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【戦後70年】
特攻(4)敗戦「軍神」一転「クソダワケ」…特攻隊員の親兄弟は泣いた「誰のために逝ったのか」
2人の部屋を掃除しようとすると、父は「そのままにしておけ。帰ってくるかもしれない」と言って、触らせなかったという。
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日本が戦争に敗れると、特攻隊の親に追い打ちをかけるように環境は変わった。鉞男さんは振り返る。
「おやじは『米軍が来る』『証拠書類になる』と言って、遺品の鉢巻きやアルバムを全部燃やしてしまった。特攻隊に入っていたことをひた隠しにしていた。おやじはおびえていた。唯一残したのは純毛製のセーターだけで、ぼろぼろになってもいつも身につけていた」
“敵”は米国だけではなかった。次男が特攻隊員だった岩井家に対する周囲の目が敗戦で一変した。「戦時中は軍神とたたえられたが、戦後、私も復員した兵隊に『特攻隊に行くような者はクソダワケ』と言われた。一番ばかにした言葉だ。その時は私も、兄貴は犬死にだったかなって思った」
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神雷部隊第5建武隊に所属していた愛媛県出身の曽我部隆(たかし)二飛曹=当時(19)、戦死後少尉=は昭和20年4月11日、500キロ爆弾を抱えて鹿児島県の鹿屋基地を出撃し、喜界島南方で米機動部隊に突入した。10人きょうだいの六男だった。
曽我部家では六男の隆二飛曹だけでなく、次男と三男、七男が海軍へ進み、全員戦死した。七男は隆二飛曹が特攻を敢行した8日後の戦死。長男と四男、五男は陸軍の道を選び、全員生還した。