(アリの一言(「私の沖縄日記」改め) 2015年04月09日)
天皇と皇后のパラオ訪問(8~9日)(略)の論調は例外なく、「両陛下のお気持ちを私たちもよく考える必要がある」(古舘キャスター)など、「平和を願う慰霊の旅」として賛美・絶賛するものです。しかし、天皇・皇后のパラオ訪問は、はたしてそのように評価できるものでしょうか。美化された映像・報道の裏で、重大な問題が不問に付されていると言わざるをえません。天皇は8日の晩さん会でのスピーチでこう述べました。「先の戦争においては貴国を含むこの地域において日米の熾烈な戦闘が行なわれ、多くの人命が失われました。日本軍は貴国民に、安全な場所への疎開を勧めるなど、貴国民の安全に配慮したと言われておりますが、空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした」日本軍はパラオ住民の「安全に配慮」したが「犠牲者」が出たのは「痛ましい」と、まるで他人事のようです。しかし、パラオ住民が犠牲になったのは、戦争に巻き込まれたからにほかなりません。その戦争の最高責任者は誰だったのか。言うまでもなく、現天皇の父である昭和天皇です。(略)
昭和天皇と「パラオの激戦」との間には、たんに戦争の最高責任者であったというだけではない特別な関係がありました。中川州男ペリリュー島守備隊長以下日本軍の「徹底抗戦」の背景に、天皇の異例の“後押し”があったのです。「中川守備隊長は毎日、ペリリュー本島のパラオ地区集団司令部へ戦況を無線で報告した。それが大本営へ転電された。大本営はつとめてそれらを公表し、そのつど新聞紙上を飾った。太平洋戦争としては珍しく同時進行の大本営発表がおこなわれたわけである。ついには天皇も、『今日のペリリューはどうか』と側近に尋ねるほど、高い関心をもって見守られた。戦闘中に守備隊に対する“御嘉尚(ごかしょう)”は11回におよんだという。1回や2回というケースは少なくないが、11回とは異例だった。御嘉尚とは、『よくやった満足だ』という天皇のおほめの言葉である。こういう場合は万難を排して部隊に伝達されたのである」(前掲『図説 玉砕の戦場』)結果、膨大な死者を出しました。昭和天皇はペリリュー島の「徹底抗戦」を11回もほめちぎり、それに新聞も一役買って、日本全体の「戦意高揚」を図ったのです。
天皇・皇后のパラオ訪問が、まるで他人事のようになった根源は、実は出発前に天皇が行ったスピーチ(羽田空港)に表れていました。天皇はこう述べました。「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ人となった人たちが深く偲ばれます」耳を疑う発言です。南島で戦死した兵士は、「祖国を守る」ために戦地へ行ったのか。そうではありません。日本帝国主義の侵略戦争のために、その戦線を守るために派兵され、玉砕したのです。侵略戦争を「祖国防衛戦争」であったかのようにいい、戦争責任を棚上げすることは許されません。裕仁天皇の長男であり、父から「天皇制」について折に触れて教育を受けた明仁天皇が、天皇の侵略戦争の責任、現地住民や沖縄、朝鮮人への差別に目をそむけ、多大の犠牲を生じさせたことに「謝罪」の言葉もないまま、慰霊碑に供花しても、それは真の追悼とはいえないのではないでしょうか。
追記:
人を「腐す」という所為は精神衛生上心地よいものではありませんし、もうこれ以上は書くまいと思っていましたが、孫崎享氏の以下のツイートを見て改めて煮えたぎるものを感じましたので以下追記しておきます。池田香代子さんのリツイートも付加しておきます。
・内田樹Twitterリツイート(2015年4月10日)
今日の写真、天皇皇后両陛下のパラオ訪問http://t.co/kTqrTVRfHE
— 孫崎 享 (@magosaki_ukeru) 2015, 4月 9
・池田香代子Twitterリツイート(2015年4月08日)
天皇、皇后両陛下のパラオ訪問の意義を書いた社説です。「ペリリュー島は小島ながら、1944年秋に日米両軍が2カ月にわたって死闘を繰り広げ、日本軍約1万人、米軍約1700人が戦死した。今なお遺骨は収集しきれていない」 毎日ジャーナリズム: http://t.co/N2LuWNlPhk
— 小川一 (@pinpinkiri) 2015, 4月 8
孫崎享氏のツイートするWSJの記事にはパラオの海の彼方の戦没者の亡骸に深々と礼を尽くす天皇と皇后の写真がクローズアップされています。また、小川一氏(毎日新聞東京本社編集編成局長)のツイートする毎日新聞の社説記事には「両陛下パラオへ 終わりなき平和の祈り」という見出しと「戦後70年の節目にあたり、激戦地に倒れた多数の戦没者を慰霊し、平和を祈る旅である」「両陛下の戦没者慰霊と平和への深い思いには、長い歩みがある」というリード文が置かれています。
そのそれぞれのツイートをリツイートする内田樹氏と池田香代子さんにもおそらく同感の思いがあるのでしょう。だから、リツイートする。これがいまのリベラル、あるいは左派の代表的(=有名)とみなされている人たちの思想状況なのです。そこにはパラオにおける天皇の「お言葉」に対する批判の視点など微塵もありません。いまという時代の「右傾化」の様相をよく示している事例というべきでしょう。そうした「右傾化」は、いわれるような革新的な「大同団結」に結びつくようなものではなく、逆に戦争へのポイント・オブ・ノーリターン(帰還不能地点)の道をさらに突き進んでいくだけのことにしかならないだろうというのが私の判断であり、私の「いま」という歴史の見方です。
「最新記事」と銘打って掲載している記事である以上、同記事は筆者自らが手がけた(あるいは筆者の独自の見解を述べた)記事であるべきですが、メディアに掲載された記事の単なる転載だけであったり、誰かを批判する記事である場合にはその批判の対象の記事で展開されている「論」の反批判であるべきですが、「論」の内容批判ではない単にその対象記事を書いた「人」を中傷するだけというレベルの記事ともいえない記事が多い。このブログの編集者の目は実のところ「編集者の目」ではありません。編集者のなんたるかをまったく心得ていない人の目、単なるプロパガンダの人の目というほかないものです。
「最新記事」紹介サイトとして「ちきゅう座」というブログの失格宣言をしておきたいと思います。もちろん、以上の意見は、私の目によるものです。
橋下市長の「人を見る眼」はたしかだと僕は思います。あの人の狙いはこの世の中のすべての「権威」とされているものがいかに愚劣なものであるかを徹底的に暴露することにあるので、政治家、行政官、法曹、教員、ジャーナリストの愚劣さ、卑小を証拠立てられる人材を最大限活用しています。
— 内田樹 (@levinassien) 2015, 4月 5
民間人校長や教育長の登用を見ても、「この程度の人間」に頥使されて屈服する教員たちの醜態を世間の眼にさらすことで、教員という種族そのものへの蔑視を育むことが目的だったと僕は思っています。
— 内田樹 (@levinassien) 2015, 4月 5
上記の指摘には内田樹さんのものの見方がよく示されていて、興味深いものがあります。上記の指摘には橋下徹への若干の皮肉もこめられているのでしょうが、この国にポピュリズム思想を蔓延させている橋下徹という人物への深読み的な買いかぶりがあって、端的に言って、危険な思想だと私は思います。
内田樹さんはなぜこのようなものの見方をするのか。そのひとつの解がやはり彼のツイッター発言にあります。内田さんはロシアの思想家のクロポトキンの『相互扶助論』を援用して内田流の思想を以下のように述べています。
