合わされたことを思い出して笑う。もう、ひと月以上前のことか。
僕は大人しく彼女を待つことにした。テーブルの上に読みかけの文庫本を出す。
当然、読もうと思ったのだけれど、ふいに僕は何故だか外を眺めていた。何故なのか、分からなかった。理由を求められれば、なんとなくとしか言いようがない。僕らしくない、まるで彼女みたいな能天気な理由。
強い日差しの中、様々な人が行きかっている。スーツ姿の男性は、随分と暑そうだ。何故スーツを脱がないのだろう。タンクトップを着た若い女性は足取り軽やかに駅の方に向かっている。楽しい予定があるのだろう。高校生くらいの男女二人組は……。
考えていて僕は、はっとした。
窓の外を歩いている彼らは、きっと生涯僕とは関係を持たないであろうまごうことなき、他人だ。
他人なのに、僕は彼らについて考えていた。こんなことは、以前ならなかったことだ。
ずっと、周りの誰にも興味を持たないと思っていたのに。いや、違う。興味を持たないでおこうと思っていたのに。その、僕が。
思わず、僕は一人で笑ってしまった。そうか僕は、こんなにも変わっていたのか。面白くて、笑ってしまった。
今日会うはずの、彼女の顔が、浮かぶ。
変えられたんだ。
間違いなく変えられた。
彼女と出会ったあの日、僕の人間性も日常も死生観も変えられることになっていた。
ああそうか、彼女に言わせれば、僕は今までの選択の中で自分から変わることを選んだのだろう。
僕は置き去りにされた文庫本を手に取ることを選んだ。文庫本を開くことを選んだ。彼女と会話することを選んだ。彼女に図書委員の仕事を教えることを選んだ。彼女の誘いにのることを選んだ。彼女と食事することを選んだ。彼女と並んで歩くことを選んだ。彼女と旅行することを選んだ。彼女の行きたいところに行くことを選んだ。彼女と同じ部屋で寝ることを選んだ。真実を選んだ。挑戦を選んだ。彼女と同じベッドで寝ることを選んだ。彼女の残した朝食を食べてあげることを選んだ。彼女と一緒に大道芸人を見ることを選んだ。彼女に手品をすすめることを選んだ。彼女にウルトラマンを買ってあげることを選んだ。お土産を選んだ。旅行は楽しかったと答えることを選んだ。彼女の家に行くことを選んだ。将棋をすることを選んだ。彼女をひきはがすことを選んだ。彼女を押し倒すことを選んだ。学級委員の彼を傷つけることを選んだ。彼にやられることを選んだ。彼女と仲直りすることを選んだ。彼女のお見舞いに行くことを選んだ。お土産を選んだ。彼女に勉強を教えることを選んだ。帰るタイミングを選んだ。親友さんから逃げることを選んだ。手品を見ることを選んだ。真実か挑戦を選んだ。質問を選んだ。彼女の腕から逃げないことを選んだ。彼女を問い詰めることを選んだ。彼女と笑うことを選んだ。彼女を抱きしめることを選んだ。何度も、そうすることを選んだ。
違う選択も出来たはずなのに、僕は紛れもない僕自身の意思で選び、ここにいるんだ。以前とは違う僕として、ここにいる。
そうか誰も、僕すらも本当は草舟なんかじゃない。流されるのも流されないのも、僕らは選べる。
それを教えてくれたのは、紛れもない彼女だ。もうすぐ死ぬはずなのに、誰よりも前を見て、自分の人生を自分のものにしようとする彼女。世界を愛し、人を愛し、自分を愛している彼女。
改めて思う。僕は君に……。
と、ポケットの中の携帯電話が震えた。
『今お家に帰りましたー! ちょっとだけ遅れちゃうかも、ごめんね(汗)可愛い格好していってあげるからさ!(笑)』
メールを見て、僕は少し考えて、返信をする。
『退院おめでとう。今、君のことを考えていたよ』
冗談めかして送ったメールに、すぐに返事が来た。
『珍しく嬉しいことを言うじゃない! どうしたの、病気?[ウインクしている顔]』
僕は間を置いて、返す。
『君とは違って健康体だよ』
『ひどい! 私を傷つけたね! 罰として私を褒めなさい!』
『思い浮かばないんだけど、僕に問題があるのか君に問題があるのか』
『ひゃくぱー君だね。ほら、さっさと』
携帯電話をテーブルの上に置いて、腕を組み、僕は考える。彼女を褒めること。褒める点なんて、本当は山のようにある。きっと携帯電話のメモリに収まりきらないくらいに。
僕は、彼女と出会って、本当にたくさんのことを学んだ。今まで知らなったことを彼女は教えてくれた。
こういうメールのやりとりも教わったことの一つだ。人との会話の楽しさを僕は初めて知って、だから彼女から面白い反応が返って来そうな言葉を選んだ。
そもそも彼女の凄いところは、彼女の人間的魅力の多くが、彼女の余命とはまるで関係のないものであるということだ。きっと、彼女はずっとああだった。そりゃあ少しずつ思想は練り固められ、言葉は豊かさを増したろうけど、でも根幹はきっと彼女が一年後に死のうが死ぬまいが関係がなかったんだろう。
彼女は、彼女のままで凄い。それが、僕は本当に凄いと思う。
白状しよう、何かを教わる度に、僕は彼女を凄いと思っていた。僕とは正反対の人間。臆病で自己に閉じこもることしかしてこなかった僕には出来ないことを平気で言ってのけ、やってのける人間。
僕は携帯電話を手に持つ。
君は、本当に凄い人だ。
ずっと思っていた。でも、それを明確な言葉として捕えることが出来なかった。
だけれど、あの時分かったんだ。
彼女が、僕に生きてるということの意味を教えてくれたあの時に。
僕の心は、彼女で埋め尽くされた。
僕は君に…………。
「僕は、本当は君になりたかった」
人を認められる人間に、人に認められる人間に。
人を愛せる人間に、人に愛される人間に。
言葉にすると、僕の心にあまりにぴったりで沁み込んでいくのが分かった。自然に口角が上がってしまった。
僕はどうかすれば君になれただろうか。
僕はどうかすれば君になれるのだろうか。
どうすれば。
はて、と気づく。確かそんな意味の慣用句があったような。
考えてから、思い出し、僕はそれを彼女に贈ることにした。
『君の爪の垢を煎じて飲みたい』
打ち込むだけ打ち込んで、すぐに消した。これでは面白くない気がした。彼女を喜ばせるのに、もっと適した言葉が、存在するような気がした。
今一度考えていると、記憶の片隅、いや、中央かも、そこから言葉が浮き上がってきた。
僕はその言葉を見つけて、とても嬉しい気分になった。勝手に得意気にすらなった。
彼女に贈るのに、これ以上にぴったりな言葉はない。
僕は、渾身の言葉を、彼女の携帯電話に向かって送信した。
僕は……。
『君の膵臓を食べたい』
携帯電話をテーブルの上に置いて、僕は彼女の返信を楽しみに待った。誰かの反応を楽しみにするなんて、きっと数ヶ月前の僕なら信じられないことだろうけれど。数ヶ月前の僕が、今の僕を選んだのだから、文句は言わせない。
じっと彼女の返信を待った。
じっと。
なのに、彼女からの返信は、まるで来なかった。
時間だけが過ぎ、僕の空腹だけが増していった。
待ち合わせの時間を過ぎると、今度は彼女が来てからの反応を楽しみにするようにした。
ところが、彼女が来ることもまたなかった。
三十分までは特に気にもせずに待った。
一時間にも二時間にもなると、流石に心配になってそわそわとし始めた。
三時間が経って、彼女に初めて電話をしてみた。彼女は出なかった。
四時間が経って、外の景色が夕方になった。僕は店を出た。何かがあったのは分かったけれど、何があったのかは分からなかった。漠然とした不安を持ったけれど、不安を掻き消す術はなくて、僕は彼女にメールをし、仕方なく家に帰ることにした。
帰宅してひょっとすると彼女は両親に強制的にどこかに連れていかれたのでは、と考えた。そうしなければ、心に張り付いた恐怖を拭いされなかった。
ずっとそわそわとしていた僕。思えばあの時で世界中の時間が止まってしまっていればよかった。
そう思ったのは、僕が夕食を前にしながら不安でお腹を一杯にしている時、テレビを見ていてだった。
僕は、その時初めて、彼女がどうして現れなかったのかを知った。
彼女は嘘をついた。
僕も嘘をついた。
彼女は、僕に死ぬ時を教えるという約束をやぶった。
僕は、彼女に借りていたものを必ず返すという約束をやぶった。
僕と彼女が会うことは、もう二度と出来なくなった。
ニュースを見た。
クラスメイト山内桜良は、住宅街の路地で倒れているところを付近の住民に発見された。
発見後すぐさま緊急搬送されたが、懸命の治療もむなしく、彼女は息を引き取った。
ニュース番組のキャスターが無感動に事実だけを読み上げた。
僕は言い訳程度に持っていた箸を遠慮なく床に落としてしまった。
発見された時、彼女の胸には深々と市販の出刃包丁が刺さっていた。
彼女は、以前から世間を騒がせていた通り魔事件に巻き込まれた。
彼女が死んだ。
甘えていた。
この期に及んで僕はまだ甘えていたんだ。
彼女に残された一年という時間に甘えていた。
ひょっとすると彼女ですらがそうだったのかもしれない。
少なくとも僕は、誰しもの明日が保証されていないという事実をはきちがえていた。
僕は、残り時間の少ない彼女には明日があるものだと当然のように思っていた。
まだ時間のある僕の明日は分からないけれど、もう時間のない彼女の明日は約束されていると思っていた。
なんて馬鹿げた理屈だ。
僕は、残り少ない彼女の命だけは世界が甘やかしてくれると信じきっていた。
もちろん、そんなことはない。なかった。
世界は、差別をしない。
まるで健康体の僕のような人間にも、病を患ったもうすぐ死んでしまう彼女にも平等に攻撃の手を緩めない。
