投稿者
題名
*内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
URL

  • [10]
  • 諸法実相抄(しょほうじっそうしょう)。 

  • 投稿者:みかん。
  • 投稿日:2015年 4月10日(金)14時13分8秒
  • 返信
 
文永10(1273)年5月
TO 最蓮房(天台宗の学僧。大聖人に出会って弟子となった人物)


「一閻浮提(いちえんぶだい)第一の御本尊を信じさせ給へ、
あひかまえて・あひかまえて・信心つよく候て三仏の守護をこうむらせ給うべし、
行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、
我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、
力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」


通解)
全世界第一の御本尊を信じていきなさい。
よくよく心して信心を強くし、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の守護を受けていきなさい。
行学の二道に励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば、仏法はない。
自分も行い、人をも教え導いていきなさい。
行学は信心から起こる。力があるなら、一文一句でも人に語って行きなさい。



★諸法・・・現実世界のあらゆる存在、あらゆる現象。
「地獄界から仏界までの十界の衆生とそれぞれの環境世界」=森羅万象。
★実相・・・森羅万象を貫く究極の真理。妙法蓮華経。宇宙のリズム。

■凡夫の私達が、地獄界の苦悩の極限にあったとしても、環境をも仏国土へと変革していく事ができるという法門。


<個人講義での解説>
(*注* 殆ど事前勉強をしていなかったため、マイ講師さんの解説が今回の解説の全てになります。)

全世界で一番・唯一・トップの御本尊。
宇宙根本の大御本尊。その御本尊が自分の中にある。自分の生命=御本尊 だと心得る事である。
最も根幹となるのは「信」。

自分も実践し、人にも語る事である。
実践においては、勤行・唱題。唱題によって仏界の生命をひらき、境涯革命していく「自行」と共に、自分が縁する人にも、その喜び(信心の歓喜)を語り、仏法を勧めていく「化他行」が大切。

「力あらば」とは、自分には力がないと思う人は語らなくていいわけではない!
自分が「仏」だと自覚しているならば、
自分が「地涌の菩薩」だという使命の自覚に目覚めているならば、
という意味。

何よりもまず「信」ありき。
その上で行学に励む。(行・・・勤行・唱題。人に語り、勧める。 学・・・教学の研さん)
そうすると、自分の心・生命の変革、また状況の好転などを実感できる。
すると更に「信」が深まる。
そして、また、深まった「信」の上で行学に励む。すると再び実感を得る。

信 → 行学 → 実感 → 信・・・・
これの繰り返し。


♪感想♪
(*個人講義後の感想*)

私は現在、御書の全編拝読3回目の挑戦をしていますが、3回目がスタートした時に強く思ったのは、
「3回目を達成する頃には、楽しく仏法対話できる自分に大きく成長していたい!」という事でした。

この御文には「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」とあります。
「力あらば」の言葉の意味を、まさしく「なんの力もない自分には積極的に信心の事を語る資格がない」と認識していました。
それを、個人講義の時におちゃらけて発言したところ、マイ講師に「そうじゃないんだよ!」と強く否定されました。

解説にもあるように、
「(力があるとかないとかではなく、)自分の“仏”そして“地涌の菩薩”としての使命の自覚が全て」
である事を初めて知り、相変わらずの浅はかな認識・解釈を恥ずかしく感じました。

それでも、本気の信心・本物の信心などとは程遠く、ちゃらんぽらんな感じで、求道心なのか憧れなのかよくわからない信心をしている気がする自分自身を否定できず、
たいした信心の体験のない自分が人に語る資格もないし、自信もない・・と、どうしても感じてきました。

マイ講師にその正直な気持ちと共に、「自分はとにかく、楽しく楽しく仏法対話がしたいです。難しい事やわかってない事が多すぎて、歴史も理論も話せません」と言いました。

「仏法対話を楽しくしたいーーーそれでいいんだよ。
例えば、こうして御書の勉強をしている中で、発見した事、感じた事、感動した事、或いは、今こんな御書を勉強している・・・
そういう、難しい事は何もない、自分が話したい事を何でもありのまま歓喜を持って相手に語れば、それでいいんだよ。
相手と楽しく対話したいというそれこそが、本当の仏法対話であり、折伏」
と、マイ講師がお返事を下さいました。