凱風館はいま「雇用の創出」、「生きるための技術の伝授」、「相互扶助相互支援のネットワーク形成」をめざして動いていますが、それは19世紀の「空想的社会主義者」の夢想に近いものかもしれません。「一挙にかつ根源的に世界を変える構想以外は無意味だ」という批判に今度は抵抗してみたい。(略)定常経済・相互扶助社会は「夢想」ではなくて、歴史の必然的帰結です。意図的に創り出さなくても、自然にそうなります。この企ての合理性が理解できない人たちは「弱者を支援するために作られた組織」の方が「勝者が総取りする組織」よりも淘汰圧に強いということを知らないのでしょう。ピョートル・クロポトキンの『相互扶助論』をぜひお手に取って頂きたいと思います。クロポトキンは相互扶助する種はそうしない種よりも生き延びる確率が高いという生物学的視点からアナーキズムを基礎づけようとしました。なぜアナーキズムが弾圧されたのか、その理由が読むと分かります。国家による「天上的介入」抜きで市民社会に公正と正義を打ち立てることができるような個人の市民的成熟をアナーキズムは求めました。「公正で雅量ある国家」を建設するより前に、まずその担い手たる「公正で雅量ある市民」を建設しようとしたことに国家は嫉妬したのです。(内田樹Twitter 2015年1月5日)
ただ、現在、アナーキズムやクロポトキンの『相互扶助論』の思想はどのような文脈で用いられているか。いま売出し中(といっても、かなりの程度年数を経ている)の若手政治学者の中島岳志さんの論(中島岳志Twitter 2015年3月19日付)を例にして見てみます。
三原じゅん子氏の「八紘一宇」発言は、前後の文脈こそ重要だ。彼女は企業の租税回避に憤り、グローバル資本主義を正す中で「八紘一宇」の理想を語っている。三原氏は介護やがん患者ケアに熱心な議員。福祉重視で資本主義を警戒する精神が「八紘一宇」に吸引されている点こそ、戦前の革新右翼との類似点
— 中島岳志 (@nakajima1975) 2015, 3月 19
三原氏は福祉に熱心「なのに」八紘一宇に惹かれているのではなく、福祉に熱心「だからこそ」八紘一宇に惹かれるのだ。この論理を理解しなければ、八紘一宇幻想を乗り越えることはできない。
— 中島岳志 (@nakajima1975) 2015, 3月 19
三原氏とパラレルな関係にあるのが、出版したばかりの本で取り上げた下中彌三郎。彼は資本主義がもたらす不平等に憤り、相互扶助的な福祉的コミューンを追求するがゆえに「八紘一宇」の理想に飛びついた人物だ。
— 中島岳志 (@nakajima1975) 2015, 3月 19
下中彌三郎はブルジョア階級の打倒を叫び、疎外を超えた「透明な共同体」を希求する延長上で、天皇による世界の統一を主張した。そして、戦後は絶対平和主義・憲法9条擁護・非武装を訴え、世界連邦運動をけん引した。私は下中が一貫して抱いていた純粋志向に強烈な違和感がある。
— 中島岳志 (@nakajima1975) 2015, 3月 19
ご覧のとおり、ここでは中島岳志さんの「相互扶助」の論は例の「八紘一宇」発言で多くの人から批判を浴びた国会議員の三原じゅん子を擁護するための道具立てとして用いられています。私が内田樹さんのものの見方を(もちろん、中島岳志さんのものの見方も)「危険なものの見方」だというのはそういうことです。
また、内田樹さんについては、先の参院選で湯浅誠さんや中島岳志さんとともに9年前の教育基本法改悪の際に民主党の「教育基本法検討会」事務局長として自民党の同法改悪法案を凌駕する愛国心条項を含む民主党教育基本法改悪案を取りまとめた中心人物である鈴木寛前参院議員の応援団に加わっていたことも想起されるべきでしょう。
しかし、そうした「危険なものの見方」をする内田樹さんに日本共産党の準機関誌的月刊誌といってよい『経済』編集部が原稿を最近発注したということです。
書いたまま塩抜きしてHDの中に置かれていた石川先生との「若マル」往復書簡を『経済』に送稿。『経済』って日本共産党の機関誌ですよね。まさかそんな媒体に原稿を書く日が来ようとは・・・考えてみたら自民党以外のあらゆる政党の機関誌に寄稿してますね。自民党ってケツの穴小さい政党だな。
— 内田樹 (@levinassien) 2015, 3月 2
共産党は内田樹さんになにを期待しているのでしょうか? 「危険なものの見方」を「危険なものの見方」として感知することのできないいまの共産党の理論水準と思想水準にも私は危惧を抱きます。共産党の「右傾化」はどこまで進行して行くのか? こちらのゆくえも気になるところです。そして、上記の愚論を弄する中島岳志さんなどの編集委員を擁する革新メディアを自称する『週刊金曜日』の「右傾化」のゆくえ、「右傾化」した社長としての岡本厚前編集長をトップに擁する岩波の『世界』のゆくえも。
そうした官邸側の打算と思惑は沖縄のメディアも先刻承知で、今回の会談の成立についてもまったく期待を抱いていません。沖縄タイムスの昨日5日付けの社説も「移設反対の民意が示されたという見方を否定し、『普天間の危険性除去をなんとかしてほしいというのが沖縄県民の声』だと、臆面もなく問題をすり替える菅氏の発言は、沖縄の人々に寄り添うという姿勢からはほど遠い。こんな認識で5日の翁長雄志知事との会談に臨むようでは、実のある話は期待できない」というものでした。当然の認識であろうと私も思います。
官邸側も翁長知事側もこの会談を今後も続行させていく旨の宣言をしていますが、両者の会談を会談として実のあるものにするためには前提として「まず、辺野古で進める作業を中止すること。それが話し合いに臨む最低限のルール」(同前朝日社説)というべきものです。そうしない限り、沖縄の政府への不信と反発はますます高まっていかざるをえないでしょう。いまは「話し合い」よりも政府の口先ではない「実行」が求められているのです。
島尻議員はまた「反対派」への警察権力の弾圧も呼び込もうとしている。県警に予防措置の強化を促すその発想は治安維持法に通じるものであり、辺野古新基地建設に反対する名護市民、沖縄県民の行動を、国家の暴力装置を使って抑え込もうとするものだ。それこそ現場での大きな混乱と流血の事態を引き起こしかねない危険な発言である。島尻議員は、これまで17年余にわたって反対してきた辺野古のお年寄りや、「市民投票」以来、分断と対立に苦しんできた名護市民のことを考えたことがあるのだろうか。自らの選挙公約を破ったばかりか、政府に県民への弾圧を促す島尻議員に、県選出の国会議員たる資格はない。即刻辞任すべきだ。「台所から嘘をつく」が売り物のこの腐りナイチャー議員を、1日も早く沖縄から叩き出さなければならない。(海鳴りの島から 2014-02-07)
今回の参議院選挙沖縄選挙区では、自民党公認の島尻氏も普天間基地の「県外移設」を主張している。しかし、それでは島尻氏は、政権交代以前に「県内移設」=辺野古新基地建設を推進してきたことは誤りだったと認めて、反省や謝罪の意を示したのだろうか。本音で「県外移設」を主張し、自民党国防部会副部会長という立場にあっても党の方針に逆らい、辺野古「移設」反対のたたかいを取り組むつもりだろうか。私にはそうは見えない。県民世論に逆らえば選挙に勝てないという政治的判断と、民主党連立政権に対抗するという政局がらみの打算から「県外移設」を主張しているとしか思えない。(海鳴りの島から 2010-07-08)
お友達人事は、このピラミッド構造を強固にするためのものです。みな、「大抜擢」を狙って、安倍総理のご機嫌を取るわけです。自然と安倍氏を取り巻く人たちは権力が大好きな人たちばかりになります。そして右翼チックなことを言って喜んでいる三原じゅん子氏のような例をみれば、よくわかります。調子の乗るだけでなく、暴走しているのです。
今やこのような表現がぴったりです。「自民党にあらずんば人にあらず」右翼チックなことを競い合っているような安倍政権を信任しますか。私たちに問われているのです。(弁護士 猪野 亨のブログ 2015/04/02)