僕らは間違えた。馬鹿だった。
でも、誰が間違えていた僕らを揶揄出来るだろう。
最終回の決まったドラマは、最終回までは終わらない。
打ち切りの決まった漫画は、打ち切りまでは終わらない。
最終章の予告があった映画は、最終章があるまで終わらない。
皆、それを信じて生きてきたはずだ。そう教えられてきたはずだ。
僕も、そう思っていた。
小説は、最後のページまで終わらないと、信じていた。
彼女は笑うだろうか、小説の読み過ぎだと。
笑われても、構わない。
最後まで読みたかった。読むつもりだったのに。
残り数十ページを白紙にしたまま終わってしまった彼女の物語。
前振りも、伏線も、ミスリードもほったらかしで。
もう何も知ることは出来ない。
彼女が仕掛けたロープのいたずらの行く末も。
彼女のとっておきの手品のネタも。
彼女が本当は僕をどう思っていたのかも。
知ることはできない。
…………そう思っていた。
彼女が死んでから、僕はそう諦めてしまっていた。
でもそれが真実ではないと、後に僕は気がつく。
葬儀が終わって彼女がすっかり骨になってしまってからも、僕は彼女の家には行かなかった。
毎日自室にこもって、本を読んで過ごした。
結局、僕が彼女の家に行く勇気と理由を見つけるのには二週間ほどの時間が必要だった。
夏休みが終わる直前に、僕は思い出したのだった。
彼女の物語の残り数ページ、それを読めるかもしれない唯一の方法があることを。
僕と彼女の始まりとも言えるそれ。
『共病文庫』を、読まなければならない。
雨が降っていた。もうすぐ夏休みも終わるというのに、これでは誰も残った宿題をやる気にならないだろう。
起きてすぐそう思った。もう十四度目の、彼女がこの世界にいない朝だった。
ちなみに、僕は夏休みの宿題は速やかに終わらせてしまうタイプなので、今までの人生、夏休み終了の直前に慌てふためいた経験はない。
一階に下りて顔を洗っていると、出勤前の父親が洗面所にやってきて身だしなみのチェックをし始めた。軽く挨拶を交わして洗面所を出ようとすると父は僕の背中を叩いた。何か意味があるのだろうと思ったけれど、考えるのが面倒だった。
キッチンに立つ母親に挨拶をし、食卓につく。いつもの朝ごはんが用意されている。僕は手を合わせて味噌汁を飲んだ。母の味噌汁は、いつだって美味しい。
食事をとっていると、母が芳しいホットコーヒー入りのカップを持って食卓にやって来た。一瞥すると、彼女は僕を見ていた。
「あんた、今日出かけるのよね」
「うん、お昼過ぎてからね」
「はい、これ」
何気なく母が差し出してきたのは、白い封筒だった。受け取って中を見る。一万円札が一枚入っていた。
驚いて母を見る。
「これ……」
「ちゃんと、お別れをしてきなさい」
それだけ言うと、母はテレビに目を向けてくだらない芸人の一言に笑った。僕は無言で朝ごはんを食べ終えてから、白い封筒を持って自室に戻った。母は何も言わなかった。
お昼まで自室で過ごしてから、僕は出かける為に学生服に着替えた。なんとなく、私服で行くよりは学生服がいいという噂を耳にしていたのと、あちらのご家族に怪しまれては叶わないという理由があったからだ。
一階の洗面所で寝癖を直した。母はもう仕事に出ていた。
自分の部屋で必要なものを鞄に詰めた。母からもらったお金、携帯電話、『星の王子さま』。借りた分のお金はまだ返せない。
家の玄関を出ると本降りの雨が地面から跳ね返って制服のズボンにさっそくいくつかの水玉を作った。傘を差さなければならないので、自転車ではなく歩きで彼女の家に向かう。
平日の真っ昼間、大粒の雨、公道の人通りは少なかった。学校までの道のりを僕は静かに歩いた。
学校近くのコンビニに寄って、香典用の袋を買った。幸い、店内に買ったものを食べたりする為のテーブルがあったのでそこで袋の中にお金を入れる作業をした。
学校からしばらく歩いて住宅地に入った。
ああ、そうか。住宅地の一角、僕は、不躾にも思う。
ここら辺のどこかで彼女は殺された。今日も人通りはまるでない。あの日もそうだったのだろう。彼女は刺された。恨みを買った誰かや、彼女の運命に同情した誰かにではなく、顔も名前も知らない、どこかの誰かに。
不思議と、罪悪感はなかった。もしあの日僕と約束をしていなければ彼女は死ななかっただろうか、とか、そういった後悔はしても意味がないし、もはやそういう問題ではないというのを、理解していた。
冷静な僕を、薄情だと思うだろうか。誰が?
僕は、悲しんでいる。
悲しんでいるけれど、それが僕を壊したりはしなかった。彼女を失ったこと、当然に悲しい。でも、僕以上に悲しんでいる人がたくさんいるはずだ。これから会うご家族もそう、親友さんもそう、学級委員の彼もそうかもしれない。そう考えると、僕はどうしても悲しみを素直に受け止めることが出来なかった。
それに、取り乱しても彼女は帰ってこない。当然の結論が、僕の精神をがっちりと繋ぎとめていた。
雨の中、歩く。僕が殴られた場所を通り過ぎる。
彼女の家に行くにあたって、あまり緊張はしていなかった。留守だったらどうしようか、その程度しか考えなかった。
三度目、彼女の家の前について、僕は躊躇なくインターフォンを押した。少し時間が経って応答があった。よかった。
『……どちらさまですか?』
くぐもった女性の声だった。
僕は名字を名乗り、桜良さんのクラスメイトです、と伝えた。女性は『ああ……』と言った後、少し黙り、やがて『ちょっと待っててください』とあって、インターフォンは切られた。
雨の中待っていると、痩せた女性が出てきた。どうやら彼女のお母さんのようだ。顔色が悪いのをさしひくと、彼女によく似ていた。挨拶をすると、とてもぎこちない笑顔を浮かべて、お母さんは僕を迎え入れてくれた。傘を畳んで、促されるまま玄関から家に入る。
玄関のドアが閉まってから、僕は頭を下げた。
「突然おしかけてすみません。事情があって、お通夜もお葬式にも顔を出せなかったものですから、せめてお線香だけでもあげさせていただけないかと」
嘘の入り混じった僕の言葉を受けて、お母さんはまたぎこちない笑顔を浮かべた。
「大丈夫よ今は私しかいないから。きっと桜良も喜ぶわ」
その喜ぶ彼女はどこにいるというのだろう、思ったけれど、もちろん口には出さなかった。
靴を脱いで、上がらせてもらうと気の所為だろうと思うけれど家の中が前に来た時よりも広く、冷たく感じた。
僕は、以前来た時には入らなかったリビングに通された。
「先にお参りをするかしら」
僕が頷くと、お母さんはリビングの隣にある畳みの部屋に僕を案内した。そこで見た光景に、僕は一瞬心と体が大きく揺らぐのを感じたけれど、なんとか踏み止まって不自然ではないと思われる歩みで、様々なものが並べられている木製棚の前に立った。
お母さんは先に膝を折って、棚の下の方からマッチ等を取り出して、線香を刺す奴なんかが並ぶ台の上のろうそくに火をつけた。
「桜良、お友達が来てくれたわ」
棚に置かれた遺影に向かって小さな声で言ったお母さんの声は、どこにも届かずに、ただ空虚な膜となって僕の耳に届いた。
促され、僕は置かれた座布団の上に正座する。
目の前に置かれた彼女の遺影と嫌が応にも向き合ってしまう。
生前の彼女そのままの、今にもあの笑い声が聞こえてきそうな笑顔の写真。
駄目だ……。
僕は写真から目を逸らしてよく名前の分からない道具で高い音を鳴らし、手を合わせた。どうしたことだろうか、祈りたいことなんて、何も考えられなかった。
お参りが終わってから、隣に正座していたお母さんの方に向き直った。一応座布団からは下りる。お母さんは、疲れきった顔で正面に来た僕に頬笑みかけた。
「桜良さんからお借りしていたものがあります。それを、お母さんにお渡ししても、いいですか?」
「あの子から……ええ、何かしら」
鞄の中から文庫本の『星の王子さま』を取り出し、お母さんに手渡した。心当たりがあったみたいで、お母さんは受け取ってから一度胸に抱いて彼女の遺影の横にお供え物みたいに本を置いた。
「……桜良と、仲良くしてくれて、本当にありがとう」
恭しく頭を下げられて、僕は戸惑う。
「いえ、こちらこそ、生前、桜良さんには本当にお世話になりました。彼女はいつも元気で、一緒にいるとこっちまで明るくなってしまうようでした」
「……そうね、元気だった」
お母さんの言い淀みに、僕はそういえば家族以外の人間は彼女の膵臓については知らないことになっていたのだと思い至った。
隠し通そうか、そう思ったけれど、隠したままでは本来の目的を切り出せないことに気がつく。
正直、今更になってご家族とこんな話をするのはいかがなものかと止める良心的な僕もいたけれど、そんな僕はすぐに打ちのめしてやった。
「あの……お話があるんです」
「ん、何?」
お母さんは優しく悲しい顔をする。僕は、再度良心を打ち倒す。
「実は……僕は、彼女の病気のことを知っていました」
「え……」
お母さんは、予想通りの驚いた顔をした。
「彼女から聞いていました。だから、今回のことは本当に、思いもかけないことで」
驚いたまま、お母さんは無言で手を口元に当てた。やはり、彼女は病気について誰かに喋っていることを、家族に伝えてなかった。そうだろうとは思っていた。何故なら彼女はあの病室で、僕と親友さんをはち合わせはしたくせに、僕と家族をはち合わせは絶対にしなかった。されたら困るのは僕だったけれども。
「実は、彼女と病院でたまたま会ったことがあるんです。その時に、彼女から聞きました。どうして教えてくれたのかは、分かりませんが」