なんだか、目の前がパーっと開けていく感じがしました。

それ以前の私は、自分に信心の体験がこれといってない分、聖教新聞の信仰体験や「名字の言」や池田先生の記事などを切り抜いたり、或いは自分で手描きでまとめて小冊子を作って、友達にその都度渡す事が多く、積極的に感想を聞く事も殆どありませんでした。
優しい(?)友人は「読んだよ~。ありがとう」とか、「少しは理解できたよ」とか、言ってくれましたが、とにかく「人に語る」「対話する」という姿勢とはやはり離れたものだったと感じます。

それが、この個人講義の時のマイ講師・Kさんの言葉でほんのちょっと開けた自分は、
数日後、とある粗野な友人が電話をくれた時にびっくりするほどナチュラルに、嬉々として、対話ができました。

その友人は、選挙の依頼をするといつも怒って、「お前な、次選挙の頼み事してみろ、縁切るからな」と言っています。
それでも私は、選挙になると懲りずにその人に切り出します。
「こら、お前またかよ」と言われると、「違うよ。だから頼まないよ。ちょっと政治の話するくらいいいっしょ」と言って、依頼しない事を前提に浅ーーい政治の話をさせてもらいます。

彼は、粗野だけど、友達思いで優しい。目標や夢を話せば凄く応援してくれる。
自分も脳みその構造が男っぽいところが大きいからか、「は!何言ってんのバカじゃね?そんなん時代遅れだろ」とか「いやいや、マジでふざけんなよ」とか汚い言葉で罵り合う(?)事も少なくない。

がしかし、何か相談すれば面倒くさがりながらも聴いてくれるし、アドバイスもくれる。
他愛のない話も、お互いのパートナーの話も、できる。
私が相手を「おめー」とか「お前さー」とか言うなら、相手も私を「なんだよお前」とか「うるせえ未熟女」とか言う、そんな、中学生の男子同士みたいな間柄かもしれない。

そんな友人が、電話をくれて「F君(旦那様)最近どうよ。相変わらず学会の会合とかで帰り遅いの?」とか、「男子部の会合って・・・どんな事やってんの?」とか、「なんで創価学会って世界に布教してんの?」とか質問してくるから、
私としては、会合のおおまかな内容とか、世界平和の理念とか、自分にも少ないけど部員さんがいて会合を開いたり、訪問したり・・・などと、普段の学会の庭でしている日常をありのまま話す事ができました。

質問に答えると、それに付属してまた質問が来て、答える。

途中で、「あれ。これってなんか仏法対話になってね?」と気付き、込み上げる嬉しさが加速して、つるつると対話出来ていました。

Kさんも言っていたけど、「一文一句」って何でもいいし、こんなにスムースに楽しく話せるなんて。

その後も、御書を勉強していると言えば後日「お前が勉強してる御書って、どんなん?」と聞かれ、ありのまま答え、
勤行の意味とか、お題目とはとか、お題目をあげていて自分はこうなるよとか、
わざわざ私に質問してくれて、対話させてくれる友人には、心の中で感謝で一杯でした。

どちらかというと創価学会にも政党にも良い感情は少ない人なのですが、こうして一学会員の自分の話を食いついて聞いてくれる事自体、嬉しくて有り難い事です。


折伏は勿論、仏法対話も経験がなさすぎる自分だし、積極的に語る事もままならない自分ですが、「楽しく対話したい!」「楽しんで対話できる自分になりたい!」と願って自行に励んできた中で、相手の方から対話の機会を与えてくれたようにも感じられ、自分にとっては新たに、楽しくて歓喜一杯の対話のスタートを切らせて頂けた思いです。

まだまだ「力あらば」の真意にはしっくりこない自分ですが、
これからも、ありのまま、楽しく、嬉々として、「一文一句なりとも」発信していける自分でありたいです。


(2012.3月)


スレッド一覧

  1. みかん。の未完熟教学箱。(10)
  2. 浮舟さんとの対話(8)
  3. 足あと帳(33)
スレッド一覧(全3)  他のスレッドを探す  掲示板に戻る

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成