だがこの古賀の発言を”私憤”と一蹴して、せっかくの問題提起を葬り去る動きは同意できかねる。なぜなら私はあれは公憤に見えたからである。かりにひとりの表現者(コメンテーター)が公器の中で歯に衣着せぬ発言をし、それが現政権の怒りを買い(かつて安倍とメシを食った早河)のトップダウンで彼が降板させられたとするなら、それは表現の自由という自由主義社会の根幹を揺るがす出来事であり、かりにその矢面に彼が立ったことでそれを江川らが私憤と片付けることは自らの首を絞めることになるからである。ということはそれが私憤ではないと証明する意味においても古賀は自分の発言の根拠を示す必要があるということだ。」
ここでは藤原さんの言う「私憤ではないと証明する意味においても古賀は自分の発言の根拠を示す必要がある」という立言にしたがって古賀発言擁護の急先鋒のひとり山崎雅弘さん(現代紛争史研究家)の論(ツイッター発言)の私として「同意できかねる」一、二のところを述べておきます。
第1。山崎さんは次のように言います。
社会的な問題を議論する時、全体の構図や力学などに目を向けず、ひたすら登場人物のキャラクター(人格)の論評だけに終始するのは「井戸端会議」的だが、古賀氏の件では一般人だけでなく、プロの「メディア業界人」や「ジャーナリスト」までもが、その「井戸端会議」に参加しているのが異様だと思う。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2015, 4月 3
山崎さんの立論の「社会的な問題を議論する時、全体の構図や力学などに目を向けず、ひたすら登場人物のキャラクター(人格)の論評だけに終始するのは『井戸端会議』的」というのはそのとおりでしょう。しかし、山崎さんの「プロの『メディア業界人』や『ジャーナリスト』までもが」という立論は大雑把にすぎるでしょう。ここで山崎さんの念頭にある「ジャーナリスト」たちは江川紹子さんやニュースウイーク編集長の竹田圭吾さんらのことでしょうが、同じジャーナリストでも今井一さんや想田和弘さん(映画監督兼ジャーナリスト)は山崎さんの主張の戦列に連なる人たちです。だとすれば、ここで客観的に言えることは、同じジャーナリストでもさまざまな主張の人たちがいるということだけです。
それを「ジャーナリスト」というくくりでひとつにして、自分たちの主張と異なる主張を持つジャーナリストは真のジャーナリストではないかのように言う。その言は、ジャーナリズムという多様な言論空間を自ら否定する(藤原さんの言葉を借りれば「自らの首を絞める」)誤りの立論というべきではないか。同じひとつの事象も見る角度を異にすれば違って見えるということは一般人であってもよく経験することです。「ジャーナリスト」であっても同じことです。ジャーナリストの見る角度、見る眼によって同じ事象は異なった様相を帯びることはしばしばあります。その多様性をジャーナリズムというべきなのです。多様性のある見方を否定してはまさに「自らの首を絞める」ことにしかならないでしょう。
第2。山崎さんは次のようにも言います。
今まで政権や政治部の「政権寄り」からの圧力から番組を守り続けた気骨ある女性プロデューサーが更迭され、後任がどんな方針で番組作りをするのか。政権寄りにシフトするなら、批判を浴びないよう当面は今までの路線を続け、視聴者が気づかない程度のスピードで少しずつ、ハンドルを切っていくだろう。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2015, 4月 3
しかし、「『政権寄り』からの圧力から番組を守り続けた気骨ある女性プロデューサーが更迭」されたというのはほんとうか? 4月2日発売の『週刊文春』(4月9日号)の「『報道ステーション』電波ジャック古賀茂明vs.古舘伊知郎 内ゲバ全真相」という記事によれば、この4月のテレビ朝日の人事異動でくだんの「女性プロデューサー氏はテレビ朝日経済部長に転じた」といいます。この人事異動は一般に栄転と呼ばれるべきものであって、それを「更迭」などというのはあまりに主観の勝ちすぎた見方というべきでしょう。ここでも山崎さんの主張の誤りは明らかです。「視聴者が気づかない程度のスピードで少しずつ、ハンドルを切って」「政権寄りにシフトするなら」、それは、女性プロデューサーの更迭の結果ではなく、その女性プロデューサー氏も含むテレビ朝日全体の権力への追随の結果と見るべき性質のものです。古賀氏擁護の論はここでも破綻しています。
ところで、この「女性プロデューサー更迭」論はそもそも古賀茂明さんがくだんの「報ステ」発言の際に持ち出したもので、そういう意味では古賀さんの「報ステ」発言の論そのものに相当主観的で歪んだ認識が含まれていたことを示しています。にもかかわらず、上記の山崎ラインの認識は、共産党員、あるいは共産党支持者の間にもかなりの程度浸透しているようです。こちらは地方の共産党員の大学名誉教授のブログですが、また、こちらは同大学名誉教授が推奨する共産党のシンパサイザーのジャーナリストの土井敏邦さんのブログですが、そこでも古賀茂明さんの論が検証と批判抜きで、すなわち、山崎ラインレベルで高く評価されています。そして、その両者のブログ記事で持ち上げられているのはこちらのブログ(ちなみにこのブログ主宰者も共産党員、もしくはシンパのようです)や弊ブログにおいて似非ジャーナリストやイエロー・ジャーナリスト、デマゴーグなどと繰り返し々々批判している田中龍作氏や岩上安身氏の記事です。この国の右傾化だけでなく、いわゆる左派、リベラル勢力の砦として存在してきた共産党内の右傾化もいまや中央においても地方においてものっぴきならない形で底深く、底深く進行している様相です。そのひとつの証左として古賀「報ステ」発言問題を例にして挙げておきます。
こうして見てくると、藤原新也さんの道理のある論があらためて光ってくるように思えます。
先に私は岩波書店の就業規則改悪問題に関して前共同通信記者で現同志社大学教授の浅野健一さんの岩波書店批判と弁護士の澤藤統一郎さんの同書店『世界』編集者の熊谷伸一郎氏批判の論をご紹介しましたが、実はご紹介した同論攷で浅野健一さんは就業規則改悪問題に関連して岩波書店社長の岡本厚氏(前『世界』編集長)の批判もしていました。金光翔さん(前『世界』編集者)の『資料庫』のサイトに浅野さんの同論の全文があらたに掲載されていることからわかりました。同論で浅野さんの指摘する事実は岩波書店と『世界』の右傾化とさらなる劣化を同社を指導する立場の「社長(当時、『世界』編集長)の右傾化」という側面から証明するものといえるでしょう。弊ブログにも岩波と『世界』の右傾化の事実を示す証拠のひとつとして関連部分を引用、アップしておきたいと思います(全文は上記サイトでご覧ください)。
以下、浅野健一さんの論。
ここでいう岩波書店の「著者」というのは、岩波書店の定義では、記事、論稿を一度でも岩波書店の刊行物に書いたことのある人で、関係取引先は、岩波書店が広告を出している新聞社、雑誌社を含むという。(略)
・70年前の4月1日、米軍55万人が沖縄本島へ上陸した。この90日に及ぶ沖縄戦で、日本軍による強制「集団自決」は1700人、さらに沖縄県民20万人が犠牲となり命を落とした。米軍は最初から沖縄に大きな基地を作り、日本本土への侵攻拠点とする戦略だった。そして今もなお沖縄には34の米軍施設があり、その土地面積は日本にある米軍施設の約75%を占める。オスプレイや戦闘機の騒音、実弾演習による山林火災、墜落事故、米軍人による事件は絶えない。そこへ加えて、さらに沖縄・辺野古に新基地を作ろうと、安倍政権は躍起になっている。しかも防衛局は、許可なく45トンもあるコンクリート製ブロックを海底に埋め、サンゴが育つ岩礁を破砕している。米倉外昭・琉球新報記者は「地元メディアの記者たちが辺野古の現地で、国家権力むき出しの暴力に目を凝らし、沖縄の民意を無視してゴリ押しする政府を厳しく糾弾」しているのに、「全国メディアは、工事の進捗、行政上・法律上の手続き、特に政府と沖縄県の対決とその行方など、いわゆる<落としどころ報道><ひとごと報道>にのみ向いている」(「ジャーナリスト」3月号)と指摘。戦後70年の今本土の私たちには、沖縄で政府が行っていることの重大さを、、自らのこととして考え取材し報道する、その責務が問われている。(Daily JCJ【今週の風考計】2015年03月29日)