黙って言葉を聞いてくれるのに甘えて、僕は続けた。
「彼女は、僕以外のクラスメイトには秘密にしていました。だから、今回、こんなお話を突然して、驚かせてしまって、すみません」
僕は、今日訪れた目的の核心を突く。
「今日、来させていただいたのも、実はお参り以外に、もう一つお願いがあって来ました。彼女が、病気になってから日記のようにつけていた本を見せていただきたいんです」
「…………」
「『共病文庫』を」
その言葉が、引き金だった。
お母さんは、山内桜良のお母さんは、口元に手を当てたまま両方の目から涙を流し始めた。静かに、静かに、声を押し殺すように、お母さんは泣いていた。
涙の意味が、僕には分からなかった。悲しみには違いないのだろうけれど、僕が彼女の病気を知っているという事実のどこに更なる悲しみを誘発する作用があったのか。僕には分からなかった。だから、慰める言葉も見つからず、黙って僕は待った。
やがて涙が乾ききらぬ間に、お母さんは僕の目をじっとみて、それからゆっくりと涙の理由を話してくれた。
「君、だったのね……」
どういう意味だろう。
「よかった……よかった…………来てくれて……本当によかった」
ますます意味が分からない。僕は呆然と涙の行方を見守った。
「ちょっと待ってて……」
お母さんは立ち上がり、どこか別の場所に消えていった。取り残された僕は、お母さんの涙と言葉の意味を考える。考えるも、何も思い浮かばなかった。
僕が何かのアイデアを出す前に、お母さんは部屋に戻ってきた。手には、見覚えのある文庫本。
「これ、よね……」
涙ながらに、お母さんは文庫本をそっと床に置いて僕の方へと向けた。それは確かに彼女が肌身離さず持っていた本。たった一度を覗いて、彼女が中身を隠し続けた本。
「はい、『共病文庫』です。彼女が、病気になってからつけ始めた日記のようなものだと聞いてます。生前、一度も中身を見たことはなかったのですが、彼女の死後には皆に公開すると、本人から聞いていました。そのことについて、何か伝え聞いていますか?」
こくり、こくり、無言でお母さんは何度も頷いた。その度に、畳みや淡い色のスカートに涙が落ちた。
僕はきちんと頭を下げてお願いをする。
「見せて、いただけませんか」
「……ええ…………もちろん、もちろんよ……」
「……ありがとうございます」
「桜良は、あなたに向けてこれを残したんだもの」
本に伸ばしかけた僕の手が、止まった。意思ならぬところで、反射的に腕を止めて、お母さんの顔を見た。
「…………え?」
お母さんは、一層涙の色を強めて話し始めた。
「桜良から……聞いてた…………。この日記は……あの子が死んだら、とある人に渡してほしいって……。たった一人……あの子の病気のことを知ってる…………『共病文庫』っていう名前を知ってる人が……いるからって……」
一層色の強まった涙が、空気に溶けていく。僕は、聞いていることしか出来なかった。横で、笑顔の彼女が、僕らを見ていた。
「その人が…………その人は……臆病だから……お葬式には来てくれないかもしれない、でも、絶対これを取りに来てくれるから……。それまでは……家族以外の誰にも見せないでって……はっきり、あの子の言葉、覚えてるわ……本当は、もっと先のことだった……」
いよいよ感極まったのか、お母さんは両手で顔を覆って泣き始めた。僕は呆然とするばかりだった。聞いていた話と、違う。彼女が、僕に残した?
彼女との記憶が、脳内をすり抜けていった。
お母さんの涙の隙間から、声が漏れ出てくる。
「ありがとう……本当にありがとう…………あなたのおかげで………あの子は…………。あの子は……あなたを…………」
僕は、耐えられなくなって目の前に置かれた文庫本を手に取った。誰も、それを止めなかった。
最初の数日は、中学生だった彼女の独白から始まった。
『20××年 11月 29日
あんまり暗いことは書きたくないんだけど、こういうことも書いておかないとね。病気に罹ったって知った時なんだけど、頭が真っ白になって、どうすればいいのかも分からないし、不安になって泣いたり、怒って家族にやつあたりしたりとか、色々なことをした。まずはそのことを家族に謝りたいです。ごめんなさい。そこから私が落ち着くまでずっと見守ってくれてありがとう。…………』
『20××年 12月 04日
最近寒い。病気になったって分かってから色んなことを考えたんだけど。その一つとして、病気になった自分の運命を恨まないって決めたっていうのがある。だから、闘病じゃなくて共病文庫っていう名前にした。…………』
数日置きに、彼女の日常で起きたことが記録されている。これが数年分。とは言っても、この期間の記述は短いものばかりだった。僕の知りたいこととは、あまり関係がないと思ったので、今は斜め読みで済ますことにした。気になった記述もちらほらはあった。
『20××年 10月 12日
新しく彼氏が出来た。不思議な気分。彼ともしも長く続いたら、病気のことも話さなくちゃいけないかな。やだな』
『20××年 01月 03日
別れた。三が日に別れるなんて、縁起が悪いんじゃないかな。恭子が慰めてくれた。』
『20××年 01月 20日
恭子にもいつか病気のことを話さなくちゃいけない。でもそれは本当に最後のことでいい。私はずっと恭子と楽しく遊んでいたいから。もし恭子がこれを読んだ時の為に、ここで黙っていたことを謝っておくね。死ぬって言ってなくてごめんなさい。』
中学を卒業して、彼女は高校に入学し、親友さんと一緒に精一杯の青春を謳歌する。一年が過ぎて、二年生になり、死というものがそこまで来ていると感じながらも明るく生きようとする彼女の日常は、その一言一言が内臓に深く沈み込んでいった。
『20××年 06月 15日
だんだん高校生らしくなってきたかな、私。部活に入ろうかどうか散々迷ったんだけど結局入らないことにした。文化系もいくつか考えたんだけど、家族や友達との時間を大切にする為ってことで帰宅部を選んだ。恭子は相変わらずバレーで毎日汗だくになってる。頑張れ恭子!』
『20××年 03月 12日
桜が散るのを見てせつなくなるって、よく言うけど、私は咲くのを見てもせつなくなる。あと何回この桜を見れるなって計算しちゃうから。だけれどもいいこともある。きっと私が見てる桜は同年代の誰が見る桜よりも綺麗に見えるはずだ。……』
『20××年 04月 03日
二年生になった! 恭子と同じクラスになったー! よかったー! あと他にも陽菜とか里香とか、男子だと隆弘くんも一緒だった。運がいいな。まあ膵臓の運を全てそっちに回してると思えば妥当かな。そういえば……』
そして青春の中、ある日彼女は、僕と出会う。
互いを知ったのはもっとずっと前だったけれど、出会ったのは、あの日だ。
『20××年 04月 22日
今日、家族以外の人に初めて病気のことを喋った。相手はクラスメイトの●●くん。病院でたまたまこの共病文庫を拾って、読まれちゃったもんだから、もういいや! ってなって喋っちゃった。私も誰かに聞いてほしかったのかも。あとは、●●くんは友達も少なそうだし自分の心の中に留めておいてくれそうだと思った。実は前から●●くんのことは気になってた。一年生の頃も実は同じクラスにいたんだけど、彼は覚えてるかな? ずっと本を読んでるし、まるでじっと自分と戦ってるみたい。それに今日話してみると凄く面白くて、私はすぐ彼を気に入った。単純。●●くんは他の人とはちょっと違う感じがする。もっと仲良くなりたい。秘密も知られたことだし。』
僕の名前が、ボールペンで丸く塗りつぶされていた。僕が、名前を出さないでほしいと言ったから、塗りつぶしてくれたのかもしれない。
ここから彼女の時系列が僕と重なり始める。大体記述は三日ごとにされていた。ほとんどは、他愛もない内容だった。
『20××年 04月 24日
図書委員になった。ここで言っても仕方がないけど、委員会の人数が自由ってどんなシステムだよ! ●●くんに話しかけると、困った顔をしていた。でも、仕事内容とかはちゃんと教えてくれるみたいだ。色々と話を聞こうと思う』
『20××年 06月 05日
小テストは満点だった。流石私! 「流石私」ってなんだか花の名前みたいに見えない? 最近心が軽い気がする。たまーに、私が死ぬことについて冗談を言うと、●●くんは顔をしかめて面白いことを言う。彼の人となりが、少しずつだけど見えてきた。彼はやっぱり、自分と戦ってる』
『20××年 06月 30日
暑い。暑いのも嫌いじゃない。汗をかくと生きてるって感じがする。体育はバスケだった。それより●●くんに共病文庫に名前を出すなと言われた。彼の真似をして憎まれ口を叩いた私だけれど、彼とは違って根が素直なのでたまには彼の主張を受け止めてあげよう。ここから、彼の名前は出さないでおいてあげる。』
やはりそうだった。読み進めていくと、この日以降本当に僕の名前は出てこなかった。もう一つ理解する。中身がこうなっていたから、お母さんは誰が彼女の病気を知っていたのか特定出来なかったのだろう。ご家族の心労を考えると、余計なことを言ったかもしれない。続きを読んで、その思いはより強くなった。
『20××年 07月 08日
今日、時間をしたいことに使った方がいいと助言を受けた。何かあるかなぁと考えたら助言をくれた人と遊びにでかけたい、のと、焼き肉が食べたくなったので、日曜日にその約束をした。…………』
『20××年 07月 11日
