ここ数回、流動的人間関係にフィットした政策を支える思想は何かを探るために、最有力のリバタリアン思想を検討しています。リバタリアンは個人の自由を最大限尊重する思想ですが、これまで一般には、困った人を助けるために公的な保障をする政策や、不況対策を嫌う傾向がありました。
しかし私は、この連載前半をまとめた『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(PHP新書)の最後にもまとめましたように、手厚いベーシック・インカムで貧困をなくすことや、インフレ目標政策で不況のときには景気拡大策をとることを主張してきました。個人の自由を尊重するリバタリアン的な立場に立ちながら、なおかつこのような福祉政策や不況対策が正当化できる理屈づけはないのでしょうか。それを今探っているところです。
そこで、従来のリバタリアンがこのような公的な政策介入を批判する根拠になっている「消極的自由」論を検討しているところでした。暮らしに困った人を救うために政府の介入を求めるのは「積極的自由」論であって、これは恐怖の独裁につながるからダメだ。追求すべきものは、他人からの意図的な制約や強制がないという「消極的自由」だけである。──こういう議論です。
ここには二点問題点があると思います。ひとつは、意図的でない制約や強制ならば自由の侵害とは言えないのかという問題で、これを前回検討しました。
意図的でなくても、因習とか世間の横睨みの圧力とか、直感的にどう考えても個人の自由の侵害とみなさざるを得ないことはたくさんあります。これらは基本的に、「全員の好みや能力が何も変わらなくても、ただ他人の行動についての予想が変るだけで、これまでは選べなかった望ましい状態が選べるようになる」という図式で描けるものです。「他人の行動についての予想」という「人間の考え」には違いないもので、本来他者の納得が得られたはずの選択が制約されてしまうのですから、これは自由の侵害とみなしていい。
そうすると、人々がデフレ予想を抱いて支出をしぶって本当にデフレ不況になっているせいで、人々がインフレ予想を抱いて気前よく支出して本当にインフレ好況になったならば得られたはずの職が得られず、望まぬ失業を余儀なくされる状態もまた、「デフレ不況予想」という「人間の考え」による自由の侵害だと言えるのだ。──前回はこのように結論しました。
残るもう一つの問題は、消極的自由論者による積極的自由批判の論点が、普通のリバタリアンが想定する、自己決定に責任をとれる理性的個人像と矛盾しはしないか。矛盾するならそれをどう解くのかという問題です。これを今回から考えていきたいと思います。
バーリンの「積極的自由」批判
「消極的/積極的」という自由概念の区分を最初に明示して消極的自由を擁護したアイザイア・バーリンは、積極的自由を「わたくしはわたくし自身の主人である」「わたくしはいかなるひとの奴隷でもない」という、「自己支配」の主張ととらえ(注)、これが恐るべき独裁に転化する理路を、おおかた次のように説明しています。──
(注)バーリン『自由論』(小川晃一ほか共訳, 1971, みすず書房)320ページ。
「自己支配」を求めるからには、そうではない状態、つまり自分が自分自身の主人になっていない状態を、克服するべき状態として念頭においているはずである。非合理的な衝動や欲望や情念を自分でコントロールできないとき、「我は自分の主人ではなく、衝動や欲望や情念などの「奴隷」になってしまっている」と表現される。
そうすると、衝動や欲望や情念に支配されていない、本来自分の主人になるはずの理性的な自我が、「本来の自我」とか「真実の自我」などとして設定されることになる。衝動や欲望や情念などは、実利や心理法則によって、しばしば外から流されてしまう。だから自由とは、こうした「低次」の自己を抑え、確固とした理性的な「真実の自我」にしたがって生きることで実現されるとされる。
そうするとその理性は、個人的な利益や事情を超えた「高次」のものだとされるので、国のため、党のため等々の公的な性格を帯びるようになる。こうなると、国や党等々のメンバーにとっては、私利私欲や己の衝動を克服して、全体の理性を実現することこそが「自由」であるとされることになる。
全体の理性を自分の主人とした者にとっては、その目的を追求しない者は、私的な衝動や欲望や情念の奴隷となっている無知で堕落した人々とされる。つまり、「真実の自己」を見失っているだけなのだから、彼らの「真実の自己」のために、全体の理性の示す目的を押し付けたとしても、彼ら自身の「自由」には反しないことになってしまう。かくして、人々を嚇し、抑圧し、拷問にかけることが「自由」の名のもとに許されることになる。──と言うことです(注)。
(注)同上書320-324ページ。
理性を主人公にする「自由」が抑圧をもたらす危険
これ、無理矢理なヘリクツに聞こえますか。私は「ヘリクツ」と言って終わらせたくはありません。とても大事な問題を指摘していると思います。