・右傾化については、今の日本は間違いなく右傾化していると思います。(略)右傾化の最大の要因は、人々の暮らしが良くならないか、さもなくば悪化していることに起因する閉塞感でしょう。そのために、たとえば民族主義に走る心理規制は、私にも理解できます。なぜなら私自身、「グローバルスタンダード」という言葉を批判する論法を覚えた90年代後半に、民族主義的な心情に傾いた時期があるからです。(略)私の場合は反中反韓ではなく反米の心情を強めたのですが、当時言われた「マネー敗戦」という言葉に、「経済でアメリカに負けるようになったか」と思ったのが、反米の心情を強めた理由でした。ですから、その頃が私の生涯でもっとも右傾化していた時期だったと自己規定しています。ちなみにそれは、現在「小沢信者」として私が批判している人たちの心情とよく似たものではなかったかと思っています。つまり、「小沢信者」とはリベラルまたは左派が右傾化して生まれた人々なのではないかというのが私の仮説です。現在は、経済敗戦や生活苦に対する人々の鬱憤がアメリカではなく中国や韓国に向かい、それが戦前回帰を狙う極右政治家の安倍晋三政権の歴史修正主義と相俟って、危険極まりない状態に至っている状態だと捉えています。(きまぐれな日々 2015.03.30 )
・そして最後に、この作品集の中で最大の中編「霧の犬」が来る。原稿用紙二〇〇枚を超える長い作品ではあるが、九五の短い章が積み重ねられていくものの、はっきりとしたプロットが読み取れるわけではない。表題が示唆するように、すべては霧の中にあるかのようで、霧はいたるところで「とほろとほろ」「しむしむしむ」「ましかませましましましか」と湧き、「ほどろほどろ」と降り続け、景色は「もどろ」であり、「はだら」である。「もうこわれている」かもしれないこの世界では、「であることは、でないこととさほどの異動はな」く、物事は「ある」「無い」とは言われず、「あられる」「無かれる」といった具合に受け身で表現される。/そして霧の中を三本肢の犬が歩き、主人公の男は女に足を洗われ続け、無蓋貨車が戦車を積んでどこかに走っていく。住人たちは「ふ」「む」「ゑ」「き」「ん」といったひらがな一文字で呼ばれる個人だが、「わたし」の個はしばしば四つに分裂した。「じかんのおわりがはじまっている」、「それは、もうはじまっていた、おわっているのかもしれなかった」――といった、黙示録的な雰囲気が充満している。/異様な作品だと言ってもいいだろう。言語実験と世界の崩壊が並行し、読者は霧の中に取り残される。難解ではあるが、これほどの言語的な手ごたえを持った実験的な作品は、今の文芸界でめったにお目にかかれるものではない。この作品が提示している逆説は、崩れた世界を崩れかけた言語で描きながら、紛れもない新しい言語世界を創り出しているということだ。この作品に限らず、他の比較的短い作品もすべて異様に密度の濃い文体と、そこから立ち上る気迫の鋭さによって圧倒的である。おそらく並々ならぬ怒りと絶望を秘めながらも、それを抑えて作品を構築していこうとする意志から、これらの作品の類を見ない強度が生まれているのだろう。(辺見庸『霧の犬』書評、沼野充義「週刊読書人」2015年3月27日)
・沖縄知事と担当相、東京での会談調整:朝日新聞デジタル-2015年4月1日←左記のような報道に関わる問題について以下のような指摘があります。私は「話し合い」自体は否定しませんが、「話し合い」の罠についても十分に認識しておくべきだろうと思います。以下、「今日の言葉」として(引用者)。
カメラマンに望遠レンズを向けられ、武器かと思って両手をあげたシリア難民の女の子。この写真が深い悲しみと共に、インターネットで広まっています(BBC News Japan 2015.3.31)。
撮影したトルコの写真記者Osman Sağırlıさんは昨年12月、トルコ国境に近いシリアのアトメ難民キャンプで4歳の女の子フデアちゃんを撮影。フデアちゃんは母親やきょうだい2人と共に150キロ離れた故郷ハマから逃れてきたのだと http://t.co/M9dOWuOiYi
— BBC News Japan (@bbcnewsjapan) 2015, 3月 31
林防衛相が翁長知事の作業停止指示を一時的に無効にする意向を固めたことに、辺野古のキシュワブゲート前で新基地建設に反対し座り込む市民からは「国は道義ない。国のやり方は身勝手だ。県民の意見を聞かず、許せない」と憤りの声が上った。 pic.twitter.com/VU3gGxGw2Y
— 伊波 洋一 (いは よういち) (@ihayoichi) 2015, 3月 30
・<社説>農相の無効判断 法治骨抜きの異常事態だ
(琉球新報 2015年3月30日)
・<社説>農相効力停止決定 まるで中世の専制国家 民意無視する政府の野蛮(琉球新報 2015年3月31日)
・社説[農相「無効」決定]透明性も適格性も疑問
(沖縄タイムス 2015年3月31日)
こうした「本土」の政党の不甲斐なさが安倍政権の慢心をさらに増長させている。だから、「中世の専制国家」さながらの野蛮な強引さで沖縄の民意を無視しても、そういうことなど歯牙にもかけない、ということになっているのではないか? だから、今回の安倍政権の増上慢の責任は同政権だけでなく、同政権をまっとうに批判することさえできない政党をも増長させる程度の選択をしてしまった私たち「本土」の有権者そのものにある、ともいえるでしょう。翻って考えてみれば、安倍政権の「野蛮政治」の責任は私たちというひとりひとりの「個」にあるのです。
「沖縄県民の心情はどんどん悪化し、政府だけでなく日本全体への反発、離反意識が強まるでしょう」
が、その前に3月28日付けのエントリでご紹介している高世仁さんの記事を再掲しておこうと思います。同記事で高世仁さんは本日のエントリのテーマに重なる問題として某テレビ局のあるニュース番組のスタッフの重要な証言を言論の自由に関わる重要な問題提起として紹介しています。
水島さんは、かつて日本テレビ系の札幌テレビ(STV)の社員で、ロンドン、ベルリンの特派員やNTVで解説員までつとめ、2013年に退社して今は法政大学でジャーナリズムを教えている。5人でワイワイやっているうち、今のテレビ局、おかしいんじゃないか、という話題になった。そこで、先日、某テレビ局のあるニュース番組のスタッフに聞いた驚くべき話を披露した。去年7月1日、安倍内閣が集団的自衛権行使容認を決めた日のこと。いつものように、30人のスタッフを集めて打ち合わせがあった。そこで番組の責任者が「きょうは『街録』(街頭録音)はやらなくていい」と言ったという。消費税が増税されるとか、原発の再稼働が認可されたとか、重要な政策転換があれば、街頭インタビューで街の声を拾って放送するのは「定番」だから、これは異例の指示だった。一人のスタッフが質問した。「今日こそ街録が必要なんじゃないですか、なんでやらないんですか」。その責任者が放った答えはこうだ。「おれたち共産党じゃないよな」さらに、「街録で答えたヤツが共産党員でないか、証明できるのか?」その場にいたスタッフは沈黙したまま打ち合わせは終り、その日、集団的自衛権行使容認のニュースに、街録は流れなかったという。(高世仁の「諸悪莫作」日記 2015-03-20)
本日の記者会見(6:45頃~)で菅官房長官は報ステの古賀発言について「事実無根だ」と全否定していますが、古賀さんが「菅官房長官が『とんでもない放送法違反だ』と裏で言っていると聞いています」と言っているのはおそらくほんとうのことでしょう。ここで古賀さんが「裏で」と言っているのは菅官房長官のオフレコ発言を指しているのだと思いますが、証明できないのがオフレコ発言の特徴です。だとすれば、裁判所でも検察でもない私たちは状況証拠から判断する以外ありませんが、古賀さんは数人の記者からそのオフレコ発言を聞いたと言っています。上記の高世仁さんが紹介する事例、また、昨年の総選挙直前の11月の政府の露骨なメディア介入の事例などなどと重ねあわせてもこの場合の発言の信憑性は古賀発言の方にあると見るのが常識的な判断というものだろうと私は思います。