焼き肉美味しかった! そして今日は楽しかった。詳しくは掛けないのが惜しい。一つだけ言えるのは、ホルモンの美味しさを私が死ぬまでに叩きこんでやろうと思う。』
『20××年 07月 12日
今日は予定を急きょ作って甘い物をたらふく食べにいった。朝学校に行ってから思いついたので、どうやってその予定に巻き込んでやるかを考えて計画を練り、実行に移した。ずっと考えていたのでテストはあまり出来ていないかもしれない。』
僕の名前を出さなくなると、彼女が僕について思っていることの記述も一気になくなった。失敗だった。
この頃になると、彼女の記述は毎日のものとなっているようだった。
『20××年 07月 13日
今日からやりたいことを思いついたらここに書いて行くことにしよう。
・旅行に行きたい(男の子と)
・美味しいホルモンを食べたい
・美味しいラーメン食べたい
いいことを思いついた。』
『20××年 07月 15日
・恋人じゃない男の子といけないことをしたい(笑)
旅行のことは帰ってから書く』
『20××年 07月 20日
テストの結果が思ってたより良かった! 旅行も楽しかったし恭子も許してくれたし、私の夏休みはかなりよい感じに始まりそうです。と思ったらまだ補習があった。ちくしょう』
『20××年 07月 21日
とても悪くて、良い日だった。少しだけ、一人で泣いた。今日は泣いてばかりだ。』
…………あの日のことだろう。あの、僕達が間違ったあの日。
彼女が一人で泣いていたことは、意外で、肺の辺りが痛くなった。
『20××年 07月 22日
病院にいる。二週間くらい入院することになった何やら数値がおかしいとかで。少し、いやここで嘘をつくのはやめよう。かなり不安。だけど、周りには見栄を張ってる。嘘をついたんじゃないよ。見栄を張っただけ』
『20××年 07月 24日
不安を吹っ飛ばそうと思って踊っているところを見られた。恥ずかしいのと、来てくれてほっとしたのとで涙が出てきたから、必死に隠した。その後は楽しく過ごした。心が軽くなった。…………』
『20××年 07月 27日
嬉しいことがあったけれど、そのことについてはルール上書けない。だから手品のことを書こうかな。…………』
『20××年 07月 28日
寿命が半分に縮まった。』
並んだ文字を、黙読していた僕は、絶句した。
『20××年 07月 31日
嘘をついた。初めてじゃないかな。はっきりと嘘をついたのは。何かあったのかと訊かれて、また泣きそうになった。話してしまいそうになった。でも駄目だと思って言わなかった。持って来てくれる日常を手放したくなかった。私は、弱い。入院がのびたことはちゃんと伝えた。真実を、いつ伝えよう』
『20××年 08月 03日
私の心配をしてくれてた。また嘘をついた。あんなにほっとした顔をされたらさ、伝えられないじゃん。でも、嬉しかった。生きてて、こんなに嬉しいことがあるのかと思うくらい。あんなに必要とされてるって知らなかったから。嬉しくて嬉しくて、一人になった後たくさん泣いちゃった。こうやって書いてるのも、死んだ後に私の本当の方の気持ちも知っておいてほしいからであって、やっぱり私は弱い。ばれなかったとは、思う。私、意外とポーカー強い』
『20××年 08月 04日
ちょっと最近の私は気弱すぎたみたい! もう暗いこと書くのやめる! ずっと前に決めたことを忘れてた! もしかしたら、ここ数日の日記は後で消すかも』
『20××年 08月 07日
実は入院した時からなんだけど出来るだけ、とある二人をはち合わさせるようにしてる。仲良くしてほしいんだけど、なかなか難しいみたい(笑)私が死ぬまでには二人が仲良くなりますように。最近大きな手品を練習してる! 披露するのが楽しみ。…………』
『20××年 08月 10日
退院してからの予定を決めた。海に行く。まずはそれくらいがちょうどいいかなって思う。最近の私達はちょっとペースダウンしないと行くところまで行きそうで(笑)それもいいんだけど、徐々にね。手品、難しい。…………』
『20××年 08年 13日
ここに来て今夏初のスイカを食べた。メロンよりスイカが好き。子どもの頃からの好みってあんまり変わらないよねぇ。と言ってもホルモンは別にずっと好きなわけじゃない。ミノをくちゃくちゃ言わせる子どもなんてすごく嫌だ(笑)お母さんにこの本についてのルール説明をした。もう一度書く。この本はある人が取りにくるまで絶対家族以外に見せない。ヒントを恭子とかから聞きだすのも駄目。…………』
『20××年 08月 16日
もうすぐ退院! 二人が最後のお見舞いに来てくれた。両方からいいかげんにしてほしいと注意を受けていたので時間をずらしてあげた(笑)
・一度でもいいから、三人で仲良くご飯とか食べたい!』
『20××年 08月 18日
明日退院だああああああああ!
残った時間を謳歌するぞー!
いえええええええええええい!』
彼女の日記は、そこで途絶えた。
なんていうことだろう。
僕の不安は正しかったんだ。
彼女は、何かあったのに、それをひた隠しにしていた。
内臓からいつかみたいに何かがせり上がってくる。落ちつけ、と僕は自分をなだめる。どうしようもなかったし、今更どうにもならないと言い訳をして自分を必死に保つ。
深呼吸をしながら、僕は、今考えるべきを考える。
僕の望むものは、『共病文庫』の中には見つからなかった。彼女が僕を、なんだと思っていたのかという明確な答えが、この本の中にはなかった。大切に思ってくれていたのは分かった、でも、そんなのは知っていたことだ。 僕は、彼女が僕をどう呼んでいたのかが知りたかったのに。
僕は、少なからず落胆した。
目を閉じて、呼吸を落ち着かせる。期せずして、黙とうのようになってしまった。
本を閉じると、前では彼女のお母さんがじっと待ってくれていた。僕は、本を静かに床に置いて、差し出した。
「ありがとうございました……」
「…………まだ」
「……………………え」
お母さんは、『共病文庫』を受け取らなかった。彼女にそっくりな目を真っ赤にして。しっかりと僕の目を見た。
「桜良が、あなたに本当に読んでほしかったのは、きっとまだ先」
言われ、僕は慌ててパラパラと白紙のままのページをめくった。
再び記述が始まったのは、文庫本の最後の方。
人間性が浮かび上がるような、元気のよい、彼女の文字だった。
僕は、息が止まるかと思った。
『遺書(下書き)(何回も書きなおす)
はいけい、皆さん
これは、私の遺書です。
これが誰かの目に触れているということは、私はもうこの世界にはいないのでしょうね。(ありきたりすぎるかな?)
まず、ほとんどの人達に病気のことを黙っていたのを謝らせてください。本当にごめんなさい。
わがままだけど、私は、皆と普通に生活していっぱい遊んでいっぱい笑いたかったの。だから、黙ったまま死んじゃいました。
もしかしたら私に何かを伝えたいと思ってた人もいるかもしれない。もしそうだったら。私以外の人には、伝えたいことを全て伝えるようにしてください。好きだとか嫌いだとか、そういう全てを、伝えるようにしてほしい。じゃないと、私みたいにいつの間にか死んじゃうかもしれないよ。私にはもう間に合わないけど、他の人にはまだ間に合うから、伝えてあげてください。
学校の皆(何人か個別に書くかな?)、皆と一緒に勉強出来て本当に楽しかった。文化祭も体育祭も私は本気で楽しかったけど、むしろ私は、日常生活で皆が一緒にいてくれることが楽しかった。皆がこれから色んな場所で、色んなことで活躍するんだろうことが、楽しみで、見れないのが悔しい。思い出話をいーっぱい作って、天国で私に話してください。だから皆、悪いことしちゃ駄目だよ(笑)私のことを好きでいてくれた人、私のことを嫌いだった人、ありがとう。
お父さん、お母さん、お兄ちゃん。(これこそ個別なんじゃない?)。今まで、本当にありがとう。家族が、私は大好きでした。お父さんのこともお母さんのこともお兄ちゃんのことも、本当の本当に大好きだったの。私がまだちっちゃかった時、四人でよく旅行に行ったね。今でも、よく覚えてる。ちっちゃな時から私は凄く奔放で迷惑ばかりかけたけど、私は自慢の娘になれたでしょうか。天国でも、お父さんお母さんの子どもになりたい。生まれ変わっても、私は二人の娘になりたい。だから、ずっと仲良くしてね。生まれ変わった時に、また二人で私を育ててね。お兄ちゃんと一緒に、また私は山内として生きたいです。うーん、書きたいことがありすぎて、まとまらないな。
(やっぱり大切な相手には個別に書く。家族の分は改めて書きなおします。)
恭子。
まずこれを言わせて。大好き。
私は恭子が大好き。間違いなく、大好き。だから、本当にごめん。
報告するのがギリギリになって、ごめん。(このこともちゃんと考えなきゃ)
許して、なんて言えない。
でも、これだけは信じて。大好きだった。
大好きだったから、言えなかった。
恭子といるのが大好きだった。笑ったり、怒ったり、馬鹿なこと言ったり、泣いたりするのが、大好きだった。
ごめん、違う。
今でも大好きだよ。
ずっと。現在進行形で大好きだよ。天国に行っても、生まれ変わっても、ずっと大好きのままだよ。
大好きな恭子との大好きな時間を、壊す勇気が、私にはなかったの。
他の友達に悪いけど、恭子はいつでも私の一番。もしかしたら私、恭子に恋してたかな。よし、じゃあ、次生まれ変わる時は、恭子は男の子になってよ(笑)
幸せになってね。恭子。
何があっても、恭子なら大丈夫。私の大好きな恭子は、負けないもんね。
