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【戦後70年・回想録(上)】
「敵に30メートル接近して撃て」零戦・紫電改パイロットが語る…心に焼き付く記憶
そして18年11月1日、北海道の千歳から現在の徳島海上自衛隊のところにあった徳島航空隊へ移った。ここは実戦に使う九六式と零式艦上戦闘機があった。今は「ゼロ戦」と呼ばれるが、当時は零式と呼んでいた。
私たちも11月23日、たった20日間の訓練で徳島を卒業した。松山基地にあった二六三航空隊(通称豹部隊)という実戦部隊に入った。実戦の九六式や零戦は、(赤とんぼとは)スピードが全然違う。スピードは速い、高度はすぐワアーッと上がる。ただ、脚をおさめないかん、フラップ(高揚力装置)を下げないかん。忙しいが、慣れてくればたいしたことはない。
19年2月22日。内南洋に敵の機動部隊が初めて攻撃にきた。そのときに二六三空の基幹搭乗員が硫黄島を通じて行った。なんと15~16人が戦死した。同3月31日、パラオのペリリュー島に敵の機動部隊が空襲に来た。そのときも邀撃(ようげき)に出て12~13人の戦死者が出た。こうして二六三空の搭乗員がほとんど戦死してしまった。後は我々のような甲種10期の技量のまずい連中が残った。先輩方が「これからが戦争だぞ。今まで古い人はみな死んだ。お前たちが国を背負って零戦で戦うんだ。しっかりやれ」。
「よっしゃ」。17、18の子供が、何が国のためか。しかし私たちは、日本祖国を守るため、勝利を信じ、絶対勝つんだという気持ちでいた。愛する妻子、親兄弟を遺して、数百万人が戦死した。阪神大震災や東日本大震災のこともすごく大事だが、この戦死した人たちが日本を救い、現在の日本を作ってくれたことに対し、心からの感謝と慰霊の心をささげたい。