さて、以下が想田和弘さんと山崎雅弘さんの古賀発言評価。
【まとめ】
この発言自体が露骨な圧力ですよ。→菅長官、バッシング「事実無根だ」「当然、放送法という法律があるので、まずテレビ局がどういう風に対応されるかをしばらく見守りたい」 報ステでの発言に - 朝日新聞デジタル彼 のボスもそうだが、菅官房長官は自らに権力があることを自覚し自重するどころか、権力をちらつかせて反対者を黙らせることに躊躇がない。ヤクザと同じ。朝日バッシングに見られたように、マスコミも団結して横暴な権力と闘うどころか、同業他社を叩く好機とばかりに尻馬に乗るのだから始末におえぬ。権力を笠に着るタイプの人間に政治権力を与えては絶対にダメなんですよ。なぜなら権力は良い方に使えば効果も絶大だけど、悪用されたら破壊的な威力を発揮するので。だから権力の暴走を抑えるために三権分立や憲法や報道があるわけだが、それらも骨抜きにされっぱなしだからひとたまりもない。日本のデモクラシーがこれほど脆いものだったとはね。なかなか受け入れがたいけれど、もはや認めざるを得ない事実だと思う。
この発言自体が露骨な圧力ですよ。→菅長官、バッシング「事実無根だ」「当然、放送法という法律があるので、まずテレビ局がどういう風に対応されるかをしばらく見守りたい」 報ステでの発言 - 朝日新聞デジタル http://t.co/H1pdRgUgSA
— 想田和弘 (@KazuhiroSoda) 2015, 3月 30
彼のボスもそうだが、菅官房長官は自らに権力があることを自覚し自重するどころか、権力をちらつかせて反対者を黙らせることに躊躇がない。ヤクザと同じ。朝日バッシングに見られたように、マスコミも団結して横暴な権力と闘うどころか、同業他社を叩く好機とばかりに尻馬に乗るのだから始末におえぬ。
— 想田和弘 (@KazuhiroSoda) 2015, 3月 30
権力を笠に着るタイプの人間に政治権力を与えては絶対にダメなんですよ。なぜなら権力は良い方に使えば効果も絶大だけど、悪用されたら破壊的な威力を発揮するので。だから権力の暴走を抑えるために三権分立や憲法や報道があるわけだが、それらも骨抜きにされっぱなしだからひとたまりもない。
— 想田和弘 (@KazuhiroSoda) 2015, 3月 30
日本のデモクラシーがこれほど脆いものだったとはね。なかなか受け入れがたいけれど、もはや認めざるを得ない事実だと思う。
— 想田和弘 (@KazuhiroSoda) 2015, 3月 30
【まとめ】
古賀茂明が『報ステ』放送中・放送後のスタッフとのやりとりをすべて明かした!(リテラ)「放送から一夜明け、古賀氏が、彼に非常に近い新聞記者に語った内容を我々は独自ルートで入手した(古賀氏本人に確認したところ『ノーコメント』)」。テレビ朝日の報道局員「報道フロアはもう騒然となってましたよ。報道局幹部は、激怒してましたが、番組のスタッフや局員からは、よく本当のことを言ったという称賛の声や、普通のことを言っただけじゃないかという冷静な声、激論はあってもいい、面白い、視聴率が取れるといった様々な声が出てました」古賀茂明「(番組幹部W氏に)あなたは名前を出さないで裏でそういうふうに圧力かければすべて済むからいいですけど、僕は名前出してやっているんですよ、と。だからあなたも正々堂々と言えると思っているんだったら、名前を言っても何も困らないでしょうと言ったら、それは困ると」「私が黙っていたら、前にあったテレビ局への自民党からの圧力文書の時、テレビ局が何も抗議しなかったことと同じになってしまう。だから私は黙っているわけにはいかない。菅さんが脅してくるなら、私はそれを言いますからねと、だから申し訳ないけど私はああいうことを言わせてもらった」
テレビ業界の人は、局内の「非公式な放送コード」にすっかり順応してしまい、言論の自由への制約が以前より強まっても、もう疑問にも思わなくなっているのか。「他局もそうだから」みたいな、外部から見れば何を言ってるのかと思う理屈で、本来持ち続けるべき疑問を流してしまっているようにも見える。古賀氏が指摘しているように、昨年末の総選挙で自民党がテレビ各局に「与党批判するな」と恫喝した時、大手テレビ局は形式的な抗議文を出しただけで実質では完全に服従した。与党圧勝という予想を一斉に出して与党有利の流れを作り、政策の失敗は報道せず、テレビコメンテーターもその流れに追従した。古賀氏の行動について「テレビコメンテーターのあるべき姿」という小さい箱の中に論点を押し込み「コメンテーターとしては失格」と切り捨てて幕引きにする光景を見ると、言論の自由はこうして社会から失われていくのかと改めて思う。言論の不自由を否認することで、それは論点から徹底的に除外される。
*
「政府のテレビ局への圧力」という民主主義の根幹に関わる問題に一切触れず、古賀氏の人格問題に矮小化して袋叩きにする動きの中に、テレビ業界人の姿もあるのが異様だと思います。古賀氏を見せしめとして潰す前例を作ることは、自分達の足枷をさらに大きくするはずですが。古賀氏の件で不思議なのは、テレビ業界人やテレビコメンテーターの中に「自分は政権批判NGなんて一度も言われたことがない」「だから今まで安倍政権を批判したし、今後もする。NGと言われても従わない」とコメントする人が見当たらないこと。政府の圧力が古賀氏の妄想なら、こう明確に言えばいい。たった一人のテレビ出演者が、水面の下に隠れていた「言論の不自由」を水面の上に出すだけで、慌てふためいてそれを手で覆い、出した人間を袋叩きにする。対米従属の否認、言論の不自由の否認、男女不平等の否認、汚染水海洋漏洩の否認など、社会の中で「無いこと」にされる現実がどんどん増えている。
古賀茂明が『報ステ』放送中・放送後のスタッフとのやりとりをすべて明かした!(リテラ)http://t.co/1tbPDrBOBo「放送から一夜明け、古賀氏が、彼に非常に近い新聞記者に語った内容を我々は独自ルートで入手した(古賀氏本人に確認したところ『ノーコメント』)」
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2015, 3月 30
テレビ朝日の報道局員「報道フロアはもう騒然となってましたよ。報道局幹部は、激怒してましたが、番組のスタッフや局員からは、よく本当のことを言ったという称賛の声や、普通のことを言っただけじゃないかという冷静な声、激論はあってもいい、面白い、視聴率が取れるといった様々な声が出てました」
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2015, 3月 30
(続き)古賀茂明「(番組幹部W氏に)あなたは名前を出さないで裏でそういうふうに圧力かければすべて済むからいいですけど、僕は名前出してやっているんですよ、と。だからあなたも正々堂々と言えると思っているんだったら、名前を言っても何も困らないでしょうと言ったら、それは困ると」
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2015, 3月 30
(続き)「私が黙っていたら、前にあったテレビ局への自民党からの圧力文書の時、テレビ局が何も抗議しなかったことと同じになってしまう。だから私は黙っているわけにはいかない。菅さんが脅してくるなら、私はそれを言いますからねと、だから申し訳ないけど私はああいうことを言わせてもらった」
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2015, 3月 30