というのは、私は学生だった80年代、もうすっかり学生運動も下火になっていた時代に、ヘタレまくった左翼自治会活動をしていたのですが、上の世代の凄惨な内ゲバの話は十分伝わっていましたし、党派どうしの足の引っ張りあいとか、党派の勝手な都合による大衆運動の引き回しとかは、嫌と言うほど経験しました。
しかも、ロシア革命や中国革命の成れの果てがどんなものになったのかという情報は十分伝わっていました。そのうえで、なお私たちは社会主義を選んだのです。「こんなふうにだけはなるもんか」というのが、そのときの私たちの強烈な問題意識でした。
どんな美しい理想、現実説明力のある理論を掲げても、結局こうなってしまう。これは、理想や理論の内容の問題ではないのです。
私たちは上の世代から、消極的自由の「〜からの自由」にとどまっていては駄目だ、積極的自由の「〜への自由」を求めなければならないと言われてきました。──
今まで空を飛びたくても飛べなかったのが、飛行機ができて飛べるようになる。今まで結核にかかったら生きたくても死ぬしかなかったのが、特効薬ができて生きられるようになる。これこそが自由だ。
自然や社会や心理の必然法則を知らずに振り回されるうちは自由ではなく、必然法則を知って利用できてこそ自由は増す。だから、「資本主義から社会主義への移行の必然法則」の実現のために動くことにこそ、人間の自由はある。
──こういう理屈によって、必然法則の実現の妨げとされた、たくさんの個々人のささやかな暮らしの自由が抑圧され、多くの人生が踏みにじられたのです。
これは、「資本主義から社会主義への移行の必然法則」が間違っていたといってポイと投げ捨てるだけで解決されるものではありません。その逆の「社会主義から資本主義への移行の必然法則」だったとしても、「構造改革」の必然論だったとしても、戦時中の日本の翼賛知識人が掲げた「西洋文明の没落、東亜文明の興隆」の必然論だったとしても、何だって、数多くの人々の暮らしが踏みにじられてしまったではないですか。
ここにある本質的な問題は、理性を主人公にして、そこに目的を置き、本能、欲望、情動、肉体等々を次元の低いものとみなして、克服・変革の対象、理性のための手段にしてしまうという構図にあります。「妨げを受けない自由vs望み通りにする自由」とか「からの自由vsへの自由」というのは、自由の主人公をどこにおくかというもっと本質的な論点から(場合によっては)導かれる副次的な論点にすぎません。
理性で実現される自由というのは、飛行機を作って飛ばすのも、ペニシリンを作るのも、その理性が多くの人に共有されてみんなで働きあってはじめてできるものです。本来その目的は個々人の本能、欲望、情動、肉体などの暮らしの都合を満たすことにあるはずですが、そのことを忘れてしまうと、社会共同の理性の自由と、個々人の自由とが矛盾してしまい、個々人の自由の方が「自由」の名の下に抑圧されるという事態が起こってしまうわけです。
自由の主体が個人か集団かで「自由」を分類する議論があります(注)ね。「国家の自由」「民族の自由」「労働者階級の自由」などと、集団を主体にした「自由」を論じることがまま見られますけど、ほぼすべて、メンバー個々人の自由を圧殺することの正当化に使われるのがオチです。
(注)松井暁(2012)『自由主義と社会主義の規範理論──価値理念のマルクス的分析』(大月書店)161-163ページでは、「自由」概念を、主体、障害、目的の三次元から分類し、「主体」については、個人か集団か、経験的自己か本来的自己かで分類されると言う。
そんな経験を山ほどしてきたものですから、「集団の自由」を唱えるのは駄目だ、「自由」とはあくまで「個人の自由」でなければならないというのが、今日ではお話の前提だと思います(注)。ですけれども、理性というものは、もともと社会的に共有される性質を持っているのです。そうである以上、理性を主人公に据える自由論は、簡単に「集団の自由」論に転化してしまう危険があるわけです。
(注)松井同上書(同ページ)では、前注のように述べた上で、自由主義では自由の主体を、個人かつ経験的自己に限定するとする。そうでなければ、経験的個人の自由が抑圧されるからである。(なお、松井本人は自由主義の論点を必ずしもすべて是認しているわけではない。)
しかも理性というものは矛盾を許さないものです。実利や欲望や情動なら人々の間で矛盾しあったまま、妥協して折り合い続けることはできます。これらを目的とするかぎり、理性は妥協を見つける手段としてはうまく機能できるでしょう。しかし、実利や欲望や情動から切れて自己目的化した理性が、首尾一貫した自己支配を目指したならば、そしてそれが社会的に共有されてこそ実効力を持つならば、矛盾しあう理性どうしは、互いに相手の存在自体が自己の自由にとっての障害となります。
かくして天下をめぐっては内ゲバで潰しあい、天下を取ってはおびただしい大衆を拷問と殺戮のもとにおくのは、ここからの当然の帰結だと言えます。【次ページにつづく】