素敵なだんなさんを見つけて、可愛い赤ちゃんを産んで。誰よりも幸せな家庭を作るんだよ。
本当を言うと、見たかったな。恭子の家○(←本番書く時は泣かない)
天国から恭子をいつも見守ってる。
そうだ一つだけお願いがあるの。私の最後のお願いだと思って聞いてくれると嬉しいな。
お願いっていうのは、仲良くしてあげてほしい人がいるの。
そう、恭子がいつも睨んでる彼(笑)
彼は、良い人だよ。本当に。時々私をいじめるけど(笑)
だけど、彼は
(とりあえず彼の説明は後回しでいいか笑)
(恭子に伝えたいこともっと上手く)
じゃあ、最後、君に。
名前なんて書いてあげないよ(笑)
君だよ、君。君が書くなって言ったんだからね。
やあ、元気?(笑)
色々、最近は特に言いたいことが増えたかな(二年の夏)
でもまずは事務連絡。
この『共病文庫』は、君の自由にしてください。
家族にもそう伝えてある。君がこれを取りに来たら、渡してあげるようにって。
自由にっていうのは、君は受け取ったこれをどうにでもしていいってこと。
破くなり、隠すなり、誰かにあげるなり。
つまり、私は色んな人にメッセージを書いてるけど、それを皆に見せるかどうかも君次第。
今君がこれを見てる時点で、この『共病文庫』は君のものになったから。嫌なら、捨てればいいよ(怒)
これが、私に色んなものをくれた君へのせめてものお礼。
この間のスイカ美味しかったよ(笑)(なんか今視点になってる。書きなおせばいいか)
うん、今伝えたいことを書くね。それが、本当の気持ちだと思う。もし気持ちが変わったら、書きなおすよ。嫌いになったら書かないけどね(笑) その時は恭子に殺されればいいんじゃない(笑)
あの時、病院で会った時からまだ四カ月経ってないんだね。不思議。私は、もっともっと長い時間を君と過ごしたみたいな気になってる。きっと、たくさんのことを君に教えてもらってるから、充実してるんだね。
日記の方にも書いたけどさ、私は実はあれよりずっと前から君が気になってた。どうしてか分かる? 君がよく言ってたことだよ。
正解は、私も思ってたから。
君と私は、きっと反対側にいる人間なんだって。
私も思ってた。
そう思ってて、気にはなってたけど仲良くなる機会がなくて、ところにあの偶然でしょ? もう仲良くなるしかないなーって思っちゃったわけ。結果的に仲良くなれて良かったよかった。
最近は仲良くなりすぎなんじゃないかーなんて声もちらほら聞こえて来ますが(笑)
あの、恋人ごっこ? 勝手に名前をつけたけど、あれ本当にドキドキする。今はまだハグだからいいけどさ。このままだと私達、遊びでキスくらいしちゃうんじゃないかしらって、ドキドキしてる(笑)
んー、まあそれでもいいんだけどね。爆弾発言だって思ってる? でも本当、それでもいいんだ。恋人にさえならなければ、それでもよかった。
ちょっと悩んだけど、もういっか、君がこれ読んでる時、私死んでるんだし(笑)正直になろう。
正直に言うとさ、私は何度も、本当に何度も、君に恋をしてるって思ったことがあるの。例えば、あれ、君が初恋の人の話をしてくれた時。私、胸がキュンってなったもん。ホテルの部屋でお酒を飲んだ時もそう。初めて私からハグした時もそう。
だけどね、私は君と恋人になる気はなかったし、これからだって、なる気はない。と、思うよ、多分ね(笑)
もしかしたら恋人としても上手くやっていけたのかもしれない。だけどそれを確かめる時間は私達にはないでしょう?
それにね、私達の関係をそんなありふれた名前で呼ぶのは嫌なの。
恋とか、友情とか。そういうのではないよね、私達は。もし君が私に恋してたらどうしてたかな、それはちょっと気になります。訊く気も術もないけどね。
あ、その話と関係あるから、ついでに病院で私が真実か挑戦をやろうって言った時、あの時何を訊こうとしたのかを教えてあげる。私は答えを知れないんだから、ルール違反じゃないよね。
私が訊きたかったのはね。
「どうして、君は私の名前を呼ばないの?」ってこと。
私、覚えてるよ。新幹線で私が寝てた時、ゴムパッチンで私を起こしたでしょ。呼んで起こせばいいのに、名前を呼ばなかった。それからずっと気にしてたの。そしたら君は本当に私の名前を一回も呼ばなかった。いつも、「君」。君、君、君。
あの時、君に訊いていいかどうか迷ったのは、もしかしたら君は私を嫌いだから名前を呼ばないのかもしれないと思ったの。私はそういう風に思うんだよ。しかも、それをどうでもいいなんて思えないの。私には、自信なんてまるでないから。私は、君とは違って、周りに頼らないと自分を作れない人間だったから。
そう思ってたから真実か挑戦に頼らないと訊けないって思ったんだけどね、最近実は違うって気づいた。
ここからは私の勝手な想像。違ってても許してね。
君は、私を君の中の誰かにするのが怖かったんじゃない?
言ってたよね、君は名前を呼ばれた時に、周りの人間が自分のことをどう思ってるか想像するのが趣味だって。想像して、でも、正しくても間違ってても、どうでもいいって。
これは私に都合のいい勝手な解釈だけど、君は、私のことをどうでもいいとは思ってなかったんじゃないかな。
だから、君がそうするように、私が想像するのが怖かった。
君が呼ぶ私の名前に、意味がつくのが怖かった。
いずれ失うって分かってる私を「友達」や「恋人」にするのは怖かった。
っていうのはどうかな? 当たってたら、私の墓前に梅酒でも置いといて(笑)
怖がらなくてもいいよ。何があっても、人と人はうまくやっていけるはずだからね。これまでの私と君みたいに。
あ、君が怖がってるってばっかり書くと、君を臆病だって非難してるみたいだけど、そうじゃないよ。
私は君を、凄い人間だと思ってるからね。
私とはまるで反対の、凄い人。
ついでのついでに、君のこの前の質問にも答えてあげるよ。大サービスだね!
私は、君のことをどう思ってるかっていうやつ。別に知りたくない?(笑)読みとばしてもいいよ。
私はね。
私は、君に憧れてたの。
少し前から、ずっと思ってることがあるんだ。
私が君みたいだったら、もっと誰にも迷惑をかけず、悲しみを君や家族にふりまいたりすることなく、自分の為だけに、自分だけの魅力を持って、自分の責任で生きられたんじゃないかって。
もちろん、今の人生は最高に幸せ。でも、周りがいなくても。たった一人の人間として、生きている君に、私は憧れてた。
私の人生は、周りにいつも誰かがいてくれることが前提だった。
ある時、気づいたの。
私の魅力は、私の周りにいる誰かがいないと成立しないって。
それも悪いことだとは思ってない。だって、皆そうでしょ? 人との関わりが人を作るんだもん。うちのクラスメイト達だって、友達や恋人と一緒にいないと自分を保てないはずだよ。
誰かと比べられて、自分を比べて、初めて自分を見つけられる。
それが、「私にとっての生きるってこと」。
だけど君は、君だけは、いつも自分自身だった。
君は人との関わりじゃなくて、自分を見つめて魅力を作り出してた。
私も、自分だけの魅力を持ちたかった。
だからあの日、君が帰ったあと、私は泣いたの。
君が本気で私を心配してくれた日。君が私に生きててほしいって言ってくれた日。
友達とか恋人とか、そういう関わりを必要としない君が、選んでくれたんだもん。
誰か、じゃなく。私を選んでくれたんだもん。
初めて、私は、私自身として、必要とされてるって知ったの。
初めて私は、自分が、たった一人の私であるって思えたの。
ありがとう。
17年、私は君に必要とされるのを待っていたのかもしれない。
それが分かってたから、私は本も読まないくせに、この「共病文庫」という記録方法を選んだのかもね。
自分で選んで、君に出会ったの。
ほんとさー、誰かをこんなに幸せに出来るなんて君は凄い人間だよねー。 皆も君の魅力に気づけばいいのに。
私はもうとっくに君の魅力に気が付いているからね。
死ぬ前に、君の爪の垢でも煎じて飲みたいな。
って書いてから、気づいたよ。
そんなありふれた言葉じゃ駄目だよね。私と君の関係は、そんなどこにでもある言葉で表わすのはもったいない。
そうだね、君は嫌がるかもしれないけどさ。
私はやっぱり。
君の膵臓を食べたい。
(君のことが一番長くなっちゃった。恭子が怒りそうだから加筆修正)
第一回下書き 』
「…………」
読み終わって、戻ってきた世界に彼女がいないと気がついた僕は、分かった。
ああ、壊れる。僕が壊れる。
自覚した。せき止めるのは、無理だと自覚した。
その前に、訊いておかなければならないことがあった。
「彼女の…………桜良さんの、携帯電話は」
「携帯……?」
お母さんは、立ちあがってすぐに一台の携帯電話を持って来てくれた。
「あの子が……いなくなってから、電話だけはとるようにしてたんだけど、最近は電源も切ってて」
「お願いです……見せて、ください」
無言で、お母さんは僕に携帯電話を差し出した。
開閉式のそれを、開いて、電源を入れる。少し待って、メールのフォルダを呼び出し、受信箱を開いた。
たくさんの未開封メールの中に、見つけた。
僕が送った、最後の言葉。
彼女に対する、最後のメッセージ。
メールは、開かれていた。
届いて……いたんだ…………。
携帯電話と『共病文庫』を畳みの上に置いて、僕は震える唇をどうにか動かして、壊れる前の、最後の言葉を。
「お母、さん……」
「…………何?」
「ごめんなさい……お門違い、だとは、分かってるんです…………だけど……ごめんなさい……」
「…………」
「…………もう、泣いて、いいですか」