テレビ業界の人は、局内の「非公式な放送コード」にすっかり順応してしまい、言論の自由への制約が以前より強まっても、もう疑問にも思わなくなっているのか。「他局もそうだから」みたいな、外部から見れば何を言ってるのかと思う理屈で、本来持ち続けるべき疑問を流してしまっているようにも見える。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2015, 3月 30
古賀氏が指摘しているように、昨年末の総選挙で自民党がテレビ各局に「与党批判するな」と恫喝した時、大手テレビ局は形式的な抗議文を出しただけで実質では完全に服従した。与党圧勝という予想を一斉に出して与党有利の流れを作り、政策の失敗は報道せず、テレビコメンテーターもその流れに追従した。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2015, 3月 30
古賀氏の行動について「テレビコメンテーターのあるべき姿」という小さい箱の中に論点を押し込み「コメンテーターとしては失格」と切り捨てて幕引きにする光景を見ると、言論の自由はこうして社会から失われていくのかと改めて思う。言論の不自由を否認することで、それは論点から徹底的に除外される。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2015, 3月 30
*
「政府のテレビ局への圧力」という民主主義の根幹に関わる問題に一切触れず、古賀氏の人格問題に矮小化して袋叩きにする動きの中に、テレビ業界人の姿もあるのが異様だと思います。古賀氏を見せしめとして潰す前例を作ることは、自分達の足枷をさらに大きくするはずですが。@KazuhiroSoda
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2015, 3月 30
古賀氏の件で不思議なのは、テレビ業界人やテレビコメンテーターの中に「自分は政権批判NGなんて一度も言われたことがない」「だから今まで安倍政権を批判したし、今後もする。NGと言われても従わない」とコメントする人が見当たらないこと。政府の圧力が古賀氏の妄想なら、こう明確に言えばいい。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2015, 3月 30
たった一人のテレビ出演者が、水面の下に隠れていた「言論の不自由」を水面の上に出すだけで、慌てふためいてそれを手で覆い、出した人間を袋叩きにする。対米従属の否認、言論の不自由の否認、男女不平等の否認、汚染水海洋漏洩の否認など、社会の中で「無いこと」にされる現実がどんどん増えている。
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2015, 3月 30
(kojitakenの日記 2015-03-29)
以下、山崎雅弘さんと加藤典洋さんの3月27日放送の「報ステ」における古賀発言評価。
あらゆる出来事と同様、昨晩の『報道ステーション』の意味や価値も、今すぐ評価できるのは全体の一部でしかない。全体の意味は、何年も経った後で初めて明らかになる。古賀茂明氏の件に限らず、政治的な意志表示をする人間に対して、その主張内容の是非に触れることを避けつつ、意志表示の手段や形式的瑕疵、発言者の人格問題に論点をすり替えるパターンは多い。社会の「形式」を管理統制することに長けた人々から見れば、こうした思考パターンは自分たちの味方だろう。
本ブログの「今日の言葉」の2015年3月13日から3月27日までの記録のその2(「福島」「原発」「貧困」「回顧」編。既出記事は除く)です。
・ドイツの公共放送ZDF「原子力エネルギーのカムバック」日本をはじめ世界各国の「原子力ロビー」の暗躍がテーマで、首相が「原子力産業の代理商」に成り下がっている現実をストレートに報道している。日本の安倍晋三首相が「原子力産業のセールスマン」で、「陰に潜むビッグプレーヤーが東芝、日立、三菱」だという指摘は、単に現在進行中の事実を事実として報じているだけだが、日本の大手メディアはそんな程度の「事実の指摘」すら行えない。ドイツの公共放送ZDFは、日本政府と原子力産業を「情報隠蔽と改竄の常習犯」と見なした上で、「これまでの路線を変えないまま、日本が核技術を輸出することに不安を覚える」と指摘している。「なぜなら、海外で違う態度をとるとは思えない」/原発推進へ国民分断、メディア懐柔 これが世論対策マニュアル(赤旗、2011年7月2日)「原発『世論対策マニュアル』をつくった日本原子力文化振興財団の活動費の3~4割は税金」「同財団の理事には八木誠関西電力社長のほか清水正孝東京電力社長(当時)、玉川寿夫民間放送連盟常勤顧問、加藤進住友商事社長、庄山悦彦日立製作所相談役、佃和夫三菱重工会長、西田厚聡東芝会長、林田英治鉄鋼連盟会長など」「文科系は数字をありがたがる」「良識的コメンテーターの養成」「テレビディレクターに知恵を注入」東芝、日立、三菱、民放連など。原子力PA*方策の考え方(PDF)驚くのは、マスコミ向け対応策を指南した「原子力PA方策委員会」の委員長が、中村政雄読売新聞社論説委員という事実。報道人が「情報操作の手引き」をしている。「数名からなるロビーをつくり、コメンテーターの養成に努める」「特定のテレビ局をシンパにするだけでも大きい意味がある」「広報担当官は、マスコミ関係者と個人的つながりを深めておく。人間だから、つながりが深くなれば、当然、ある程度配慮し合うようになる」「日頃から、役立つ情報をできるだけ早く、かつまた、積極的に提供しておく。それが信頼関係を築く。記者にとってはありがたい存在になる」「平生から、特に社会部の記者とのつながりを深めておくことが大切である」時間をかけて「大手マスコミ関係者」を「飼い慣らしていく手口」が、赤裸々に解説されていて興味深い。(山崎 雅弘Twitter 2015年3月15日)
・干刈あがたの作品をぼくは読んだことがない。しかし、60年安保のとき、高校2年生だった彼女もまたデモに参加している。樺美智子の死に衝撃を受けたという。早稲田大学を中退、雑誌のライターをしながら、結婚し、2児の母となった。そして島尾敏雄のアドバイスで、奄美などの島唄を採集しはじめたという。1982年、「樹下の家族」で『海燕』新人文学賞を受賞、その後、「ウホッホ探検隊」や「ゆっくり東京女子マラソン」などの小説を書き、1992年5月に亡くなった。著者はこう書いている。〈彼らが嫌った『偽モノ』とは、まさに復興期の社会意識(民主主義)と成長期の社会意識(消費主義)の節操なき混交のうちにあった。それは、相手に応じてナショナリズム(反米)にもデモクラシー(反岸)にも化け、いつの間にか『所得倍増』のキャンペーンに同調していった。このキマイラのような〈社会意識〉が醸し出す臭気に、彼らは反撥した。この一点において、山口二也とファイティング原田と加賀まりこと干刈あがたを同列に論じることができると私は思った。そして、たぶん、そうした乱暴な世代論が成立する年は、この前にも後にもないような気がしている〉よくわからない。若者がたたかい、傷つき、立ち直って、また傷ついていたことはたしかである。若者もいつしか年をとる。しかし、たたかいは死ぬまで終わらないだろう。(海神日和 2015-03-15)
