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【戦後70年】
特攻(4)敗戦「軍神」一転「クソダワケ」…特攻隊員の親兄弟は泣いた「誰のために逝ったのか」
「同級だった方や、同じ年頃の青年を見るにつけ想(おも)い出しては涙ぐむ、偲(しの)んでは涙ぐむ母さん。せめて少し豊かな人生を味あわせて(原文ママ)やりたかった。『幽明 境を異にして、呼べど、呼べと、声なき敏郎よ!』」
20年4月14日、第4神風(しんぷう)櫻花特別攻撃隊神雷部隊として出撃、徳之島東方海域で戦死した山崎敏郎二飛曹=戦死後少尉=の母の追悼賦だ。息子が戦死して7年後に書いたもので、切々と心中を吐露している。
そして、こう続ける。
「唯『お国の為(ため)に何の惜しげもなく若い命を捧(ささ)げた』その事については、母は未練は言いません。終戦以来の混乱で尊いお前達の犠牲が世の中の人々から忘れられていても、新しい日本建設の蔭(かげ)には、尊い幾百万同胞の生命がかけられていた事を、国民の一人一人が泌々と思い起こし、その死を決して無にしないよう努力するのが残された私達のつとめであると思います」
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連載1回目で紹介した特攻隊員、荒木幸雄伍長=当時(17)=の母、ツマさんのもとに、荒木伍長から最後の手紙と遺髪が届いたのは20年5月末のことだった。
「母は、遺髪を抱いて弟の名前を呼び、泣き叫んだ。父は体を震わせて一言もしゃべらなかった」
兄の精一さん(88)は、母が涙をあふれさせて「ユキは突っ込むとき、どんな気持ちだったんだろう」と独り言を口にする姿を何度も目にした。
荒木伍長の自宅に戦死公報が届いたのは、終戦から4カ月後の20年12月。翌21年4月20日、戦没者合同市葬が行われたが、連合国軍の目を気にしてか、葬儀は遺影も花輪もなかった。
精一さんは憤慨する。