彼女のお母さんは、自分自身も一筋の涙を流してから、一度きり、頷いて、僕を許してくれた。
僕は、壊れた。いや、本当はとっくに壊れていた。
「あああああああああああ! うああーああああああああああ! あああああああ 、ぐっ、あああああーあああああああああああーーああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ! ひっ、うっ、あああああああああーあああー」
僕は泣いた。恥ずかしげもなく、赤ん坊のように泣きじゃくった。畳みに額をこすりつけたり、天井を仰いだりしながら、大声で、泣いた。初めてだった。大声で泣くことも、人前で泣くことも。そういうことはしたくなかったから。悲しみを人に押し付けるようなことはしたくなかったから。今までしなかった。でも、今は、押し寄せる数多の感情が、僕に自己完結を許さなかった。
嬉しかったんだ。
届いていたこと、通じていたこと。
彼女が、僕を必要としてくれていたこと。
僕が、彼女の役に立てたこと。
嬉しかった。
同時に、想像したこともないくらい苦しかった。
鳴りやまない、彼女の声。
次々に浮かび上がる、彼女の顔。
泣いたり、怒ったり、笑ったり笑ったり笑ったり。
彼女の、感触。
匂い。
甘ったるい、あの匂い。
今そこにあるように、今そこにいるように、思い出す。
でも、もういない。彼女はもういない。
どこにも。僕がずっと見ていた彼女は、もういない。
僕らの方向性が違うと、彼女がよく言った。
当たり前だった。
僕らは、同じ方向を見ていなかった。
ずっと、お互いを見ていたんだ。
反対側から、対岸をずっと見ていたんだ。
本当は、知らないはずだったのに、気がつかないはずだったのに。お互いを見ていたこと。違う場所で、関係のない場所で、それぞれにいるはずだった。
なのに僕らは出会った、彼女が溝を飛び越えてきてくれたから。
それでも、僕だけだと思っていた。彼女を必要とし、彼女のようになりたいと思っていたのは。
まさか、こんな僕を。
こんな僕を彼女は…………。
僕こそだ。
僕こそが、今、確信した。
僕は、彼女に出会う為に生きてきた。
選択してきた。彼女と出会う、ただそれだけの為に、選択して、生きてきた。
疑わない。
だって僕は、こんなに幸福で、こんなにつらいことを今までに一つとして知らないから。
生きていた。
僕は彼女のおかげで、この四ヶ月間を生きていた。
きっと人として初めて。
彼女と心を通わせることで。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
感謝は言い足りないのに、言うべき彼女はいない。
どんなに泣いても、もう届かない。
どんなに叫んでも、もう届かない。
こんなに伝えたいのに、嬉しいこと、苦しいこと。
彼女との日々が、今までのどんな時より楽しかったこと。
もっと一緒にいたかったこと。
ずっと一緒にいてほしかったこと。
不可能でも、伝えればよかった。
自己満足でも、聞いて貰えばよかった。
悔しい。
僕はもう彼女に何も伝えられない。
僕はもう彼女に何もしてあげられない。
彼女から、こんなにも多くのものを貰ったのに。
僕は、何も…………。
泣いた。泣いて、泣いて。
やっと。
意思ではなく、体の機能として僕が泣くのを止めた時、目の前では、彼女のお母さんがまだ待ってくれていた。
僕が顔をあげると、お母さんが水色のハンカチを差し出してくれた。恐る恐る、ハンカチを受け取って、僕は息を切らしながら涙を拭いた。
「それ、あげるわ。桜良のハンカチなの。君が持ってくれるなら、あの子も喜ぶ」
「…………ありがとう……ございます」
僕は素直にお礼を言って、目と鼻と口をハンカチで拭い制服のポケットに入れた。
畳みの上にもう一度姿勢を正して座り直す。今はもう、お母さんと同様に、僕も目を赤くして。
「すみませんでした……取り乱して……」
お母さんはすぐに首を横に振った。
「いいの、子どもは泣くものよ。あの子も、よく泣いてた。昔から泣き虫だったから。でもね、君と出会った日、日記に書いてあった、君と時間を過ごし始めたくらいからね、あの子、泣かなくなったの。まったく、ではないけどね。だから、ありがとう。あの子は、あなたのおかげで、とても大切な時間を送れたわ」
僕は、また流れてきそうになる涙を堪えてから、首を横に振った。
「彼女から、大切な時間を貰ったのは、僕の方です」
「…………本当なら、あなたも交えて、家族全員で、食事でもしたかったわね。あの子、あなたについて、何も言わないんだもの」
お母さんの悲しい笑顔に、僕はまた揺らぐ。
揺らぐ自分を受け入れたまま、僕はお母さんに彼女との思い出を少しだけ話した。日記に書いていなかったことを、もちろん真実と挑戦についてや、一緒のベッドで寝たことは抜きにして。お母さんは、何度も頷きながら、話を聞いてくれた。
話していると、僕の心は少しずつ浮かびあがっていくようだった。
大切な喜びや悲しみはそのままだったけれど、余計なものがそぎ落とされていくような気がした。
だからお母さんは、僕の為に話を聞いていてくれたんだと思う。
話の最後に僕は、お母さんにお願いをした。
「また、いつかお参りに来てもいいですか」
「ええ、もちろん。その時は是非、夫や息子とも会ってあげて。そうだ、恭子ちゃんとは……あんまり仲がよくないみたいだけど」
彼女そっくりに、お母さんはクスクス笑った。
「そう、ですね。色々と事情があって、嫌われてます」
「いつか、無理にとは言わないけど、出来たら、恭子ちゃんとあなたと、うちの家族で、食事でもしましょう。お礼っていうのもあるけど、桜良が大切にしてた二人とそういう風に出来たら、おばさん嬉しい」
「僕、よりはあちらの考えによるでしょうけど、心に留めておきます」
それから数語言葉を交わし、また後日来訪することを約束してから、僕は立ちあがった。『共病文庫』は、お母さんの強いすすめで持って帰ることにした。母親に持たされた一万円は、断られた。
お母さんは玄関まで見送りに出てくれた。靴を履いて、改めてお礼を言い、ドアノブに手をかけたところで、呼びとめられた。
「そうだ、下の名前はなんていうの?」
僕はきちんと振り返り、お母さんに答えた。
「春樹です。志賀春樹、といいます」
「あら、そんな小説家いるわよね?」
僕は驚いて、それから口に笑みが浮かぶのを感じた。
「ええ、どちらのことを言ってるのかは分かりませんが」
もう一度お礼と別れの挨拶を言って、僕は山内家の玄関を出た。
雨は、やんでいた。
家に帰ると、母親が既にいて、僕の顔を見るなり、「頑張ったね」と言った。父は夕飯の時にはち合わせるなり、僕の背中を叩いた。やはり親は侮れないのだろう。
夕飯後、部屋にこもって、もう一度『共病文庫』を読みながら、僕は考えた。三回、また途中で泣いてしまったけれど、考えた。
これから、僕が何をすべきなのか。彼女の為、彼女の家族の為、自分の為、何が出来るかを考えた。
『共病文庫』を受け取った僕が、出来ることは何か考えた。
考えた末、僕は夜の九時過ぎに決断をして、行動を起こした。
机の引き出しの中にしまってあった、一枚のプリントを取り出して、携帯電話を手に取った。
僕はプリントを見ながら、生涯押すことがないだろうと考えていた番号を携帯電話に入力した。
その夜僕は、彼女と喋る夢を見て、また泣いた。
お昼過ぎ、僕は指定されたカフェについた。
約束の時間よりも少し早くについてしまったので、相手はまだ来ていなかった。僕はアイスコーヒーを頼んで、空いていた窓際の席に座った。
指定されたカフェには迷わずに来れた。偶然だろうけれど、あの日、彼女が死んだ日に待ち合わせをしていた場所と同じだったから。
いや、偶然じゃないのか。僕はアイスコーヒーを飲みながら考え直す。きっと、行きつけだったのだろう。
あの日と同じように、僕は外を見る。あの日と同じように、色々な人生を抱えた人々が、通り過ぎていく。
あの日と違ったのは、待ち合わせの相手が、きちんと時間通りに来てくれたことだ。よかった。ほっとした。あの時のトラウマとは別に、すっぽかされるかもしれないと思っていたから。
無言で、向かいの席に座った、恭子さんは真っ赤になった目で早速僕を睨みつけてきた。
「来て……やったけど…………何?」
ひるんでは、ならない。僕は震える心を無理矢理立たせて、彼女の視線を迎え撃ち、口を開こうとした。
だけれど、僕の第一声は、恭子さんに阻まれた。
「あんたさ…………桜良の、お葬式……来なかったよね」
「…………」
「…………なんで?」
「それは…………」
僕が、答えあぐねていると、大きな音が店内に響き渡って、店中の時間が一瞬止まった。恭子さんが、拳でテーブルを叩いた音だった。
「…………ごめん……」
店内の時間が動き出すのと一緒に、恭子さんは目を伏せて、小さな声で言った。
僕は、改めて口を開くことにする。
「来てくれて、ありがとう。ちゃんと話すのは、初めて、かな」
「…………」
「君に、恭子さんに、話があって来てもらったんだけど、まずは、何から話すべきなのか」
「簡潔に言って」
「…………そうだね、ごめん。恭子さんに、見てほしいものがあるんだ」
「…………」
もちろん、話とは彼女のことについてだった。僕と恭子さんの間にある接点は、それだけ。僕は昨日悩んだ末に、恭子さんと話をすることに決めた。
ここに来るまでは、どういう風に恭子さんに話したものか考えていた。まずは僕と彼女の関係について話すべきか、病気のことから話すべきか。結局僕は、まずは恭子さんに真実を見て貰うことにした。