・「福島にどう関わるか」。復興業界では「支援」という言葉が使われますので、「福島をどう支援するか」と言い換えてもいいです。必ず、この「善意」が絡んでくるから、そう簡単に拒否したり批判できなかったりもする。その結果、一方では、自らの「善意」を信じて疑わないけれど、実際はただの迷惑になっている「滑った善意」を持つ人の「善意の暴走」が起こり、問題が温存される。多大な迷惑を被る人が出てくる。他方では、本当に良識ある人が「的を射た善意」も持つのに、気を使いすぎる結果、タブー化された「言葉の空白地帯」が生まれて、そこについて皆が語るのをやめ、正しい認識をだれも持つことができなくなる。迷惑が放置される。この「善意のジレンマ」とでも呼ぶべき、「滑った善意」と「的を射た善意」という逆方向に向かう二つの矢印がすれ違う。結果、「悪貨が良貨を駆逐するように、「滑った善意」だらけになって「迷惑」が放置され、状況が膠着する。この状況を抜け出す際に意識すべきことは一つだけです。「迷惑をかけない」ということです。これが「「福島へのありがた迷惑12箇条」だ!(略)典型的な「ありがた迷惑」から、事例を交えて、見ていきましょう。1.勝手に「福島は危険だ」ということにする(略)2.勝手に「福島の人は怯え苦しんでる」ことにする3.勝手にチェルノブイリやら広島、長崎、水俣や沖縄やらに重ね合わせて、「同じ未来が待っている」的な適当な予言してドヤ顔(略)4.怪しいソースから聞きかじった浅知恵で、「チェルノブイリではこうだった」「こういう食べ物はだめだ」と忠告・説教してくる(略)5.多少福島行ったことあるとか知り合いがいるとか程度の聞きかじりで、「福島はこうなんです」と演説始める(略)6.勝手に福島を犠牲者として憐憫の情を向けて、悦に入る(略)7.「福島に住み続けざるを得ない」とか「なぜ福島に住み続けるのか」とか言っちゃう(略)8.シンポジウムの質疑などで身の上話や「オレの思想・教養」大披露を始める(略)9.「福島の人は立ち上がるべきだ」とウエメセ意識高い系説教(略)10.外から乗り込んできて福島を脱原発運動の象徴、神聖な場所にしようとする(略)11.外から乗り込んでくることもなく福島を被曝回避運動の象徴、神聖な場所にしようとする(略)12.原発、放射線で「こっちの味方か? 敵か?」と踏み絵質問して、隙を見せればドヤ顔で説教(開沼博 2015年2月28日)
・原発メーカー訴訟弁護団の主張の根本的な誤り。島弁護士から3月17日に「配達証明」で送付されてきた「ご通知」をめぐってのメールを公開します。これによって原発メーカー訴訟弁護団が元事務局長の崔勝久の代理人辞任届けを裁判所に提出することを再度明らかにしています。私はこのメールの中で弁護団が主張する代理人辞任の主張に根本的な問題があることを明らかにしました。1.原発メーカー訴訟においては原告と弁護団の間で書類による委任契約は締結されていない。2.あるのは裁判所に提出した訴訟委任状だけで、そこでは原告が弁護士を訴訟代理人として選任することを明記している。3.従って原告を信頼できないというのであれば、選任された弁護士がとる行動は原告の代理人辞任ではなく、自らこの訴訟の代理人を降りることである。4.島弁護士のこの間の言動は、原告団(=「訴訟の会」)に対する不当な介入であり懲戒請求に値することは明らかであるが、メーカー訴訟に全力を尽くすのであれば、新事務局と無条件での話し合いに応じ、これからの裁判の進め方について真摯に議論すべきである。5.弁護団がそれでも崔勝久の代理人辞任を強行すれば、弁護団を解任すると意思表示する原告が多く存在し、裁判の遅延につながる。弁護団は裁判の遅延につながる行為をすべきではない。(オクロス 2015年3月25日)
外国人技能研修生をコンビニで受け入れると経産省。この制度は非常にアンフェアなものであり、不当に低い賃金で外国人を働かせてきた。経済再建のために外国人を利用するという考え方は不正義である→http://t.co/i1Wov8R2Dq
— masanorinaito (@masanorinaito) 2015, 3月 27
本ブログの「今日の言葉」の2015年3月13日から3月27日までの記録のその1(「安倍批判」編。既出記事は除く)です。
・ドイツのメルケル首相の訪日に続いてミシェル夫人が来日した。これは偶然なのだろうか。事前に両者に何らかの通底があったのかどうかは不明だが、この二人にはある問題に関する共通の関心事がある。(略)メルケル首相は会見の場をわざわざかねてより従軍慰安婦問題に積極的に取り組んできた朝日新聞社に設定し、暗に従軍慰安婦問題に関心のあることを示した。そしてドイツが戦後自からの非を認めたことを引き合いに日本(というより(略)安倍政権)に加害者側としての意識が低いということを遠回しに非難している(略)。メルケル首相に続いて昨日来日したミッシェル夫人は日本嫌いとの風評がある。(略)だが私はミッシェル夫人は日本嫌いだとは思わない。(略)ミッシェル夫人は日本が嫌いなのではなく、安倍が嫌いなのである。メルケル首相同様、彼女にとって女性の問題には当然敏感であり、安倍がうやむやにしょうとしている従軍慰安婦問題は見過ごせない”女性の人権蹂躙問題”なのである。私はこの従軍慰安婦問題に関しては、軍が関与していたか、していなかったかというそんなことは枝葉末節な問題でありどうでもいいと思っている。植民地の女性を日本軍人が慰安婦として徴用したこと。それが問題なのであり、軍がどうした民間がこうした、などはどうでもよいことだ。(略)海外ではこの従軍慰安婦問題が象徴する安倍は、女性の人権を無視する先進国唯一のリーダーだとレッテルを貼られていることを(日本のメデイアが報じないため)案外日本人は気がついていない。またこのことも井の中の蛙である日本人はとんと気づいていないが、この問題を軸に日本(安倍)は先進国の女性リーダートライアングル、メルケル首相、ミッシェル夫人、そして朴 槿惠に包囲されているのである。このすぐれて女性の人権問題である従軍慰安婦問題を棚上げしょうとする安倍の新たなキャッチフレーズが”女性が輝く社会”というのは口先三寸男の面目躍如であり、おそらく女性リーダートライアングルはこのことをしてさらに安倍を最低男と思っているのではないか。(略)私は戦後70年幾多の宰相を見てきているが写真家の観点から各時代の宰相にはそれぞれに男の度量と色気というものが感じられた。だが安倍にはこれがない。私の安倍嫌いの一因はここにもある。(藤原新也 2015/03/19)
・きょうは、GALAC(ぎゃらく)という雑誌の座談会に呼ばれて新宿へ。この雑誌は、ギャラクシー賞を出しているNPO放送批評懇談会が発行するテレビとラジオの批評誌だ。座談会のテーマは「イスラム国」の日本人人質事件とテレビについてで、出席したのは共同通信の原田浩司、フリーでアフガンの米軍従軍取材で知られる横田徹、イラク戦争から現地を取材しつづける綿井健陽の各氏。私は、ジャーナリスト常岡浩介さんの私戦予備陰謀容疑でのガサ入れへの対応、常岡さんのテレビ出演時の政府批判封じ込め、旅券返納命令への屈服などの例をあげて、日本のテレビ局の姿勢はひどすぎると批判したが・・・仕事を干されてしまうかも。6月号に掲載予定なので、関心ある方は書店でごらんください。座談会のあと、司会の水島宏明さんも交えて近くの「塚田農場」で飲んだ。水島さんは、かつて日本テレビ系の札幌テレビ(STV)の社員で、ロンドン、ベルリンの特派員やNTVで解説員までつとめ、2013年に退社して今は法政大学でジャーナリズムを教えている。5人でワイワイやっているうち、今のテレビ局、おかしいんじゃないか、という話題になった。そこで、先日、某テレビ局のあるニュース番組のスタッフに聞いた驚くべき話を披露した。去年7月1日、安倍内閣が集団的自衛権行使容認を決めた日のこと。いつものように、30人のスタッフを集めて打ち合わせがあった。そこで番組の責任者が「きょうは『街録』(街頭録音)はやらなくていい」と言ったという。消費税が増税されるとか、原発の再稼働が認可されたとか、重要な政策転換があれば、街頭インタビューで街の声を拾って放送するのは「定番」だから、これは異例の指示だった。一人のスタッフが質問した。「今日こそ街録が必要なんじゃないですか、なんでやらないんですか」。その責任者が放った答えはこうだ。「おれたち共産党じゃないよな」さらに、「街録で答えたヤツが共産党員でないか、証明できるのか?」その場にいたスタッフは沈黙したまま打ち合わせは終り、その日、集団的自衛権行使容認のニュースに、街録は流れなかったという。(高世仁の「諸悪莫作」日記 2015-03-20 )
