ひどい文章を読んだ。
残念ながら、何をいいたいのかまったくわからない。正確に言えば、いいたいことはわかるのだが、まったく響かない。なぜこんなに響かないのかわかる原因を考えてみたのだがおそらくこうではないか。
例えばmixiは復活したというが、それはこの人の主観でしかない。それについての具体的な説明がまったくない。この人がそう言っているだけなのだ。この文章においては、作者と読者の主観の間を埋める作業が放棄されている。この調子でずっと文章が続くものだから、作者が言っていることを事実だとして受け入れることに抵抗がなければいいのだが、一箇所でも引っかかりを覚えた瞬間に、この文章は地下冊の手記のように、信頼できない書き手による独り言になってしまうのだ。そういう危うさというべきか、フワフワした感覚がこの文章にはつきまとう。
これは、私が出来の悪いラノベを読んだ時によく感じることである。作者の頭の中では自明なことかもしれないが、文章力がないのか親切さがないのか編集が茶沢なのか知らないが、読者にとってそれを納得させる力がない。いちいち説明されるのも退屈だが、かといって作者でさえきちんと理解しているのか怪しい文章を読まされるのはストレスだ。読者にいろんなものを不確定のまま飲み込むことを要求する。そういう地に足の着いていない記述が多い。これは読んでいて非常にしんどいものだ。当然内容も頭に入らない。平坦な日常もの、会話劇をダラダラ続けるならそれでもいいが、ストーリー展開がある話や複雑な話になった瞬間挫折してしまう。読者だけでなく作者自身が挫折したのではないかと思うことすら多々ある。
文章における信頼度とは、それが正しいかどうかではなく、読者がその正しさを判断する際に必要な根拠を示せるかどうかである。読者にとって、納得できるだけの材料があることである。冒頭の文章にはまったくそれを感じなかった。
娯楽小説にそれを求めてるんならいんじゃね 議論のときにそんなことをいっていたらただの低能だがなw
シロツグ・ラーダット「せやろか?」