僕は、『共病文庫』を鞄の中から出してテーブルの上に置いた。
「…………本……?」
「これは、『共病文庫』」
「…………きょうびょう?」
僕は、本にかかっているカバーを外して見せた。
途端に、恭子さんの目が、どこか虚ろだった目が、思い切り見開かれた。僕は、「流石だ」と思う。羨ましい、とも思う。
「…………桜良の……字だ」
「そう」
僕は、はっきりとした動作で頷く。
「これは、彼女の本なんだ。彼女の遺言で、僕が受け取った」
「……遺言って…………」
この先を、話すことは僕の心と言葉をとても重くした。でも、止まるわけにはいかない。
「この中に書いてあることは、全部本当のことなんだ。彼女のいたずらでも、僕のいたずらでもない。これは、彼女が書いてた日記みたいなもので、最後のページには、恭子さんや、僕に宛てられた、遺書がある」
「……何を…………言ってんの?」
「彼女は、病気だったんだ」
「…………嘘、私、そんなこと知らない」
「言ってなかった」
「…………どうして私が知らないのにあんたが知ってんのよ」
僕も、そう思っていた。だけど今は、その理由を知っている。
「僕以外の、誰にも言ってなかったんだ。彼女は、事件に巻き込まれて亡くなったけど、もし事件に合わなくても本当は」
言葉が、途中で止められた。代わりに、耳に高音が届いて、やがて左の頬に痛みが来た。経験がなかった為に、それが平手打ちという暴力による痛みだと、気がつくのに時間がかかった。
恭子さんは、泣きそうな目で訴えかけるように言った。
「やめてよ…………」
「…………やめない。僕は、恭子さんに伝えなくちゃいけない。彼女が、この本の中でも書いてるんだ。恭子さんが、一番大切だって。だから聞いてほしいんだ。彼女は、病気だった。もしあの時事件に合わなくても、半年後に死ぬことが決まってた。嘘じゃない」
恭子さんは、首を弱々しく横に振った。
僕は、『共病文庫』を恭子さんの方へと差し出す。
「読んで。彼女はいたずら好きだったけど、君を傷つけるような冗談は絶対にしないはずだ」
それ以上、何も言わないことにした。
もしかすると、読んですらくれないのではないか、という不安は、ややあって恭子さんが伸ばした手によって解消された。
恭子さんは恐る恐る『共病文庫』を手に取って、ページを開いた。
「本当に、桜良の字だ……」
「正真正銘、彼女が書いたものなんだ」
恭子さんは、眉をひそめたまま最初のページからゆっくりと読み始めた。僕は、待つことに集中した。死んでしまった彼女から聞いていた。恭子さんも普段活字を読むタイプの人ではない。だから、恭子さんが『共病文庫』を読み進めるのには時間を要した。もちろん、本を読むスピードだけが、時間の経過を促していたのではない。恭子さんは、最初は信じられないという様子で何度も何度もページを往復した。嘘だ嘘だ、と念じているようですらあった。それが、どこかで彼女と心がリンクしたのだろう。スイッチが入ったように泣き始めてしまって、ますます読書のスピードが遅くなった。僕は、じれったい気持ちにはまるでならなかった。特に恭子さんが泣き始めた時、受け入れてくれたという安心があった。受け入れてくれなければ、今日僕がここに来た意味がなくなってしまうからだ。彼女の遺志を伝えることと、もう一つの目的の。
途中で僕はコーヒーを二杯おかわりした。考えて、恭子さんの前にもグラスに入ったオレンジジュースを置いた。恭子さんは、何も言わずに一口だけ飲んでくれた。
待っている間、僕は彼女のことを考えていなかった。むしろ彼女から受け取ったもので何が出来るのかを考えていた。今まで自己完結を貫いた僕に、難しい課題だった。考えていると、時間はすぐに過ぎた。
気がつけば、日が暮れていた。結果、僕は昨日考えついたこと以上のこれからを具体的に思いつくことが出来なかった。普通に人々がやっていることが、僕には難しい。
恭子さんを見ると、顔を涙でぐずぐずにしながらテーブルに濡れたティッシュを積み上げて、ちょうど本の中盤くらいまでに指を挟み、本を閉じようとしていた。僕は、昨日のお母さんと同じことをする。「まだ、先があるんだ」。
恭子さんは、もう泣き疲れたという様子さえあったのに、彼女の遺書の部分を読むと、今度は完全に本を閉じ、周りに他人がいることなんて知らないみたいに、大声で泣いた。僕は、恭子さんを見守った。昨日、彼女のお母さんが僕にそうしてくれたみたいに、ずっと。恭子さんは、何度も何度も、彼女の名前を呼んだ。桜良、桜良、と呼び続けた。
昨日の僕よりもずっと長く泣き続ける恭子さんを、僕が見ていると、涙を流したままの目がこちらを向いた。いつもと同じ、僕を目の敵にしている視線。
「…………どうして…………」
恭子さんは、がらがらにかすれた声で言った。
「どうして…………私に……言わなかったの……」
「……だからそれは、彼女が」
「桜良じゃない! あんたがよ!」
予想もしていなかった怒声に、僕は返す言葉を失う。恭子さんは、僕を刺し殺そうとするみたいにぐちゃぐちゃになった目と言葉を放っていた。
「言って、言ってくれたら……もっと、もっともっともっと一緒に…………時間を過ごせた。部活も辞めた、学校だって辞めた! 桜良と、一緒にいれた……」
そういう、ことか。
「…………許さない。いくら、桜良があんたを好きで、大切で、必要だったとしても、私は、許さない」
彼女は、顔を再び伏せて、涙を床に落とし始めた。本当に少し、本当に少しだけ、僕は今までと同じ僕のままで、それでも構わないと思ってしまった。嫌ってくれても構わないと。でも、僕は首を振る。駄目だ。それじゃあ、駄目なんだ。
僕は、意を決してうなだれる恭子さんに語りかける。
「ごめん、でも…………少しずつでもいいから、僕を許してほしいんだ」
恭子さんは何も言わない。
僕は緊張を押しのけて、どうにか口を開いた。
「それで…………もしよかったら……僕と……………………いつか」
恭子さんは、僕を見ない。
「と、友達になってほしいんだ」
生涯一度も言ったことのない言葉を使った為に、喉と心がひきつる。僕は必死で呼吸を整えるよう努める。自分のことに必死で恭子さんの心境を推し量るなんて余裕はなかった。
「…………」
「彼女の遺志、だけじゃない。僕が、自分で選んだ。恭子さんに、仲良くしてほしい」
「…………」
「駄目、かな……」
僕はこれ以上の頼み方を知らなかった。だから黙った。二人の間に沈黙が落ちる。
こんなに彼女以外の誰かの答えに緊張をしたことがない。そんな身勝手にも極限の精神状態で、僕が恭子さんからの返事を待っていると、やがて恭子さんは、下を向いたまま首を数度横に振って、数時間ぶりに立ちあがり、そのまま僕の顔を見ずに行ってしまった。
恭子さんの背中を見ながら、今度は僕がうなだれる番だった。
やっぱり……駄目だったか……。
ツケが回ってきたんだろうなと思った。これまで人を認めようとしなかったツケが。
「これは、難しい」
僕は一人で呟いた。でも、本当は彼女に向かって言ったんだと思う。
テーブルに取り残された『共病文庫』を鞄に入れ、二人で作ったゴミの山を片づけてから、僕もまたすっかり暗くなった外に出た。
これからどうしようか。僕は、出口のない迷路に閉じ込められた気分になった。その迷路からは、空は見える。外があるというのは分かっているのに、出られない。
なんと厄介な問題だろうと思った。こんな問題を日常的に解こうとしている皆が、凄いと思った。
僕は自転車に乗って、家に帰ることにした。
夏休みが、もうすぐ終わる。
僕の抱えた宿題は、夏休みの間には到底終わりそうになかった。
蝉の声がこれでもかと僕の尻を叩く。
補習も昨日で終わり、本当の意味での夏休みが始まる日、僕は石段を地道に上っていた。
炎天下、今日はまた特別の暑い日で、上からの照りつけと下からの反射が容赦なく僕を攻め立ててくれるので、既にTシャツがびしょびしょになっている。
別に、己をいじめたくて苦行に身をやつしているわけではない。
「いっつも思うけど、弱っちいなぁ」
汗だくで息を切らす僕を見て笑いながら、先を行く彼女が言う。僕はむっとして正当な反論をしようと思うけれど、とりあえず落ち着いてからにしようと思い、必死に先を急いだ。
「ほら、頑張れ頑張れ」
余裕ぶった彼女が手を叩きながら僕を鼓舞しているのか挑発しているのか分からない顔で応援してくる。
やっと上りきって、汗をタオルで拭きながら、僕はようやく彼女に反論する。
「君とは違うんだよ、僕は」
「男でしょ、情けない」
「ほら僕、高貴な生まれだから体動かさなくてもいいんだ」
「高貴な人達なめんな」
僕はリュックの中からペットボトルのお茶を出して、勢いよくそれを飲んだ。その隙に、彼女はずいずいと先に行く。仕方なくついて行くとしばらくして見晴らしのいい場所に出た。高台にあるこの場所から、僕らの街が一望できる。
「気持ちいー!」
彼女が両手を拡げて叫ぶ。確かに、眺めと風は気持ちがよかった。風で汗が乾いていくのを感じながら、僕はもう一度お茶を飲んで気合いを入れ直す。
「さ、もうちょっとだね」
「あれ、いきなり元気出たじゃん。ご褒美に飴あげるよ」
「あのさ、君達二人は僕が飴とガムを主食にして生きてるとでも思ってるの?」
僕はいつもいつも教室でガムをすすめてくる友人の顔を思い出しながら言う。
「しょうがないでしょ、いっつもたまたまポケットに入ってるんだから、はい」
しぶしぶ、飴を受け取ってポケットに入れる。これで何個目だ。