・自民・公明両党は「安保法制」をめぐり、他国軍の戦争を支援する「海外武力行使法」の骨格を決めた。その内容の恐ろしさに身がすくむ。まずはパートナーを組む米軍を、切れ目なく支援するため、あらゆる事態に備え、地球の裏側まで自衛隊の海外派兵を可能にする体制づくりだ。時の政府が「我が国の存立を脅かす」などと判断すれば、米軍が起こした先制攻撃にも、自衛隊の参戦が現実となる。さらに自衛隊の派兵恒久法を新設し、弾薬や燃料の補給・輸送などでの後方支援、「戦地」においては捜索救助活動に、いつでも従事させるという。武器使用についても範囲を拡大し、現場レベルで反撃に加われるようにする。これらの実施に当たっては、事前の国会承認がなくとも可能というから恐ろしくなる。「戦力を持たず交戦権を認めない」憲法9条2項はズタズタにされた。衆議院・自公両党での絶対安定多数をいいことに、国会審議も経ずに日米両政府は防衛協力のガイドライン再改定に、この「安保法制」を盛り込み、合意を先取りしてしまう肚だ。国民無視も極まる。そして5月中旬に法案を国会提出し一挙可決に走るという。とりわけ公明党の責任は大きい。ちっとも「歯止め」などかかっていない。ズルズル「戦争する国」へと、安倍首相の狙いについてゆく<下駄のユキ>になっただけではないか。23日から自公両党・幹事長が中国訪問。二人の会話も和気藹々だろう。(Daily JCJ【今週の風考計】2015年03月22日)
・安倍総理は、ついつい本音というか、普段、口にしているからでしょう、自衛隊のことを「我が軍」と呼びました。3月20日、参議院の予算委員会での出来事です。やっぱり自衛隊は軍隊なんですね。しかも「我が」軍というのは、私たちのという意味ではなく、安倍総理の場合には文字通り「私の軍隊」という意味です。安倍総理は、軍事大国化を目指していますが、その動機は極めて幼稚です。軍国少年がそのまま大人になっただけの安倍総理ですが、思考は極めて幼稚のままです。安倍政権の中でも安倍総理に逆らうととんでもない処遇が待っている、だから安倍総理には誰も何も言えないという極めて異常な政権。言うべきことも言えないということになれば、もはや権力への歯止めがなくなったのと同じこと。暴走がますます加速します。周囲がご機嫌取りになれば独裁体制そのものに直結します。(略)そして、辺野古移設に反対する沖縄県知事に対する冷遇です。(略)自分に反対するものに対しては一切、その声を聞くことなく、力で叩き潰そうとする暴力剥き出しの政権こそが安倍総理なのです。このような安倍総理だからこそ、自衛隊は軍隊であり、しかも自分の軍隊なのです。最高司令官としての安倍総理であり、自分の軍隊、だから「我が軍」なのです。単なる言い間違いレベルの話でありえません。安倍総理の本音なのです。(略)こういう人が今の日本の舵取りをしているということの意味を冷静になって考えましょう。(弁護士 猪野亨のブログ 2015/03/25)
・安倍晋三首相は、三月二〇日の参院予算委員会で、自衛隊を「わが軍」と発言した! すでに壊憲は済んだかのような危険な発言であり、強く批判し撤回を求めなくてはならない。国会中継など見ている余裕はないので、私はこの事実を昨日のテレビのニュースで見ただけある。この発言を誘発させた質問者が共産党の議員ではなかったので、明日の「赤旗」はどういう扱いになるのかと心配した(維新の党の真山勇一氏だった)。そして、今朝の「赤旗」は何とわずか一九行のベタ記事! 質問者の氏名も書いてない。他方、「東京新聞」は紙面四分の一の大きな記事。昨日ははっきり認識しなかったが、問題発言は二〇日だと知った。二〇日のテレビニュースで報道があったかどうかは分からないが、この記事によると「ようやく二四日に民主党の細野豪志氏が」取り上げたという。この記事で、水島朝穂氏が「八紘一宇発言にしても、野党もやじ一つとばさないし、追及が甘くなっている」とコメントしている。危険な動向に機敏に対応する必要性を痛感するとともに、他党の議員が絡むと小さく扱うセクト主義を早急に克服しなくてはならない。(村岡到 2015年3月25日)
今朝の赤旗1面は衝撃。「個人の即応性を向上させる」とかいう理屈で、上司命令により遺書を書かせるなんて…! 陸自北部方面隊、隊員に“遺書”強要/「家族への手紙」置いていけ http://t.co/upANxjDjk9pic.twitter.com/nu6jbzqPmr
— 雇用のヨーコ (@koyounoyooko) 2015, 3月 25
・自衛隊人権裁判弁護団の佐藤博文弁護士の話:自衛隊は、遺書の返還を求めた隊員に「単に自己の死亡のみに準備する遺書とは全く別物である」と書面で答えている。要するに「国のため」「公務として」死ぬのだ、と強要している。隊員の多くが疑問に感じているのは当然だ。未成年の新入隊員にまで書かせている。憲法を無視して海外で戦争する軍隊を持つとはこういうことだ。
本日の朝日新聞論壇時評で、高橋源一郎さんが『日本の反知性主義』について触れておられます。"逆にいうなら、「知性」とは、未知のものを受け入れることが可能である状態のことだ。" http://t.co/7383v6iybt
— AndoAkira (@andorakia) 2015, 3月 26
なお、内田樹さんは、この3月に晶文社から『日本の反知性主義』という本を出版していますが、以下、「内田樹の研究室」ブログと晶文社のホームページから同書の目次兼共著者一覧と前書き部分を引用しておきます。
どういう趣旨の本なのか、その緊急性は何か、それをぜひご理解ください。
敵対女性トライアングルには囲われたくない。
(藤原新也「Shinya talk」2015/03/19)
ドイツのメルケル首相の訪日に続いてミシェル夫人が来日した。これは偶然なのだろうか。事前に両者に何らかの通底があったのかどうかは不明だが、この二人にはある問題に関する共通の関心事がある。(略)メルケル首相は会見の場をわざわざかねてより従軍慰安婦問題に積極的に取り組んできた朝日新聞社に設定し、暗に従軍慰安婦問題に関心のあることを示した。そしてドイツが戦後自からの非を認めたことを引き合いに日本(というより(略)安倍政権)に加害者側としての意識が低いということを遠回しに非難している(略)。メルケル首相に続いて昨日来日したミッシェル夫人は日本嫌いとの風評がある。(略)だが私はミッシェル夫人は日本嫌いだとは思わない。(略)ミッシェル夫人は日本が嫌いなのではなく、安倍が嫌いなのである。メルケル首相同様、彼女にとって女性の問題には当然敏感であり、安倍がうやむやにしょうとしている従軍慰安婦問題は見過ごせない”女性の人権蹂躙問題”なのである。私はこの従軍慰安婦問題に関しては、軍が関与していたか、していなかったかというそんなことは枝葉末節な問題でありどうでもいいと思っている。植民地の女性を日本軍人が慰安婦として徴用したこと。それが問題なのであり、軍がどうした民間がこうした、などはどうでもよいことだ。(略)海外ではこの従軍慰安婦問題が象徴する安倍は、女性の人権を無視する先進国唯一のリーダーだとレッテルを貼られていることを(日本のメデイアが報じないため)案外日本人は気がついていない。またこのことも井の中の蛙である日本人はとんと気づいていないが、この問題を軸に日本(安倍)は先進国の女性リーダートライアングル、メルケル首相、ミッシェル夫人、そして朴 槿惠に包囲されているのである。このすぐれて女性の人権問題である従軍慰安婦問題を棚上げしょうとする安倍の新たなキャッチフレーズが”女性が輝く社会”というのは口先三寸男の面目躍如であり、おそらく女性リーダートライアングルはこのことをしてさらに安倍を最低男と思っているのではないか。(略)私は戦後70年幾多の宰相を見てきているが写真家の観点から各時代の宰相にはそれぞれに男の度量と色気というものが感じられた。だが安倍にはこれがない。私の安倍嫌いの一因はここにもある。