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【戦後70年・回想録(上)】「敵に30メートル接近して撃て」零戦・紫電改パイロットが語る…心に焼き付く記憶

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【戦後70年・回想録(上)】
「敵に30メートル接近して撃て」零戦・紫電改パイロットが語る…心に焼き付く記憶

太平洋上の米戦艦に体当たりする日本の零戦

司会: 土浦海軍航空隊(茨城県)などでの訓練はどんなものでしたか

 昭和17(1942)年4月1日、甲種飛行予科練習生10期生として、土浦海軍航空隊に入った。当時は予科練は土浦にしかなかった。私たちは血を流して涙を流して、先輩に「追いつけ、追い越せ」の気持ちで訓練した。予科練では飛行機には1度も乗せてくれない。たった1度だけ「慣熟飛行」と称して水上機に乗せてくれた。

 霞ヶ浦の湖岸にある航空隊なので水上機しかない。10~15分、教官が操縦して同乗する。最後に教官が「筑波山ヨーソロー」と号令した。何のことか分からん。聞いたら「筑波山に向かってまっすぐ行け!敵にあったら逃げずに突っ込め」ということだった。

 予科練を卒業していよいよ、飛行練習生として(九三式中間練習機)「赤とんぼ」の操縦訓練が始まった。現在の北海道の千歳空港にあった千歳海軍航空隊で、まず離陸着陸訓練から始まる。高度200メートルくらいで毎日、1日2回くらい搭乗する。普通なら1年か1年半かかる訓練だったが、戦局逼迫(ひっぱく)のために10カ月で卒業した。

 卒業前に、練習生300人ほどが集められ、「お前は戦闘機行け」「お前は艦上攻撃機行け」「お前は艦上爆撃機」と(機種の選定を)言われる。実はその前に、希望を出すのだが、8~9割は戦闘機に行きたいと言う。すると、教官が「どいつもこいつも戦闘機って言いやがって。戦闘機では敵の船はおとせんのだぞ。もう一度考えよ」と言った。私は2度とも戦闘機を選んだ。

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