彼女は鼻歌交じりにきびきびと歩く。僕は後ろからとぼとぼとついていっていたのだけれど、まるで僕と彼女の力関係だとでも言いたげな気がして、無理矢理背筋を伸ばした。
土だった地面が、いつの間にやら石畳になって、僕らは目的地についた。
たくさんの石が並ぶ中、一つを見つけ出す。
「あ、春樹は水の係ね、あっちから汲んできて」
「二点いい? まず他にどんな係があるのかっていうのと、もう一つ、別に二人で行けばいいんじゃないの?」
「黙って行ってこい。飴あげたでしょ」
呆れかえりながらも彼女の性格上これ以上の反論は無駄なので、僕は黙って荷物を置いて近くにある水場まで歩く。水場には桶とひしゃくがいくつか置いてある。僕はそれらを一つずつ持ち、桶に蛇口をひねって出した水を溜めてから、彼女の待つ場所に戻った。
彼女は、空を見上げて立っていた。
「ん、おう、ご苦労」
「思ってるんなら手伝ってよ」
「ほら、私高貴な生まれだから」
「はいはい、じゃあ、こちらをどうぞ」
僕は、彼女に桶とひしゃくを渡した。彼女はそれを恭しく受け取って、目の前にある山内家のお墓に思い切り水をかけた。石に跳ね返った水がしぶきになって頬に当たった。お墓が太陽の光を反射させるようになり、神秘的な光景に見える。
「おらっ、起きろ桜良っ!」
「そういう風に使うものじゃないと思うよ。絶対」
お墓に水をぶつける彼女を僕はなだめる。彼女は聞く耳を持たず、最後の一滴までをお墓に浴びせかけて、気持ちよさそうに汗を流していた。そういうスポーツだろうかと錯覚してしまう。
「お墓に手合わせる時ってさ、音出すの?」
「普通は静かにするもんだろうけど、あの子は鳴らしてあげた方がいいんじゃない?」
僕と彼女は、並んで一度手を打ち鳴らし、きちんとあの子に届くように願いながら、目を瞑った。
二人仲良く、僕らは想いを送った。
長いこと手を合わせて、ほぼ同時に目を開けてから、僕と彼女は一緒にそれぞれ持ってきたお供え物を置いた。
「さて、桜良んちに行くか」
「そうだね」
「おばちゃんと私で思いっきり説教してやるから」
「何それ、理由がまるで思い浮かばないんだけど」
「私からすればどれからいこうかなって感じだよ。そうだな、まずはあんたが三年生の今、調子にのって全く勉強してないことからかな」
「君に言われるまでもなく、僕は頭がいいから勉強はしてないよ」
「それを言ってんだよ!」
高い青空に彼女のツッコミが吸いこまれていく。僕は久しぶりに訪れる山内家に思いをはせた。前に行った時は、初めてお兄さんに会い、話をさせてもらった。
「そういえば誰かと一緒にあの子の家に行くのは初めてだ」
「それが一番の説教ポイントなんだよ」
極めて不毛で楽しいやりとりをしながら、僕らは今度は一緒に桶とひしゃくを返した。もう一度お墓の前に戻って、「今から家の方に行くね」と声をかけて、来た道を戻ることにする。あの道を帰るのは少し億劫だったけれど、ここにいたところで不毛で愉快なやりとりをするだけなので、非生産的だ。
僕はまた、来た時と同じように先ゆく恭子さんの背中を追った。
手を合わせて、目をつむる。
想いを、僕だけのものから、君に贈るものにする。
許してほしい。ここで思うこと。
祈ること。
こんな僕だから、まずは文句を言わせてもらう。
簡単じゃなかった。君が言うほど、感じるほど。
人と関わるのは簡単じゃなかったよ。
難しかった、本当に。
だから一年もかかってしまったんだ。これは僕の責任でもあるけれど。
でも、やっと僕は選んでここまで来れたんだ。そのことは褒めてほしい。
僕は一年前、選んだんだ。君みたいな人間になること。
人を認められる人間に。人を愛せる人間に。
そうなれているかは分からないけれど、少なくとも僕は選んだんだ。
僕はこれから、君の親友で、僕の初めての友人である彼女と君の家に行くよ。
本当は三人で会えればよかったんだけれど、それは出来ないから、仕方ない。それは天国でやることにしよう。
どうして君のいない家に二人で行くのかというと、あの日、君のお母さんとした約束を果たしに行くんだ。
遅いだろって? それは恭子さんにも言われた。
言い訳を聞いてほしい、僕はこんな人生を歩いてきたものだから、例えば友達というものの基準が分からなかったんだ。
君の家には、恭子さんと友達として行かなければならないと思っていたから。
分からなかった僕は、君と僕との関係を基準にした。
許さない、そう言われたあの日から、僕らは一歩ずつ、本当に一歩ずつ、友達としての道を歩いてきた。僕が歩く初めての道、いつもはせっかちな癖に、足元のおぼつかない僕を辛抱強く待ってくれた恭子さんには、感謝の気持ちでいっぱいだ。流石君の親友だ。もちろん、本人には言わないけれど。
そうしてやっと、この間、恭子さんと、日帰りではあったけれど、僕らが一年前に言ったあの場所に行ってきた。その時に初めて君のお母さんとの約束を恭子さんに言ったんだ。そしたらもっと早く言えって怒られたよ。
まったく、僕の友達は気が早い。
お供え物はその時に買ったお土産なんだ。
学問の神様がいた場所に出来た梅で作られたものだ。
君はまだ十八歳だけれど、特別に許してあげよう。味見した感じは美味しかったよ。
気に入ってくれるといい。
恭子さんは元気だ。知ってるかな。
僕も元気だ。君と会う前よりもずっと。
君が死んだ時、僕は思った。僕は君と出会う為に生きてきたって。
でも、君が僕に必要とされる為に生きてきたとは、信じられなかった。
今は、違う。
僕らはきっと、二人でいる為に生きてきたって、信じてる。
僕らは、自分だけじゃ足りなかったんだ。
だからお互いを補う為に生きてきた。
最近は、そういう風に思う。
だから君のいなくなった僕は一人で立てるようにならなくちゃいけない。
それが、僕が二人でやっと一つだった僕らの為に出来ることだと思う。
…………また来るよ。死んだあとの人の魂のことは僕にも分からないから、君の家で、写真の前でも同じ話をしてあげる。もし聞いてないってことだったら、天国に行った時にしてあげる。
じゃあ、またね。
…………。
ああ、そうだそうだ。君に一つ嘘をついてたことをばらしてなかった。
君は『共病文庫』で、泣いてたことや、僕に対してのことや、嘘をついてた色々をばらしてくれたから、僕も公平にネタをばらしておこうと思う。
いいかい?
僕がいつか話した初めて好きになった人の話、あれは嘘だ。
言ったよね、「さん」をつける人の話。あれは真っ赤な嘘、僕の作り話だ。
君があまりに感動するものだから、言いだせなかった。
本当の話はそうだな。今度また君と会った時にでも。
もし、僕の本当の初恋の人みたいな女の子がまた現れたなら。
今度こそ、その子の膵臓を食べてもいいかも。
相変わらず容赦のない太陽さんの下、僕らは光輝く白い階段を下っていく。
前を行く恭子さんは肩にかけた部活用の鞄を揺らして鼻歌を奏でる。
僕は随分と上機嫌な友人の横に並んで、彼女が奏でる歌を当ててあげた。
恭子さんは、恥ずかしそうに僕の肩を強めに叩く。
僕は笑いながら空を仰いで、思っていたことをそのまま言ってしまう。
「幸せになろう」
「…………何それ、私に告白してんの? 桜良のお墓参りの帰りに? ひくわー」
「まさか。もっと大きな意味で言ったんだよ。それに僕は、彼とは違って、君みたいな子よりもっとおしとやかな子が好きなんだ」
にっと笑って、あれから許せないはずの僕を許してくれた彼女を挑発する。
と、すぐに今の言葉が失言だったことに気がついた。時既に遅く、恭子さんは僕の言ったことに疑問符を浮かべて、訝しげに首を傾げる。
「彼と違って?」
「ごめん、やめて、ちょっと待って、今のなし」
自分でも珍しく取り乱してしまった僕を見て、彼女はちょっと考えてから、それはそれは嫌らしく唇の両端を吊り上げて、掌を打った。小気味いい音があたりの石に反響する。
僕は首を横に振って彼女に哀願する。
「本当に、今のは、僕のうっかりだから、くれぐれも内密に……」
「春樹がもっと友達を作っておいたら私も分かんなかったかもしれないのになー。それにしても、へぇ、あいつがねー、ふーん。それこそもっとおしとやかな子が好きなんだと思ってた」
僕もそう思ってた、だって彼自身がそう言ってたから。好みが変わったのかもしれないし、嘘をついたのかもしれないし、どっちでもいいんだけれど、とにかく僕は、彼に心の中で思い切り謝る。ごめん、今度は僕がガムあげるから。
恭子さんは「へぇ」「ふーん」と言いながらまだにやにやしていた。
「嬉しいの?」
「うん、まあ、人に好かれて嬉しくなくはない、よね」
「それは朗報だね」
うっかり者の僕にとっても。
「でも付き合うのは受験終わってからかなぁ」
「随分と話の先回りをしたものだね、彼に伝えてあげよう、受験勉強にもやる気でるでしょ」
階段を下りながら、やいのやいのと僕らはやりあう。
きっと、それを見ていたのだろう。
「うわははっ」
背後から聞こえた笑い声に、僕は首がねじ曲がるかもしれない勢いで振り返った。恭子さんも同様の動きをし「痛ったいっ!」と首を押さえる。
もちろん、僕らの後ろには誰もいなかった。
汗で濡れた顔を風がなぜる。
僕と恭子さんは向かいあって、目と目で確認し合ったあと、同時に噴き出した。
「さてじゃあ桜良の家に行くか!」
「そうだね、桜良が待ってる」
僕らはうわははっと笑いながら長い階段を下りた。
もう、怖いとは思わなかった。
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